2-2 それは夢のような

 どこへ行くのか決めていない。兄と一緒にいた時も、どこに行くか決めずにただ彷徨っていただけだった。生きていければそれでいいと思っていた。今が戦乱の世の中ならば、この風の魔法が何かの役に立つこともあるだろう。兄に羨ましがられたこの力が、あれば。

 その日、リノヴェルカは風の魔法で人を助けた。ある女性の頭上から降ってきた大きな何か。反射的に吹き飛ばし、駆け寄った。背後で大きな音がした。

「えっと……大丈夫?」

 助けられた女性は、驚いた顔をしていた。

「今の……あなた、が?」

「私はね、風の魔導士なんだよ。こんなことくらい、余裕さ」

 ふふと笑うリノヴェルカに、女性は笑い掛けた。たくさんの髪飾りのついた金の髪に薄桃色の瞳、着ている服は高価なものだ。貴族の女性だろうかとリノヴェルカは思う。

 女性は言った。

「何かお礼をしなければね。お嬢ちゃん、おうちはどこ?」

 問われても、家などない。幼い頃に母を失い、異母兄であるイヴュージオに出会った。その日からずっと二人で放浪し続けた。そんな彼女に家などない。

 首を振ったリノヴェルカに、何かを察して女性は言う。

「……もしかして、帰るところがないの?」

 頷いた。すると女性はにっこり笑って、リノヴェルカに手を差し出した。

「そう……ならば、私の家に来ない? 命を救ってくれた恩人さんに、何かをしたいのよ。どこにも家がないのなら、私の家に住んでもいいわ。私はね、優しいからねぇ。家をなくした子が目の前にいると知ったら、何かしてあげなくちゃって思ってしまうのよ」

 住むところを提供してくれる。それは思ってもない申し出だった。

――居場所を、くれる。

 リノヴェルカは目を輝かせて頷いた。

「それは助かる! ずっと野宿で疲れ果てていたのだ!」

 持っていた金の輪も全て売ってしまった。それでも、死んだ母の遺品たる他の飾りに手をつけることは出来なくて。物盗りに襲われないよう人目につかない場所を選び、野宿をする日々が続いていた。美しかった白銀の長髪は、すっかりもつれ、乱れてしまっていた。

 生きてはいる、生きてはいるけれど。それが彼女に出来る精一杯のことで。その先に希望などない。ただ生きている、それだけだった。

 そんな彼女にとって、高貴な家の出らしき女性に『私の家に住んでもいいわ』なんて申し出をされるのは、まるで夢のような出来事である。

 リノヴェルカの笑顔を見て、女性は頷いた。たおやかなその手を差し出す。

「私はアルクメネ。アルクメネ・ラフォーンヌよ。お嬢ちゃん、名前は何て言うの?」

「リノ……リノヴェルカ。名字なんて、ないよ」

「リノヴェルカ。私と一緒に行きましょう?」

「うん!」

 差し出されたその手を、握った。

 握ったその手は温かかった。この手が幸せへと導いてくれる、そう信じた。


  ◇


 手を引かれて着いた家は、リノヴェルカが今まで見たことのないほど大きくて立派なものだった。アルクメネはよっぽど大きな家の貴族らしい。その門の大きさと豪華さに、リノヴェルカは眩暈に似たものを感じていた。

