第36話「誰よりも大切な人」

「よお、お帰りー。一体、何しとったん?」

「君の事を探してたんだよ。話は付いたから、ここでしばらく留守番をしててくれ。遅くとも、明日の昼には帰ってくる」

「かまへんよー。ここにはマタタビもようさんあるし、ユキと違って、あの子はいい奴やからなー」

「あの子? ソラさんの事かい?」

「そう、ソラ! ボク、一応は逃げたんやけど、あの子、マタタビで誘惑しよるんよ。おかげであっさり捕まってもーたわ!」

「それでか……」


 僕はちょっと呆れてしまった。いくらマタタビに誘われたとはいえ、初対面の女性に捕まるとは、ボンクラにもほどがある。


「だってボク、マタタビをキメるの久しぶりやったから……。赤瀬川さんは、別のコナしかくれへんし」

「いや多分、そのコナの方が、マタタビよりも何百倍も値が張ると思いますけどね」

「そうなん? でもボク、この粉の方がええわー」


 赤瀬川さんも滅茶苦茶するなあと、僕は思った。「人に何かあげる時は、自分が一番大切に思うものをあげるんだよ」というのが彼の口癖で、そんなピュアな彼の事が僕は結構好きなのだが、多分、愛情をはき違えてると思う。


*『片隅に生きる人々』は健全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。


「ソラはええ奴やでー。約束通りマタタビようさんくれたしなー」

「マタタビなら、この辺にいくらでも生えてるからね」


 振り向くと、事務所の入り口にソラさんが立っていた。


「全力さんって、その猫の事でしょ? まだ若いのに、すっごいテプテプだね」

「ちがうで、ソラ! これは冬毛!」

「冬毛じゃない、お肉。完全にお肉。お医者さんも言ってましたー」


 僕は思わずツッコミを入れてしまった。


「なんて言ってたの?」と、ソラさんが僕に尋ねる。


「毛かなー、お肉かなー。毛かなー、お肉かなー。うーん、お肉だねーって……」

「そっか。お医者さんも本当は、毛って言ってあげたかったんだね……」


 ソラさんは可哀想なものを見る目で、全力さんを眺めていた。


「キミら、お医者さんとボクとどっちを信じるん!? 愛っていうのは、信じるって事やで! 愛を失ったら、人間はもう人間やないんやで!」

「お医者さん」

「お医者さん」


 ソラさんとハモってしまった。


「……っていうか、もうとっくに春だよね」

「にゃーん」

「今更、可愛く鳴いてもダメ!」(x2)


 再びハモるソラさんと僕。僕はこの時になってはじめて、ようやくこの場の違和感に気づいた。全力さんがしゃべってるのに、なんでこの子は平気な顔をしてるんだろう?


「あのー……。どうしてソラさん、普通になじんでるの?」

「いやまあ、ボクも最初は、自分の目と耳を疑いましたけどね……」


 ソラさんは小さくため息をついた後に、こう続けた。


「事務所に着くなり、ボクの目の前でマタタビを吸引しはじめて、『マタタビよこせー! マタタビよこせー!』って大騒ぎしてるこの子を見てたら、なんかもう、色々諦めたっていうか……」

「ええんや……。ボクはもう、コイツさえあればどうでもええんや……」


 マタタビを両手いっぱいに抱え込みながら、吸引を繰り返す全力さん。その目は完全に、薬物中毒者のそれだった。ヤクザ屋さんの事務所で、何度も見たことのある目だ。猫として完全に終わってる。


「まあ、誰もいないはずの後部座席から声が聞こえた時点で、なんか変だなーとは思ってたんだけどね」

「まあ、そうですよね」


 苦笑するより他なかった。全力さんをこんなダメ猫にしたのは、他ならぬ赤瀬川さんと僕自身だ。こんなダメな全力さんを、ダメなまま受け入れてくれるソラさんの優しさに、僕は心から感謝した。


