第7話 窮奇

 霧が出ていたせいだろう。降り積もった落ち葉は湿り気を帯びて、滑りやすくなっている。

 初音は、雷蔵の背を追いながら、慎重に足を運ぶ。

 川から離れて、山へ入って行くと、辺りは静かで、民家はおろか、田畑すら見当たらず、ただ、深い山の木々があるだけだ。

 冬枯れを間近にした山の木々は、どこか寒々としている。

 雷蔵は、随分とこの辺りに詳しいのだろう。ザクザクと迷いなく細い道を進んでいく。

 山の西側に入ったのだろうか。それとも、常緑樹が多いのだろうか。昇り始めた日に反して、薄暗くなり始めた。頭上は木々に覆われ、じっとりと濡れた土の臭い。

 それだけなら、どうということのないものだ。

 しかし、さえずっていた鳥の声が、いつの間にか聞こえなくなった。

 鼻をつく、異臭。肌がひりひりと痛みはじめる。

「おかしい」

 雷蔵が呟いた。

「何でしょう?」

 初音も違和感を感じて、足を止めた。

「確かに、いる……」

 雷蔵が小声で答える。

 バサリ。羽音のような音。何かが動いている気配だ。かなり大きい。

 息をひそめて、柄に手をかけ腰を落とす。

 野鳥であろうか。

 それにしては、かなり大きい。

「来る」

 木々の間を抜け、それは二人の前に舞い降りた。

 大きい。鳥ではない。

 虎のようだ。

 虎のようだが、背に大きな羽がある。

窮奇きゅうきだ」

 雷蔵が刀を抜く。

「え?」

 初音は、改めて、その獣を見る。有翼の虎、窮奇ーーその名は聞いたことはある。

 善人を好んで喰らうといわれるその獣は、伝説上の生物だと思っていた。

 ダッという音と共に、窮奇が跳ね上がり、雷蔵に躍りかかる。

 振り上げた窮奇の前足に向かって、雷蔵は刀で斬りつけた。

 激しい血潮が飛ぶと同時に、大きな唸り声が響く。

 飛び散った血は、窮奇のモノのようだが、雷蔵の片袖も大きく引き裂かれていた。

 窮奇は雷蔵を睨みつけたまま、牙を見せ威嚇する。

 その時、別の羽音が聞こえた。

「初音どのっ、後ろ!」

 雷蔵の叫びより早く、初音は走った。

 羽音をたて、飛びながら突進してくる。先ほどとは別の窮奇だ。

 振り下ろしてくる腕を交わしながら、抜刀し、腹部に刃を叩き込んだ。

 だが、窮奇の身体がふわりと宙に浮き、皮膚に僅かな傷を作っただけで、手ごたえはない。

「喉を狙え!」

 雷蔵の叫び声がした。

「承知!」

 体勢を整え、初音は叫び返す。

 とはいえ、狙えと言われて、狙えるものでもない。

 窮奇の動きは素早く、多様だ。

 足だけでなく、その大きな口の牙も、初音の隙を伺っているのだ。

 飢えているのだろう。

 窮奇は、初音を見ながら、だらだらと唾液を垂らしている。

 バンッと窮奇が跳んだ。飛びかかってきたのを、初音は避けようと捻りながら跳んだ。

「つぅっ!」

 避けきれずに、左肩に窮奇の爪が入る。

 不自然な体勢の跳躍のせいか、着地に瞬間、足が滑った。

 ずるりと身体が大地に倒れる。

 窮奇は勝ち誇ったかのように、腕を振り下ろしてきた。

「見えたっ!」

 だが、初音は地に倒れたまま、襲い掛かる窮奇の喉に向かって刀を突き上げた。

ぐぁぁぁっぁ

 窮奇の苦悶の叫びと共に、血が飛び散る。

 初音に襲い掛かろうとした体勢はそのまま、ドサリと初音の上に倒れこんだ。

「……終わった?」

 初音は肩で息をする。

 窮奇は動きを止めたようで、初音の上からピクリとも動かない。

 雷蔵の方も決着がついたのだろうか。

 山は静かだ。

「初音どのっ!」

 雷蔵の声がした。

「雷蔵さま」

 答えながら、初音は窮奇の身体の下から抜け出そうともがいた。

「無事か?」

 雷蔵が駆け寄ってくるのが見えた。

 片袖を無くしてはいるものの、大きなケガはないようだ。

「何とか。ただ、動けません」

 初音は雷蔵の手を借りて、窮奇の死体の下から抜け出した。

「肩をやられたのか?」

「少し」

 左肩の着物に穴が開き、血がにじんでいる。痛みはそれほどではないが、少し食い込んだ傷のようだ。

 雷蔵は、竹筒を取り出し、初音の傷に向かって液体をかける。酒のようだ。

