レイニードリー

梁根衣澄

第1話 



 ひどい寒気で目が覚めた。教室の床で突っ伏したまま、眠ってしまっていたみたいだ。

 ゆっくり起き上がると、両手足がズキズキと痛んだ。恐る恐る見てみると、あいつらに殴られ蹴られした痣が青紫色になっていた。通学鞄に書かれた幼稚な落書きも、油性ペンで書かれたから消せないし……お母さんに、なんて言い訳をしよう。喧嘩した、じゃ心配をかけてしまうし、転んだ、は昨日使った。鞄においては……なんて言えばいいのかすらわからない。素直に「イジメられた」なんて、言えたらこんなことにはなっていないだろうし……。

 ぼーっとしていた頭が回り始めると、日々の嫌な記憶が蘇ってきた。意地悪く甲高い笑い声、床に倒れ込むときの鈍い痛み、眼前まで迫るつま先。抵抗する気力もなくされるがままの俺を見る、周りのやつらの哀れみを込めた視線。目を閉じればより鮮明におもいだしてしまう。まるで今もその場にいるようだ。

 今日が終われば明日が来る。けど、明日も何も変わらない。体の傷が増えて、いっそう可哀想な見てくれになるだけ。いずれ誤魔化しもきかなくなって、お母さんやお父さんを失望させるだけ……。

 それなら、今日こそ死んでやろう。たぶん、みんなそれを望んでいる。俺の生きられる場所なんて、どこにもないんだ。今すぐ消えられたら、どんなにいいだろう。

 どうして俺は産まれてきてしまったんだ。死ねよ。消えろよ。いっそ、俺の存在そのものがなくなれよ。

 もう何もかもどうでもいいや。とりあえず帰ろう。もう五時だし。そして、家に着いたら遺書作ろ。今までの恨みとか全部書くんだ。お父さんの部屋にロープがあるのは知っている。今日こそ死ぬ。きょうこそやってやる。今までありがとな、世界。この十五年間、ちっとも楽しくなんかなかったぜ。

 でも、やっと死ねるんだと思ったら、なんかテンションが上がってきた。死後の世界ってどんな感じなんだろう。ま、どうにせよ今よりは素晴らしい世界なんじゃないかな。やばい、すごく楽しみだ。

 俺はゴキゲンに鼻歌なんて歌いながら、生徒玄関に続く階段を一段飛ばしで降りた。

 外靴に悪戯されていないか念入りに確認してから、汚れて黒ずんだ上靴を靴箱に戻す。今日は持ち帰らなくてもいいんだ。画鋲を仕込まれたって、俺は明日、それを履く予定はない。最高だな。

「ひゃっほーう!」

 俺は、気持ちの悪い叫び声をあげて、外に飛び出した。部活をやってる奴らからの視線が痛いけど、そんなこと気にしてられない。どうせ一か月後には、俺がいたということ自体、あいつらの頭の中から消えてるんだから。なんて言われようと知らねえ。こっち見てないで部活に戻れバーーーーカ。

 俺のことを指差して笑う奴らを無視して、速足で歩き出す。校門を出れば、俺の勝ちなんだ。そこを突破したら、あとは死ぬだけ。こんな地獄とも、ようやくオサラバできるんだ。自殺をしたら地獄に堕ちるって言うけど、今以上の地獄なんてあるわけないし。まぁ、大丈夫でしょ。

「ご、よん、さん、に、いち……」

 一歩一歩、確実に校門へと近づいていく。死へのカウントダウン。

「ぜろ!」

 学校と外との境界線を、軽くジャンプして飛び超える。いじめられっ子の“俺”が、一人の“遼”という人間に戻ることができる境界線。それでも、校外に出たってだけで、死にたいのに変わりはない。俺の決意は揺るがないぜ、なーんてな。


 校門を出たら、見慣れた赤レンガの道が、ずっと先まで続いている。俺の家は結構近いから、一度も曲がらないで赤レンガの道を辿っていけば到着する。今日は……というか今日には限らないんだけど、もう早く帰りたい。いつもみたいにトボトボあるかないで、いっそ走って帰ろうか――

