おにぎり

ととむん・まむぬーん

おにぎり

 それは九〇年代初頭、まだバブルの香りが残っている頃のことだった。景気がいい日本で稼ごうと諸外国から労働者が集まってくる。当時私が従事していた建築工事現場もそのご多聞に漏れず、多くの外国人労働者が親方の指示の下、各自の業務に勤しんでいた。


 イラン人、パキスタン人、中国人にマレー人と、とにかく人種も言葉もバラバラだったが、特に事故もなくみな手慣れた様子で作業をこなしていた。

 中国人の彼らとは漢字の筆談でなんとか意思疎通ができていた。他の面々とはそれぞれ独特のクセはあるもののブロークンな英語でコミュニケーションすることができた。

 彼らを雇用している親方たちはみな「日本語を使え」と言っていたけれど、休憩のときや帰り道では日本語と英語、それに彼らの母国語が混ぜこぜになった会話がはずんで、自分にとってそれがなによりも新鮮で楽しかった。


 昼休み、その現場では元請けが手配してくれる仕出し弁当が届けられていた。腹を空かせた作業員たちに合わせたそのメニューは豚肉の料理が中心で、生姜焼き、一口カツ、メンチカツなどいずれもかなりのボリュームだった。

 しかし作業員の中にはいつも自前の弁当を持参する連中がいた。それはムスリム、イスラム教徒の面々だった。彼らにとって豚肉は禁忌、敬虔な者ならばそれを口にしないどころか豚肉を調理した器具で料理されたものも食べないという。

 ボード職人の見習いをしているアフタブさんもそんなムスリムのひとりだった。彼はパキスタン人、首都イスラマバードでは奥さんと娘さんが彼の帰りを待っているんだそうだ。Rの音を少しばかりの巻き舌加減に発音するクセのある英語とたどたどしい日本語で会話する彼と私は不思議と気が合って、午後の休憩では彼が振舞う紅茶を前にして歓談するのが楽しかった。


 ある日のこと、アフタブさんが日本語で私に声をかけてきた。


「Mさん、明日、お昼いっしょに食べまショウ」

「ああ、いいよ。どこに行こうか。アフタブさんは豚肉がNoノーだよな」


 彼は否定するように手を振りながら人懐っこい笑みを浮かべる。


「ノープろブレム、私、お弁当作りマス」

「いいのかい、朝早いのに」

「ダイジョブ、ダイジョブ、おにぎりだから問題ナイ!」


 力強くそう言う彼の言葉に甘えて、私は明日のお昼は彼のご相伴にあずかることにした。



 その日は梅雨の合間の晴天だったが、建築現場である建物の内部は昨日まで続いた雨と湿気のおかげでむき出しのコンクリート躯体は壁も床もすっかり結露に覆われていた。

 とにかくこの水をなんとかしなければ。午前中はその作業で忙殺され、作業員総出での処理が終わったのはそろそろお昼を迎える頃だった。

 暑さと湿気で水を浴びたように汗で濡れた私をアフタブさんはコンビニ袋を片手にしてニコニコしながら待ってくれていた。


 そして昼休み、私はアフタブさんに誘われるまま建物の裏手にある木陰に腰を下ろした。彼は手にしたコンビニ袋からアルミホイルに包まれた物体を取り出す。そして四つのそれを前にして私に問いかける。


「Mさん、赤いの、青いのどちらが好き?」


 瞬間、私は察した。

 彼の故郷はパキスタン、彼らの料理は辛いはずだ。ならば赤と青、それは唐辛子のことだろうと。さて、どうしたものか。どちらを選ぼうか。

 思案している私に彼は助け船の一言を発する。


「赤はホットね。青はシャープね。どちらもおいしい、私はどちらも好き」


 私は決めた、そして答えた。


「青をもらおうかな」


 彼は満面に笑みをたたえてホイルの包みを寄こす。現場事務所の冷蔵庫に入れておいたのだろう、それはおでこに当てたくなるほどに冷たかった。


「私も青いの好きね。夏は青いのがいい」


 私は彼から受け取ったホイルを恐る恐る剥がした。

 やはり思った通りだ。

 そこには青唐辛子のみじん切りがたっぷりとまぶされたおにぎりがあった。と言うことは赤いのってのは赤唐辛子か。

 今、目の前ではアフタブさんがもうひとつのホイルを剥がしていた。案の定、真っ赤なおにぎりが顔を見せていた。


 私は辛いものは大好きである。激辛のインドカレー、メキシコのハラペーニョ、ビリビリ痺れる四川料理も大丈夫だ。味噌汁にも七味唐辛子を振るくらいである。しかし、まるでふりかけのように唐辛子がまぶされたおにぎりなんて初めてである。

 目の前にある緑の球体、それにかぶりつくことを想像しただけで胃が締め付けられるような感覚にとらわれる。いつの間にか口の中にも唾液があふれてきていた。


 彼の住まいはどこだったっけ……そうだ、東京のかなり西の方だ。ということはこの現場に来るには、朝の八時までに入構するためには、彼は毎日朝の五時前には起きていることになる。そして今日、彼はこのおにぎりを握ってくれたのだ。


 そうだ、ここで食べなくては、おとこじゃない!