「くぅぅ」

 冷たさと浸みこむような痛みに、初音は思わず顔を歪める。

 雷蔵は、手ぬぐいを取り出し、着衣の上から傷口を拭いた。

「深くはないが、きちんと手当をした方がいい。だが、ここではまずい。歩けるか」

「はい」

 初音はのろのろと立ち上がる。あちこちが痛むが、大きな痛みは肩だけのようだ。

「雷蔵さまは大丈夫ですか?」

「俺の方は、かすり傷だ。たいしたことはない」

 雷蔵のむき出しの腕に、無数のひっかき傷があり、着衣には血のシミが広がっている。

 本当に『かすり傷』なのかの判断は、初音にはできなかった。

 雷蔵は、初音の突き立てた刀を抜くと、懐紙で血をぬぐう。

「しかし、窮奇を一人で倒すとは」

「雷蔵さまだって」

 先ほどの場所に戻ると、もう一匹の窮奇の躯が転がっていた。雷蔵が倒したものであろう。初音が倒したものより、一回り大きいようにも見える。

「俺は、初めてではない」

 雷蔵は、ふうっと大きく息をついた。

「この辺りは、大丈夫な地域のはずなんだが」

「大丈夫とは?」

「結界があるはずなんだ」

 言いながら、鋭い目で辺りを見回す。

「早急に確認する必要があるな。だが、その前にその肩を何とかせねば」

「私なら、平気です」

「ダメだ」

 雷蔵は強く言って、歩き始める。

「窮奇の傷を甘く見るな。奴らは闇の眷属だ。悪化すれば、かすり傷でも致命傷となる」

「はい」

 初音は頷き、素直に雷蔵に従う。

 狭い獣道のような道をたどっていくと、再び冬枯れの明るい場所に出た。

 さらさらと水が流れる音が聞こえ始め、鳥のさえずりが戻ってくる。

「あれだ」

 雷蔵が指さした道の先に、小さな家が見えた。

 煙が昇っていて、明らかに人がいる気配がする。

 山間に突然現れた家は、かなり古いものだった。その家の周囲には、山茶花で生垣が作られており、丁寧に手入れされている。

 大きな井戸も見えた。

了安りょうあん、いるか?」

 雷蔵が大きな声を上げ、引き戸を叩いた。

「ああ、雷蔵さまではないですか」

 きしむ引き戸を開いたのは、老人だった。

 白髪の髪は伸び放題になっている。顔だけ見ると、かなり年配のようだが、背筋はピンとしていた。

「彼女が窮奇にやられた。診てくれ」

「それはいけませんな」

 初音は雷蔵に促され、家に入った。山間の一人住まいにしては、かなり広い。

 広い三和土は、玄関と台所をかねていて、一段高い位置に、板張りの部屋。どうやら、その奥にも部屋があるように見える。

 台所には芋やキノコがざるにのせられて置かれているだけでなく、各種薬草を乾燥させたものと思われるものがむしろの上に並べられていた。

「そちらに座ってください」

 初音は、囲炉裏のそばに座る。

 老人、了安は、台所に大鍋で湯を沸かし始めた。

「雷蔵さまは?」

「俺は、大丈夫だ。ちょっと、井戸を借りる」

「薬湯は作っておきますから、飲んでくださいよ」

「わかっている」

 雷蔵が出ていくと、了安は、初音に着衣を脱ぐように言った。

 思ったより血で布が肌に張り付いていて、苦労する。

 胸元にさらしは巻いているとはいえ、両肩をさらした状態だ。雷蔵が出て行ったのは、初音への配慮であろう。

「縫った方が良さそうだ」

 傷を見ると、初音は了安に板を渡された。

 舌をかまぬように、ということだろう。

 初音は板をくわえて、激痛に耐える。

 了安は丁寧に傷口を洗いなおすと、煮沸した針で縫合を始めた。

「痛いとは思いますが、闇の眷属から受けた傷はつきが悪い。縫わねば、なかなか治りません」

 傷口そのものは大きくないため、縫ったのはわずかであったが、痛みのあまりに汗が噴き出した。

 了安は、縫合を終えると、冷たい膏薬を塗り付け、丁寧に布を張り付けた。

 そして、清潔な布を体中に巻いて固定する。

「よく、お耐えになった」

 治療の終了を告げられ、初音は思わず横になった。

「男性でも気を失うものが多いのに、気丈な方だ」

 上着を初音に掛けながら、了安が感心したように呟いた。

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