「……ん?」

 そんなことを考えながら一歩踏み出したとき、足元に違和感を覚えた。なんか柔らかい。腐葉土でも踏んでるみたいだ。でも、道に敷き詰められているのは……黄色い、レンガ。

「……え、ここどこ? 幻?」

 俯いていた顔を上げてみたら、俺は全く別の場所にいた。さっきまで校門前にいたはずなのに……。

 空は晴れていて明るいのに、霧雨のような、小雨のような、目に見えるか見えないかくらいの雨粒がしとしと降っている。この空間全体を薄いベールのように包み込んでいるようだ。雨は嫌いだけど、この雨は何故か嫌じゃない。じっくり目を凝らすと、黄色いレンガの道は奥の方まで続いていて、その先に家らしきものがぼんやり見えた。それに、なんかここめっちゃいい匂いがする。出来たての焼き菓子みたいな、甘い匂い。死後の世界って、きっとこんな所なんだろうって思った。

「てか、どこなんだよ。早く帰って……死にたいのに」

 ここが居心地良さそうなのは認める。けど、俺が見ている幻だとしても、お願いだから止めないでほしい。もうこれ以上、辛い思いをするのは――


「あらぁ。ずいぶんとカワイイお客様だことッ!」


 背後から聞こえたダミ声に、俺はびっくりして飛び上がった。明らかにいい年の男性が、無理に女性を真似たような、そんな感じの声。

 ここまで来ると、もう興味しかなかった。恐る恐る、ゆっくり振り返ってみる。白タンクトップを着て厚化粧をした筋肉質な男がいても、俺は驚かないぞ……!

「あらァ!」

「……お?」

 そこには、明るい茶色の髪の毛を緩い三つ編みで結んだ、ワンピースにエプロン姿の人が立っていた。綺麗な青い瞳が、じーっと俺を見つめている。確かに背が高いし体格もガッシリしているけど、一目で“心は女性”なのだとわかるような、優しい雰囲気をまとっている。その人は、俺の顔を見るなり「やっぱり可愛らしいわァ」と微笑んだ。

 ここはどこなのか、あなたは誰なのか。色んな疑問が湧いてくる。けど、それらは全部、言葉になって口から出る前に消えていった。結局、何も言えずに口ごもるしかなくなるんだ。

「あの、えっと……」

「いいのよ、無理に喋らなくても。こちらへいらっしゃい。お腹すいてるでしょう? お店に案内するわ」

 そう言うと、彼女は俺の背中を軽く叩いて、黄色いレンガの道を進んでいった。着いていった方がいいのかな。ここでジっとしてるよりは、帰る方法とかも見つかるのかな……。

「よしっ」

 どうせ死んだとしても、今か後でかの違いだ。大差ないし、あの人に着いて行ってみよう。

 俺は、どんどん小さくなっていく彼女の背中を、駆け足で追った。



「あらァん、来てくれたのね! 嬉しいわァ!」

「こ……この人めっちゃ……足速い……」

 ゆっくり歩いているようだったのに、店にたどり着くまで追いつくことは出来なかった。見失わないように駆け足……どころかほぼ全力ダッシュで追うのが精一杯だった。不甲斐なさすぎる。

「はぁ……」

「疲れたでしょう、坊や。そこのソファ、座っていいのよン」

 そう言うと、彼女は入口近くの薄いカーテンをめくって、俺を手招いた。

「あ、じゃあ……」

「そこに座って、ちょぉっと待っててね。お茶とお菓子、持ってくるからッ!」

 指定されたソファはふかふかで、今まで感じたことがない不思議な手触りだった。疲れたのもあって、気を抜いたら眠ってしまいそうだ。でも、今ここで眠ったら、あの人に迷惑をかけてしまうだろう。起きてなくちゃ、起きてなくちゃ……って念じなから、なんとなーく周りを見てみた。

 店の中は、特に変わった様子がない、どこにでもあるカフェのような場所だ。カウンターがあって、四人がけのテーブル席がいくつかと、二人がけのテーブル席がいくつか。俺がいるのは、カーテンで遮られたソファ席。ローテーブルを挟んで向かい側にも、同じソファが置いてある。それと……

