愛の尻拭い

ロッキン神経痛

愛の尻拭い

 深夜のコンビニバイトが終わった帰り道。

 スマホの電池が切れてしまいボーっと歩きながら何の気なしに電柱を数えながら歩いていると、13本目の電柱の側で黒猫が横切るのが見えた。

「おおっ」

 思わず声が出る。俺は無類の猫好きなので、ちょっと早歩きになってその後ろ姿を追った。

「猫ちゃーん、猫ちゃん!」

 黒猫は真っ暗な道沿いをとてとてと歩いていき、ブロック塀の上にぴょんと飛び乗って見えなくなってしまった。

「あーあ」

 野良猫は警戒心が強いから仕方ない。でも帰り道に猫を見たので少し元気が出た。鼻歌を歌っちゃったりなんかしつつ、そのまま自宅アパートに帰って、スマホにコードを挿す。ピコンと小さい音が鳴って画面が光る。ライン通知を機械的に消す。

 俺は面倒くさがりなので、連絡が来てもほとんど返さない。今日も未読通知の数が三桁に到達しているのを確認し、テレビを付けてくだらない深夜番組を見ていると今度は着信が入ってきた。

「くそ、時間考えろよな……」

 出るのがだるいから放っておく。

 その後も何度か着信が入ってくる。うざいけどブロックするのもだるい。ぶっちゃけ言うとやり方が分からない。もはやググるのもだるい。こんな俺の性格を分かってる癖に、毎日諦めずに連絡してくることには驚いている。

 その内に深夜番組が終わったけど、案の定内容はほとんど覚えていなかった。全然眠気がこないのでストロングゼロを開けて、床に適当に置いてある漫画を読み始める。明日は授業もないし、バイトは夜からだ。焦る必要なんてどこにもない。結局最後はスマホでまとめサイトを読みながら寝落ちする。多分朝の4時くらい。あ、歯磨きすんの忘れてた。


 翌日昼の3時くらいに起きて、ベッドの上でだらだらして、シャワー浴びてバイトへ行くと、早速店長に呼び出された。ここんところ話の内容はいつも同じだ。つまり今日も仕事に関係のない説教を受けることになる。

 適当に返事を返していたら、どんどん怒りのボルテージが上がって大変だった。このおっさんは事情も知らないで若者の人間関係に積極的に口出しするタイプらしい。だるい、もうこのバイト辞めようかな。

 その日のバイト後の帰り道、また黒猫を見かける。

 とは言っても今日も後ろ姿だけだ。ここらへんを寝床にしているんだろうか。猫らしい俊敏な動きで俺から遠ざかっていく。

 今度缶詰か、ちゅーるでも買ってやろう。

 野良猫に餌をあげちゃいけないのは何となく分かっているけれど、俺の中の溢れる猫愛が俺をそそのかしてくるから仕方がない。

 次こそ猫を撫でてやるぞと意気込んで帰ると、自宅付近で突然誰かに背後から話しかけられて思わず声が出る。振り返ると街灯の下に女が立っていた。

「……そんな怯えないでよ」

 柚美だった。

「いや、びびらせんじゃねえよ」

「ごめん」

 柚美はこんな風によく謝る女だった。バイト先の後輩で、向こうから告白されて2ヶ月間付き合ったけど、色々あって先月別れた。つまりは元カノだ。

 別れる時も柚美はごめんとひたすらに謝っていたっけ。ただ謝れば良いと思っているところが苦手だった。

「顔、見たくって」

「いや、俺たちもう別れたから」

「ごめん、でも……もう一回、もう一回やり直せない?」

「はあ? ありえねーだろ!」

「ごめん……ごめん……」

 口ごもってばかりいるので、だるくなってそのまま無視して自宅に帰る。しばらく部屋の外にあいつが居る気配はあったけど、相手をする気になんてなれなくてそのまま寝ることにする。つか、別れた後で家の前まで来るのってストーカーじゃね? やっぱ警察に相談した方が良いんだろうか。警察署に行って、事情を話して、それから……想像するだけでだるいな。止めておこう。

