第17話「第三の選択」

「資本注入が結果的に二社だけにとどまったことは、師匠のアイデアが正しかったことを物語っています。だが、行動が適切でも、それが人の心に響かなければ意味がない。角栄はそのことを知り抜いていたからこそ、その日のうちに会見を開き、何度も何度も、『無担保・無期限』であることを強調したんでしょう」

「ああ、そうだな」

「つまり、師匠のアイデアと、角栄の行動力がこの国を救ったんです。二人はいわば、第二次高度経済成長の産みの親だ」


 僕は力を込めてそう言った。だが、赤瀬川さんは僕のその言葉に興奮することもなく、静かにこう答えた。


「確かにそれは、俺たちだけが知る歴史の真実だ。だがな、アケミ。俺たちは所詮、この世界の片隅に生きる人間だ。世界の真ん中で生きてる堅気より、偉いと思っちゃいけない」

「どういうことですか?」

「お前が兄貴の事を書くのはいい。だがそれは、あくまでも『物語フィクション』ということにしておけ。もし兄貴が生きてたら、あの人もきっとそういうはずだ」

「何故ですか? この件については、僕は何も嘘をついてないですよ」


 僕がそういうと、赤瀬川さんは諭すようにこう言った。


「いいか、アケミ。日銀特融の奇跡は、兄貴が死ぬまで支え続けた田中角栄の偉業なんだ。あれは本当に、日本が恐慌に陥るか否かの瀬戸際だった。もしあの時山一が倒産して、取り付け騒ぎが連鎖していたら、お前の言う通り日本の高度経済成長はあそこで終わってたよ」

「だから僕は、その事実を世に知らしめようと……」

「逆だ、アケミ。その偉業の少なくとも半分が、ヤクザ絡みの人間のおかげだと証明されたらどうなる?」

「えっ?」

「真実がどうであろうと、日銀特融は、『ヤクザを儲けさせるための、角栄の私的な働きかけだった』と世間から見なされるだろう。もしそんなことになったら、俺はあの世で、兄貴に顔向けできねえよ」

「……」


 長い長い沈黙が続いた。師匠が法的には堅気にも関わらず、決して表に出ようとしなかったことは、僕もよく知っていた。全ては田中派に迷惑をかけないためだ。


「赤瀬川さんの気持ちは理解できます。でも、角栄が亡くなって、もう三十年近く経つんですよ? 関係者の大半が生きていた当時ならともかく、今それを公にしたからって、被害を被る人間は誰もいません」

「だからこそ、だ。俺とお前が口をふさいだままこの世から消えれば、角栄の偉業は伝説になる。角栄をもう一度男にすることが、兄貴の夢だった。その夢を壊す権利は、俺たちにはない」


 赤瀬川さんは、そう切って捨てた。


「歴史というものは、真実であることを意味しないし、真実である必要性もないってことですか?」

「その通りだ。力ある者に語られたことが歴史となり、伝説となる。お前はヤクザじゃないが、かといって堅気でもない。色んな意味で、兄貴と同じだ」


 赤瀬川さんは少し間を開けた後、こう続けた。


「お前は、暗闇の中に輝く一凛の花だ。日の当たる場所に出るべきじゃないんだよ」

「……片隅に生きる人々のために生きろ、という事ですか?」

「そうだ。ロッキード事件も、あと数年もすれば、全ての公文書が公となり、角栄を嵌めるための陰謀だったことが証明されるだろう。命の取り返しは付かないが、歴史の取り返しは付くんだ。暴くべき真実と、葬ったままの方が良い真実があると、俺は思う」


 そう語る赤瀬川さんの目には強い意志を感じた。師匠の義兄弟である彼の気持ちは、僕だって十分に理解できる。ここは一旦、引くしかないだろう。


「分かりました。納得はいきませんが、赤瀬川さんの言うとおりにします。この作品をこのまま、世に問う事はしません。『親の言う事には絶対に逆らうな』と言うのが、師匠の口癖でしたからね」

「そうだ、それでいい。どうせなら、もっと面白おかしく書いてやれ。その方が、余計な腹を探られずに済む」


 そう言って赤瀬川さんは、僕の手から『片隅に生きる人々』の原稿をひったくった。


「フィクションとしてなら、楽しく読ませてもらうよ。悪いがこれから大事な会合があるんだ。夜には体が空くから、久しぶりに酒でも飲もう。まずは、久しぶりにまさかどと遊んでやれよ」


 そう言って、赤瀬川さんはどこかに行ってしまった。



「うーん、なんか釈然としないなあ……」


 主人のいなくなった事務所で、僕はそう独り言ちた。少なくとも、赤瀬川さんだけは、僕の考えを喜んでくれると思っていたからだ。まあいい。赤瀬川さんは、作品そのものを否定してる訳じゃない。それを、「真実ドキュメンタリー」として、世に問うことに反対しているだけだ。


 手持無沙汰になった僕は、ソファーで眠る全力さんを両手で抱え上げた。全力さんは熟睡してるのか、まったく反応を示さない。僕は額にアゴ髭をグリグリとこすりつけながら、もう半年以上も声を聞いてないユキさんに向かって、こう語りかけた。


「ねえ、ユキさん。とりあえず、僕は最初の一歩を踏み出したよ。赤瀬川さんは僕のやることに反対みたいだけど、多分、これでいいんだよね」

「いいんじゃないですか?」

「へっ?」


 それは間違いなく、僕がテストを受けたあの日に車内で聞いた、ユキさんの声そのものだった。


「私はこう見えて結構忙しいんですよ。貴方が正しいと思う事を、これからもやり続けてください。貴方が道を誤った時には、貴方の心の中の師匠と同じく、ちゃんと叱りに行きますから」


