第18話 【とある雨の日】

 次の日は、朝から土砂降りの雨が降っていた。

 最果ての地で初めて経験する雨は、骨の髄まで冷え込むような薄っすらとした寒気を感じさせる。

 そしてエダンがいなくなったのにも関わらず、誰もそれには触れない微妙な空気が部屋の中に流れていた。


「…………」


 雨のせいで、今日は偵察隊の仕事もない。

 イリスは朝からひたすら装備の手入れをしていて、一方でルシは体の調子が悪いのか、ずっとベッドで横になっていた。


「ケホケホ……ッ」

 乾いたくしゃみの音が、ルシのベッドから漏れてくる。

 それで僕は彼女に声をかけた。


「大丈夫か?」

「あぁ、大丈夫です、ちょっと風邪気味なだけで……すみません、うるさかったですよね」


 向かいの2階のベッドから顔だけ出して謝ってくるルシの顔は、とても大丈夫そうには見えなかった。


「……ちょっと外に出て、薬がないか聞いてくる」


 そう言って立ち上がる僕に、ルシが力のない声で言ってきた。


「あ、いえ、わたしは本当に大丈夫ですから、ケホケホっ!?」


 急に喋って咳が酷くなったのか、ルシはさっきよりも激しく咳き込む。


「……お前は寝ていろ。すぐ戻る」


 起き上がろうとするルシを手で制して、我関せずと武具の手入れに余念がないイリスを一度見たあと、僕は一人部屋を出た。


「…………ふう」


 通路に立って部屋の扉を閉めると、自然に口から深いため息が出る。

 部屋中に漂う重苦しい空気……。

 いつもはこういう時、エダンのくだらない冗談で場を持たせていたが……もうあの男はここにはいない。


 事実、僕はルシを言い訳にして、部屋から逃げ出してきたにすぎない。

 ……もうあれ以上、部屋にいるのが息苦しくて耐えられなかった。


「当たりだ! ヒッハャーッ! これでもう三連勝だぜ!」


 近くの部屋で、半開きになっている扉の中から、興奮した男の声が廊下まで漏れてくる。

 そして複数の人たちの騒ぐ声に僕が中を覗いてみると、志願兵たちが集まって博打をやって遊んでいた。


「あいつが言った賭場が、これか……」


 部屋の中は十数名の人がひしめく所狭しの状態で、人の熱で暖房もない部屋から熱い空気が外にまで流れ出ていた。


 僕はその扉をそっと閉じて廊下を歩く。

 所々まばらに扉が開いている部屋をすれ違う度に、宿舎での志願兵たちの過ごし方が垣間見えてきた。


 ――ベッドで寝転がって、時間を持て余している者。

 ――イリスみたく、武具の手入れをする者。

 ――砦内では数少ない女性と絡み合って、一時の快楽を求める者。

 

 ……様々な人が、各々の時間を過ごす。

 

