竜之歯刷子

糸川まる

竜之歯刷子


 



 竜之歯たつのはぶらしをいただけますか。


 と、だいたいその人は夜半過ぎに訪れる。

 笠を被り、笠の上からすっぽりと黒衣を重ねているものだから、こちらからすれば小さな一人分の天蓋が歩いているような印象だ。店はとうに閉めた時間ではあるが、その人が訪ねてくるとあってはそう言ってもいられない。その人は、天蓋の合わせの隙間から手を出して、私にお代を渡す。これで、竜之歯たつのはぶらしをください、と重ねて言う。私はそれを受け取ると、店の一番奥から竜之歯たつのはぶらしをもってきて、その人に渡した。

 竜之歯たつのはぶらしは、その人の背丈ほどもある大きな歯ぶらしである。その人は歯ぶらしを天蓋の中にしまい、ぺこりと頭を下げて元来た道を戻っていく。黒い天蓋は、やがて夜の暗さのなかに解けるように消えていく。


 竜之歯たつのはぶらし、という呼び名がいったいいつから使われているのかは定かではないが、大きなものの枕に「竜」とつけるのは比較的ふつうのことであったから、それ程深い意味のある名づけではなかろう。まさか、竜が使う歯ぶらし、という意味ではあるまい。では、誰が使うのか。それは、仕入れている私も、作っている職人も知らない。ただ、月に一度、天蓋をまとった女が「竜之歯たつのはぶらしをいただけますか」とやってくるから、そのためだけにひとつ、在庫している。今納められている竜之歯たつのはぶらしは、その柄に柿を用い、頭には豚毛を植えたものだと、職人は言っていた。

 くだんの職人は私の父ほどの年齢で、先祖代々、この店にぶらし類を卸してくれている。もちろん竜之歯たつのはぶらし以外にも、ふつうの歯ぶらし、馬や牛の毛並みを整るぶらしや、猪毛を植えた髪の毛用のぶらしなんかを、要望に応じて納めてくれるのだ。職人の村はここから川沿いに半日ほどくだったところにあり、ここと似たような風景の、ちんまりとした村だと言っていた。





 昔、祖父から聞いたことがある。

 祖父がまだ小僧だったころにも、同じように黒い天蓋の女がそれを買いにきていたのだそうだ。祖父はどうしてもその女が買った竜之歯たつのはぶらしをどう使うのか知りたくてたまらず、ついあとをつけた。

 それは女が抱えるには重い。私とて持てないことはないが、軽々持ち歩けはしない。女はゆっくりゆっくり、体を左右に揺らしながら、歯ぶらしを抱えて小道を歩く。畑と畑の間を抜けるときに、こわいほど真っ赤な彼岸花が道いっぱいに咲いていたから、それは秋のことだったと思う、と祖父は言っていた。

 女は、そのまま通りを抜けて、お鎮守さまの森に入っていった。祖父はさすがにそこで暗い夜の森に怖気づき、女のあとをつけるのをやめたそうで、結局女が歯ぶらしをどこに運んでいたのかは、わからずじまいだったと笑った。「お鎮守さまが歯ぶらしを使うておられたんかもしらん」と、そういえば祖父は冗談めかして言っていた。





「昨晩な、天蓋てんがいさまが来たよ」


 私たちは、その人のことをいつからか「天蓋てんがいさま」と呼ぶようになった。竜之歯たつのはぶらしだけを買っていくなら「竜之歯たつのはぶらしさま」でも良かろうと小僧のころに思いもしたが、いざ大人になってみれば、商売人がその客を買い物のなかみで呼ぶのは、すこぶる失礼であると知った。かといってもちろん名前がわかるわけでもない。じゃあということで「天蓋てんがいさま」と呼んでいる。


「へえ、また竜之歯たつのはぶらしおひとつ買われていったかい」


 妻は、はたと顔を上げた。腹がふくらんでくるにつれ、顔にもいくぶん肉がついて、丸くなってきた。天蓋てんがいさまは竜之歯たつのはぶらししか買われないのを妻も知ってはいるが、毎度念のためという様子で、妻はこう訊く。


「おん。ほんでいつものように、ゆったりゆったり帰られたわ」


「ほんにまあ、私がここへ嫁いでから毎月のこと。重かろうに」


 妻は竜之歯たつのはぶらしの話をするときには必ず、重かろうに、と言う。ここへ嫁いできて、職人が納めにきた竜之歯たつのはぶらしを初めて受け取って重さに仰天してからずっとだ。天蓋てんがいさまよりもすこし小柄な妻からしたら、それはもう重たいものなのだろう。

