3.4. 降下任務

 ツクヨミにとって〈母さん〉の存在は、酷く微妙な物だった。他の〈娘たち〉は〈母さん〉を本当の母親のように慕っていたが、どうにもそんな気が起きない。〈母さん〉とは週に一度面接のカリキュラムが組まれていて、何かしら雑談をしなければならない。その一時間をどう乗り越えるかが、ツクヨミの最大の悩みになっていた。


『どうしたの。あなたは酷く静かね』


 椅子だけがある四畳半の部屋に入ると、どこからともなく声が響いてくる。静かなのは何を話していいかわからないからだ。だがその意味を説明すればやぶ蛇になる。結果、ツクヨミは黙り続けるより他になかった。


『他の娘たちは、何でも話してくれるのよ? 他の娘と上手くいっていないとか、課題に追いつけないとか――何でもいいのよ。あなたも疑問に思っていることが色々とあるでしょう? ドクター・ベンディスでは説明できないこと。それを話してみて』


 それこそ口に出来ない。目覚めてから一年経ち、ツクヨミの疑問は自分たちの存在全てに広がっていたのだ。


 例えば重力だ。他の〈娘たち〉は気にもしないが、この月の重力はおかしい。通常の天体組成に従えば、この程度の大きさの衛星が3m/sec^2もの重力加速度を持つはずがないのだ。加えて地球の静止軌道にあることもおかしいし、崩壊して地球に落ちていかないのもおかしい。


 ツクヨミがその事実を発見した時、すぐにドクター・ベンディスに理由を尋ねようと思った。しかし数秒後には思いとどまった。もしこの世界の根源をなす法則を偽っているのだとしたら、それを知った自分がどう扱われるのか。それを想像すると、酷く危険な事に思えたのだ。


 だからツクヨミは、知らぬふりを決め込んだ。


「あーそうだね。一つある。〈母さん〉と私たちって、どういう関係なの?」


 もっと核心的な疑問があった。素直に尋ねれば、『あんた、何者なの?』だ。しかしそれを可能な限り遠回しにし、感受性の高い娘ならば言いそうな内容に変換してみる。すると〈母さん〉は含み笑いしてから答えた。


『最近、同じ質問をされたわ。誰からだと思う?』


「さぁ。ロッドあたり?」


『当たり。彼女の場合、もっと直接的だったけどね。『あんた誰』って』柔らかい笑い声を上げる。『彼女は昔からそう。裏表がなくて、率直。だから強い』


「それで、何て答えたの」


『わたしは、あなたたちの全てに責任を負う者。そう答えた』


 これだ。〈母さん〉の言葉はいつもレトリックに富んでいる。だから反論も、追求も難しい。


『するとロッドは、こう応じたわ。『それって何の答えにもなってない』。それで私はこう答えた。『具体的な説明こそ、答えを見誤らせる事に繋がる。重要なのは今、あなたが、私を何者だと感じているかということ』』


「それで、ロッドは何て?」


『これ以上は本人の問題よ。それであなたは、私を何者だと感じている?』


 答えはしなかった。しかしロッドを捕まえて尋ねてみると、彼女の答えはツクヨミと全く同じだった。


「詐欺師」


 いつも通り怖い顔で吐き捨てたロッドに、ツクヨミは他人事ながら心配になった。


「それ、〈母さん〉に言ったの」


「あぁ。何か悪い? 言えって言ったんだ。だから答えた。あんたは詐欺師だろって」


「それで、〈母さん〉は何て?」


「別に。笑ってた。それで――違うかもしれないって気がした」


 確かに、詐欺師呼ばわりされて平然としていられるのは、よほどの何かを抱えているからに違いない。


 考えていたツクヨミの両腕を捕らえ、ロッドは思いがけない事を口にした。


「ひょっとして私に言ってくるあれやこれやって、実はあの人の意志なのかな」その眼差しは、これまでに見たことのないほど真に迫っていた。「ずっと私に話しかけてくる声がある。曖昧すぎてよくわからない。まるで犬か猫が何かを伝えようとしてるみたいな感じだ。でもそれって、〈母さん〉の言葉と良く似てるんだ。凄い芯が通ってて、間違いがないって言うか――」


「勘違いさせるのが詐欺師の技だよ。気をつけな」危うさを感じて言うと、ロッドは酷く困惑した様子だった。しかしツクヨミは重ねて言う。「私らって、何か変だよ。こんなの普通じゃない。そりゃ昔のことなんて覚えてないけど――色々と妙なんだ」


 そしてツクヨミはこの一年で発見した様々な矛盾を口にする。しかしロッドは武闘派だ。説明の大半を理解できない――というよりも無関心で、次第に元の仏頂面に戻りつつ言う。