 その中でも僕の目を引いていたのは、前の戦闘で人が減って一部のベッドが片付けられた部屋と、班の人間全員が亡くなり、無人となった部屋だった。


「――なんの用だ? まだメシの時間じゃないぞ」


 廊下を通って食堂に入ると、厨房の方で働いていた男たちの一人が顔を出してきた。

 その格好からして、彼らが東宿舎の人間だとすぐわかる。


「……うちの班の一人が風邪気味で、何か薬とかないか?」


 僕の話に、その男は呆れた顔で言ってきた。


「はあ? そんな薬とかあるわけねぇだろ。さっさと帰んな、こっちはこれでも忙しいんだ」


 取り付く島もなく、手を振って僕を追い払おうとする男。

 でもその時、その男の後ろから、見覚えのある人物が姿を現した。


「おや、あなたは……確かイリス穣と同じ班の方、でしたね?」


 その優男のような風体は、東宿舎を束ねるディンとかいう男だった。

 彼は僕を見て柔らかな笑みを浮かべて聞いてくる。


「昨日は大変だったそうですね……。それで、どうしました? こんな所へ」

「あぁいや、こいつが急に班の人間が風邪だからと薬を寄越せと言ってまして」


 最初僕の応対をしていた男が、言い訳じみた口調でディンに説明する。それでディンが僕に言ってきた。


「それはまた大変ですね。砦の中で風邪が流行りでもしたら大事だ。だが生憎、ワタシたちも薬は持ってないんですよ。帝国兵の方々なら知りませんけど」


 ……やはりそうか。

 実は僕も、あまり大きな期待はしていなかった。

 志願兵のために常備薬を備えているほど、この砦の懐事情が豊かには見えなかったからだ。


「まあしかし、手ぶらで帰すのも忍びないですからね。暖かいお湯と、消化に良い果物でも差し上げますよ。……彼に用意してください、いいですね?」

「あ、はいっ。もちろんでさ!」 


 ディンが隣の男にそう聞かせると、その男は二つ返事で答える。

 どうも印象から彼が一つの宿舎のトップには見えなかったが、今の対応を見るに、それは間違いのない事実だと実感させられた。


「それではワタシはこれで。イリス穣にもよろしく伝えてください」


 そう言い残して、ディンは厨房の中に姿を消した。

 そして東宿舎の男は急いで水筒にお湯を入れて、それと一緒にリンゴを二つ、僕に渡してきた。


「その、悪かったな。あんま勝手に要望を通すなと、看守のヤツらにきつく言われてるんでよ」

「いや、いい。……気にするな」


 最初とは違い、媚びるような顔でそう言ってくる男にお礼を言って、僕は重い足取りで自分の部屋に戻っていった。






 ##########


「具合はどうだ?」

「……大分よくなりました。ありがとうございます、ガルムさん」


 持ってきたお湯とリンゴを食べさせ、食事の後はぐっすり寝直して夜になると、ルシの顔色も随分とよくなってきた。


「それにしても、今日は一日中ずっと雨ね……これじゃ体が鈍ってしまうわ」


 外から微かに聞こえてくる雨音に、イリスが眉間に皺を寄せてそう話す。

 そしてしばらくの沈黙の後、ルシが僕たちの顔色を伺いながら、恐る恐る口を開けてきた。


「あの……ずっと気になったんですけど、エダンさんは……その、どこに行ってしまったんですか?」

「それは……」


 今まであえて誰も話さなかった話題に触れられて、僕は言葉に詰まる。

 イリスもまた、厳しい顔でなにも言ってこない。


 ……そういや、イリスの性格なら、とっくに追及してきてもおかしくないはずなのに、なんで今まで黙っていたんだろ。

 まさか、エダンが逃走したことを、最初から知っていたのか……?


「彼は……」


 僕がそんな事を考えていると、イリスが先に口を開けてきた。

 そして彼女が次の言葉を発しようとした時、いきなり扉が開かれ、ずぶ濡れ姿のエダンが部屋の中に入ってきた。


「お前ッ!? とうして……ッ!」


 思わずその場から立ち上がり彼の方を見ると、エダンは気まずい顔で笑いながら言ってきた。


「ようぉ、元気にしてたかい……?」

「そ、それより、全身びしょ濡れですよ!? こ、これ、使ってください」


 何か言おうとするエダンに、ルシが慌てて拭くものを渡してきた。

 それを受け取り、エダンは雨水塗れの頭と顔を拭き始める。


「す、すまねぇ……助かった」


 元々痩せた顔ではあったが、それより一層やつれた顔になったエダンが力なくそう言ってくる。

 僕は、自分が跨っているベッドの縁から位置をずらして空間を開けた。


「とりあえず座れ。なんか今にも倒れそうだぞ、お前」

「いいのか? ……お前のベッド、水浸しになるぞ?」


 薄く笑いながら、濡れた自分の服を指差すエダンに、僕は頷いて答えた。


「構わない。早く座れ」

「……ありがてぇ」


 それで腰を落としたエダンが体を拭いていると、今まで黙っていたイリスが話しかけてきた。


「その様子だと、どうやら脱走は失敗したようね」

「えっ……えぇぇ~~~~っ!? だ、脱出って……え、エダンさんが!?」


 そのイリスの言葉に一番驚いたのはルシだった。

 目を丸くして僕たちを見回す彼女から視線を外し、イリスの方を見上げる。


「やっぱりお前、知っていたのか」


 妙に落ち着いていて、一日中エダンの所在を気にするそぶりも、聞いてもこないのに違和感はあった。

 しかし、どうやって知ったんだ? 

 ……まさか昨日の夜、イリスも起きていたのか?


