第五夜 生まれ堕ちしモノ

校庭の中央まで『神』が歩いていくのを、私は茫然と見下ろしていた。

心臓が早鐘を打つ。

自然と生唾を呑み込んだ。

本当に、ここで私は死んだのだろうか。

気が付くと、私とダスクを乗せた『神』の手が、地面近くまで降ろされていた。


「行くぞ」


ダスクは私の方を振り返りはしなかった。『神』の手を降り、どんどん校舎へ向けて歩いて行ってしまう。

躊躇する心とは裏腹に、私も立ち上がり、ダスクの後を着いて歩いて行ってしまっていた。


夜の暗闇に包まれた校舎は、酷く不気味に見える。

数年後に改築される予定の校舎は、半世紀近くの築年数を経ていると聞いた記憶がある。だからなのか、古い外観のその校舎の窓には、まるで誰かが覗いているような、そんな想像をさせるような闇ばかりが見えた。


「ここだ」


そう言って、前方を歩いていたダスクが立ち止まる。

そこは校舎の前だ。まだ入っていない。


「ここ……?」

「あぁ」


言いながら、彼が校舎の屋上の方を見上げる。


「ここまで来れば、君ももう見えてくる筈だ」

「……どういう事?」

「珍しかったのは、死に場所から魂が遠くまで離れていたからだ」


そう言って、彼は振り返る。私のすぐ前の地面を指差して。


「さぁ、よく見るといい。もう思い出せる筈だ」

「ここで……私、が……」


私は、その地面をよく見た。



何も見えない。ただ地面がそこにあるだけ。そう思ったのだけど。

自然と、地面を見ていた筈の私の視線は、屋上に向かっていた。


「ねぇ」

「何だ」

「あなた……私が誰かに殺されたって」

「そうだ。殺されたとも」


屋上から、見下ろしている。黒い影が。

目を凝らすと、それは私だった。

ダスクと出会う前、私の心を支配していた感情。それを思い出す。


絶望。


「君は、君に殺されたんだ」

「……何だ。ここまで待って、結局そんな結末か」


口から出たその言葉は、何となく予感してた通りだったからというのが半分と、もう半分は強がりだった。

でも、何故私は絶望してた?