 自分の身体を見た。ぼろぼろの衣服、もつれ乱れた白銀の髪、そして身体に残る火傷の痕、荒れて血のにじんだ手。長い間風呂に入っていない身体は変なにおいを漂わせている。

 こんな自分が、こんな立派な、家に。

 気後れすることはないのよ、とアルクメネが笑い掛けた。

「今日からここがあなたの家なのよ。大丈夫、あなたをとっても綺麗にしてあげるから」

「……どうして、そんなに優しくして下さるんですか」

 決まっているじゃない、と彼女は言った。

「だってあなたは、恩人なのですもの」

 彼女に背を押され、門の向こうへと歩き出す。

 家で、彼女は家人らしき人物に色々と説明していた。家人は頷き、リノヴェルカの方を向いた。

「リノヴェルカ様、よくアルクメネ様を助けて下さいました。色々とお疲れでしょう、まずは湯の方へどうぞ」

 言って、彼はリノヴェルカの手を引いた。アルクメネがついてこないのを見て、心細くなった。それを見て、

「私は別の用事があるの。大丈夫、後でまた会えるから。綺麗になったあなたを楽しみにしているわ」

 彼女はにっこり笑った。その笑みを見ると安心できる。うん、と頷き家人に手を引かれ、湯浴みの場所へと歩き出す。

 その先には。

「ようこそ、リノヴェルカ様。よくぞアルクメネ様を助けて下さいました。歓迎いたします」

 たくさんの女性が穏やかな笑みを浮かべていた。それぞれの手には櫛やらブラシやらがある。家人は礼をしてそこで別れた。

 たくさんの女性たちが、リノヴェルカの身体を洗う。傷だらけの身体を見て痛そうな顔をした女性もいた。彼女たちは卵でも扱うかのように優しくリノヴェルカに触れ、その身体を磨いてくれた。身体から発していた悪臭は薔薇の香りとなり、もつれ乱れていた白銀の髪は、絹糸のように美しく輝いた。

 用意された服を着せられ、鏡を見たリノヴェルカは絶句した。

「これが……私、なのか?」

 月の髪に銀の髪飾りを挿し、服は白と銀を基調としたドレス。

 そこにいたのは、どこかの貴族の少女と見紛う姿、否、伝説で聞いた月の女神そのものだった。火傷の痕も化粧で隠され、もう見る影もない。

 生きるのに精いっぱいだった時代。自分の容姿のことなど考えたことはなかった。

 鏡に映る美少女は、本当に自分なのだろうか。

「お美しゅうございます、リノヴェルカ様」

 女性の一人がにっこりと笑った。

 彼女は呆然と椅子に座り尽くすリノヴェルカの手を持って、鏡の前で振ってみせた。

 鏡に映るその手は、自分の手。

 思わず、呟いた。

「夢みたいだ……」

「夢では御座いませんよ、お嬢様。お嬢様は、とても大切な方の命を救われたのです。これもまた当然のこと」

 さあ、参りますよと促されて椅子から立ち上がる。着ている服はふわふわとして動きづらい。バランスのとり方を間違えて、何度も転びそうになった。そんな彼女に周りの女性たちは、この服での歩き方を教えてくれる。教わった通りに意識すれば、何とかバランスを取ることが出来た。

 貴族の娘たちは、こんな服を着て動くのが当たり前らしい。すごいんだなとリノヴェルカは思う。

 そして案内された先は、夢みたいに大きな部屋。

 こんなに天井の高い建物など、見たことはなかった。

 部屋の中央には大きなテーブル。その上には銀色の蓋のついた、たくさんの料理と食器が並んでいる。貴族の晩餐会みたいだ。いや、実際、貴族の晩餐会なのだろう。

 今は本当に戦乱の世の中なのだろうか、と疑問に思ってしまう。

 そこへ、

「リノヴェルカ。綺麗になったかしら?」

 聞き覚えのある声がした。

 華やかにドレスアップしたアルクメネが、笑っていた。

「とっても素敵よ、リノヴェルカ。月の女神さまみたいよ」

「あ、ありが、とう……」

 まだ頭は混乱している。美しい服で着飾ったけれど、自分は庶民の子、貴族の作法など何も知らない。場違いな気がしてならないが、相手の申し出に乗ったのは自分である。息苦しくても、ここでやっていかなければならない。

「ディナーを御馳走するわね、リノヴェルカ。あなたは今日からこの家の子、しっかり作法も覚えてもらうわ」

 案内されて席に着く。しばらくするとこの家の人らしき者たちが集まってきた。アルクメネが食前の祈りを大地の女神にささげると、豪華な晩餐会は始まった。

 銀の蓋が開けられる。出てきたのは見たことのない料理ばかりで。とりあえず目の前にあった水の入った器を持って中の水を飲もうとすると、それは手を洗うための水だと教えられた。作法なんて何もわからない、何も出来ない。混乱しながら、傍にいる女性に教えられて何とか食べる。出された料理は全て美味しかったけれど、作法を覚えるのに必死でどんな味がしたのかは忘れてしまった。

 ただ、落ちてくる瓦礫を吹き飛ばして命を助けた、それだけなのに。

 気が付いたら、貴族の晩餐会に、豪華なドレスを着て参加している。

 夢じゃなかろうか、と思ったが、確かに感じるこの世のものとは思えない味が、リアルな食感が、鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いが、これが現実だと教えてくれる。

――私は今、幸せだ。

 リノヴェルカはその思いを噛み締めた。


  ◇

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