ねこじゃらし(5/8)

引越し用のクッション材が側面に貼られたエレベーターの中、陽子は数字のデジタル表示を見つめながら胸の鼓動を速めた。二つ返事でここにやって来たものの、五十嵐と再会するのが不安だ。喧嘩したわけでもなく、交際を止めたわけでもないのに、不自然に空いてしまった時間がもどかしい。

慎重に選んだはずのサーモンピンクのジャケットが派手すぎると思い、家から出直したい気分になった。エレベーターに乗る間際にストッキングのわずかな伝染にも気づいたが、もうどうしようもない。すでに約束の時間に遅れてしまっている。

招かれた部屋は最上階のいちばん奥で、半開きにした扉から彩香が顔を出して手招きした。紺のパンツにボタンダウンのシャツを着て、手にはフライパン返しを持っている。調理の最中らしい。

遅れたことを謝ってから、陽子は玄関で靴を脱いで案内に従った。廊下の壁にはハガキサイズのケン・ドーンの絵が掛かっていて、まだ住み始めたばかりなのに、彩香夫婦のこだわりを感じる。

「はーい。プンとブルスケッタの登場でーす!」

キッチンからピックアップした大皿を携えて、彩香が告げると、ソファに座っていた三人がいっせいに立ち上がった。リビングに鎮座しているワイドテレビと皮張りのソファはモデルルームの一角みたいだ。

「どうも、お久しぶりです」

夫の二郎が満面の笑みで陽子におじぎした。半年前に会ったときよりも顔の肉づきが増し、トレーナーにチノパンという庶民的なファッションが善人のオーラを放っている。

隣りで紹介を待っているのは、彩香たちの結婚式でマジックを披露した男だ。顎ひげがトレードマークで、アーガイル模様のベストが似合っている。

「こちら、柏木源一郎さん……ゲンちゃんです。ぼくの会社の同期で、バツイチ。それから……」

「知ってるわよ。わたしがキューピットなんだから。プンもイガちゃんもそんなとぼけた顔してないでさっさと座りなさいよ」

言いながらソファに腰を下ろし、場の空気を支配した彩香はお手製のブルスケッタを口にした。

「キューピット?」

柏木が問い返す。

「なーに言ってんだよ。キューピーちゃんみたいな体型で。イガちゃんを一度だけプンさんに紹介しただけだろ」

妻を遠慮なくちゃかしてから、二郎がワインボトルに手を伸ばす。

ラルフローレンのシャツを着た五十嵐は、伸びた髪にウェーブがかかり、男らしさがアップしたように陽子には思えた。覚えのあるジャケットがハンガーに掛かっているが、着ているダンガリーのシャツは初めて見るものだ。

テーブルを真ん中にして、五人はソファに座った。

夫婦の向かいに客の三人が座り、陽子と五十嵐に挟まれた柏木は「自分がこの場所で良いのか?」という目配せを彩香に送る。

「さ、これで全員ね。とりあえずカンパイしましょ……あっ、その前に家の中を案内しようかしら」

「やめなさいって。改めて見せるほどの家じゃないから。とにかく乾杯しよう……それじゃ、カンパーイ!」

二郎の仕切りにペロっと舌を出して、彩香はグラスのビールを一気飲みした。

ワイドテレビではCS放送で映画が再生され、断崖の細道を幌馬車が駆けていく。

意図せずに、陽子の目がテレビの横の野草に止まった。ねこじゃらしだ。

ガラス容器に三本のねこじゃらしが生けられ、張られた水が少しだけ変色している。いちばん背の高いものはペットボトルほどの長さで、穂は大人の親指ほどの大きさだ。茎と穂と葉の部分は緑色の濃さを微妙に違え、まるで、収穫前の麦みたいだった。新築マンションの部屋に不釣り合いな存在感でそれぞれが寄り添っている。

「一息ついたらダイニングに移動するわよ。このテーブルじゃ料理を乗せきれないから」

二杯目のビールを口に含む彩香の向かいで、お揃いのグラスの陽子はまだ半分も飲み終えていない。

「まぁ、そんなに急がないでも……映画も観てるんだし」

男たちの意思を統一する調子で、ホストの二郎が陽子を一瞥して言った。


(6/8へ続く)

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