考え始めた時、自然と校舎の中へ足が向かっていた。



望月景もちづき けい

入学して初めての登校日、その途中で彼女と出会った。下駄箱の前に張り出されたクラス割で、私と彼女は別のクラスだった。


「ありゃー、残念」

「でも、お互い頑張ろうね」


そう言って別れた。お互いに笑顔のまま、手を振った。


結果として、私はクラスに溶け込めなかった。どのグループと居るのも、何だか居心地が悪かった。


それでも、頼られればノートを見せたり、相談に乗ったりした。溶け込めはしなかったけど、私はまだ上手くやれてたんだと思う。



景が苛めに遭っている。そんな風の噂を聞いたのは、入学して半年ほどした頃だった。



正直、自分が何をしたいのか分からない。

記憶が逆流するように、止めどなく再生される。吐き気がする。頭が痛い。なのに足が止まらない。

下駄箱。教室。図書室。行っては茫然とその場所を眺め、眺めては次の場所へ。終点はもう分かっている。

夜界で死んだら、今度こそ本当に死ねるのかな。



「久しぶり」


図書室の一角で、景が私にそう話しかけた。


「あっ……うん、久しぶり」


精一杯、声を低めた。

クラスに溶け込めなかったけれど、人並みに付き合えていた。だからだろう。私は、強くはなかった。


「……元気だった?」


そう言って笑いかける景の笑顔は、引き攣っていた。当時の私でもすぐに分かった。

あぁ、無理してる。


「うん、まぁ……何とかやってるよ」

「そっか」


私は図書室で本を読んでいた。昼食を終えたら、ここに来るのが日課だった。この日も、その本を読むことが少し楽しみでさえあった。

なのに、もう本の内容は一文字たりとも頭に入ってはこなかった。


「……ねぇ、あのさ」

「ごめん、私この後用事あって」


精一杯の笑顔を作って、私は景の言葉を遮った。

そうだ、それが私の本心だった。

気づいてほしくなかった。

話しかけられたくなかった。

一緒に居るのを見られるのが、怖かった。


だから、私はその場を離れようとしたのだけど。


「ねぇ、凪ちゃんはさ、どんな大人になりたかった?」


その問いは、少し大きな声で告げられた。私は足を止めざるを得なかった。

周りに人はいなかったけど、怖かった。クラスから浮いてる自分も、いつか苛めの標的になる。そんな悪い予感が、頭の中を支配していた。


「分からないや」


確か、そう答えたと思う。

多分その時にはもう、取り繕った笑顔はできなくなってただろう。それでも、頷くように頭を下げて、私は図書室を出た。

景の言葉が過去形だったことに、気づいたのは事が終わってからだった。



それから数日後、彼女は自殺した。

私は知らない。彼女がどんな目に遭ったのか。彼女を虐めていた人達がどんな人間だったのか。反省したのか、それとも死んだ彼女を罵倒したのか。標的を変えてまた同じことを続けたのか。

一つ確かなのは、その日から私は変わっていたということだ。

次第に他者への愛想ができなくなった。授業の内容が頭に入らなくなった。食事が美味しく感じられなくなった。いつしか私は、日々を生きるのが苦痛になっていた。

その代わりに、何かが煮え滾っていた。私の中で、日々、刻々と。


多分、これ以上のうのうと生きている自分が許せなくなったのだろう。


それからの時間経過さえ朧気だけど、多分景の死から半年くらい。


いつものように授業が終わり、帰りの会も終わって、帰ろうと思った。


階段を降りる代わりに昇っていることに気づかなかった。


校舎から大半の生徒が居なくなるまで、屋上のベンチにぼんやりと座っていた。



そうして、家に帰るのと同じ感覚で、私は、降りたのだ。



「いつ、から……知ってたの?」

「分かってるだろう」

「私がまた絶望するのを、楽しみにしてた?」

「いいや」


ダスクは再び、両手の指で四角を作った。

その四角の奥から、彼の眼が私を覗く。


「君のような年頃は、何も知らないに等しい。世界の広さ、現実の壁、そういったものを知らぬが故に、内包する世界も小さい」

「何の、話?」

「だが、知らないが故に、発露する感情は大人のものの比ではない。知らないからだ、諦めというものを。そして夜界は、それが力の源泉になるんだ。想像力や感情、そういったものが」


私の言葉を気に留めず、そこまで言い終えたダスクは指を解いた。


「感情が故に命を絶った者は、特に」

「……私を見た時に、珍しいって言ったのは」


私の言葉にダスクは、今度は首を振る。


「いや、それだけでは決して珍しいわけじゃない。絶望して命を絶つ未成年なんて、ありふれている。気の毒なことにな」


恐ろしいほど感情が籠もらない声で、最後の言葉を結ぶ。多分、この人は倫理観というものが無いのだろうと、私は頭の片隅でぼんやり考えた。そうしているうちに、ダスクの言葉は続く。


