四話
凍てつくような寒さの中、俺は野菜を洗っていた。
「何でこんなことしてるんだろう……」
雪の月、冬もそろそろ終わりだとは言え、こんな朝早くだと氷の月と同じくらい冷え込む。夜明け直前の空は冷たく澄みわたっている。たらいの中の水が、俺を凍らせようとしていた。
「イツキくん、手際いいね。でも、もっとちゃんと泥を落とさないと」
隊長がさらに根菜を持ってくる。それらは木々に囲まれた畑で育ったものだ。
「黒狐さん、ずっとサボり」
隊長が腰に手を当てて怒る。ベンチに寝転がっている黒狐は「俺は食べなくても生きられるしー」と返した。ホームレス時代──つい一週間前であるが──を思うと、その体質が心底うらやましい。
「何で畑なんて作ってあるんだよ」
俺は小声で文句を言った。家の横の開けた土地に、作物の植わったうねが並んでいる。そこそこ広いので、木々に囲まれていても日の光は届いている。
「わざわざ食べ物のために毎日山を下ったりするの嫌だからね」
聞こえていたのか、隊長が言った。
「でも、これだけじゃ足りなくないか? 主食の米は植えてないみたいだし。それに……」
俺は隊長を見た。
「お前、すごい食べるじゃん」
隊長はキラリと目を輝かせた。俺がここに来て、一番驚いたのが、この龍人の大食漢ぶりである。少年のように線が細く、幼い顔なのでとてもそんな風には見えなかった。
「フフ……ここだけで賄ってるわけじゃないよ。……よし、今日はここまででいいや。お手伝いありがとう」
俺が最後に洗い終わった野菜を、きれいなかごに入れると、隊長は泥水が残るたらいを取り上げた。
「まだ残ってるぞ。洗わなくていいの?」
俺が収穫用のかごを指差そうとすると、突然隊長は泥水をバッシャーンとベンチに向けて撒いた。
「うわああ!? な、何すんだ!」
黒狐が飛び起きて、怒りのこもった目線を隊長に向けた。しかし隊長も、怒りを込めた目で黒狐を睨めつけた。
「今まで手伝ってたのに、イツキくんが来たらサボり!? 暇だって嘆いてるわりに!」
俺は突然怒り出す隊長に驚きながら、心の中で「そうだそうだ」と応援する。黒狐は「わかった、わかったって! 残りは俺がやるから!」と隊長をなだめた。すると隊長は、けろっといつもの調子に戻り、「じゃあよろしくねぇ」ときれいな野菜のかごを持って家に入った。俺もそのあとに続いた。黒狐は幸いにも、濡れずにすんだようだ。すれ違い様に小言を言っているのが聞こえた。
家に入って俺はホッとする。暖炉の前を占領してかじかんだ指をあたためた。そのまま寝てしまいそうになって、はっと身を起こす。隊長が朝食の準備を始めていた。何だか静かで、心地いい。
卵が焼ける、いい匂いが漂ってくる頃、全員がリビングに集まっていた。寝癖をつけた狼が、涼子に「朝、何か騒がしくなかったか?」と話しかけている。涼子は「気のせいじゃないの」と答えていたが、俺にはわかる。隊長と黒狐だろう。
「ねぇ、調味料間違えたから、適当になっちゃった。不味かったらごめん」
隊長が野菜スープを持ってきた。とは言えどうせうまい。もともとどこで何をしていたのか、ちょっと気になるところだ。ふわふわの卵焼きに、胡椒の効いた野菜スープ。味噌が切れてたとかで、急遽味噌汁から変更したらしい。でもどういうわけか変な味になったりせず、うまい。
「なぁ、隊長って誰に料理を教わったの」
食べ終わって片付けを始めたとき、俺は試しに訊いてみた。すると意外な答えが返ってきた。
「ウルフさんだよ。ここに来て、まだ二人だったときに、暇だったからいろいろ頑張ってみたの」
「へえ。てっきりどっかで料理人の修行でもしたのかと思ってた。すげえな、天才じゃねえか」
俺が純粋に驚くと、隊長は「えへへ」と照れた。
「ウルフさんは、料理するのは好きじゃないらしいし、ほら、背が高すぎてコンロの上の棚に頭ぶつけるんだって」
なるほど、確かにあの狼男が料理をするには、このキッチンは狭い。隊長みたいに小柄だとちょうどいいけど。
「僕、料理は好きだしね。……あ、イツキくん、お昼から何か用事ある?」
「何もないけど?」
隊長はぱっと笑顔になった。
「え、じゃあ一緒にゲームしよう!」
つい昨日、暇をもて余した俺と隊長はテレビゲームに熱中した。ゲームなんて五年ぶりだった。俺たちはレースゲームをした。隊長はきっと俺よりも長くやっているのに、初めてそのレースゲームをする俺に何回も負けていた。俺が強いんじゃなく、隊長が驚くほど弱いだけだ。
俺が「いいよ」と言おうとしたが、楽しみは遮られた。