 次の月にも、またその次の月にも天蓋てんがいさまは店を訪ねて、竜之歯たつのはぶらしを買っていく。私はもう十年もここで店番をしているが、竜之歯たつのはぶらしをいただけますか、という声色さえ変わらない。天蓋てんがいさま自身が、お鎮守さまなのかもしれん、といつのころか私は思うようになっていた。







 その年の夏、ひと月も止まず続く長雨が村をさいなんだ。稲は雨水うすいに溺れ、畑の土は小川のようになった用水路からどんどんと流れて行ってしまった。私の店にもものが入らなくなった。気づけば店の奥に竜之歯たつのはぶらしだけがぽつねんと有る。長雨の毒にあたってか、妻はもう半月もせっていた。妻だけではない。村じゅうで、若い女や年寄りのあいだに、肺の腐るような病が流行っていた。


「もし」


 とっぷりと暮れた晩のこと。妻の寝汗をぬぐうていたら店先から声がする。雨の音にかき消されざらついてはいたが、それが天蓋てんがいさまの声だとすぐにわかった。


竜之歯たつのはぶらしをいただけますか」


 天蓋てんがいさまは変わらぬ声で言う。その人を前にすると、雨の音がフイと消えて無くなったような気がした。「お客さんかえ」と、店の奥で臥せっている妻が呻くように言う。外の夜の気配が流れてきたせいだろう。「竜之歯たつのはぶらしをお買い求めのお客さんだよ」と、私はなだめるように言う。天蓋てんがいさまは、私と妻のそのようなやりとりに頓着しない様子で、じ、とその場に立ったまま、私が竜之歯たつのはぶらしを出してくるのを待っている。すっぽりかぶった黒の天蓋は、この雨の中を歩いてきたというのに少しも濡れていなかった。やはり神様のたぐいなのであろうな、と私は思った。


「あす、河が溢れますから、正午までに、山へ逃げてくださいませね」


 いつものように竜之歯たつのはぶらしを渡してお代を勘定台に仕舞っていたら、ふいに、天蓋てんがいさまが囁くような声で言った。

 私ははっとして、顔を上げる。天蓋てんがいさまはそれだけ言うと、いつものようにぽっくりぽっくり、暗い道を戻っていった。足を取られるようなぬかるみも水たまりも、天蓋てんがいさまの足元にだけは無いかのごとく、あまりにもいつもと変わらぬ足取りだった。





 村のわきを流れる河が、どうどうと岩を砕くような音を立てて決壊したのは、確かに正午を過ぎてしばらくたってのことだった。


しまいじゃ」

「なんもかんも」

わざわひじゃ」


 年寄りたちは、高台から見下ろしながら震える声でめいめい呟いては、戦慄く。子どもらよりも、よほど年寄りのほうが怯えていた。

 天蓋てんがいさまの言葉も村衆に伝えてあったし、そもそも夜のうちに橋が流されてしまったこともあって、村の人間は朝から高台に逃げており、辛うじて人だけは無事だった。

 子どもらが木に登る。落雷があるからやめろと言うが、聞きもせず、ゆっくりと田畑をむように氾濫していく河を眺めては、やれ大妻屋おおづまやの牛が流されたの、やれ鍵屋かぎやの家が流されたのと騒ぎ立てる。そしてそのうちひとりの子が「アッ!」と悲鳴のような声をあげた。


「――へびじゃ――」

 

 それを聞いた大人たちがわっと崖に寄った。どこじゃ、あそこじゃ、あの先じゃと子どもらが指を指す。そして、それの姿を見た年寄り衆が、がたがたと震えながらその名を叫んだ。


「――水土みづちじゃ」

「ありゃあ水土みづちじゃ――」


 そこの河は、国に名を轟かすおおきな暴れ河の支流である。巨きな河には水土みづちが棲む。水土みづちは長雨と病をもたらし、最後には人里ごと呑んでいく巨きな白い蛇の怪異であった。


 子どもらの指の先を伝って見遣れば、濃緑の山やまの間からもったりともやがなだれ込み、その白い煙の中から悶えるように踊るように噴き出してきたのは、まさしく巨大な白い蛇、水土みづちであった。水土みづちは河のみなもをすべり、昨晩流された橋の残骸や、川べりの鉄柵なんかを砕きながらのたうつ。牛や馬があると見れば、水土みづちはぐわ、と口を開いた。水土みづちは白い蛇である。だがその口の中は、燃える彼岸花よりも赤い。そのままばくりと、いともたやすく家畜を呑む。