「僕が珍しいと言ったのは、君の……顔だ」

「顔?」


「分からなかっただろう。僕と会った時、君、笑ってたんだよ」


「私……笑って、た……?」


ダスクの言葉に、何故か頭が真っ白になっていた。

核心なんて何も突かれてない、その筈だ。それなのに、何故私の心臓は、尚も強く打っているのだろう。

あの時、私は笑顔だったとダスクは言う。信じられない。

でも、確かにそうだったという確信が、私の中にあった。


「あぁ、やっぱり」


「絶望もあったかもしれないが、それが切っ掛けじゃなかったな」


「君、退屈だったんだ」


退屈。

その言葉を切っ掛けにして、私が死ぬ前に何を考えていたのか、流れ込むように思い出してきた。

景の死。彼女を救えず、それどころか見捨てた自分への憎悪。けれど、それだけじゃない。

彼女が死んでも、何も変わらない日常が嫌だった。日に日に活気が戻るクラスに馴染めなかった。死など忘れ去って行く日常が、耐え難かったのだ。


「飽きた」


死ぬ前、そう言ったような気がした。

自分という人間を許せなくなった。周囲の日常が耐え難くなった。

そう、それが私の死の、全容だった。



「まぁ、こんなところだろう」


気づくと、再びダスクが指で四角を作り、そこから私を覗いている。


「……それって」

「言わなかったか?君の感情、それに過去を見てる」

「そうじゃなくて」


割って入った私の言葉に、ダスクが僅かに目を見開くのが分かる。私は構わず言葉を継いだ。


「観察してるみたいだよね」

「それはそうだ、君を観察してる」

「ううん」


「人間が、鳥や虫を観察してるみたいって、言いたかった」


「正解だ」


何か大きなものが動く気配を、急に私の背後から感じた。振り向くまでもない。何かなんて分かり切ってる。


「……お眼鏡にかなった?」

「別に、最初から食わせるつもりだったさ。君の魂に価値があろうが無かろうが。それに、もう充分だろ?」

「そう、だね……」


白い手が、強い力で私の肩を掴んだ。

呻き声が、耳元から聞こえた。

分かっていても、これは怖い。三度その瞬間を目にしても、恐怖が拭えなかった。


「……ぁ……」


頭上を見上げると、もう間近に『神』の顔がある。白い紙に覆われた顔が。

照明は無い。今の角度で見えるわけがない。なのに少しだけ、紙の後ろが透けて見えた。

白い人間達。彼らが歯の代わりに、『神』の口の奥まで魂を運んでいく。そのように見えていたんだけど、実は違ったらしい。


この『神』自体、白い人間達が固まってできている。そう見えた。


「なら、この神様、本当は……」


言葉を言い終える前に、私の視界は暗闇に包まれていった。



意識はある。けれどもう、手足は動かせない。多分、このまま私の魂は神様に消化されるのだろう。そう思い、恐怖を感じた。

消えるのが怖い。私という存在が無くなるのが。

そんな思いに支配される前に、自分はもう既に死んでいることを思い出す。


けれど、だからといって思考を止めようとは思えなかった。

唐突に終わりを告げられたからかもしれない。


私は、景の死に絶望し、何も変わらない日常に飽きたのだ。だから死を選んだ。

それはいい。けれど。


「……どうすれば良かったんだろ」


声に出してみたけど、答えなど分かり切っていた。

周囲の目など、気にしなければ良かったんだ。あの時、図書室で。


話を聞いてあげるべきだった。

手を繋いであげるべきだった。

涙を拭い、抱きしめてあげるべきだった。


それなのに。


それなのに、私は。


もう遅過ぎるのに、今更後悔ばかりが押し寄せてくる。さっきまで忘れてしまっていた筈なのに、それが信じられない。こんな記憶を忘れてしまっていただなんて。頭を抱えたいのに、身体はもう動かない。


諦めればいい。いつものように。


諦めるの?これで最後なのに。


考えるうちに、一つの疑問が浮かぶ。


何故、私は夜界に来た?


これでは、ただ自分の死を再確認しただけ。

あの老人と、あのサラリーマンと、あの人と出会ったのは、何のためだった?