 ちょうど眠くなってきたので寝る。朝起きたら柚美からラインの通知が来ていた。ため息を吐きながら「ごめんね」から始まる長文を読む。

「いやマジで無理だから、もう一生連絡してこないで」

 一言だけ返して、ここでやっと気力を振り絞ってラインのブロックの方法を調べる。想像以上に簡単だった。こんなことならもっと早くやっとけば良かった。


 それから数日間は本当に平和だった。

 あれから柚美に会うこともなかったし、ラインをブロックしたから連絡が来ることもない。平和な毎日を過ごしているある日、バイトに行くと店長から呼び出され、突然「お前みたいなクズはもう来なくて良い!」と言われてクビになった。

 血管をブチブチ言わせながら激怒する店長に、必至に事情を聞いてみると、店長は実は柚美の遠縁の親戚だったらしい。なるほど、あのウザ絡みも納得だ。


 何を言っても「昨日柚美ちゃんから話は聞いた」の一点張りで、どうせ俺の立場なんて分かっちゃくれないだろうし、バイトも辞めようと思ってたところだ。

 むしろクビになってラッキーだと自分に言い聞かせる。

 しばらく生活が厳しくなるかもしれないけど、まあ実家に連絡すれば大丈夫だろう。出世払いという名の無利子借金をすればいい。

 で、そのまま家に帰る途中、病院のブロック塀に背中を向けている例の黒猫を見かけた。

「あっ猫ちゃ〜ん、俺クビになっちゃったよ〜ぴえん」

 なんて話しかけると、いつもはすたすた逃げていくはずの猫がそのままの姿勢でじっと固まっている。

「え、マジか! 優しいんだね〜」

 ブロック塀の上、少しずんぐりとした体で丸まっている黒猫に近づく。尻尾は見当たらない。いわゆるマンクスって種類の猫だろう。ふわふわの毛並みを撫でると頭を向こうに下げたまま嬉しそうに震えている。腰から背中、そして頭へ手をやると、手の平にぬちゃりと湿った感覚がした。

「は?」

 ゆっくりと黒猫が振り返ると、頭のあるべきところに何もなかった。

 代わりにすっぱりと切り落とされたような肉の断面に、小さな眼球が一つ。その下に人間そっくりの鼻と歯並びの悪い大きな口を持った”何か”がこちらを振り返った。

「うわあ……あ……」

 本当に驚いた時は声が出ない。とっさに動かした足には力が入らず、俺は無様にその場に倒れた。

「おんぎゃああああっおんぎゃああああ」

 黒猫だと、なぜ思っていたのだろうか。

 猫とは姿形が似ても似つかないそれは、身体中にびっしり生えた真っ黒な産毛を逆立たせ、赤子のような声で泣いていた。

 仰向けで倒れた俺を見たそれは、ブロック塀から飛び降りて俺の胸元まで、とてとてと俺の身体のあちこちに不気味な顔を擦り付けながらハイハイの姿勢で近づいてくる。

「ひゃ……ひゃああ……!」

「おんぎゃああっおんぎゃああああ」

 半濁して飛び出た目玉が、俺の顔の目の前まできたところまでは覚えている。次に目が覚めた時、俺は自室のベッドの上に居た。

「はあ……夢……」

 ほっと息を吐く。しかしその安らぎは数秒と保たなかった。顔を横に向けると、昨日飲んだストロングゼロの空き缶がいつの間にか片付いていた。読みかけの漫画は棚にしまわれ、適当に脱ぎ捨てた服が綺麗に畳んであった。そして、台所から鼻歌が聞こえてきた。

