三章 殺された希望

一話

 俺はリビングのカレンダーを眺めていた。もうすぐ自分の誕生日である。そして隊長と言葉を交わさなくなってから、かれこれ一ヶ月である。

 隊長が特段何か嫌がらせをしてくる訳ではなかった。俺もただ話しかけないだけで、隊長の服だけ洗濯しない、みたいなことはしなかった。お互い言葉を交わさなくなった。それだけだったが、同じ部屋にいるときの緊張感は焦燥を掻き立てた。他のメンバーは俺たちが仲違いしたことを察していたが、誰も何も言ってこなかった。

 隊長と話さなくなってしまったが、ウルフはよく話しかけてくれるようになった。これは大きな進歩だった。


 水の月の終わりごろ、白鷺は保育士の仕事に戻るべくこの家を出ていった。出発する前日、外のベンチで彼は俺に言った。

「僕のこと、怖がってますか」

 あまりにも単刀直入に訊いてくるものだから、俺は驚いて「なんで?」と訊き返してしまった。

「僕、よく怖がられてしまうんです。外見的にも内面的にも。でも僕が仲間の誰かを手にかけることはまず無いので、誤解してほしくないんです」

 普段は人の目を気にしていなさそうなフワフワした白鷺が真面目な顔をしていた。俺は自分の行動を振り返って、白鷺を避けるようなことをしていなかったかどうか考えた。特に心当たりはない。

「俺、何かしたか? 自分ではわからないからダメなところは言ってほしい」

「あ、すみません、言い方が悪かったですね。イツキさんに何か問題があったとかじゃなくて、単純に訊きたかっただけです」

 白鷺は優しく笑った。俺は頭を掻いた。

「怖い……かもしれない」

 正直に言うと、白鷺はくすり、と小さく吹き出した。俺が頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると彼は

「同じ質問をした人はだいたい『優しいから怖いとは思っていない』って言うんですよ」と話した。俺はぎこちなく笑った。

「なんでさ、初めから人格障がいだってこと、言わなかったんだ?」

「そうですね……特に言う必要もタイミングも無かったからですね」

 白鷺は静かに言った。俺がキョトンとしていると、彼はうーんとうなって前屈みになり、腕を組んだ。

「僕がそういう障がいを持っていることを言うと、どうしてもその場の空気が神妙になってしまいます。神妙になっても構わないときって、僕の別人格が姿を現したときしかないじゃないですか。まあ、要するに説明せざるを得ない状況じゃないと。でも普段は人格が交代することは無いんですよ」

 端整な顔に皺を寄せて彼は言う。俺は慌てて謝った。

「そうだよな、自分から言い出すのってなかなか勇気がいるよな。ごめん」

 今度は白鷺がキョトンとする番だった。彼は慌てる俺を見て、ふわりと笑った。

「そんなに謝らなくても。僕にも、いつか黒狐さんあたりが代わりに言ってくれるだろうって、甘んじていたところがあったので」

 実際そうなったんですけどね、と彼は呟くと、にこりと笑って先に部屋に戻ってしまったのだった。

 俺はリビングのソファに腰かけた。自分が白鷺に言ったことを反芻する。「自分から言い出すのって勇気がいるよな」。俺にもわかっているはずなのに、なんで隊長にはあんなに辛く当たってしまったんだろうか。後悔で胸がきゅっと痛くなる。でも謝りたくはなかった。

 悶々としているとどんどん苦しくなる気がして、俺はソファから腰を浮かした。けれども結局手持ちぶさたでまたソファに座る。部屋に戻ってもきっと同じように悩むのはわかっていたから、戻る気力は湧かない。

 無性に誰かと話したい気分だった。でも誰かの部屋に突撃するのも気が引けた。誰かリビングに来ないかな、と期待しながら数セア待ったが、誰も部屋から出てくる気配は無い。

 冷蔵庫からお茶を取り出して何杯か飲んだ。しかし気分は晴れない。冷蔵庫を閉めたときふと、電話が目に飛び込んできた。

 そうだ、電話をかけよう。

 俺は迷わず覚えていた番号にダイヤルを回した。何も考えていなかった。無意識にかけた電話番号は、受話器を耳に当ててから誰のものか気付いた。

「もしもし? 誰?」

 アヤメの明るい声が耳に心地よかった。俺はちょっとまごつきながら、でも嬉しくてさっきまでの暗い気持ちが消えていくのを感じながら応えた。

「俺だよ。イツキ」

「あ、やっほー! 元気? どうかした?」

 思わずにやけてしまう。何の話をするかなんて、もちろん考えていなかったけど、こうして話せるなら何でもいい。

「暇だなーって思って、何となくかけてみた」

「そうなの? 私も今、すごく退屈してたの。そういえば、電話で話すのって初めてよね?」

「うん。なかなか電話できるような環境にならないから。みんな騒がしくて」

 アヤメが受話器の向こうでクスクス笑う。

「それは大変ね! フーマがわざとおっきい音で椅子引いたりしそう」

「あー……」

 隊長、と聞いて俺は思わず微妙な反応をしてしまった。それが向こうにも伝わってしまい、アヤメが少し声音を変えて訊いてきた。

「フーマと何かあったの?」

 俺は言おうか言わまいか迷った。本当は妥協して謝ってしまえばいいところを、俺の妙なプライドのせいでそれができずにいる。アヤメに心配かけたくないな、と思ったけど、ついつい正直に言ってしまった。

