四話

 「う、ああアあぁ──!!!!!」

 焼けるような痛み。腕の一部が無くなったかと思うほどの痛さ。何もかもが赤く見える。自分が絶叫しているのかどうかさえよくわからない。口の中が甘い気がするな……。いや、甘くない、これは鉄の味だ。喉がひりついて焼かれている。焼かれたことはないけど焼かれているみたいに痛いんだ! そう、腕の一部が無くなったかと思うほどの痛さ! あれ、さっきもそう思った?

「今日のところはここで終わりにしましょう……フフ、あなたは親孝行ね。〈マザー〉はきっと喜んでくれるわ」

「離せ!! 僕を離せ!! 痛い! もう嫌だこんなところいっそのこと殺してよ!!」

 僕は乱暴な言葉を吐き出しながら、めちゃくちゃに暴れて鎖を引っ張った。息さえも暴れて僕の胸を掻き回す。全速力で走ったみたいに喘ぎながら、僕は蒼玉を睨み付けた。

「そんな怖い顔しなくても、明日も来るからね」

「来るな!! 死んじゃえ!! みんな死んじゃえ!!」

 頭のなかに真っ黒な線がぐるぐると描かれている。ここのところずっと、そんなふうに頭がはっきりしない。

「乱暴なことを言うと自分に返ってきますよ。ね? 明日はあなたのお母様が来るわ。今日はおやすみなさい」

 マザー。母親の顔が浮かんで、焦燥感にかられる。僕は慌てて蒼玉を引き留めた。

「待って!! 明日はいつ?? 今は夜なの? 昼? 朝? 僕が来てからどのくらいが経ったの!?」

 蒼玉は無表情で僕を見つめた。

「今は夜。そうね……詳しくは言えないけれど、あなたが来てから一月くらい」

「ヒトツキ?」

 蒼玉は頷いた。自分から尋ねたのに「ヒトツキ」の意味がよくわからなくて困った。

「そうだ、何か欲しいものはある? 今日だけ好きなものひとつ与えてもいいって〈マザー〉が仰ったから」

 蒼玉はのっぺらぼうなのかもしれない。それくらい、無表情を崩さない。なんだか怖くなって、欲しいものはたくさんあったはずなのに何も思い付かなくなってしまった。でもこのチャンスをみすみす逃したくはなかった。

「みず……」

 口をついて出てきた言葉は、まさに今言うべきもののような気がした。だから僕ははっとして何度も繰り返した。

「みず、水、水」

「そう何回も言わなくても聞こえてる。持ってくるわ」

 蒼玉は部屋を出ていった。一人残された僕は、頭を振って一生懸命黒いもやを振り払おうとした。だがそれは白シャツについた墨と同じく、どうしても剥がれてくれない。??? 僕ってなんだ? 何かとても大切なことを忘れている気がする。大切な親友の顔はちゃんと思い出せる。いつも僕に優しくて、僕が心から信じられる、大好きなウルフさん。大切なものなんて、それくらいなのに、他にもある気がする。何かわからない。自分の斧かとも思ったが、何だか違う気がした。物じゃなくて、人のはず。

 蒼玉が水筒を抱えて戻ってきた。それを一旦地面に置くと、僕の手錠をいじくり回して、自由に水が飲めるくらいには鎖を伸ばしてくれた。

 僕は鎖をじゃらじゃら言わせながら、水筒に手を伸ばした。が、その自分の腕を見て驚愕する。わかっていたことではあったけれど、やっぱりびっくりしてしまった。鱗が剥がされて、ピンク色の真皮が覗いている。血が滲んでいて、ところどころ赤黒くかさぶたが貼り付いてひどい有様になっていた。潰された小指は歪んだまま回復する途中だ。爪も何本か折れて、乾燥した血がこびりついている。僕は尻尾を体の前に持ってきた。そう変わらない状態である。ギザギザの刃でぶった切られ、小指と同様に潰された場所が不自然に曲がっている。体のあちこちの傷は炎症を起こして膿んでいたが、痛覚もろとも触覚まで鈍っているせいでそう気にならなかった。

