第三章14 『東風』

 飛び立つ寸前に、シナモンが言うた。

「我は灯火目付をやっていたわけではないが、夜目がきく。万が一そなた等に攻撃が当たりそうになったら、できるだけ風で援護しよう」

「ありがと、頼りにしてるわ!」

「これが終わったら、また戦おうぜ!」

「……それは勘弁してくれんかのう」


 各々言葉をかけ合い、笑い合ったのを最後に、あし等は青龍に向かって飛び上がった。


「ギェギェッ、ギヒャァ、ヒャヒャヒャヒャヒャッ!」

「ずいぶん、人間じみた声を発するわね……」

「何かに乗っ取られとるようじゃな。もなかとシナモンみたいな感じかのう」

「なんにせよ、一気に片をつけたいわね。飛ばすわよ!」


 そう宣言すると同時にトウフウは飛行速度を上げた。

 青龍はあし等に気付くと、怪しい色に輝く水流弾を生成した。

 一つじゃない。いくつも、いくつも無数にじゃ。

 それは暗闇に浮かぶ何十何百もの充血した目のようじゃった。

 脊髄に氷水を流されたかのように、ヒヤリとした。


「まさか、あれを一斉に撃って来たりはしないでしょうね……?」

「……来るぞ!」

 あしが叫ぶと同時に、水流弾が同時にあしら目掛けて殺到してきた。


「右であるッ!」

 シナモンの声が飛んでくる。

 トウフウは指示された通り、右へと進路を決めて滑空する。

 追い風が背中から来て、彼女の飛行速度はぐんと増していく。


 シナモンの助けもあり、どうにか第一射は回避することができた。

 しかしほっと一息ついた頃には、すでに青龍は次弾を生成し始めていた。それはさっきの倍はあるのではないかという弾数。

 今度は言葉を交わす間もなくそれ等は発射された。


「下だッ!」

 今度はスサノオの声。

 トウフウが下降すると、上方で光が閃いた。

 同時に水の爆ぜるバッシャーンという音が聞こえてくる。飛んできた水滴が当たったがそれは酷く冷たかった。

 おそらくスサノオの雷撃が水流弾を破壊してくれたのじゃろう。


 その後も水流弾からの回避は続いた。

 シナモンとスサノオが援護してくれるからなんとか避けられているが、青龍の攻撃には間隙がまるでなく、一向に攻められずにいる。

 このままだといずれ力尽きる、そう思い始めた時じゃった。


「ねえ、継愛……。なんか、寒くない?」

「ん、まあ……確かにのう」

 そう返して顔を上げた時、思わず息を呑んだ。

 トウフウが顔を青ざめさせて、白い息を吐いていた。

 はたとさっき触れた冷たい水滴のことを思い出す。


 もしかしたらあれは、周囲の気温を下げる効果を持っとったのやもしれん。

 気温が下がるのは、あし等の体力を削るばかりやない。

 トウフウの背中に生えとる風の翼の動きを鈍らしさえしてくる。

 となれば飛行速度は下がり、被弾する危険が増す。


 いや、体力の限界が来る方が先かもしれん。

 おまけにまた、天井近くが曇り始めてきおった。

 この状況をなんとか打開せんといかん。

 あしは冷え込みつつある脳を叱咤し、思考を巡らせる。


 必要なのは熱と、水流弾をかいくぐる何かじゃ。

 それ等を想起させる字と、書す場所は……。

 あしは自分の左手を見やる。

 字ならここに書けばええ。高速で飛行しているせいで常時みたいに安定した場所じゃないが、まあ贅沢を言っとる場合じゃなか。


 じゃけんど肝心の書くべき言葉が出てこん。

 はよう、はようせんとトウフウが力尽きてまうぞ。

 考えろ、考えるんじゃ。

 だが冷気が脳を、体を侵食してきて、思考力がどんどん衰えていく。


 ああ、くっそ……。

 せっかく生まれてから今までずっと字を書いてきたのに、こういう時にいかせんでどうするんじゃ……。

 書字者になって、兄貴の志を継ごうと思うとったんじゃないんか。

 誰かを守るために、書字者になるんじゃなかったんか。

 みんなが字と共に生きられる世界にするんじゃろうがッ……!


 いくら訴えたところで、冷え込みは自分の意志さえも鈍らせ、イヤな冷静さをもたらしてくる。

 何を言うとるんじゃあしは?

 別に字なんてなくても生きていけるじゃろう。

 この統京がいい例じゃ。

 文字が書けん者が増えていても、誰も不便なんて感じとらん。

 それに絵魔保だってある。手紙や書簡ももう、必要ない。

 娯楽なんて、字が読めんでも楽しめるもんなんていくらでもあるじゃろう。


 だったら……もう、あしが生きる意味なんてない。

 このまま文字が朽ちるなら、あしも一緒に……。


「……継愛、継愛ッ!」

 トウフウの叩き付けるような声の呼びかけに、あしの意識は現実に引き戻された。

「ここは一旦退避して、策を練り直した方がいいんじゃない?」

「……トウフウ」


 こいたぁ、まだ全然諦めとらん。体は冷え切っとるのに、目は今もなお太陽のように輝いちょる。

 なのにあしが弱気になってどうする……!