水土みづちなんぞ、もう、何代も出ておらんかったのに」


 年寄りが愕然と呟く。水土みづちは父の代にも祖父の代にも、祖父の父の代にも出たことはなかった。だから私たちはどこかで、物語だと思っていた。


 絶えず耳の底を打つ雨音と河の流れる音、それを引き裂くように水土みづちの体が水を割る音が響いている。どうかこのまま河を滑って流れていけと願う。水土みづちが河から上がったら、それこそ終いだ。水土みづちは土ごと、村を食い尽くしていくだろう。だがこのままのたのたと河を滑ってくれれば、悲劇は下流で起きよう。或いは海まで流れてくれれば、水土みづちは海水には耐えないと伝え聞く。


 ドン、と大きな音とともに水土みづちが跳ね上がった。中州の岩に当たったようだった。水を割る音が土を削る音に変わり、岩を砕いて中洲に乗り上げた水土みづちが、跳ねて方向を変えた。


「上がった」と、子どもらが叫んだ。

「おかへ上がった」

「お鎮守さまのほうに、すべってる!」


 年寄りのひとりが、「御神体をお持ちし損ねた」と悲鳴をあげる。「お鎮守さまが食われてしまう」「鍵屋、おまえがこんどの宮司係だったろう、なんで……」「まさか水土みづちが出ると思わんかったんじゃ」今責めたところで詮無い。若いものたちが彼らをなだめるが、そうこうしている間にも、水土みづちは岩石を呑んだ体を引き摺るようにして、田畑を砕きながらお鎮守さまへ向かっていく。


「お鎮守さま、食われてしまうの?」


 子どもらが不安げに尋ねる。彼らも異様な光景に怯え、樹から降りてそれぞれの父母にしがみついた。子どもらのずぶぬれの頭を、母親がぎゅうと胸に抱え込んだ。肺を悪くしている母親は、空咳を繰り返しながら、ずぶぬれの胸に子をかき抱いた。お鎮守さま食われてしまったら、どうなるの? 子どもは、容赦なく問う。

 東のほうの空が一瞬またたいて、白い閃光が走った。水土みづちは遠い雷鳴に悦ぶように、いっそうその身をくねらせる。


「お鎮守さまを食ったら、あれはここに棲むやもしれん」

「あの化け物が、お鎮守さまの森に棲むの?」

「ああ、でも、何もかんもほんとのところはわからん、わからんよ……」


 騒動を静かに見ていた妻が、ふいに烈しく咳込んだ。妻を背に負った私は、慌てて大丈夫か、と声を掛ける。うう、と妻は唸った。その体は、子どもほどに軽い。


水土みづちは大食いじゃ」


 思い出したようにひとりの年寄りが言う。あれはにえをもとめるぞ、そしたら弱っとるもんから、出さねばなるまいと、訳知り顔で妻をちらりと見た。けほ、と妻がまた濁った咳をする。私は妻を隠すように、体の向きを変えた。「うちのは、身重だけん……」、私は小さな声で、言い訳をするように呟いた。雨音がうるさく、年寄りの耳に届いたかどうかはわからぬ。


 とうとう水土みづちが、鎮守の森の周囲に散らばる民家のひとつに、がばりと圧し掛かった。ほとんど同時に、また一筋雷光が空を裂いて、あまりにもまぶしく私たちはそろって目を覆った。


「アッ、」


 若いのの一人が、声を上げた。その声色の示すところの吉凶が読めず、私たちはぞろぞろと若いのの視線の先をたどった。見遣れば、土砂を啜って黒く濁り始めた水土みづちの胴体が、苦しげにびたびたと、ねじれながらのたうっている。のたうつ合間に、水土みづちに食らいつくものが見えた。水土みづちはなんとかそれを払い落とそうと、その手足のない体をくねらせる。水土みづちにかぶりついているのは、ぼうっと光るような長毛の獣だった。降りしきる雨や土砂に、ほんのわずかも汚れず白いままの獣。


「――いぬか?」

「狗ではなかろう、見ろあんなに、巨きい」

「なれば、巨きい狗か」


 私たちは呆けてそれを見つめた。

 山が震えるほどの衝撃が走り、どうやら水土みづちがその尾をいっそう苛烈にたたきつけたらしい。真白ましろの獣は、いったん水土みづちから距離をとった。離れると、それはまさしく巨きな狗であった。その白く、毛の長い、美しい狗の咆哮は地鳴りのごとく、いっそ雨を払うほどの轟音である。水土みづちが一瞬、怯えたように動きを止めた。尾の先がちろちろと揺れていた。気づけば雨は霧雨へと変わっている。


 また地鳴りが響く。狗が唸りながらその白銀の牙を剥き出しにして、水土みづちと鎮守森を挟んで距離を保った。


「お鎮守さまやね……」


 ふいに、妻が呻くように言った。わが村のお鎮守さまは、お狗様であったのやね。妻の声は私にしか聞こえないほどか細いものであったが、やけにはっきりと断定する口調だった。竜之歯たつのはぶらし、竜ではなくお狗様が使っておられたか。妻の声は、少しうれしそうですらあった。