 僕は水筒を引き寄せ、力の入らない腕で蓋を回した。幸い、蓋は緩められていたので苦労せずに開けることができた。中身をゆっくり傾けて飲むと、叫びすぎて傷んだ喉に冷たい水が優しく染み渡る。が、妙な違和感がして、僕は首を傾げた。水筒の中身をじっと見つめて、それからどきりとしてそれを投げ捨てた。液体が地面にじわりと広がる。

「どうしたの?」

 僕は蒼玉をぎっと睨み付けた。

「毒を入れたな? それとも悪い薬……」

 僕はとたんにめまいを感じて、飲んだ水を全て吐き戻した。げほげほと咳き込むと、蒼玉が背中をさする。僕はその手を振り払って怒鳴った。

「僕がわからないと思ったのか!? 僕に毒を盛ったってバレないと!? 今度は何をするつもりなの!?」

「毒なんて入れていないわ。ただの水よ」

「嘘だ! 変な味がしたんだ!」

「本当に入れていない! 嫌ならもう飲まなくていいわ。勝手にして」

 蒼玉は転がった水筒を引ったくるように拾い上げると、棚に乱暴に置いて再び部屋を出ていった。僕は息を荒くしたままその後ろ姿に目を光らせていた。口に残った嫌な味を唾と共にぷっと吐き出すと、壁にもたれて一番楽な姿勢をとった。

 水を口にしたせいで、忘れていた空腹が蘇ってきた。食事は恐らく一日に一回、それも味が無くて栄養も無さそうな代物を雀の涙ほどだけ。恐ろしく不味いものだったが、それでも僕は貪るように食べた。空腹と寝るに寝られないこと、まどろんでも悪夢ばかり見ることも拷問だった。

 良いことなんてひとつも無い、ゴミみたいな環境。ああ、僕はどうしてこんなところにいるのだろう。

 薄暗い、静かな空間に一人。僕は今、かなり眠りやすい状況だということに気がついた。たまに僕が眠らないよう、内側に鋭いとげの付いた首輪を付けられることもあった。しゃんと顔を上げていればそのとげは刺さらないが、少しでも居眠りしようものなら首にとげが食い込んだ痛みで目が覚める。そのせいで一睡もできないまま、蒼玉にまた酷いことをされるのだ。しかし今はそんなものもなく、しかもやろうと思えば横になって寝られる。僕は床に全てを預けて目を閉じた。悪夢を見るだろう、また自分の悲鳴で目が覚めることになるだろうとわかりきっていたけれど、睡魔には勝てない。

 瞬きくらい短い間とも、何世紀とも感じれるくらい長い間とも取れる時間、僕はそうして横たわっていた。何だか変だな、と思って目を開ける。

 横になっていたはずが、何故か僕は立っていた。しかも、僕がいるのは薄暗い拷問部屋じゃなく、真っ暗で、しかもとてつもなく広い場所だった。

 驚いて僕は前に進もうとした。しかし足は全く動かない。まるでそこだけ僕じゃないみたいだ。けれどもあまり恐怖も焦りも感じなかった。むしろずっとそこに動かず突っ立ったままでもいいとさえ思った。しばらく僕は、ぼんやり暗闇を見つめた。

 ふいに僕の耳はぴちゃぴちゃと水を蹴る音を捉えた。誰かがこっちにやってくる。心臓が荒々しく打ち始めた。しかし、暗闇に目を凝らして見えたのは、蒼玉やマザーの顔ではなく、とても懐かしい、そして温かい人の顔だった。

 「ヒロくん……」

 暗闇の中から龍人が姿を現した。夜と朝の境目のような青い瞳に、うらやましく思うほど綺麗な緑の鱗。陽気な優しい表情は、忘れ去っていた自分の少年時代の思い出と変わらない。当時で、たった一人、僕を忌み嫌わなかった人。叔父のように慕っていた人。でも僕は、会いたくなかった、という気がしていた。