「なんか、いい匂いがする……」

「あら! そう言ってもらえて嬉しいわァ!」

「うわぁっ!」

 いきなりカーテンが開いたかと思ったら、ティーセットとケーキスタンドを載せたワゴンとともに、彼女が姿を現した。

「あ……その……」

「ごめんなさいね、驚かせて。美味しい紅茶が入ったから、早く飲んでもらいたくって!」

 テキパキと手馴れた様子で紅茶を淹れて、ケーキを取り分けていく。あ、すっごい良い匂い。甘いものってあんまり好きじゃないけど、このケーキはなぜか食欲がそそられる。

「おいしそ……」

「あらーッ! 嬉しいわ! どんどん食べて! どんどん飲んで! クッキーもあるわよ! 欲望に忠実におなりなさいッ!」

 お言葉に甘えよう。俺は、いただきます、と呟いて、ケーキにフォークを入れた。

「美味しいかしらッ!」

「ま、まだ食べてない……」

「あら……」

 向かい側からすごい熱烈な視線を感じるけど、食欲には勝てない。切り分けたケーキを一口、ゆっくり口に運ぶ。

「……!!」

 控えめな甘さの中、ストロベリーソースの爽やかな酸味が良いアクセントになっている。生クリームもクドくなく、口の中でサラリと溶けていく。これは、人生で食べたケーキの中で一番だ。

「……美味しい」

「味がわかるなら、大丈夫そうねン」

「え?」

 今まで微笑んでいた彼女の顔から、笑顔が消えた。眉をひそめて、真剣な表情で俺を見つめている。

「なん、ですか……?」

「申し遅れたわ。アタシはドロシー。体は漢だけど、心は乙女よ。ちなみに、ここ『カフェ・エメラルド』のオーナーね。親しみを込めて、ドリーって呼んでねン。あなたは?」

「お、俺!?」

 自己紹介は苦手だ。せいぜい名前くらいしか言えないし、その後の「……で?」って空気が嫌いなんだ。自分のアピールとか無理だし、そもそも良いところなんて俺には無いし……

「ゴタゴタ考えてないで、早く自己紹介してよ〜ん! 名前と年齢と誕生日とスリーサイズだけでいいわ! さん、ハイ!」

「り、遼です! 年齢は……十五歳。誕生日は7月5日で……す、すりーさいずは……」

 え、これ言わなきゃダメなやつ!?

「別に言わなくていいわよ、スリーサイズは。勝手に妄想するから」

 それはそれで嫌だけど……まぁいいや。

「……えと、自己紹介、終わったけど」

「そうね。……で、遼ちゃん? アタシに質問があるわよねン? お顔にでかでかと書いてあるわ。答えられる限り、答えてあげるわよ」

 質問、か……。さっきは言葉にならなかったけど、ケーキの甘さで落ち着いた今なら、ちゃんと出来そうだな。彼女がこのカフェのオーナー・ドロシー……もとい、ドリーであることはわかったんだから……

「ここは、一体どこなの?」

「んー、境界ってところかしら。心から死を求める者が、必然的に辿り着く場所。ま、アタシが呼んだんだけどね。アタシは、ここで死の手引きをしたり……時には、死のうとする人を止めたりするわ」

 つまり俺は、心から死を望んでいたから、ここに呼ばれたわけだ。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか……。

「というか、どうしてドリーは俺を呼んだの? 死にたい人なんて、他にもいっぱいいると思うんだけど」

「それは偶然ね。今日はたまたま、アナタとチャンネルが合ったってだけよン」

「……俺が今どんな状況で、なんで死にたいのかは……」

「知ってるわ。基本、触れればわかるもの」

 あぁ、あの時か。この店に辿り着く前、ドリーと初めて会ったあの場所で、背中を軽く叩かれたのを思い出した。あの時に、ドリーは全てを知ったんだ。

「……なら当然、止めないよね」

「さぁ、どうかしら?」

 ドリーはニヤリとして、肩を竦めた。

「本当に、心の底から死にたいって思ってるのなら、そのケーキは食べられなかったはずよ。少しでも“生きたい”って望んでいるから、ものを食べるという行動が出来るの。現に……」

