チャペックへの挽歌

津田薪太郎

第1話

 咽せっ返る様な硝煙の香り。べちゃべちゃとした水気の土。砲孔の水と脂がまざった澱み。まさしくそれが全てだった。

 目を覚ますと、全身がじっとりと湿っていた。塹壕の中は、朝露で何処も彼処も濡れていて、冷たい。俺は隣を顧みた。アランが何らも変わらない様子で横たわっていた。安らかな顔をして、鉄兜に開いた大穴は、相変わらず向こう側をのぞかせている。

 俺は立ち上がって、近くに落ちている小銃を拾った。靄のせいで向こうの様子は全く見えない。どれだけ大層に言っても、それが現実である。

 俺は黙って、支給品のチョコレートを嚙った。味は感じない。火薬の味が染み付いてしまって、それは単なる燃料に過ぎなくなったのだ。

 日が昇って、靄が晴れると一日の労働が始まる。同じ、同じことの繰り返し。それこそ、誰にだってできる様なものなのだ。

 俺は銃を前に構えて、引き金を引いた。薬莢を出す。もう一度、出す、もう一度…。既に何日も繰り返した作業は、単なるルーティンワークと化し、かつては一発ごとに感じていた振動も、心身ともに鈍麻した今は、単なる自然のそれでしかなかった。

 暫くすると、俺から少し離れたところに据え付けられた機関銃が、金切り声を上げて弾を吐き出し始めた。以前は、その音と威力に一度ならず戦慄したものだったが、今となっては単なるヒステリックな女の声以上には感じられなかった。

 最近俺は、機関銃とはまさしく戦場の娼婦の様なものだ、と思い始めた。戦場にあって、これほど求められる存在も稀だろう。敵は奪い取ろうと突っ込み、味方は守って貰おうとその背後に寄り集まる。当の機関銃は、すました顔でどちらに与する事もない。そして、前から自分を求めてやってくる者達を、弄び、破滅させるのだ。歴史上如何な毒婦と言えど、彼女ほど破滅の淵へ叩き落としたものもなかろう。

 だが、悲しいかな。機械仕掛けの娼婦は、飽くことも、疲れることも、満たされることも知らない。塹壕という広いベッドの上で、ただ待ち続けるだけである。

 しかし、俺は不思議に思うことがある。何だってみんな機関銃をありがたがるのだろう。俺たちだって、そう変わらないというのに。

 機関銃の「機関」とは、「機械仕掛け」の意味だ。装填から発射まで、みんな自動でできると言うことだ。それなら、俺たちとて変わらないだろう。銃を撃って、弾をこめて、撃つことの繰り返し。そこに意思や感情なんてものは介在せず、ただ機械の様に動くだけだ。

 夕方。上官殿が塹壕にやってきて仰った。

「あの放棄された塹壕に残っている、機関銃をこちらへ回収してくるんだ」

上官殿は、俺のそばにいた少年兵にそれを命じた。そして彼は、塹壕から出て例の機関銃を目指して走り出した。そして、銃を持ち上げてこちらへ戻ってくる。だが、あと少しと言うところで、彼は壊れてしまった。何発かの弾が、彼の体と銃を貫き、その下の土には二種類の部品が散らばり、混ざった。

 哀れな製造記号「ディートル」は、一八年目でその生を、機械として終えたのである。

「ああ、全く、酷い事だ。元が取れぬわい」

上官殿はそう口を噛んだ。忌々しげに土を蹴ってつぶやく。

「あいつ、あいつ。なんで野郎だ。自分よりも高い機関銃を無駄にしやあがって。えぇ、なんてこった。これだから、あんなボンクラを俺の隊に押し付けたんだな」

ああそうか。所詮はこの人も、同じだったのだ。俺はようやく気がついた。この人も俺達と同じなのだと気がついた。肌は精巧な布、身体の中には血の代わりに潤滑油か何かが流れていて、体を引き裂かれてばら撒くのは生きた内臓じゃなくて、油まみれの死んだ歯車。思考のもとは脳味噌じゃなくて、真空管の刺さったトランジスタ。俺は憐んだ。奇妙極まる憐憫の情が、上官殿に対してあったことに、俺は驚いた。

 夜。俺たちは各々銃剣を付けた小銃を握って、その時を待った。夜の間に敵の塹壕を突破すると言う、まさしく馬鹿の一つ覚え。だが、俺達にそんな事は関係ない。ただ命令の元、無感情で、生きるも死ぬも、全てに無関心になって、ただ目の前の、憐むべき機械に穴を開けてやるだけだ。

 喇叭がなる。怒号、銃声。俺達は走り出した。自分の目指す先も知らないままで。


 撃たれた。折れた地面に倒れ込む。傷口から流れ出ているのは…血だ。傷口だけが熱く痛み、冷たさが俺の心臓に段々と近づいてくる。傷口から、生命が失われていく感覚…なんて素晴らしい。ああ、ようやく思い出した。俺は人間だったんだ。自分に生命があって、人間として生きてきたんだ。死ぬ前に思い出せるとは、俺は幸せ者だ。機械としてじゃない、道具としてじゃない。一人の人間として俺は死ねるのだ。

 人間として死ねる事の愉悦が、死の心地よい冷たさと共に、俺を包んだ。そして俺はゆっくりと、目を閉じた……。

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