第三夜 犠牲
「ここは……一体、どこだ?」
私とダスクの目の前で、スーツを着たサラリーマンが途方に暮れた顔で立ち尽くしている。ここは大きめの交差点だった。
彼は時折歩き始めたと思ったら、同じところをグルグルと回り、そしてまた私達の所へ戻ってくる。
「分かるか、ナギ」
「何が?」
「会った時のお前も、僕にはこう見えていた」
ハッとした。
あの地下通路。私は、進んだり戻ったりしていた筈なんだけど、どうやってもホームに辿り着けなかった。
「見えてないんだ、自分の周りが」
「見えて、ない……」
「進んでいると思い込んでる。実際には同じ場所を回っているだけなのに、それが見えていない」
そう話している間にも、サラリーマンはグルグルと同じ場所を走り続け、やがて「ここはどこだ」と叫び始める。
次第にその顔や、その手から黒い煙が立ち上り始めた。
「あれは、何?」
ダスクは再び両手で四角を作ると、それを通してサラリーマンを見た。
私も固唾を呑んで見守る。サラリーマンは中年で中肉中背、少し髪が薄く、そのスーツは草臥れていた。
「この夜界にいると次第にああなるんだ。死者は次第に自我を失い、自分のことを思い出せなくなる。そうなると形が崩れ、やがては身体が黒い煙となる」
「煙、に……」
「さっきの老人のように未練無く死んだ人間は、ああなる前に死者の国に行くがな」
サラリーマンを見つめながらそう説明するダスク。その言葉の意味に、私は気づいた。
「じゃあ、この人は……」
「あぁ」
頷きながら指を解くと、ダスクはサラリーマンに一歩近づいた。
「君は事故死だ。仕事がいつもより早めに片付き、家族の待つ家へ意気揚々と帰る途中、信号無視したトラックに轢かれた。ここに魂があるということは、即死だっただろう」
「……は?」
ダスクの言葉にサラリーマンは呆けたような表情をして立ち尽くすも、すぐに口から言葉が出始めた。
「あ、あの、失礼ですがどちら様です?丁度良かった、道に迷ってたんです。おかしいな、いつものように帰り道を歩いてた筈だったのに、気が付いたらここに……」
「諦めろ、帳は落ちた。ようこそやか……」
ダスクが言い終える前に、サラリーマンは彼の胸倉を掴んでいた。
「おいあんた!!ふざけるのもいい加減にしろよ!俺は早く帰りたい……」
言っている途中で、言葉が止まった。見ると、彼の視線が自らの袖口に釘付けになっている。袖口からは、黒い煙が立ち上っていた。さっきよりも、濃く。
「な……なんだ、これは……!!?」
「言っただろ。それが証明だ。アンタが死んだことの」
彼が袖口のボタンを外す。手首から煙が立ち上っているのを見て、呻きながらそこをゴシゴシと擦った。それでも煙は消えず、やがて彼の動揺が、限界に達していた。
「嘘だ!!俺にはまだやることがいっぱいあるんだ!今だって妻が帰りを待ってる!!来週結婚記念日なんだ!!来年は息子が小学校に上がるんだ、だからもっと俺が居てやらなきゃならないんだよ!!」
「そうだな、アンタはよくやった」
その瞬間、ダスクとサラリーマンの頭上に、あの『神』の顔が現れたことに気づいた。まるで覗き込むように。
「日々降りかかる試練。次々と舞い込む課題。それらを乗り越え、やっと手に入れた幸せ。アンタの人生は人並みだったが、それでもその魂は、輝いていた」
「ダスク、待って……!!」
私の声を省みることなく、ダスクはサラリーマンの胸を押し返した。
押し返された彼はよろけるように後ずさる。その瞬間、視界の上にあるものに、気が付いた。気が付いてしまった、のだろう。
「う……うわあああぁぁぁぁ!!」
頭上から、巨大な口が開かれて、そこから現れた白い人間達が、彼の肩を掴む。
悲鳴を上げながらサラリーマンは、成す術も無く掴み上げられ、そして口の中へと呑み込まれていった。
「助けられなかったかと、思ってるな」
また『神』の手の上で、私とダスクは夜空を運ばれている。私は藁の上に座り、彼は立ち上がって街を見下ろしながら。
最初の老人、それにあのサラリーマン。『神』に呑み込まれる二人の表情が、私の中で重なる。
顔を上げると、ダスクがこっちを見ていた。
「黒い煙を出してたろう。夜界に来てアレが出るということは、もう肉体は死んでる。どうなろうと助からない」
「……ありがとう」
「気遣ったんじゃない。ナギ、君には自分の問題に集中してほしい」
そう言われて、疑問が頭をかすめた。
「ねぇ、私はどうして……」
「僕の手を取ったからだ」
ダスクはこの疑問が私の口から出てくるのを予想してたのだろう。そして彼は言葉を続けた。
「君が黒い煙にならないのは、夜界の住人である僕が君の存在を保持してるからだ」
「そうなの?」
「あぁ、だから」
そう言うと彼は私に近づいて膝を折り、その顔を間近に寄せる。
「僕の意思一つで、君は自我を失い消える。それを忘れないことだ」
その眼は澄んでいた。彼の言葉が嘘ではないと、裏付けるかのように。だから、耐えられずに視線を逸らす。
「私は……自分が死んだことも、信じられないよ」
「だろうな。君の顔がそう言ってる」
少し呆れたようにそう話すと、彼は立ち上がって町を見下ろした。
「ねぇ、落としたよ」
彼女は私の差し出したパスケースを受け取った。
それまで不安でいっぱいだった彼女の表情が、安堵の色に変わる。それは私が同じ制服を着ているのを見て、やがて安心の色へと変化した。
「あ、ありがとう」
「同じ制服だね。一緒に行く?」
「うん、そうしてくれると、嬉しい」
高校入学初日。
まだクラスも分からない、そもそもまだ学校に着いてもいない。そんな中で、私は彼女に出会ったのだ。
「私、
「
二人して微笑んで、握手した。
この時は、あんなことになるなんて、思いもしなかった。
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