 チラり、と見られて、咄嗟に俺は手を引っ込めた。握ったフォークに力がこもる。俺は、無意識にケーキを食べ続けていたんだ。

「生きたいから、食べる……」

「そうよ。遼ちゃんは、口では死にたいって言ってるけど、本当の心は違ったの。本当は、生きていたかったのよン」

 そんなはずはない。本当に、もう終わりにしたかったのに。このまま辛い思いをし続けるくらいなら、死んだ方がマシだって思ってるんだ。

「俺は……」

「自分の心にウソをつかないで。このまま人生を終わらせてしまえば、遼ちゃんは深く後悔する。きっと、こんなはずじゃなかったって思うわ。実際、いじめっ子たちに負けっぱなしで、悔しくないの?」

 悔しくない、と言ったら嘘になる。何も言い返せない、やり返せない自分が嫌で、嫌で、嫌で。心も体も傷つけられる度に、自分が存在しなかったらどんなに良かったか考える。こうしてまた悔しくなって、それ以降はネガティブ思考の延々ループだ。

「俺は、ずっと、悔しかった」

 怯えているだけの自分が、弱くて小さい自分が、本当に嫌いだった」

「……なら、変えましょうよ」

「それが出来たら、こんなになってない」

「いいえ。変えられるわ。アナタなら……遼ちゃんなら、絶対に変えられる。だから……」

 ドリーは、俺の目をじっと見つめた。

「死にたい、って言葉に逃げないで」

「逃げてるわけじゃない」

 それしかもう、道が残されていなかったんだ。こんな気持ち、ドリーにわかるわけない。

「逃げたくて逃げてるわけじゃないんだ……」

「アタシは、別に逃げるなって言ってんじゃないの。逃げてもいいわ。むしろ、辛い時は逃げなさい。バチは当たらないから。でも……そうね。人間の気持ちは、よくわからないものね。だから、人間関係って面白いと思うんだけど」

「面白くなんかない」

「もうっ。……いーい、遼ちゃん?」

 ドリーは、紅茶を一口啜って目を細めた。

「人生、ずーっと辛いことが続くわけじゃないのよ。雨が降らなきゃ虹が出ないように、苦しいことの後には必ずいいことがあるわ。でもね、ただ黙っているだけで幸せがやってくるとは思わないで。自分が生きやすい世界は、自分で作るものよ。大切なのは、自分から一歩前に踏み出すことなの。そうしないと、何も始まらない」

「俺は、終わらせようとしてるのに」

「ノンノン。まずは始めてみましょ。それでダメだったら、アタシはもう何も言わないわ。その先は、遼ちゃんの好きな方へ行けばいいの。でもね……考える、あるいは感じることを忘れないで」

 なんだか話が難しくなってきた。理解できないことはないが、一度閉じきった俺の“本質”に触れられている気がして、頭がざわざわと騒ぎ出した。

「遼ちゃん……アナタ、本当はわかっているはずよン。この悪循環を終わらせる方法も、死んでしまえばどうなるのかも……」

「うるさい!」

 力任せにテーブルを叩くと、ティーカップの中の紅茶がソーサーにこぼれた。はっとして謝らなくてはと思ったが、溢れ出した感情はもう止められなかった。

「お前に……何がわかるんだよ! 今会ったばかりの、他人のお前が、俺の何を知ってるって言うんだ!」

 声を荒らげてしまった。情けない。せっかく手を差し伸べてくれたドリーだって、こんな俺を見たら失望してしまう。なんてことをしてしまったんだ、俺は……。

「……よ、……ん」

「は?」

「それよおおおおおン! それを待っていたのおおおお!!」

 ドリーは、テーブル越しの俺の肩を掴むと、激しく前後に揺さぶった。

「ずっと思っていたの。な〜んか、らしくないわねって。アナタ中三でしょ? 周りの子たちなんて、もっとお猿さんみたいなものじゃない?」

「……まぁ、幼稚だなとはおもう……」

「そう! アナタは自分で思ってるよりも賢くて、大人なの。周りが幼く見えるほどにね。だから、アナタのちょっと見下したような心が、表にも出てしまっていたんじゃないかしら。アナタくらいの子たちって、自分たちとは違うものを排除しようとするものだから……遼ちゃんの大人びたところが、受け入れられなかったのよ」

