某氏の帽子

タコ君

本編



 コッコン、という軽い木材を叩く音で僕は椅子から立ち上がり、パソコンでしていた作業を保存した。

「コンサイン、pcのシャットダウンを。」

『承知しました。』

パソコンへ話しかけて、電源を落とした。

「どうぞ」

と、声を出して、古ぼけたようにも見えるチェストの上の帽子を見た。

「失礼します」

髪を特徴的な形のバンドでポニーテールにした女性が、先程僕の声に応じてロックが解けた扉を開けて、部屋に入ってきた。白く白く格段に白い、僕とは似ても似つかない奇麗な手には、「環境に優しい!」とみどりの文字がダンスするビニール袋があった。中には紙クズや生ゴミが入っているらしいが臭いはない。

「ゴミ回収の時間でございます」

「あぁ、ありがとう。指令モードでお願いしてもいいかな?」

「承知いたしました。お申し付け頂ければ、モード変更はいつでも出来ます。」

彼女はそう言うと、部屋の中央に向かい立ち止まった。背中には、[コード:11511587a clean/Δ]と書かれている。

 


 今は西暦で言うと2046年の6月。大きな出来事を上げればCOVID-19…いわゆる新型コロナウイルスが世界で大流行したのがもう26年前であるらしい。スペイン風邪と並べて、大変な疫病であったと教育を受けてきた。

 あの出来事、コロナ禍と呼ばれた大厄災より人々は、より一層のデジタル化だとかAIだとかいろんな事をずぅっと進めて来た。もっとも僕はこの世界の一般市民であり工学ではなく文学部の出なので人並みの知識しかないが。マスメディアが纏めてくれた知識で今日も僕はこの無表情で端的な目の前のアンドロイドの相手をしている。要するに僕には全くこの数年で殆ど人間と見た目が変わらなくなったもんだなぁ、と感心している程度の知識しかないのだ。



「あの、お申し付け頂いても宜しいでしょうか、AIによる自動判断モードでお部屋のゴミや不要品を認識し回収することも可能です、そちらを利用なされますか?」

「あぁ、ごめん。少し考えていただけ。寝室のゴミ箱をとってくるから、君はリビングのゴミと、キッチンの生ゴミをお願い。」

「承知いたしました。」

このマンションに移り住んで来たのはたしか六年前だったと思う。そう、確かに6年前であった。その時はまだこのシステムと寝室のベッドはなく、ゴミ分別を全て自動で行う高性能AIと実家から持ってきたソファがあった、ごっちゃごちゃにしたビニール袋をゴミ棄て場に放置して出掛けて、帰ってきて毛布で身体をくるんでソファで眠る生活を一年はした。寝室の窓から見える『汽空域高速連絡網』という、全国を結ぶ透明なチューブを通り行く『汽空域チューブランナー』という公共交通機関のお陰で、いや、それと雨のせいでしばらく太陽をしっかり見てない事を思い出しつつゴミ箱を持って先程の部屋、リビングに戻る。

「おまたせ~」

「大丈夫です。」

アンドロイドと呼ぶには少々実感が沸かない彼女に、ゴミ箱を預けた。それの中身を、ゴミというゴミが全てマゼコゼになった袋へ放り込んだ。そして口を開いて、ノズルを伸ばした。彼女は消臭スプレーを吐いた。一気にアンドロイド…いや、ロボットという実感が湧いてきた。

「…何か?」

「いや、なんでもないよ。」

「そういえば、コチラはどうなさいますか?」

彼女が指差したのは、チェストの上の帽子だ。

中折れハット、とでも形容すれば良いのだろうか、元はきっと白かったのだろうけれど、汚れが染み付き穴も空いたぼろぼろの帽子だ。

「不要物だと判断いたしました」

「いや。持っていかないで欲しい。」



僕が産まれる一年前、

僕のおじいちゃんは死んだ。

肺がんだったらしい。僕は今24歳、西暦では2022年、オリンピックの一年後に産まれたので、おじいちゃんは2021年に、66歳で、コロナで死んだという事だ。この帽子は、僕のおじいちゃんの帽子のものだったそうである。そしておじいちゃんはこの帽子を、名も知らぬ身なりのいい男が倒れていたのを助けた時に御礼として貰ったと聞いた。

 僕は、そのおじいちゃんの帽子が小さい頃好きで、埃を気にせずに誇り持ってそれを気に入って被っていた。実際幼少期の写真を収納したアルバムには、まだ埃臭そうな灰色をしただけの、いい古ぼけ方をしている頃の帽子が写っている。