 私は軽く息を整えると思い切ってその緑色の球体にかぶりついた。


 鼻を抜ける香り。しかし辛くない、辛くないのだ。

 それよりなにより新鮮な唐辛子本来の香りが広がっていく。それは辛さと言うよりも夏の鮮烈な緑を思わせる香り、そして薄っすらと感じる丁度良い塩加減。これは想像していたよりもずっとずっとおいしかった。

 そう、口にしてほんの数秒の間だけは。


 そこからは畳みかける辛さの総攻撃だった。

 それは味というより刺激という方がわかりやすいだろう。赤唐辛子の熱いような辛さではなく、痛いような辛さなのだ。

 唇や舌で感じるのではなく歯茎やアゴの関節に響く刺激、それはやがて頬骨から耳の先まで痺れさせる。

 続いてやってくるのが脳を揺さぶられるような感覚、鼻腔から眉間に抜けた刺激で脳髄がバイブレーションされているような感覚。

 そして眼も瞳孔もカッと見開かれて、やがて視界全体がゆらりと揺らいだ。

 これが青唐辛子の辛さなのか。いや、刺激なのか。ホットではなくシャープとは、まさに言い得て妙とはこのことだ。


 すっかり言葉を失った私にアフタブさんはうれしそうに問いかける。


「Mさん大丈夫か? おいしいか?」


 私はとりあえず最初の一口を飲み込んだ。するとすぐに胃が活発に動き出した。つづいて髪の毛一本一本がざわざわとうごめき始めたと思ったら、すべての毛穴から汗が噴き出してきた。

 髪の間を汗の雫が流れていくのがわかる。


「アフタブさん、これは……こんなの初めてだよ」


 そして私はもう一口、続いてもう一口と食べ進んだ。

 休んではいけない、口を止めてはいけない。

 次の刺激が訪れる前に次のひと口を、それを続けていけば、続けていけば。

 とにかく走り抜けるんだ、この刺激の中を。


 黙々と食べる私を見ながらアフタブさんは袋から小さなタッパーウェアを取り出した。そしてそのフタを開けて私の前に置く。


「Mさん、これどうぞ。ピックるスです。これはマンゴーね」


 マンゴーと聞いて私はいくぶんホッとした。マンゴーのピクルス、それはこの辛さを和らげる甘酸っぱいひととき。私はこの刺激の波の中で舌の片隅にわずかな甘味を感じた気がした。

 私は期待とともにタッパーの中身をつまみ上げた。が、それは一瞬にして消し飛んだ。しかしてそこにあったのは、まだ青く熟していないマンゴーを唐辛子で漬けた代物だった。


 え――い、こうなればとことん楽しんでやれ、この辛さを。


 私はそのピクルスを口にした。

 辛い、そして酸っぱい。しかしその辛さは青唐辛子のそれとはまた違った方向性の辛さだった。猛烈な辛さではあるが、こちらは熱くて辛いのだ。それに酸味もいい刺激になっている。

 なるほど、これはいい箸休めだ、手で食べているが……。


 そして私は再び青唐辛子のおにぎりに挑む。そんな私をアフタブさんは嬉しそうに笑って見ていた。



 まだ幾分めまいを感じている。あまりの刺激に頭がぐるぐるとしているのだ。それにしてもこの心地よさは何だろう。仕事の最中よりもずっとずっと汗をかいているのにどこかスッキリしているのだ。

 これは……この感覚は……そうだ、風呂だ、風呂上がりだ。

 あの青いおにぎりを食べ終わった私を包んでいるこの心地よさは風呂上がりのそれとそっくりだった。


 アフタブさんが紙コップを手にして水筒からお茶を注いでくれる。それは保温された熱い紅茶だった。

 あの辛さの後に熱いお茶なんて。しかし渋みよりもお茶本来の甘味があるその紅茶があのめまぐるしい刺激をすっかり洗い流してくれるようだった。

 彼が再びコンビニ袋から小さなかけらをつまみ上げる。それはひと欠片かけらの氷砂糖だった。私にひと粒、彼もひと粒、舌の上で転がしながら熱い紅茶を流し込めば舌の上にほんのりとした甘さが広がる。

 ただの氷砂糖なのに、あの刺激を経験した私にとってそれは極上のデザートのように思えた。



 彼と私が座る木陰にそよ風が通り抜けていく。初夏の昼休み、辛さの刺激と熱いお茶、それは私にとって初めて経験した、なんともエスニックな暑気払いだった。




おにぎり

―― 完 ――

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