「隊長、昼からテレビを使いたいんだが」
ウルフが頼みにきた。
「長いんだ、この映画。夜に見たら、寝られなくなるから」
ウルフはホラー映画っぽいパッケージのDVDを持っていた。この一週間でわかったのは、この狼は映画が好きだということだ。そして、案外ホラーが苦手だということも。「だったら観なきゃいいじゃん」とも思ったけれど、観たくなってしまう気持ちがわからないでもない。
「しょうがないなぁ……。今日だけね」
隊長が残念そうな顔で言う。そして俺に「中止」と呟いた。俺もちょっとがっかりしたけど、別のことを思いだした。
「そういや、俺と隊長が会ったときの、あの任務の話は? 調べるとかなんとかいってたじゃん。『桜』が関わってるんだろ」
隊長は皿を洗う手を止めた。
「ああ、それがね、思った通りなんだ。僕はあの人が『桜』の関係者だって考えてたでしょ。『桜』からしたら、イツキくんだって一応敵だからね、僕ら『秋桜』に殺させたかったんじゃないの」
「自分で殺せばいいじゃん。『桜』だって暗殺業者なんだろ」
「自分とこの暗殺者じゃ危険だからだよ。もしイツキくんがすっごく強い人だったら、殺されるかもしれない。だからわざわざ僕らに殺らせたんだよ。どっちが死んでも『桜』からしたらお得ってわけ」
俺はなるほど、とうなずいた。もし隊長じゃなかったら、殺されていたのかもしれない。殺されてなくとも、またずっと追われる羽目になっていた。隊長は意外に頭が切れるのかと思うと、
「本部に連絡したら、会長がそう言ってたんだ」
と付け加えた。
「で、あの杉村さんは、『桜』の事務員じゃないかって。捕まえて連れてきたら良かったのにって言われたよ。でもあの時点では一般人の可能性だってあったし、そんなことできるわけないよねぇ」
苦笑いして隊長は皿洗いに戻った。俺は隣で洗い終わった食器を乾かすため、きれいに並べる。俺のこの家での役割は、いまだにちゃんと決まらない。だからほぼ雑用係だった。
「ねぇ、僕思い付いたんだけど」
皿洗いが終わると、隊長が口を開いた。
「どうせヒマなら……ちょっと探検に行こうよ。僕ね、知ってるの。景色がよく見えるところ」
彼はニカッと笑った。
「それは探検って言わなくないか? 知ってるのなら」
「山をもうちょっと登って行ったら、開けた場所があってね、そこから見えるんだよ。すごいの。そこに行くまでずっと森だから、探検なの」
よくわからないが、誘いに乗ろうと思った。ガキみたいだけど、探検と聞くとちょっとわくわくする。なんだか、隊長が子どもみたいだから、最近俺まで影響されてる気がする。
昼になるまで、俺はマンガを読んで過ごした。涼子から借りたものだ。涼子の部屋にはやたらたくさんのマンガがあった。美人で大人な感じだから、部屋に入らせてもらってかなり驚いた。オタクだ。
俺に趣味はあった。ゲームするのも、マンガを読むのも好きだけど、俺が一番好きなことは、剣術の練習をすることだった。学生のときは、学校から帰ったら、すぐに道場に行って練習していた。剣術はじいちゃんに教えてもらった。面倒くさくなるときもあったけど、友達もいた。
だけど全部失った。
「イツキくん、行こうよ」
隊長に呼ばれて、俺はハッと飛び起きた。昼ご飯を食べて、リビングのソファに座ったら、そのまま寝ていたらしい。
「おう」
俺は上着を着ると、外に出た。朝よりはマシだけど、やっぱりまだ寒い。目が覚める。
「寒いね。でもこういう時は、空気が澄んでるね」
隊長がスキップをするように歩く。
「今年は冬が長引きそうだね。きっと、まだ雪が降るよ」
「そうか? いつも通りだと思うけど」
二人は木々の中を歩いた。靴の裏から、やわらかい土の感触が伝わってくる。じいちゃんと体力づくりに登った山を思い出した。
──あの山、けっこう高かったな。
俺が懐かしさに包まれていると、不意に隊長が立ち止まった。
「これ、スズダケって言う、食べれるきのこ」
木の根元に、丸いきのこが生えている。
「へぇ、よく知ってるな」
「きのこ嫌いだけど」
隊長は肩をすくめた。そういえば料理にきのこが入っているのを見たことがないような。
薄暗い森の中を進んでいく。隊長は時おり立ち止まっては植物の名前を勝手に教えてくれた。ついでにその植物の話を始める。それに関しては物知りだった。平気で虫も触っていた。虫が苦手な俺は毎回十歩ほど引目に見ていたけれど。
しばらくすると、足元が砂利になり、目の前に川が出てきた。魚が泳いでいるのが見えるほど、深く澄んでいる。夏に入ったら気持ち良さそうだ。