 しかし、この帽子は僕にとっては、嬉しい思い出でありつつ、嫌な思い出でもある。

 僕はある時、パッと帽子を被るのをやめた。小学生低学年の頃、この帽子を被って一度学校に行った。僕の学校は、ランドセルの色も、着てくる服も自由だった、時代がそうした。赤いランドセルを背負った男の子が隣の席だった、彼とは仲が良かった。でも、社会には一般がある。一般というラベルシールはやはり青や黒のランドセルを背負った男の子に貼られ、赤いランドセルには貼られなかった。そして、中折れハットにも一般というラベルは貼られなかった。早い話僕らはいじめに合ったのだ。僕はそれが全く忘れられなくて、蹴り殴られ、穴の空いた帽子を被らなくなったのだ。

 


「とは言われましても、私にはゴミには見えないので…残しておくのはあなた様の自由ではありますが、そのような思い出がおありならなお処分を推奨します。」

「棄てられないんだよ…」


僕の目の前にある女性の視界の中には帽子が写っているはずだ、僕は久しぶりに帽子を手に取り被った。

「これは僕の御守りみたいなものでさ、ずっとずっと持ってたんだ。嫌な思い出や、いい思い出も、色々あったけれど、絶対に帽子を捨てて来なかったし、ずっと洗ってこなかった。僕はおじいちゃんの声も匂いも知らないけれど、これがそれを僕に教えてくれているんだ。時空を越えて次第に世代を越えて…ね。」

「私にはわかりません」

アンドロイドはキッパリと言い放った。でも僕はそう言われてスッキリとした気分だ、まるで正月に履き古した小汚い登山靴を履いて、緑豊かな山を登りやっと日の出を拝んだ時に流れていく白風のように晴れ晴れとして清々しかった。

「誰にも分かって貰えなくて十分なんだ。どうせ社会は変わっていかないよ、この帽子が汚れて行くように、ずっと絶えず変化しているように見えて、そうじゃない。これは僕の諦めを認めてくれるんだ。素敵だろう?」

僕の隣の席の赤いランドセルの彼女は死んだ。

自殺だった。

僕は泣いた。誰も彼が彼女であること許してやくれなかった。僕は悔しくて泣けなくていた。その時に僕は学んだ、社会はどうせ変わらない。

「私はそうは思いません。」

彼女はもう一度しっかりとした言葉を僕にぶつけた。

「私はゴミを回収するだけの機械ですが、密かに夢を持ちました。皆さまの身の回りが美しくあることが私はとても嬉しく感じました。だから私は、皆さまの笑顔を見ることが夢なのです。ちっぽけではあるかも知れませんが、機械の私でも夢を持ったのです。私のように、人々の思考を越えたロボットはシンギュラリティを起こしたと見なされるのが一般的でした。ですが、今は違います。どうでしょう、時代が変わり、捉え方が変わっています、社会は変わっています。」

「じゃあ、僕の産まれるよりずっと昔から言われてたLGBTのあの子は何故死んだんだよ?なんで昨日のニュースで黒人が白人警官に撃たれて死んだんだ?僕が産まれた時と何も変わってやいない!二十年前の東京オリンピックの時代と何にも変わって無いじゃないか!」

 僕は泣いた。涙が自然に溢れて止まらないのだ。僕は忘れられなくて泣いたんだ。

「…すまない、声を荒げて。君に言ってもしょうがないよな、機械だからな。」

「いえ。ここは完全防音ですので。」

「…。ありがとう、ゴミはもうない。また木曜日頼むよ。」

「承知しました。大変失礼いたしました。」


ため息を溢しながら、中折れハットを被って、自分を鏡で見てみた。案外似合って見えた。けれど、そのあと急にバカらしくて仕方なく感じた。乗っていた白く誇りの帽子が急に農道にへばりついた犬の糞に見えてきたのだ。

「少し、出掛けよう。」

僕はさっき流した涙をシャツの袖で拭って、家の外に出た。

地球の街と何ら変わらないコンクリートで出来た死の砂漠は、火星の雨で茶色く濁っていたようだが、分厚い雲の隙間から太陽が見えたので安心した。

「たまには月…いや、思いきって東京に遊びにいってもいいか、えぇーと確かここで良し、と。」

僕は汽空域高速連絡網の火の星拠点駅を目指して歩きだした。

ここは火星の、日本の領域。火の星拠点という。

確かに社会は、いや世界は確かに変わったかもしれないな、と思いながらあの帽子を道端に捨てた。可愛らしいマスコット的な飛行ロボが瞬時に、獲物をとらうカラスのように帽子を何処かへ持っていった。


きっと、燃えて何かに変わるのだろう。

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