応援コメント

第捌夜 大叔母の家」への応援コメント

  • 行人さま

    お散歩コースが瑞々しい「若葉のいろ」に染まる季節です。お元気にお過ごしでしょうか。
    坂口安吾先生の「青春時代の失敗」は、少年少女の時代に限局されることなき普遍性があるように思われます。含蓄のある御話をありがとうございました。
    緊急事態宣言延長で、おうち時間が長くなり、不相変、自炊に励んでおりますが、先日、根野菜を蒸しながらキッチンの模様替えをしておりましたら、水が蒸発して蒸し器の底と野菜の一部が焦げてしまいました。これもメイラード反応と呼んでいいのでしょうか。ともあれマルチタスクも程々に……という自分への教訓を得た生活の場面でした。

    「イメージの残滓に後付け的に」少年のころに持っておられなかった「語彙を充てて復元する作業」……たしかに、此処には、あのころを再現したいと希うそばから今を生きる行人さまの「解釈」が入りますこと、納得です。私も随想らしきものを書いていた折、そのノヲトに埋まる文字が詩や童話のように感じられて不思議でした。それは今の私の「解釈」が無意識に入ってきて、懐古と反応するせいだったのでしょう。
    大叔母さまの御姿、すらりとした上背にスカートにカチューシャ。凛とした佇まいが見えるようです。スカートで徒競走に参加なさって、優雅に走り抜かれたエピソードからも、お住まいのステンドグラスからも、本をプレゼントなさる傾向からも、大叔母さまの「ファッションの技法」が垣間見えます。こどもに「みっともない」面を見せないおとなは美学を持っている……そう思うのです。美しい本の如く、行人さまが夏を過ごされた大きな家と庭も美しく在ってほしいものですが、それは確かめないほうが「倖せ」なのかもしれませんね。

    こどもの日、この子を起こせるのは作者である私しか居ないという至極、当然な事実に気付き、『オフィーリア奏鳴曲』を起こしました。此処に居るのは「死に見捨てられた人間」とは異なるベクトルの、春のめざめに瞑目する莟のままの少年少女たちで在ったでしょうか。つい先日まで『仮面の告白』を読んでおりました。片頭痛の特効薬の効果を俟つ時間、静かに過ごすための読みものとしては如何かしら、と思いつつも読んでいたのです。「死」に拒まれ、こどもからおとなに育ち、めざめる季節とは春を於いて他に考えられず、そんなめざめを凍結する方術のひとつである「死」が、かえって「生」を活き活きとさせる例もある。行人さまからの御返信を拝読して、そんなことを考えた春でした。

    行人さまも左目に閃輝暗点が現れるのですね! 私も左目なのです。何故、左目かしら? 心臓が左にあるから? 分かりませんが、光の階段を上り切り、拍動性の痛みに襲われ、それが外出先でありますと、不慮の事故に遭った気分です。片頭痛シーズン、お互いに恙無く過ごせますよう。いずれ春永に(この結びは、やはり、とても素敵ですね)。

    作者からの返信

    ひいな樣

    何時の間にか散歩の最中にも汗ばむことの増える季節となっておりますね。近くの公園では雨後など御青の芳菲いよいよ濃密となり、梅雨と偏頭痛の予感を覚える機会も増えました。「御青」=みさお、不変の緑、超絶の美という意味だそうで、季節や人生における「青春」を名指すにぴったりの言葉だな、などと思い乍らお返事認めております。

    そうでしたか、根野菜にお焦げが……香ばしいメイラード反応は大歓迎ですけれど、蒸し器での「燻製」にはご用心ですね。私も料理中に別の「タスク」をこなそうと色気を出して、結句、別の余分な「タスク」を生み出してしまうことが間々あります。「マルチタスクも程々に」、未だ脱稿を見ぬ私のカクヨムでの「書き散らし」にも投げ掛けらるべき箴言でございます……可戒々々。

    現実の「物語」を現在進行形で生きている身にとって、過去の「物語」、殊に幼少期の「物語」は、仰るように詩や童話のように「おとぎ話」的に映りますね。そこには時間による「濾過」によって思い出が純化される作用の働きもありましょうか。今の「解釈」が「懐古と反応」するとは、何やら理科の実験の如くに思われる面白い譬喩、こちらはメイラードならぬメモワール反応といったところでしょうか(笑)

    そしてなるほど「ファッションの技法」「美学」、そう名指して下さいますと確かにしっくり来ます。祖母と対していても感じるのですが、やはり戦前に生まれた人々には、こどもに「みっともない」面を見せない、そういった行儀といいますか礼儀といいますか、「武士は食わねど高楊枝」的な、痩せ我慢的な性質といいましょうか、独特の「芯の強さ」のようなものが具わっているやに思われてなりません。現代では人間関係において「みっともない」面を見せることが必ずしも否定的評価を受けず、むしろ相互理解に資するもの、親密の度を増す作用すら産むものとして肯定的に評価される向きもありますね。あるいは、この点は年齢にかかわらず個々人の気質性向によって好みが分かれるのでしょう。夏が来れば思い出す、遙かな尾瀬……ではない、あの家と庭は、頂戴したお言葉の通り、私の「おとぎ話」の中で美しく耀かせたままで補完しておくことに致します。

    さて、日毎に少しずつオフィーリアがめざめてきていること、気付いておりました。悦ばしいことです。さらぬだに黄金週間は外出自粛が叫ばれていましたから、こどもの日のオトナはおとなしく、とばかりに「省エネ」を決め込んでおりました私の眼には思わぬサプライズでした。有り難うございました。オフィーリアが完全にめざめた後、ハムレットは迎えに来てくれるのでしょうか?

    『仮面の告白』繋がりなのですが、NHKの「100分de名著」という番組で今月取り上げられている本が『金閣寺』で、平野啓一郎氏が解説を担当されているようです。テレビの無い私は書店で購入した番組テキストを読むだけでしたが……三島文学の中で一人称で書かれた小説がこの『金閣寺』と『仮面の告白』だけだというのはなかなか面白い事実のように思われませんか。空襲で金閣寺が燃えてしまうかも知れないという「死」の予感が、眼前に「生」きている金閣寺の美を増幅する一方、終戦で「死」の心配がなくなったからこそ、放火によって美を凍結して永遠ならしめるという発想は、生と死との関係性、生と死を暗喩とする様々な事物現象に敷衍できるのでしょうね。
    にしましても、偏頭痛のお薬後に読まれたとは畏れ入りました。男性の偏頭痛持ちはあまり多くないようで、健康な友人達に気の毒がられます。芥川龍之介も見た「歯車」、片眼だけに出るのは良くないらしいですが、もう慣れっこになってしまいました。こういう油断が危ないのかな……お互いに気をつけて過ごしましょう。

    来月はいよいよ小満の末候「麦秋至(むぎのときいたる)」がやって参りますが、ひいなさんにおかれては「麦粒癒(むぎのつぶいえる)」がもう迎えられていますように……、でハ又、春永に(この書留文言も今月いっぱいでしょうか)。