番外編 草間仁の場合10 さよなら先生
戸川澪を描く。
それは、予想外の大変さだった。そもそも僕にとって、戸川澪はただの嫉妬の対象でしかなく、興味のない存在だからだ。これは、無理難題だった。
素直でいい子。
嫉妬の感情を外せば戸川は俺にはそんな印象しか持てない。戸川の内面まで思い至ったことがなかった。俺の描く戸川澪に植物たちが絡みつく。わからない。わからない沼にはまって、戸川澪は植物にうずもれてしまう。
部長指名した時の泣きそうな戸川澪を思い出し、その頬に伝うであろう涙を想像して描く。戸川は俺を見つめながら、夢中で筆を動かしている。畜生、負けてはいられない。
こんな美しい「だけ」の絵で勝負が出来るのだろうか。整理出来ない瀬戸際で俺は戸川を見つめていた。
戸川に、俺はどう映っているのだろう。
俺はいつしか自分の絵より、相対する戸川の絵の方が気になっていた。戸川澪の絵が気になる。俺の自画像どうこうもあるが、この一心不乱に描かれる絵が気になる。単純に「絵」というものを愛していた頃の気持ちがよみがえってきた。
描くことが楽しくて、仕方なかった。運動も勉強も物足りない小学生時代に俺が選択したのは絵筆だった。そして、中学校の図書室で見た、清川夕慈の絵に受けた衝撃。
美術部の部室はしんとしている。俺と戸川の制作のために清川先生は部員たちをしめ出してくれていた。
運命の日は明日だ。
俺の目は確実に戸川澪を捉えている。筆を猛烈な勢いで進めていく彼女は燃えるようだ。しかし、俺の絵の中の彼女は泣いている。それはまだ俺の気持ちが泣きたい証拠なのかもしれない。緑色の絵を描くうちに段々と心の中は整理されてきた。
すると、何故か目の前の彼女に対して「頑張れ」という気持ちが湧いてきた。
頑張れ、戸川。
俺なんかに負けるな。
こんなに一生懸命、絵を描く彼女を否定できない。
そして俺は、自分の世界を描ききった。戸川も帰る時間になると静かに筆を置いた。お互いやり切った、という雰囲気が流れていた。完成した絵はお互い見えないように配慮しながら乾燥出来る位置に移動させた。
「先輩」
描いた直後の絵が崩れないように、慎重にキャンバスを調整しながら、戸川が呼びかけてきた。「部長」ではなく「先輩」と。
「私、先輩ともう一度、勝負出来て本当に嬉しいです」
戸川は真っ直ぐで透明で、それでいて芯のある瞳で見つめてきた。やはり、戸川が泣いている絵を描いたのは失敗だ。そう思いながら、俺は頷き返した。
「俺も、嬉しいよ」
素直な気持ちでそう言える。この勝負が無ければ、俺は美術に対する喪失感を抱えたまま美大に行っていただろう。才能のあるやつなんてその場に沢山いる。戸川の能力はすごい。だけど、それもザラだと思う日が来るだろう。
それでも、俺が描く理由は、確かにある。そう思えた。
それは清川先生だけが理由ではない。絵で表現できる素晴らしさは自分にしか分からないという自負だ。
翌日、戸川澪の絵をみた俺は爆笑してしまった。燃え盛る俺の姿がそこには描かれていた。まさに嫉妬の炎を見抜かれたのだ。
そして、俺の予想通り、俺は戸川に僅差で負けた。考えてみれば「戸川が泣く」姿なんて美術部に戸川が入るゴタゴタも含め、皆が想像に易しい範囲のことだったのだ。
ともかく戸川は俺に勝った。そして次期部長は戸川が指名した田代に決まった。俺は「ぜひ、また対決してくれ」なんて戸川に殊勝なことを言ったが、正直、もうまっぴらご免だ。
それから月日は瞬く間に過ぎ、卒業式を終えた俺は相変わらず教員室にいた。
「俺の第二ボタンいりませんか」
そういう俺に清川先生はあきれたように微笑した。
「いらないよ」
まぁ、そうだろう。先生にとって、生徒は次々と過ぎ去っていくものだろう。俺のことなんか、と思いかけたとき清川先生は何故か今までにない優しい笑顔を向けてきた。
「草間仁。お前の名前は覚えておくよ。忘れたらまた、思い出させてくれ」
どういう意味だ、と俺は思ったが清川先生は失った右腕の肩で机に積もった資料をどかし、左手で真新しい絵筆を俺に差し出した。
「俺が忘れないうちに、売れろ。絵だけじゃなくていい。自分の心に絵筆をもて」
俺は無言のまま頷いて、絵筆を受け取った。その瞬間、視界が揺れ、涙があふれた。
「清川先生、ありがとうございました。……先生、さよなら」
震える声でそう言うと、清川先生は立ち上がり、優しく左手で頭を撫でてくれた。完全なる「別れ」だ。俺は、涙を拭うと、教員室を出ようとした。
「仁」
先生が名前で呼んでくれる。本当の最後かもしれない。
「ひねくれるなよ」
表面上は部長として優しげに皆に接したつもりだが、ひねくれてばかりの俺だった。俺は振り返らずに教員室を出た。
さよなら、さよなら先生。
部室では、誰が描きかけたのか、曼荼羅模様のような抽象画のキャンバスが立てかけてあった。発展途上の絵だ。まるで、俺の気持ちを反映しているかのような新鮮さだ。漂う油絵具の匂いを肺一杯に吸い込む。
そして俺は部室から一歩、新しい明日へと歩み出していった。
またたきをとどめて kirinboshi @kirinboshi
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