「久しぶりだね、フーマ」

 懐かしい話し方。彼はふっと笑った。僕は悲しくなってうつむいた。

「どうして目を逸らすんだい?」

 傷ついた顔が僕の心を抉るようだった。すでに何度も抉られ、それこそ、この身体のようにぼろぼろなんだけれど。僕は思いきって視線を戻した。

「ヒロくん。ヒロくんは、人間じゃないんでしょ」

 意図せず責め立てるような言い方になって、僕は自分で驚いてしまった。しかし彼は、ただ僕をじっと見つめていた。

「ヒロくんは、龍神なんでしょ」

 言ってから怖くなって、再びうつむいて目を逸らした。初めて気付いたが、足もとにどこからか水がちょろちょろと流れてきている。

「ごめんな、フーマ。隠してて……。お前の言う通り、俺は龍神だよ」

 聞きたくなかった。僕は耳に手のひらを当て、目をつむった。彼は龍神だった。ならばもうひとつ、訊かなければならないことがあったはずだ。それを必死で思い出そうとする。自分の頭の中の棚を手前から順々に開けていく。芋づる式に出てくると思っていたせいで、何を疑っていたか思い出せない。しばらく感覚を遮断して、薄々感じていたことを思い出した。僕は再び悲しくなった。訊きたくないことだった。

 いつのまにか龍神が目の前にいた。僕の反応を見て誤解したのだろう。謝罪の言葉を繰り返している。

「ヒロくん、もうひとつ、訊いてもいい?」

 僕の口調があまりにはっきりしていて、あまりにも普段通りだったためか、彼はえっ、と呟き、痛いくらいの視線を送ってきた。僕は言葉に詰まりながら、やっとのことで言った。

「僕は、〈龍神の使〉なの?」

 龍神は澄んだ青い目を凍りつかせた。静寂と暗闇が支配するこの空間では、どちらかが動いていないと時が止まったように感じられる。今度は目を逸らさなかった。長い長い見つめ合いのあと、龍神が声を震わせて言った。

「どこで、それを知ったんだ。〈龍神の使〉の存在を」

 僕は目を細めた。

「本……『魔術的側面から見る世界』、『龍王国神話と歴史』、『革命』。それから、信用できるかわからないけど、他人の話。案外簡単に僕は知識を手に入れられた……古書店でたまたま見かけた本から知ったけれど、調べればたぶん、もっと資料は見つかる」

 龍神は呆然としている。僕は一旦言葉を切って、目を閉じた。龍神の反応からして、質問には肯定しか返ってこないだろう。それでも、信じたくはなかった。僕はただの人間だと──少しばかり特殊な経歴を持つだけで、それ以外は普通の人間だと信じていたかった。

「俺はフーマのことを見くびっていた」

 龍神は呼気を震わせる。同じように、僕はわずかばかりの息をしていた。闇が闇らしく重量感をもって迫ってくる。

「お前しかいなかった。〈龍神の使〉として役目を果たしてくれる者は。どうしようもなかったんだ。許してくれ」

 めまいがした。見えない大きな手で、頭からぎゅっと押さえつけられたように、僕はがっくりとうなだれた。足ががくがくと震えて立っていられなくなり、その場にしゃがみこんだ。

「フーマ、だからといってそんなに気に病む必要はないよ、お前に責任はないのだから」

 慌てた声がうずくまった僕の肩を抱く。吐き気がした。息が苦しくなって、何度吸っても一向に楽にならない。口中に溜まった唾液が落ちて足元の水と混ざる。龍神が僕の背中をさすりながら何か言っている。僕はその手を払おうとしたが、地面に手をついたまま動けない。この手を離すと地面に伏してしまいそうだった。

 という存在は、始めから必要の無いものだったのだ。僕の感情も希望も楽しみも性格も思考も未来も過去も全て、有ろうが無かろうが、生まれようが失おうが、どうだってよいものだったのだ。僕の苦しみは全て意図されたものだった。僕はこの龍神の操り人形だったのだ。手駒だったのだ。道具だったのだ。

 心に淀む怒りでさえ、僕のものじゃなかったのだ。

 

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