『人が今いる場所ってさ、その人が居なきゃならない理由があるんだと思うんだ』


あの人が言った言葉が、何故かピタリとハマった感覚があった。

そうだ、何のためだったかなんて決まってる。今出た答えを、『彼女』に伝えるためだ。


「……どこ?」


そうだ、これが私の、夜界の終わりだというのなら。

彼女が居なきゃ駄目だ。多分、私は呼ばれたんだ。ここに居る彼女から呼ばれ、ここに堕ちたのだ。

『神』に喰われるのが私の運命なら。

せめて、『神』の中で再会くらいさせてくれても、いいじゃないか。


「いるんでしょ、景!!」



ダスクは目を疑っただろう。

金桐凪という魂を喰らった『神』。それが俄かに苦しみだし、その場に蹲る。

その身体を最大限縮ませるかのように、その手足を折り曲げて、丸くなるように。身体を震わせながら。

やがて、その震えが止まったと思われた、その瞬間。


『神』の身体が破裂した。


辺りに真っ黒な血を飛び散らせて。

ダスクはその様子を仔細に観察し、そして気づく。


後に残された、黒い血だまり。その中央に、形を保ったモノが居ることに。



「……ナギ、か?」


黒い血に塗れ、その場に座り込んでいた金桐凪――私は、呟いた。


「今気づいたけど……星が見えるんだね、夜界って」


『神』の掌の上から見た町並み。家々が森のように佇んでいたけど、明かりの灯る家は一軒も無かった。だから、星がよく見える。

けれど私は自分のことで精一杯で、そんなことに今の今まで、気づかなかったのだ。

返事が来ないので、やっと私はダスクに視線を向ける。彼の腕が、少し震えているのが分かった。


「『神』に喰われた魂が、何故生き永らえてる……?」

「変なこと言う。私は死人だと、アナタがそう言った」


何だかおかしくて、少し笑えてきてしまった。

けれどダスクは面白くないらしい。それはそうか、長年の努力が消えてしまったのだから。

彼はさっきやったみたいに、また指で四角を作って私を覗き込む。


「何だ……これは……」


その四角を作った指までもが震えていた。私を覗き、尚更に。


「君は……誰だ……?」

「ダスク……貴方、間違えたよ」


彼の過ち、それが分かるように、言葉を選んで紡いだ。


「あの子は望んでなかった。人間の魂を喰らう事なんて」


「だから……取り込んでも、消化しなかった。その身体に、捧げられた魂を溜め込んでた。もう人間の悲鳴を聞くことも、苦しみを感じることも嫌で……」


「だから、私に託したんだ」


自分では上手く説明したつもりだったのだけど、支離滅裂だったかもしれない。けれど、その言葉の意味は理解できたのだろう。信じられない、そう言いそうな顔で、ダスクは私の話を聞いていた。


「……つまり、『神』に喰われた筈の君の魂が、逆に『神』を取り込んだというのか。それが、他ならぬ『神』の意思だったと?」


上手く要約してくれた。ダスクの話に私はゆっくり頷く。


「馬鹿な話だ。偶然今夜死んだだけの、特別な力など何もない、ごく普通の君がそうなったというのか、ナギ……!!」


そこまで言ってから、ダスクは深く息を吐いて、言葉を継いだ。


「正気じゃないぞ。何故自我を保っていられる?他者の記憶も人格も、考え方さえ、今君の中に絶えず流れ込んでいる筈だ……!」


「……ダスク、一つ聞かせて」


立ち上がる。上手く立てなくて、くず折れそうになったけど、最後には立つことができた。

それと同時に、感情が沸き上がる。それがどんな感情なのか、今の私には表現の術が無いけれど。

ただその感情と同時に、私の右の掌に、白い炎が灯っていた。


心を落ち着かせる炎。そして、私に決意させてくれた炎。


「大勢の人の魂を消費したよね」

「……あぁ」

「望まない神様に、魂を喰らわせた。そうして貴方の奴隷にした」


くだらない。そう切り捨てるかのように、ダスクは片手を振って言い放つ。


「アレは古い、人々から信仰を失って消え去るを待つ、それだけの『神』だった。だから僕が利用した。最初は拒絶していたが、一度呑ませてからは、素直になったよ」


「ただそれだけの、モノだ」


きっと、彼にとってはその程度のモノだったのだろう。何となく、私はそんな答えが返ってくるのだろうと予期できていた。

彼の方も、私の意図を察したらしい。だから多分、偽悪的に答えたのだろう。本心も多分に混ざってはいただろうけど。

そして、彼のその答えではっきりした。

多分、だから今の私は、自我を保っていられるんだ。私の中の大多数の魂が、目的を一致させてるから。


「ダスク……」


「貴方には、ここで消えてもらう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る