「ちょっと、喧嘩しちゃって」

「そうなんだ……」

 アヤメは黙ってしまう。やっぱり秘密にしてたほうが良かったな、と唇を噛み締めた。しばらくの後、アヤメがやっと口を開いた。

「でもフーマ、よく色んな人と喧嘩してるから、あんまり珍しくないよ。すぐに仲直りできるよ、きっと! 気に病まないで」

 慰めの言葉は生憎にも俺の心を余計に締め付けた。本当にまた気負いせず話せるようになるんだろうか。アヤメの励ましに応えられるんだろうか。

 俺はこの家を出ていかずにいられるだろうか。

 非があるのは俺や隊長だけじゃない。こんなこと考えたくもなくて、あえて目を背けてきたけど、やっぱりちゃんと向き合うべきなんだろう。

「なぁ、あのさ、すごく言いにくいんだけど」

「何? 何でも言って」

 一瞬で言おうと思っていたことが散らばる。少なからず緊張しているんだろう。

「隊長のことを嗅ぎ回るのは、やめにしないか?」

 ようやく組み立てた言葉に、自分でも落胆する。アヤメが唾を飲み込む気配がした。再び沈黙が訪れて、時計の針の音がうるさいほど聞こえた。

「隊長にバレてたんだ。それもあって揉めちゃったし」

 言いながら俺は少しずつ自分の本音がわかり始めた。そう、俺たちが妙な推理をやめなければ、隊長にちゃんと謝ることはできない。謝るべきなのは、ひどい言葉を言ってしまったことよりも、俺たちが隊長を疑ってこそこそやっていたことなのだから。

「ごめんな」

 声が掠れた。俺はぎゅっと目をつむる。アヤメを失望させてしまっただろう。最低だ。二人の人間の信頼を裏切ることになるのだから。俺は後先考えない、自己中心的な男だ。どうか、誰か嗤ってくれ。それでも剣士か? って。

「謝らないで」

 強い口調でアヤメが言った。俺ははっと目を見開いた。もっと暗くて沈んだ声を予想していた。

「元はと言えば私が巻き込んだようなものだから、私の方こそ謝らなくちゃ。本当にごめんね。私が余計なことに手を出すから……」

 俺はしばらくじっと聞いていたが、いつのまにか首を横に振っていた。謝ることなんてない。アヤメが謝ったら、俺はもっと最低な男になるじゃないか。

「あ、あ、あのさ……ちょっと話変わるけど……これだけは言いたいんだけど……」

 アヤメが少し上ずった声でどもりながら呟いた。

「どうした?」

 俺は電話をぐっと耳に押し当てて、できる限り柔らかく言った。

「本当は……」

 アヤメが何か言おうとして、大きく息を吸った。そのとき、

「緊急事態、ただちに大広間へ集合せよ」

けたたましい警笛がぐわんぐわんと鳴り響いた。俺は顔を思いっきりしかめて耳から電話を離した。顔一個分の間があっても警笛は聞こえている。

「何が……」

「ごめん、ちょっと離れるね! あ、できたらこのまま切らないで!」

 さっきまでとはまた違う、裏返った声でアヤメは言った。そのまま場違いに明るい保留音が流れる。俺は受話器を左手に持ち変えた。受話器から伸びる渦巻く線を弄びながら、横目で電話を睨み、ひたすらアヤメが戻ってくるのを待った。

 保留音を十回も二十回も繰り返して、ようやくアヤメが戻ってきた。今度は彼女は冷静に言った。

「研究施設が襲撃された。フーマ……ウルフでもいい、リーダーに替わって」

 俺はぎょっとして頷き、放り出すように受話器を台の上に置いてリビングを飛び出した。階段を上りながら、ウルフの部屋に行こうと思っている自分に気付く。それは逃げだ、と厳しい自分の声が囁いた。ほんの少し、ウルフの部屋に視線を滑らせてから、結局隊長の部屋のドアを開けた。ノックなど忘れていた。隊長は絵を描いていたようで、突然入ってきた俺に驚いて椅子から転げ落ちそうになっていた。普段なら笑っていたところだ。

 彼は怒ったような不満げな目つきで睨んできたが、俺の尋常じゃない慌てぶりを見て少し表情を和らげた。

「本部が……本部から、とにかく電話!」

 俺が指で階下を示しながら早口で言った。隊長はすぐさまパレットを床に置いて立ちあがり、俺の横をすり抜けた。すれ違いざま、隊長は俺の目を見て力強く頷いた。

 俺は焦燥に駆られながら、次にウルフの部屋の扉を叩いた。返事も聞かずに扉を開ける。ウルフはうとうとしていたが、俺の説明を聞いてしゃっきりと背筋を伸ばした。

「ありがとう。お前は準備をしてくれ。あと黒狐と涼子にも知らせて……」

「聞こえてたぜ」

 黒狐が俺の肩をポンと叩いた。俺は飛び上がって後ろを振り返る。黒狐だけじゃなく、涼子までいた。

「イツキの声が大きすぎてね」

「……話が早い。黒狐は車の準備を」

「ラジャー」

 二本指で謎のサインを送ると、黒狐はさっさと階段を下りていった。

「私は着替えてくる」

「じゃあ、着替え終わったら俺と研究施設の資料を探してくれ」

「ラジャー」

 涼子は黒狐と同じ仕草をすると、部屋に戻った。ウルフがひげを震わせて笑う。

「俺も着替える」

「そうしてくれ。それと、俺の武器を車に積んでおいてくれないか」

「わかった」

 俺はこくりと首を縦に振って、自分の部屋に戻った。深緑色の戦闘服に腕を通し、ベルトをきつく締める。これを着るだけで気持ちが切り替わる。ずいぶんこっちの世界に染まってしまったものだ。

 俺は言われた通り、武器を積み込んで先に車に乗っておいた。続々と隊員たちが準備を済ませて乗り込んでくる。最後に隊長が助手席に座って、十五番隊は出発した。

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