「あ、トモくん起きたー?」

 柚美だ。

「どうしてここに居るんだよ」

「もうすぐご飯出来るからねー」

 鍋に入れたおたまをかき混ぜながら、返事になっていない返事をする。

「おい! おい! 何してんだよ! これ!」

「だってぇ……」

 柚美が振り向いて笑う。髪の毛も肌もガサガサだった。

「こうしないとトモくん逃げちゃうでしょ」

 俺の両手両足は、ベッドにきつく縛られていた。路上を無理矢理ひきずられたのか、腰から下が擦り傷だらけで痛い。

「助けてくれ! 誰か!」

 思わず叫んだのが良くなかった。柚美は飛びかかるように俺の上に乗りかかって俺の口を塞いだ。胸が苦しくて息が出来なくなる。

「おんぎゃあああっおんぎゃあああ」

 声がした方を向くと、例の一つ目の化け物が俺のベッドの上で仰向けになって泣いている。柚美がそれを愛しそうに見つめて、

「ほら、リューキ。この人があなたのパパだよ」

 訳の分からないことを呟いている。

「トモくんも名前呼んであげて。私たちの赤ちゃん、龍に喜びって書いて龍喜にしたの。トモくん男の子が好きだって前に言ってたから」

「ふ、ふざけんなっ」

 やっと戻ってきた呼吸で何とかそれだけ口にする。

「トモくんはもうパパなんだから、これからは真面目に生活しなきゃだめだよ」

 真顔で俺の顔を覗き込んでくる。口元もほとんど動いていない。

「何がどうなったら俺とお前に子供が出来るんだよ!!」

 俺と柚美はセックスをする前に別れていた。

 別れたのは他でもない柚美の浮気が原因だ。彼女の部屋のベッドの上で腰を振る、柚美と元カレらしき男を見てしまったことは俺の人生で指折りのトラウマになっている。

 真面目そうな見た目に反して実は相当に遊んでいることで有名だったのを知ったのはつい最近のこと。あれだけのことをしておきながら別れたくないと言った彼女が、俺との関係であることないことを周囲に吹聴しているのにも薄々気づいていた。しかし、まさかこんな。

「ねえ、この子、堕ろしたの、そこの斜め向かいの産婦人科で、堕ろした。だから、だからこれからはっ、一緒にいられるから」

「自分が何言ってるのか分かってねえだろ? 頼むよ、冷静になって……っ」

 柚美は俺の首に両手をかけた。

「ごめん、堕ろしてみたら、この子がパパに会いたいって、ごめん」

「なん、で、俺……いや、だ……」

「ごめん、私はトモくんが一番、なの、パパにするなら、トモくんって決めてた。ずっと、ずっと、一緒だから、ね? 三人一緒だから」

 柚美はごめんごめんと謝りながら、ぎゅうぎゅうと俺の首を絞めた。顔に血が昇って、自分のベロが何倍にも膨らんだような感覚がした。

 あまりにも息苦しくて、早く終わってくれとさえ思ったけれど、残念ながら死んでも息苦しさは変わらなかった。

 死んだ後も俺は息苦しいままベッドの上にいた。

 柚美は俺を殺した後、台所で二人分の味噌汁とご飯をよそい、冷凍のハンバーグをチンしてからローテーブルに置いた。そして事前に用意していたらしいロープをトイレのドアノブにくくりつけて、

「よいしょ」

 腰を浮かせた状態で首を吊り、二度三度痙攣してから死んだ。

「おんぎゃあああっおんぎゃあああ」

 龍喜は全身を震わせて泣き続けていた。

 俺の助けを呼ぶ声は、ちゃんとこのアパートの住人に伝わってたらしく、1時間もしないうちに警察が大家を連れてやってきた。大家は俺たちを見て泣き崩れた。その後も代わる代わる色んな人がやってきては、俺と柚美に手を合わせた。

 俺の両親が来た時は目もあてられなかった。生き地獄っていうのはああいうのを言うんだろうな。

 やがて俺と柚美の身体は死体袋に入れられて部屋から運ばれていった。

 それを見送る俺と柚美と龍喜はこの部屋に残った。

 何日も何年も、この部屋に残った。

「ごめん、ごめんね、一緒、ごめんね」

 柚美は首を吊った姿勢のまま、時々思い出したように痙攣し、宙に向かって謝り続けている。日に日に全身が黒ずんで人としての輪郭は曖昧に。どうやら得体の知れない何かに変わりつつあるみたいだ。

 俺は、今日も相変わらず息苦しいまま天井を見つめている。あの日から眠ることはおろか、休むことすら出来ない。

 最初は柚美への恨みや、周囲に誤解を受けたまま死んだことへの後悔もあった。

 でも今は、ただ楽になりたい。

 もちろん、今後も二度とこの部屋から出ることはないのだから無理だということも理解している。せめて手足が自由なまま死ねたなら、少しは気も紛れただろうに。

「まんま、まんま」

 龍喜は最近言葉を話し始めた。

 居住者の若い男は時々その声を聞いては怯えている。きっと今度も長くは保たないだろう。

「ぱぱ、まま」

 永遠に続く人生で、今はこの子の成長だけが唯一の楽しみだ。




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