「でも、俺よりも大人びてて、周りとも上手くやってるやつはいっぱいいる」

「それは、アナタがまだ成熟しきっていないからよン」

 わけがわからない。首を傾げる俺に少し微笑んで、ドリーは続けた。

「アナタの大人な面と、アナタの子供な面。上手く噛み合わないその部分が矛盾になって、周りの子たちはそれを“異物”として捉える。その矛盾は、遼ちゃんの中でも心のバランスを崩してしまう。何かおかしいな、とは思っていたんじゃない? モヤモヤするなぁ、とか」

「モヤモヤは……ずっとしてた」

「これって、誰もが抱えているけれど、気づける子って以外と少ないの。気づいてしまえば悩みの種になるし、気づかなければずっと子供のまま。克服できた子から……ほんとうの、大人になっていく」

 そういえば、いつも俺を殴ってくるやつが、「大人ぶりやがって」と言っていたのを思い出した。気にもとめていなかったが、それが、イジメの悪循環を生んでいるんだとしたら……。

「俺は、どうしたら……」

「ありのままでいいのよ。無理に周りと合わせようとして、から回って、輪の中から外れてしまうなら……最初から入らなきゃいいの」

 輪の中に、入らない? そんなこと、俺なんかに出来るのかな。

 まぁでも……挑戦してみるくらいなら、悪くないかもしれない。それでダメなら――


 今度こそ死んでしまえ。


「ドリー。俺、やってみようとおも――」

「や〜〜〜ん! 急成長〜〜! アタシ嬉しいわ! アナタのような若い子が命を絶つなんて、ココロがキュってなるもの〜〜〜! 思い直してくれて良かったぁ〜〜!」

 ドリーは、所々声を裏返して、俺を褒めちぎった。ぐしゃぐしゃと頭を撫でるその大きな手は、他の誰よりも温かくて、優しかった。

 そして気づけば、なぜだか俺は涙を流していた。

「あんっ! ごめんなさいね、痛かったかしらッ?」

 ドリーが、パッと素早く手を引っこめる。

「ちがう……ちがうんだ」

 自然と流れてくる涙を拭って、俺は初めて、自分からドリーの目を見つめた。宝石のような青い目。その中に、目を赤くした自分が映っている。

「ドリー、ありがとう。俺を止めてくれて」

「いいえ。アタシは感じたことを言ってるだけ。止まろうと思ったのはアナタよ。でも……本当に、思い留まってくれて良かった……」

 そう言ったドリーの目にも、涙が溜まっていた。彼女は、死を望んでここに迷い込んだ人たち全てと心を交わし、その選択を見守ってきたんだろう。生きることを選んだ人、変わらず死を選んだ人、それぞれの分岐点を見てきた彼女だからこそ、こんなに綺麗な涙を流せるんだ。

 そんなドリーに、少しでも報いたいと思った。

「ドリー。俺、もう死のうとしないよ。まだ怖いけど……勇気を出して立ち向かってみる」

「えぇ。アナタなら、きっと素晴らしい人生を歩めるわ。あの広い美しい世界で……アナタだけの道を歩んで」

 俺とドリーは、しばらく他愛ない話を続けていた。こんなに誰かと会話をしたのはいつ以来だろう。俺と話したがる人なんていなかったから、親身に話を聞いてくれるドリーの存在がありがたかったし、嬉しかった。