 あしは一度自分の頬をぴしゃっと叩いて、喝を入れ直した。


「ど、どうしたのよ?」

「いや、なんでもない。それより、退避はダメじゃ」

「どうしてよ?」

「青龍は今はあし等に夢中になっとるからええが、もしも獲物がいなくなったらそいたぁ求めて外に出てしまうかもしれん。そうなったら、大惨事じゃ」

「……そっか。もしも街を壊しちゃったら、……取り返しがつかないことになるわね」

 直接的な表現を避けつつも、トウフウは顔に苦悩を浮かべた。


「じゃから、あし等で、今ここで、決着をつけなきゃならん」

「でも……」

 トウフウは唇を噛んで俯いた。

 そう。打つ手がない。

 一番辛いのは、彼女のはずじゃ。


 動かんくなってる羽を懸命に羽ばたかせて、今もなお音を上げずに飛んでくれちょる。

 あしは、それに報いらんといかん。

 じゃけんど、文字が浮かばん。

 今、もっともトウフウに力を与えれるのは……どんな文字なんじゃ?


 出鱈目に脳内に文字を書いては消していく。

 消し後はきれいにならず、掠れた黒線を残していく。

 それがどんどん重なり、頭の中が徐々に黒ずんでいく。

 今まで書いてきた文字が浮かんでは消えていく。

 その度に頭が重くなってくる。

 まるで過去の作品がそろってあしを攻め立ててきているようじゃ。


 脳の肉が殴打され、切り裂かれ、貫かれているかのような。

 冷え切っていく。死体がそうであるように。

 頭の中が死んでいってる……。

 脳内からあらゆる光景が抹消されていく。


 闇の中に放りされたあしは、叫び続ける。

 トウフウ! トウフウ! トウフウッ……!

 声が掠れてくる。それでもなお叫ぶ。もはや救いを求める以外の意をなくして。

 トウフウ、トウフウ、トウフウ……。


 トウフウ?

 ふと、目の前がパチッと白く光った。

 トウフウ……。


「そうか、トウフウじゃッ!」

 急に叫んだせいか、トウフウの体がビクッとふるえたのがわかった。

「ちょっ、突然何よ!?」

「ちょっと待っちょれ、今書くからのうッ!」


 あしは筆を構えて、手の平に毛先を落とす。

 くすぐったい。

 そういえば、自分の体に文字を書くなど初めてのことじゃった。

 こそばゆくも、なんだか気持ちいい。


 筆が滑る度に、心の臓も命毛に擦られている心地になる。

 周りが冷えきっちょるせいじゃろうか、墨汁は思いのほか温かく感じた。

 トウフウともなかはこんな気分を味わっとったんじゃな、となんだか感慨深くなる。


「……できたぞっ!」

「だから、何がよ?」

「ほれ、見てみい」

 あしは左手をトウフウの眼前にやった。

 彼女はあしの書いた字を見るなり、はっと瞠目する。

「この字は……!」


 あしはにやっと笑って、言うてやった。

「東風……おまんの名前ぜよ」


 ふわり、周りに暖かい風が吹いた。

 その意は、東の方角から吹いてくる、春風。

 温暖さが周囲に満ちてくる。

 トウフウの顔に血の気が戻り、羽の動きが活発になってきた。


「……これって」

「あしの……いや、あし等の力じゃ」


 互いに笑みを向け合い、青龍を見やる。

 無尽蔵に放たれる攻撃は、今もなお苛烈さを増してきている。

 それでも。


「突っ込むわよ、継愛!」

「おうっ!」

 あし等なら絶対に負けはせん。その確たる思いが、全身に熱と力をもたらしてくれる。


 体が風と一体になっていく。

 今まで遠くで眺めるだけだった青龍の姿がぐんぐん近づいてくる。

 水流弾が放たれる――直前。


「前進だッ!」「前進である!」

 二人の声が重なって飛んできた。

 迫り来る水流弾が電撃と斬撃風によって次々と爆ぜていく。

 それでも残ったもんは、トウフウが全て躱しきる。


 ようやく間近に見えた……っ、青龍の姿がッ!

 筆を構える。

 武士のごとく、相手の隙を窺う。


 狙うべきは……。

 俺はその場所へ向かうよう、トウフウに目で指示を送る。

 彼女はうなずき返し、左――青龍から見て右側へ向かう。


 すかさず生流は腕を振るって攻撃してくるが、瞬時に反転して右へと進路を変え、疾風のごとく滑空する。

 空ぶった青龍は、すぐには次の攻撃に移ることができない。

 眼前には、ほぼゼロ距離の青龍の身体。鱗の模様さえはっきりと見ることができる。

「継愛っ、今よ!」

「おうっ!」


 そこは左胸。触れた筆先からは、鼓動の音さえ聞こえてきそうだった。

 振るった筆は光のごとき速さで字を記していく。

 一筆一筆が書かれる度に、今までの人生の記憶が蘇ってきた。

 この時のために俺は書をしてきたのだと、実感のようなものさえ湧いてきた。


「グギョォアアアアアッ!!」

 頭上から頭の割れそうな咆哮が聞こえてきて、ギョッとした。

 だがトウフウの声に、我に返る。

「筆を止めないでッ! 青龍は多分、書契と闇の力に板挟みになって混乱してるのよ! 早く継愛の手で、解放してあげてッ!!」


 背中を押されてあしは再び書を再開する。

 残りはあと二画。


 この字さえ書けば……!

 どぷん。

 頭上で水が跳ねるような音が聞こえた。

 まさか……いや、今はそれよりも!


 最後の一画。

 それをあしは全身全霊の思いで書き切った。

 文字から淡い赤い光が立ち上る。

 全身から力が抜けるような安堵感が胸を満たした、直後。

 凄まじい冷気が頭上から迫り。

 一瞬にして、目の前が真っ暗になった。

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