「ところで、賭けは僕の勝ちだよね? 約束通り十円貰おうかな」

「どうぞ」


 僕は素直に十円紙幣を一枚差し出した。これで所持金は百九十円だ。まあ、元々ソラさんに借りたお金だけれども。


「僕のホームで賭けに乗って来るなんて、アケミさんも博才がないなあ……。ボクに箱を預けて正解だよ」

「面目ないです」


 勝負事は最初が肝心だというのに、あっさりと負けてしまった。しかし、さっきのツッコミといい、僕を簡単に嵌める頭の良さといい、この子はもしかして、DJ君のご先祖様かなんかじゃないだろうか……。


「あのー、ところで全力さんの事なんですが……」

「なんだい?」

「事情を話すと、とっても長くなるんですが、人畜無害だと思いますので、生暖かい目で見てもらえると助かります。というか、何でこの子が急にしゃべりだしたのか、僕にもよく分からないんです」

「大丈夫だよ。ボクはこれでも技術者エンジニアだからね。理屈に合わないからといって、目の前の現実を否定することはしないよ」

「まあ、実際にしゃべってるものを否定しても仕方ないしなあ……」

「そうそう。それに僕は、発明家でもある」

「発明家?」


 ソラさんの父が、沢山の失敗を繰り返した末に、計量器を開発した発明家であることは既に聞いたが、彼女にも何か発明品があるのだろうか?


「まずは現実を受け入れる。それから原因と結果を考えて、修正すべきものは修正し、世の中をもっと良くするためのキカイを生み出す。それがボクたちの仕事さ」

「素晴らしいね。でも、マタタビ中毒のデブ猫なんか研究して、何か役に立つかなあ……」

「もう十分、役に立ってるじゃないか」

「何に?」

「君の精神こころの安定に。全力さんと一緒にいる時、君はとても楽しそうに見えるよ。違うかい?」


 そういって、ソラさんはいたずらっぽく笑った。


「違わないね」と、僕は答えた。照れくさくて、なんだかちょっと泣きそうだった。


「じゃあ、行ってくる。全力さんの事を、くれぐれもよろしく頼むよ」

「わかった。まあこの調子なら、そのうちぶっ倒れて寝ちゃうだろう。マタタビに依存性はないから、安心していいよ」

「それは良かった」

「見通しは立ってるのかい?」

「いや、何も……。でも僕は、角栄の事なら大体知ってるから、彼に会うことさえ出来れば、事態は良い方向に進むと思う」

「そうか。上手くいくことを祈ってるよ」


 そう言って、ソラさんは左手を軽く振った。真っ白な作業服ツナギにメガネをかけた色気のない女の子だけど、その笑顔はとても素敵だと思った。彼女の右手には、僕の渡したカセットコンロが、しっかりと抱え込まれていた。


 これが、この世界での僕の相方となるソラとの最初の出会い――


 僕はこの後、彼女の力を借り、七十四年前のこの世界で様々な事業と相場に挑むことになる。この時はまさか、この小さな少女が、DJ君をも超える大切な存在になるなんて思いもしなかった。


 僕はこの世界で、数々の政治家や相場師たちとの出会いと別れを経験した。けれども全てが終わった今、いつも懐かしく思い返すのは、やっぱり、ユキとソラという、二人の少女との思い出だ。


 ユキさんが、何故僕を箱の所有者に選んだのか? 

 全力さんの正体は、一体何なのか?

 僕とソラが、この世界でどんな結末を迎えるのか?


 それを語るのは、まだまだ先の話だ。だけど、ユキさんと僕の今の関係がどうあれ、あの箱が『人生を変える箱』であることに嘘偽りはなかった。そのことだけは、僕は本当に感謝してる。


 だって、ユキさんがあの箱を送ってくれたからこそ、僕はこの世界でソラと出会い、師匠とも再会して、自分の人生をやり直すことが出来たのだから。


(続く)

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