「うふふ。アナタ、さっきまで死にたがってたなんて思えないくらい、いい顔で笑うじゃない。可愛いわぁ」

「ずっと、こうやって誰かと話がしたかったんだ。友達が欲しかった」

「出来るわ。アナタはこれから変わるんだもの」

 そう言って、ドリーはゆっくりと立ち上がった。

「さぁ、遼ちゃんに最後の魔法をかけてあげる。ちょぉっと待っててねン」

「魔法?」

 ドリーは、空になったティーポットをワゴンに載せて、奥の部屋……おそらく厨房に消えていった。少しすると、ケーキやクッキーの甘い匂いとは違う、香ばしい匂いが漂ってきた。食欲がそそられる。出されたお菓子をたくさん食べたのに、俺のお腹は簡単に『グゥ……』と音を鳴らした。

 生きたいから食べる。ふいに、その言葉を思い出した。俺は、もう死ぬ気はないんだろう。生きることを望んでいる。情けない音を鳴らし続けるこのお腹が、何よりの証拠だ。

「はは……おなかすい――」

「おぉまぁたぁせぇぇぇぇッッッ!」

 右手にトレイを持ったドリーが、とびっきりの笑顔を浮かべて戻ってきた。

「あーん! 結構待たせちゃったわ! お腹すいたでしょう!」

 テーブルに、次々と料理が載せられていく。ケチャップが美味しそうなナポリタン、ほかほかの湯気をたてるポトフに、不思議な色のドレッシングがかかったサラダ。短時間でこんなに作るなんて、ドリーはやっぱり凄い人だ。

「さぁ! アタシの最後の魔法よ! 自信作なの! 食べて食べて!」

「いただきます!」

 俺はスプーンを手に取って、ポトフのスープを掬った。少し冷ましてから、口に近づけてそっと飲む。濃くもなく薄くもないコンソメ味が程よく、野菜のコクがより一層深みを出してくれている。

「美味しいかしら?」

「うん。とって、も――」

 視界が歪む。耐えられないくらいの眠気が襲いかかってくる。ぐるぐると目の前が回って、景色がごちゃ混ぜになって、気持ちが悪い。

「ドリー……!」

「……遼ちゃん。生きることを決めたアナタは、もうここにはいられない。アナタの世界はここじゃない」

 こんな別れ方って……。もっとちゃんと、ドリーに感謝を伝えたいのに!

「この夢から覚めて、現実へ帰るのよ。アナタがアナタに誇れる人生を……強く生きてね、遼ちゃん」

 ドリーの姿が遠のいていく。彼女は、悲しそうな、でも優しい笑顔をたたえている。

「いやだ……!」

 俺は手を伸ばすけど、ドリーは俺の手をとってくれない。どんどん遠くなっていく。今伝えないきゃ、この先ドリーには……会えない。

「ドリー!」

 眠気に抗って、喉の奥から声を絞り出す。

「ありがとう……! ありがとう、ドリー!」

 美しく微笑んだ彼女が遠ざかる。さようなら。俺を変えてくれて、本当に――



 気がつくと、俺は教室に入る一歩手前で立ち止まっていた。腕の痣がなくなっている。通学鞄の落書きも消えている。でも、体中の細かい傷はそのままだから、どうやら今日の朝に戻ってきたようだ。

「夢、だったのか……、全部……?」

 いや、覚えている。ドリーの顔を、声を、言葉を。あの場所の匂いだって覚えている。俺は確かに、ここではないどこかへ行っていた。そして……この世界で、生きていくと決めたんだ。

 そっと顔を上げて、教室を見上げる。あれほど大きくて恐ろしかった教室が、なぜだかとても小さく感じた。こんな小さな箱の中で、一体何に怯えていたんだろう。世界は……きっともっと広いのに。

「ドリーが繋げてくれたこの命、もう絶対に捨てようとしないよ」

 震える手に力を込めて、引き戸に手をかけた。教室に入るだけ、何も怖くない……そう言い聞かせて、何度も深呼吸をする。

「よし」

 俺は、そっと引き戸を開けた。クラスメイトの視線が、一瞬こっちに集まる。見ていて、ドリー。今こそ一歩、踏み出してみるから。

「お、おはよう」

 この一歩で、何かを変えられますように。……いや、変えてみせる。自分が生きやすい世界を、他の誰でもない、俺が作るんだ。

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レイニードリー 梁根衣澄 @Hedgehog_H

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