 予想外にユキさんとつながって、僕は狼狽した。だが、全力さんが熟睡してる今の状態なら、ユキさんとのやり取りに支障はないはずだ。僕は自分の動揺を悟られぬよう、努めて冷静な口ぶりでこういった。


「実はね、剣乃さんの事を書いてみたんだけど、赤瀬川さんはそれを真実として世に問うことに反対みたいなんだ。それでちょっと、君の見解を聞いてみたいと思って……」


 僕は今日の赤瀬川さんとのやり取りと、ここ半年ちょっとに起こったことを、全て猫のユキさんに話した。


「なるほど。それは、一理ありますね」


 話を聞き終えたユキさんは、僕にそういった。


「そうかい? 僕は、赤瀬川さんだけは、賛成してくれると思ってた。勿論、僕だってこんな話が素直に受け入れられるとは思っていない。だけど、この作品を読んだ人の何人かが、『そういう事もあったかもな』って思ってくれればそれでいいんだ」

「何故ですか?」

「僕の目的は【種を撒く】ことにあるからさ。何十年かかってもいい。剣乃さんが角栄の盟友であり、美学を持った相場師であったことが、人口に膾炙されればそれでいいんだ」

「確認ですが、赤瀬川さんは、フィクションとして書くことには反対してないんですよね?」

「うん。だけど、『この物語はフィクションです』と言って書くのと、『事実を着想を得た物語です』と言って書くのとでは、読み手の受け取り方が違うよ。僕は小説きょこうではなく、ドキュメンタリーを創りたいんだ。じゃなきゃ、書く意味がない」

「剣乃さんの一番の偉業ともいえる真実を、自分から嘘だとは言いたくない、と……」

「その通りだ」

「貴方の言いたい事は、大体理解しました」


 猫のユキさんはそう答え、しばらく黙った。


「まあともかく、その作品を読んでみましょう。コピーは勿論、取ってありますよね?」

「ああ……」


 僕はカバンの中から、『片隅に生きる人々』のコピーを取り出し、机の上に置いた。赤瀬川さんの許可が得られれば、片っ端から、出版社に送り付けてみる積りだったからだ。猫のユキさんは机の上に飛び乗って、さっそく一ページ目を読みだした。


「めくって貰えますか?」

「えっ?」

「私、こんな手なので」と言って、猫のユキさんは両手をプラプラさせた。


「ああ、ごめんごめん」


 僕はユキさんの指示に従って、原稿をめくったり、戻したりという事を何百回も繰り返した。第一部である日銀特融の話は、四百字詰め原稿用紙換算で百枚程度の作品だ。そこで止めたのは、あまり長すぎると、誰にも読んで貰えないだろうと考えたからだった。


「とても良く出来ていると思います。少なくとも、貴方の剣乃さんへの思いは伝わりますよ」


 原稿を読み終えたユキさんは、そう言った。だが、良く出来ているという言葉は、「作者の主張がちゃんと伝わること」を意味する言葉であって、必ずしも主張に賛成する事を意味しない。案の定、それに続く彼女の言葉は、僕の期待したものではなかった。


「ですが私も、この作品を世に問う事には反対です」

「どうして?」

「角栄や剣乃さんが、本当にこの国の将来を思って特融を成したとしても、それを証明することは不可能だからです。この件に係った全ての人物が、この事については何も書き残していません」

「それはそうだけど……」

「第三者が調べて明らかになることは、剣乃さんと、北誠会会長・村岡健司の金が、角栄に流れたことだけでしょう」


 それは僕も懸念していたことだった。唯一の希望は、当事者の一人であり、今も存命する赤瀬川さんの存在だった。だからこそ、僕は彼に作品を見せたのだが、彼はこの物語を真実ドキュメンタリーとして世に問うことには反対している。


 それはやはり物証がないか、あったとしても世間がその信ぴょう性を信じるには、不十分だからだろう。真実が角栄の業績に多少の影を落とすことになったとしても、師匠の名を上げる行為に対して、彼が本気で反対するとは思えない。


「やるならやはり、最初からフィクションとして書くべきでしょうね。それならば、物語を真に受ける人間はいませんし、角栄の日銀特融という偉業が汚されることもなくなります。しかし……」

「しかし?」

「貴方の思いを叶え、赤瀬川さんの懸念を晴らす方法が一つだけあります」

「どんな方法だい?」

「忘れてしまいましたか。あの箱は所有者に権力を持たらす箱ですよ?」

「あっ……」

「力ある者に語られたことが歴史となり、伝説となる。赤瀬川さん自身が、そう言ってるじゃないですか」


 あの箱は今も車に積んであるが、今となっては単なる荷物入れになってしまっていた。


「君は僕に、この世界での権力者になれって言うのかい?」

「そうは言っていません。箱の力を使えば、赤瀬川さんに不義理をすることなく、貴方の願いが叶うかもしれないと言っているだけです」

「話が良く見えないな。箱の力って、結局、何なのさ?」

「とうとう、それを語る日が来たようですね。貴方が突然いなくなるものだから、随分と待たされましたよ」


 そういって、猫のユキさんはニヤリと笑った。


「あの箱は、所有者の望む世界線に貴方を飛ばすことが出来ます。つまり、貴方が本気でそれを望むなら、昭和四十年五月二十八日の日本に行くことだって可能だという事です」

「なんだって!?」

「証拠も証人もいないなら、貴方自身がそれになればいいんですよ」


(続く)

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