「まあね。夜中にそんなこそこそ話して、聞こえないはずないでしょ。たかが布一枚越しなのよ?」


 今は隅の方に引いている垂れ幕をちらっと見て、イリスがそう言ってきた。


「そんな、わたし……全然知らなかったです」


 意気消沈とするルシの声に、エダンが申し訳なさそうに頭を下げる。


「ハハ……全部お見通しだったか。すまねぇ」


 ことさら殊勝な態度のエダンに、なんとなく僕には、今の彼が相当精神的に参っているように感じた。


 それともう一つ。

 もし逃走が発覚すると班全体に処罰が来るかもしれないのに、イリスがエダンの脱走を知って、あえてそれを見逃していたことに、僕は内心驚きを禁じえなかった。


「んで? おめおめ帰ってきたってことは失敗したってことでしょ? 他にも脱走仲間がいたような話だったし、顛末くらいは聞かせてくれるよね?」


 イリスの問いに僕もハッとなる。

 そういえば、他にも脱出しようとした仲間がいたとエダンは言っていた。

 なら他の奴らも全員戻ってきたってことなのか……?


「そうだな……どう、話せばいいのか」


 やっと落ち着いてきたのか、そう話して少し考えを纏めていたエダンが、やっとこちらを見て話を始めた。


「オレを含めて全部で5人、一緒に砦から出たんだ。名前は……まあ、言っても知らないだろうけど、中にはステンの奴もいたよ」

「ステン……? ああ、あのやたら威張り散らかしていた男ね?」


 イリスはすぐには思い出せてないのか、少し間をおいてそう聞き返してきた。


「ああ。ヤツは姫さんに負けてから、居場所がない感じだったからな。従ってたヤツらも全部そっぽ向いて、自分の班ですら無い者扱いだったって話だ」

「自業自得ね。日頃の行いが悪いからそうなるのよ」


 当たり前だと鼻で笑うイリスに、エダンも合わせて薄らと笑う。そして話を続けてきた。


「そんで夜中に砦から出て、まっすぐフォルザの壁に向かったよ。まあ、砦を出るのは簡単さ。警邏の時間と場所は予め知ってたし、看守のヤツらと違って、北宿舎の連中は仕事もザルだったしな」

「それで、どうなったんだ?」


 僕が次の話を催促すると、エダンは少し引きずった顔で言ってきた。


「オレらは魔物にやられた冒険者のふりをして、フォルザの壁を抜ける計画だった。だから冒険者の連中が門を通るときを待って、それに紛れた……その時は土砂降りで視界も悪かったし、ちょうどいいと思ったんだ」


 そう話すエダンの手は知らずのうちに少し震えていた。そして額から雨ではない汗が流れ落ちる。


「そんで……門の前まで行くと、急に警備のヤツら……手形を要求してきた。そして……オレたちが少し躊躇っていると、問答無用で矢が飛んできた」

「えっ、そんな……!」


 ルシが手で口元を押さえて顔をしかめる。

 それで一度薄ら笑いをしてみせたエダンが、また話を続けてきた。


「本当に一瞬だった……オレは幸い一番後ろにいたから、土砂降りの雨で岩場に隠れて助かったけど……他のヤツらは、その場で全部死んじまった」

「当然ね。脱走は軍法で一番重い罪に当たるわ。釈明の機会が与えられるわけないじゃない」


 腕を組んでそう言ってくるイリスに、エダンも力なく笑いながら頷く。


「ハハ……おっしゃる通りで」


 この前、練兵場であった脱走事件もそうだった。

 即決処罰で、文字通り首を飛ばされて死んでしまった男たち。

 ……多分そうすることで、他の志願兵たちが脱走を企てないようにする見せしめの意味もあるんだろ。


「んで、そのまま無我夢中で走って、またここに逃げ戻ってきたわけだ……どうだ、ダサいだろ?」


 最後は自嘲するように笑うエダンに、イリスが頷きながら答える。


「そうね、すごく格好悪いわ。男として情けないにも程があるわね」

「ハハッ……手厳しいな、イリスちゃん」


 頭をかきながら面目ない顔をするエダンに、イリスがまた言ってきた。


「まあでも……よく無事に帰ってきたわね。お帰り」


 ――お帰り……か。

 

 そんな言葉が彼女の口から出てくるとは思わなかったのか、エダンも……そして僕も、口を閉じるのも忘れてイリスをマジマジと見つめる。


「な、なによ……っ、不満でもあるわけ? と、とにかく! 今日はもう一日中雨で、私たち4人はずっと部屋の中で過ごしていた、それだけよ! わかったしら!?」


 自分に注がれる視線に、少し顔を赤らめてそう言い出したイリスは、すぐ垂れ幕を乱暴に引いて空間を分ける。


 布に遮られ見えなくなった前の方を見て、そんな彼女の始めて見る一面に……僕は少なくない戸惑いを感じていた。

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