「そんで? それが何だってのさ」


「わかんないよ。でももし私らが教えられてる事が全部虚構だったら?」


「私にゃ関係ない」


「関係ないことないだろ。それこそ〈母さん〉が詐欺師だって証拠になる」


 ロッドは少し考え込み、眉間に皺を寄せながら答えた。


「ツクヨミ、あんた理屈多過ぎ。それで結局、何をどうしたいのさ」


「何をどう? わかんないよ。わかんないけど、騙され続けてるのは嫌だね」


「じゃあそれ、〈母さん〉に言えばいいじゃん」


 相変わらずロッドの思考回路には混乱させられる。意味を取りかねていると、彼女は一歩ツクヨミに近づき、言う。


「あんた勘違いしてるよ。わたしゃ別に、〈母さん〉が詐欺師だろうと何だろうと構わない。重要なのは使命だよ。誰が私に何をやらせたがってるのかってこと。〈声〉が私を導いてきた。これまでも、そしてこれからも。みんながあれこれ私にやらせたがるけど、どれが正しいことなのかすぐにはわからない。でも〈声〉が私を運命に導いてるんだ。だから私はそれを待つ。それだけ」


「――その運命って、何?」


「さぁね。でも私はそこから逃れられない。抗っても無駄。一瞬それはあんたかと思ったんだけど、どうなのかね」そこでロッドは時折見せる狂気の笑みを浮かべつつ身を寄せて囁いた。「でも〈声〉は言ってるよ。あんたは頭おかしいって。そういうの、悪くない」


 渋面を浮かべると、ロッドは笑いながら去って行く。


 ツクヨミが見る限り、彼女は強迫性の神経症を患っているようだった。何か罪の意識のようなものに追われていて、疲労困憊し、運命に身を委ねることを選んだ。彼女自身それを理解している様子はない。根源は失われた記憶にあるのだろうか。


 次第にドクター・ベンディスの授業は減っていき、各自に施設維持に関する仕事が与えられるようになっていた。ツクヨミはMMWの整備を命じられ、一度全部分解してパーツをチェックした上で組み直し、制御システムを再構築する事をやらされている。そのこと自体は楽しかったが、やはりここにも疑問があった。MMWの頭部には1000ccの粘菌を用いた量子制御コアが格納されていて、それは機体の膨大なセンサー情報と搭乗者の操作要求を受け、超高速で各アクチュエータの必要運動量を弾き出す。これは数百数千のパラメータの組み合わせ最適化問題であり、通常のノイマン型アーキテクチャであれば処理に数秒はかかるだろう。それを粘菌コアは、たかだか数ナノ秒で片付ける。まさにMMWという自由度が高すぎる機械を自由自在に動かすための最重要コアだ。その粘菌量子系に関する仕組みについてもツクヨミは徐々に理解しつつあったが、一点だけわからない点があった。


 粘菌の寿命は五年で、使い捨てなのだ。


 これは理屈に合わない。粘菌は生物だが、基本的に寿命はない。適切な栄養素さえ与えればもっと長く使うことが出来るはずなのに、五年ごとに入れ替えなければならないなんて。


 加えてこの粘菌の素性も謎だ。クーを上手いこと言いくるめて分析させようかとも思ったが、少なくともガレージの中に予備品はなく、きっとドクター・ベンディスに尋ねなければ追加を手に入れられない。さてどうしたものかと悩んでいたところに、セレネが現れた。彼女は普段通り自信に満ちた表情で歩み寄ってくると、柔らかい赤毛を掻き上げつつ高飛車に言った。


「ツクヨミ、MMWの整備はいつ終わる?」


「みんな実技訓練で乱暴に扱いすぎなんだよ。色々とヘタってて、あと二週間はかかる。なんで?」


「降下任務が与えられた」


 ツクヨミは当惑し、言葉に詰まった。いつか来るだろうと思っていたが、それをセレネの口から聞かされたのが意外だった。


「真面目に? グレティが何か見つけたの」


「月の真下で、特異な電磁波と放射線が観測されたって」


「――魔女」他にいない。まだ彼らは月を諦めていないのだ。胃が締め付けられる感覚を覚えながら、ツクヨミは尋ねた。「それで誰が行くの」


「人選は私に一任されてる。全部で六名。まずは半分が降りる計画」


『降下任務は、地球上に脅威が確認された場合に実施されます』ドクター・ベンディスは、そう説明していた。『これは隠密任務よ。私たちの正体は決して知られてはならない。傍受される恐れもあるから緊急時を除いて通信は不可。補給も受けられず、月に戻ってくることが出来るかも怪しい。尊い犠牲になる可能性が高い――だからとても名誉なことよ』


