第8話

「……さあ、そこまでは想定しておりませんでした」

 渡邉は白々しく答えた。先ほどまでのオーバーアクションは何処やら、落ち着いた声で話す渡邉に、ますます疑惑が募る。

「ふーん。もしかして政府の手によって暗殺されたりして」

「おほほ、ご冗談を。映画の見すぎではございませんか?」

「お……」

 文字通りおほほと笑う男を初めて見た衝撃で、俺は言葉を失った。

「おや、どうかなさいましたか?」

「いや……別に。ってか、人に言わなきゃいいんだよね」

「いかにも、おっしゃるとおりでございます。契約をお守りいただければ何も怖がられることはございません」

 声のトーンが元に戻り、動きも出てきた。

「怖がるって、何を?」

「えっ? あっ! いえっ! なっ、何でもございませんっ! そんな政府が残っ……あ、おほっ、ゴホゴホッ!」

 またしても怪しい返答をする渡邉。

「……渡邉さん、もしかして嘘がすぐにばれるタイプ?」

「なっ、なんということを! 私は嘘などついておりませんっ!」

 否定しながら、流れ出てくる大量の汗を胸のチーフであたふたと拭う。

「あっそ。で、次は?」

 渡邉はチーフを胸に収めながら、「まったくもう」とかなんとかブツブツ言い、次の説明を始めた。

「第2条は、附則を読まずともお分かりでございましょう」

「自らに――だから、自殺しちゃいけないってこと?」

「さようでございます」

「ふーん。でも、自殺なんかしないけど」

 呆れたように言うと、先ほどまでとは打って変わって、本当に心配している様子で渡邉が言った。

「たしかに、今はそうお思いでしょう。しかし、あなたは誰か一人を殺さなければならないのです。いざ誰にしようかとお考えになられた時に、果たしてすんなりとお決めになることができますでしょうか?」

「え……」

 そんなこと急に言われても、すぐに具体的には考えられない。しかし、無理なことだけは容易に分かる。

「いや……そんなすんなりとは……」

「そうでございましょう? お考えの結果、誰か一人を絶対に殺さなければならないのなら、いっそ自分をと思われ兼ねないため、こちらの条件に加えられているのです」

「自分を……って、これ、もし破った場合は……」

 俺の質問に対して渡邉は、薄っすら微笑んで答えた。

「これを破った場合でございますか? その場合には、あなた様は自ら命を絶ってらっしゃる――即ち、既にこの世には存在してらっしゃいませんので、罰則など適用しようがございません」

 言われて俺は、事の重大さに初めて気が付いた。

誰か一人を殺す。一体誰を――第2条の説明を聞いた瞬間から、俺の頭の中はそればかりが渦巻いて、その後の説明が耳に入っていなかった。なんとなく覚えているのは、何かあったら渡邉に連絡すること、必要に応じて契約内容が変更になることくらいだった。

「――以上が大まかな附則説明でございます。その他ご質問等ございませんでしょうか」

「えっと……」

 俺は今聞いたことを思い返した。

 まず、『人殺し権』という新しい制令を施行するための試験人に、なぜか選ばれてしまった。これを断ったり、人に言ったりしたら殺される。

 そして、自殺してはいけない。

 これが事実であってそれ以上でも、それ以下でもない。

 質問はないかと言われても、この事態をよく飲み込めてない俺には、何を質問していいかが考えられなかった。

「どうかなさいましたか?」

「いや……」

「おやまあ、急に随分とお元気がなくなられましたが。夏バテでございましょうかねえ」

 今まで元気で、急に夏バテする奴なんているのか。いるなら是非見てみたい。

「夏には強いから大丈夫。それより、渡邉さんはもう決めてる?」

「さすがは夏生まれの滝沢様。私は冬生まれですので暑さは大変苦手でございます。何をでございましょう」

「あ、冬生まれなんだ。えっと、殺す人」

「はい、一月二十一日でございます。いえ、私のそれは、いざという時のために備えました保険のようなものですので、自らの意思でどなたかを殺める気は毛頭ございません」

「……別に誕生日聞いてないけど。でも俺と小池って人が契約に違反しなかったら、渡邉さんも誰か殺さなきゃいけないんじゃないの?」

「てっきりお聞きになりたいのかと。そうでございますね。そうなりましたら、どなたかお一人の名前を挙げざるを得ないと思われます」

 渡邉の返事を聞いて、俺はようやく具体的に考えはじめた。

「名前を挙げる――か。そう……そうだよな。どうするんだよ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る