 私ははっとして、獣と水土みづちのほうを見た。獣は、太い後肢で地面をえぐるように蹴り上げると、そして水土みづちの喉から腹にかけてに齧りつく。齧りつく瞬間、白銀の牙がよりいっそう、長く鋭くなった。しっかりと食らいつかれた水土みづちがのたうつ。獣は前肢でもがく水土みづちを押さえると、引き千切るように自身の頭を振った。

 瞬間、千切られた水土みづちの頸から、突風が噴き出した。突風は獣を吹き飛ばし、霧雨を吹き飛ばし、雲を吹き飛ばし、そして濁流を巻き上げていった。流れ星のように吹き飛ばされた獣は、しゅうと強く光って、そして消えた。突風に目をやられた私たちが目を覆っていた手をそっと放すころには、水土みづちのすがたも、氾濫する水も、砕かれて転がる岩も、そしてあの真白の獣の姿もなかった。村ぜんたいに漂っていた、沼のようなにおいも払われ、乾いた空気に、流行り病に臥せっていためいめいの咳も止んだ。お鎮守さまが村を苛むものすべてを払ったのだ。安堵し、さんざめく人びとを後ろにして、私は妻をおぶったまま、あの白く燦爛さんらんとしたお鎮守さまの牙を思い出していた。あの、美しく磨かれたくもりのひとかけらもない牙を。





 恐らく河の流域一帯、水土みづちの行き来する範囲に延々と続いていたのだろう長雨が止んで、店にもぽつぽつとものが入るようになってきた。行商に聞けば、このあたりで流行っていたやっかいな病も、潮の引くように消えていったと。


「ご免ー」


 すっかり気力を取り戻した妻が、店先からかけられた声にはあい、と歌うような調子で返事をして、よたよたと出ていく。いっときは子どものように痩せ細っていた彼女の背中やふくらはぎは、今いくぶんふっくらと肉が戻ってきていた。


「あんれ! どうも!」


 そして妻の素っ頓狂な声に、私もいそいそと店先へ出た。見れば、いつもの竜之歯たつのはぶらしの職人が、それをえっちらおっちら勘定台わきの小上がりに広げるところだった。身重の奥方さんは座っててくれや、と職人は言うが、妻はいったん引っ込んで、そして職人につめたいお茶を出した。


「これな、」


 妻は、こらえきれぬ様子で職人に話しかける。


「たぶんうちのお鎮守さまがお使いになるんですよ」


 なぜかほこらしげにそう言った。職人は、へえ、と目を丸くした。「そいつは、すごい。お鎮守さまを、見たかい。名前通り、竜だったかい」職人は続けて問う。


「いんや、きれいな、真っ白のお狗様」

「お狗様かあ」


 妻は、ほくほくと先日の大水の日のできごとを語りはじめる。長雨と病を連れて、とうとう水土みづちが下ってきたこと。水土みづちが鎮守森に食らいつこうとしたところで、真白のお狗様が現れたこと。お狗様は水土みづちの喉を掻っ切って、大風を吹かせて雨も病も払っていったこと。笑いながら聞いていた職人は、しだいにまじめな顔になっていった。


「なるほどなあ」


 そして、妻が語り終えると、得心した様子で目を閉じる。


「儂の家もな、もうずいぶん長いこと、竜之歯たつのはぶらしをこしらえては、この村へ納めておってな。なんでかは知らん。いつからかも知らん。けどどんな飢饉があってもどんな禍ひがおこっても、竜之歯たつのはぶらしだけは切らしてはならんと言われてきてな」


 職人はそこで、妻が出したお茶をすい、と飲む。長雨が払われてから、すっかりいつも通りの蒸し暑い夏になっていた。職人の汗ばんだ額に、髪の毛が張り付いている。


「奥方さんのお話を聞いて、ようやっとわかった。わが村はここより川下だもん。竜之歯たつのはぶらしを大事にお供えしておれば、いつか禍ひが湧いたさいにも、この村のお鎮守さまが、ぴかぴかの牙でもって払ってくれることを、ご先祖は知っとったんだろうなあ」


 そう言って職人は、その筋張った手で傍らの竜之歯たつのはぶらしを撫でた。妻はそれをにこにこと笑って見ている。「なるほどなあ」と、私はうなずいた。頭の部分だけ薄いたとう紙でくるまれた竜之歯たつのはぶらしは、その褐色の地色にあぶらのにじむかのようなつやをたたえて、ずっしり、でん、とその身を横たえている。







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