 つまりその最大の名誉は、リーダーに選ばれたセレネに与えられるということか。


 これまでの行状を考えれば仕方がないが、とても優等生タイプの彼女に泥臭い任務のリーダーがこなせるとは思えなかった。


 やっぱり、〈母さん〉は信用ならない。


「気に入らない、って顔ね」


 冷たい瞳でセレネに言われ、ツクヨミは慌てて表情を明るくした。


「なんで。んなことないよ。セレネなら何でも出来るじゃん。ま、頑張りな」


「他人事じゃ困るわ。任務は志願制にしようと思ってる」セレネは踵を返し、片手を挙げながら言った。「じゃあ、一月後に降下よ。それまでに修理を終わらせて。志願するなら来週までに私に名乗り出ること」


 これは踏み絵だな、とツクヨミは思った。彼女がいかにも考えそうな事だ。リーダーに据えられた限りには、彼女は降下しなければならない。それから月面の施設を守る〈長女〉になるのは、きっとグレティあたりだろう。知能も運動能力も並だが彼女は監視任務のリーダーだし、いつも〈母さん〉と一番長く話してる。敵も味方もいないから、まずは無難な選択だ。


 悩みどころは、問題児の扱いだろう。ロッドは当然だが、恐らくツクヨミも目を付けられている。表だっての反抗はしたことがないが、そうした人間の空気は完全には誤魔化しきれないものだ。


 彼女たちは信頼出来るのか? 月施設に残した方がいいのか、死なば諸共で降下作戦に連れて行った方がいいのか。それをセレネは判断しようとしている。


 さて、どうしたもんかな、と、スパナを宙に投げながら考える。最初はどうすれば自分の真意を誤魔化せるかばかりに集中していたが、次第にそれは意味がないことだと悟った。むしろこれはいい機会かもしれない。この施設にいては、何を調べようにも〈母さん〉とドクター・ベンディスの目から逃れることが出来ない。ならばいっそのこと地球に降りて、そこから自分たちの矛盾を探るのもいいかもしれない。


 しかしそれは、この施設に残された矛盾を探る機会を失うことになるかもしれない。再びここに戻ってこられる可能性は低い。加えて地上の有様を見る限り、まともに生き延びていけるかもわからない。


『私なら、やっちまったことをくよくよ考えたりしない。さっさと諦めて受け入れて、次を考えるんだ』


 ふと、画面の中の自分の言葉を思い出した。〈母さん〉を信頼しろというのは難しかったが、この言葉だけは無条件で信頼出来る。すると途端に、内側に向いていた興味が外側に開かれていくのを感じた。施設の矛盾? 自分たちが何なのか? 今の地球がどうなっているのかを想像してみると、急にそんなことはどうでも良くなってきた。悪党がのさばる砂漠、〈魔女〉が身を潜める樹海、奇っ怪な化け物が泳ぐ海――そこにロボットを携えて乗り込み、大冒険が出来るのだ。悪くない。どころか、そっちの方が息苦しい日々より何倍も楽しそうだ。


 翌週、一同は運動場に集められた。ドクター・ベンディスに代わってセレネが前面に立ち、直立不動でいる十一人の〈娘たち〉を閲覧した。


「志願制。その意味は理解してくれていたと思う。地上に降りたならば生きて帰れるかわからない。加えて〈魔女〉に捕らわれたら、どんな目に遭うか。それでも月を、キューブを、人類の記憶と未来を守るため、全員が志願してくれた。私は誇りに思う」


 驚いた。まさかロッドが志願なんて儀式めいたお遊びに乗ってくるとは。


 そう目を向けたが、彼女は相変わらず背を丸め、仏頂面であらぬ所に目を向けていた。


「そこで選定は私が慎重に行った。グレティ、あなたは私たちの中で誰からも一番信頼されている〈母さん〉の娘。だからこの施設を引き続き守ってもらわなきゃならない」


 そうして一人一人、その特性を褒め、断腸の思いで残す選択をしたことを芝居じみた言葉で説明する。感極まって泣き出す娘も出てきた。


「クー! あなたは悪いけど、私が面倒を見ないと駄目。だから一緒に連れて行く。冗談よ。地上の生態系がどれだけ破壊されているかわからない。あなたは任務に必要。チャンウー、それにイシュチェル。MMWの操縦に関しては二人に勝てる者はいない。困難な任務を主導してくれることを期待する。そして――ツクヨミ」どこか言葉が揺らいだ。「全ての工学技術に精通し対応できるのはあなたしかいない。満足な補給も受けられない私たちを、地上に残されたガラクタを駆使して守って。そしてロッド」


 遂にセレネは言葉を停め、獣じみた瞳を向けてくる彼女に歩み寄った。


「――正直、あなたをどうしていいのか。私にはわからないわ」


 場に緊張が走った。それだけ真に迫った口調だった。


 しかしロッドは動じた風もなく、正面からセレネに答えた。


「それで、〈母さん〉は何て」


 しばし躊躇った後、彼女は言った。


「『ロッドは〈魔女〉を潰してくれる』と」


「わかった。じゃあそうする」


 そしてロッドは、背を丸めてのそのそと運動場を出て行った。

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