「この川から水を引っ張ってるんだよ。上流までたどっていくと、村があるんだ。『秋桜』の人たちがいっぱい住んでる」
「そんな村があるのか。よく世間にバレないな」
「自給自足だからね。僕らもそこに色々買いに行ったりしてるんだよ。家の近くに舗装道路があるでしょ。あれを使っても行ける」
「そうなのか。じゃあ、何でそこに住まないの? 今の家じゃ、なにかと不便な気もするけど」
一瞬、森の音だけになった。
「まぁ、いろいろ理由はあるんだけど……ただ、僕があの家を――十五番隊基地って呼んだりするけど、気に入ってるっていうのが一番かなぁ……」
さっきまでの、生き物を語っていたときより歯切れの悪い解答だった。透明な川の水面に、首を傾けた俺が映る。
俺たちは川沿いに上流へ向かった。どんどん傾斜が急になってくる。俺はすぐに息を切らしたが、隊長は少しも疲れた様子を見せなかった。むしろ元気になっていく。俺を気遣ってなのか、ただそうしたいだけなのか、彼は見つけた生物を語った。好きなものの楽しさを大人に伝える子供のように、目をキラキラ輝かせながら。
そろそろ夕方かな、というころ、崖が現れた。ゴツゴツした岩壁に、ヒビがいくつも入っていて、ところどころ穴が空いている。苔むした段差を使えば、なんとか上まで登っていけそうだ。
「ここを登るんだけど、イツキくん、大丈夫?」
「さあ。山登りで、だいぶ体力奪われた。行けないこともないけど」
本当はもう疲れたので帰りたい。けれど隊長は容赦なく「じゃあ行こうか。ここまで来たんだし」と岩壁を登り始めた。しばらく俺はその場で休憩して、それから隊長の後を追った。
隊長はやすやすと乗り越えていくけれど、岩壁を登るのはかなりきつかった。苔のせいで足が滑る。今にも崩れてしまいそうな出っ張りに足をかけ、手を着きながら段差を登っていった。落ちないように気を付けるだけで精一杯だった。
隊長の手を借りて、てっぺんに降り立つと、そこには草原が広がっていた。風が吹いてそよそよと雑草が揺れる。空が薄い藍色になっている。振り返って見ると、沈みかけた夕日が空を朱く染めて燃えていた。下にははるか遠くまで緑が続いて、地平線の間近に少しだけ街が見えた。それも全て、オレンジ色に輝いて、ゆらゆらと揺れた。
「ね、キレイでしょ?」
隊長がニッと笑う。その笑顔も赤く照らされる。
「ここまで来た甲斐はあるな」
太陽が沈んでいくのがわかる。ゆっくりと後ろから夜闇が迫ってくる。
「僕ね……夕方が好きなんだ」
俺は地面に腰をおろした。疲れた足が楽になった。
「なんでかわかんないけど……夕方になると、気分が乗るというか、なんでも出来そうな気がするんだ」
「ふつーは、なんか切なくなるんじゃないの」
言ってから、ああ、そうかと思った。
「夜型なんだな、お前」
俺も笑った。
「ときおり、こうやって夕日をみながら思うんだ」
そして彼はぽつりと呟いた。僕はこのままでいいのかな。
「どういう意味だ?」
隊長は首を振って、「なんでもないや」と言った。
腑に落ちない。隊長はよくわからないことばかりだ。
「なあ」
隊長が振り返る。
「お前って何で暗殺業なんかやってるの」
真っ黒な目が俺をじっと見つめた。何でも呑み込む闇だ。沈黙が訪れて、冷たい風が吹いた。しばらくそのままだった。隊長がふと口を開いた。
「……滅ぼすため」
彼らしくない、感情のない声だった。まるで空っぽ。ゾッとするのは北風のせいばがりじゃなかった。隊長はおもむろに視線を夕日に戻した。
「今夜は、雪が降るねぇ」
いつもの間延びした口調で隊長は言った。太陽はもう半分しか見えない。隊長の表情も半分しか見えない。
「帰ろうか」
俺はうなずいて立ち上がった。さっきのは何だったのだろう。
「こんどは山降りるのか。もう十分だ」
俺が口を尖らせて言うと、隊長は「アハハ」と苦笑いする。
「登りよりは楽だと思うよ?」
「まぁな」
隊長は崖を降り始めた。早く帰らないと、真っ暗になってしまう。
もう一度だけ、俺は夕日を眺めた。地平線が赤く縁取られる。
夕日がキレイなら、翌日は晴れ。
ふと、昔からの言い伝えを思い出した。たしか、これにはちゃんとした根拠があったはず。
どうして隊長は雪が降ると言ったのだろう。
――滅ぼすって、何を?
隊長はすでに崖の下にいる。
俺は急いで、岩壁を下り始めた。
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