〜間奏曲. 遠い思い出〜

〜間奏曲. 遠い思い出〜




 そう──あれは確か、先生が「こっち」に来ちゃう数か月前。

 狭間の世界のほぼ中枢部にあたる学術自治都市エスタシオン……魔術や薬学、武術などの総合学府に在籍していた時。

 僕は、ちょっとグラグラしていた時があって。

 学生棟を抜け出して、真夜中にエスタシオンの外をぼんやり歩いていたんだ。


 エスタシオン内部と違って、領外そとはまだ治安も良くなくて──

 気が付けば、数人の厳めしい顔つきのごろつき達に囲まれていた。


 まずい、と思った時には手遅れで、ガードの術を張る前に向こうから仕掛けられていた。


 取り囲んだ人間達は僕の体を地面に押し付けると、紫色の髪を見るや否や僕の襟元に手を掛けて、ナイフで服を切り裂きながら下卑た笑いを浮かべた。


「……何をするつもりですか?」


 眉間に皺を寄せながら声を出すと自らを押さえつけるごろつき達……

 僕より十くらい年上みたいな風貌のその男達は笑みを深くする。


「なにって、もうわかってんだろ? 無駄な抵抗はするなよ。傷付くだけだぜ」


「……ってことは、抵抗しなかったら、後で逃がしてくれるの? 殺さないでくれる?」


「ん? あ、おとなしくしてりゃあな」


 顔を見合わせて怪訝そうに頷いた男達に、僕は「ふーん」と一言だけ口にして身を任せたまま、夜空を見上げていた。




 ──と、その時。




 僕の下半身に触れようとしていた男達の頭上から透明な色をした矢が降り注ぐ。


 刹那、僕の体はなんだかもふっとしたでっかいものに包まれていた。


「申し訳ないのですが、この子には手を出さないで下さいね」


 穏やかな低音で、もふもふの主が明らかになる。


 夜目で良く見えなかったそのもふもふは、厚手の服やらコートやらマフラーやらストールやらをぐるぐる巻きにした見慣れた人物だった。


「何だお前……!! 獲物を横取りする気か!? ……ってか、その格好は俺らをあざ笑ってでもいるのか? 着ぐるみかよ!」


 少々復活したらしい男の一人が睨みつけると、着ぐるみならぬ長身のその人物は、温度のない声で応答する。


「ええ。通りすがりのくまのぬいぐるみです。鮭が捕れないので……代わりにこの子をもらっていきますね。さようなら、クズさん達」


「なっ……!」


 ナイフを投げようとした男に、人物は再び矢を放つ。

 瞬時の魔術で形作られたその矢は、ナイフを粉々に砕いてほんの少しだけ男の手を傷付けた。


「行きましょう」


 耳元で囁いた着ぐるみは、残った少しの服だけをまとった僕の手を引くと、少し離れたエスタシオン敷地内まで瞬間移動する。




 ──瞬間移動でエスタシオンの結界を潜り抜けられるのは、この人くらいだろう。


 現在は使われていないらしい物置小屋……エスタシオンの隅の方にあるその小屋が目の前に現れたことで、エスタシオン領に戻って来たのだと確信した。


「──すみません、今の私には……結界をまたいでの移動は、ここまでが限度です」


 小屋の明かりを付けぬまま、適当にその辺の小さなランプに火をつけた着ぐるみ──否、ここの学長で自治都市の統治者、エスタシオンは、着ていた……確実に着過ぎている服とコートたちを僕に向けてひょいひょいと放る。


「それ、着てってくださいね。返却しなくて良いですから」


「え? あ、はい……」


「あと、これとこれも」


 続いてマフラーとストールを放った。

 ふわりとしたそれは、思ったよりも軽く温かく、思わず溜息が出る。


 すべて着終わった頃合いを見て、エスタシオンはその辺の棒で小屋の明かりのスイッチを押した。

 皆も言っているけれど、なんというか……いろいろとものぐさな人だ。

 まぁ、でも……。


「……どうして?」


「はい?」


「どうしてあそこに? それに、怒らないんですか?」


 おずおずと上目遣いに長身の『師』を見た僕にエスタシオンは苦笑いをする。


「エイシア、あなたでも、あれはちょっと怖かったでしょう?」


「え、えっと……その……はい……」


 気まずそうに言った僕の指先を、エスタシオンはそっと握った。

 怖がらせないように、確かめるように、そっと。


「あなたが最近ちょっとふわふわしていることに気付いていながら、諸々の業務に追われて放っておいた私にも責任はあります。あなたの専攻の担当指導者なのに、あなたを含めみんなに時間を割けなくてすみませんね」


「いえ……先生は忙しいですし。魔術の制御には要の……心の統御は、魔術科の人間たるもの日頃から心がける初歩。それを怠っていた僕の過失です」


 つられて苦笑した僕の目を、エスタシオンはじっと見つめる。

 その蒼色の瞳は、どこか儚げだった。


「──ねえ、エイシア? 今から見るものを……あなたはきっと誰にも言わないだろうけれど。もし見苦しかったら、逃げて下さいね」


 そう言ったエスタシオンは、エイシアに渡してもまだ残っていた……ようやく普通っぽい格好になっていた衣服の、羽織と、長衣の上だけをそっと脱ぐ。

 背中に下ろしていた長い蒼の髪を正面に回して、露になった背中をエイシアに向けた。


「──な、に……」


 夏でも薄着になることのないエスタシオンの肌はやけに白く、そこに刻まれていたものを浮き立たせている。

 華奢な背に刻まれていたのは、大小様々な無数の刀傷と……


 それから……


「これは……こんなもの、昔規制されはたずじゃ……。まだ…?」


「うーん、まあ、たまには居るんですよねえ。こういうものを密売する輩も、使いたがる変人も」


 朗らかな声とは裏腹に、背にあるものは生々しい。

 丸縁の、比較的小さなサイズの焼き印が、数ヶ所に残されていた。

 印は花を象っているようだが、焼き印で花とはなんとも悪趣味な気がする。


「昔、それはそれは所有欲の強い権力者……有力貴族がいまして。珍しいものを集めるのが趣味のその人は、この辺りに広大な土地を持っていたんです。……所有欲が強いということは、その欲につけこめば隙だらけでもある。私は、その人物を手駒に──っとと、いえ、ここの領地を確保するために、あえてこの焼き印をつけられておきました」


「……所有欲……手駒……。えーと、つまり、何をどう突っ込めば?」


「反面教師、とでも」


 ふふ、と笑いながら元通りに服を纏ったエスタシオンは、くるりと振り向いて再びエイシアの指先に触れる。


「……まったく、私の“これ”では震えてくれるんですね。あなたは、あなた自身のことで震えて下さい。私が言いたかったのは、それです」


「え……?」


「目に見える傷があってもなくてもね、心に残った傷はなかなか消えません。……私は以前、自分の目的が達成されるなら、自分の身などどうなってもかまわないと思っていました。生きてさえいれば……目標にさえ届けばいいと。──けれど、後になって気付いたんです。色々と──面倒くさいことにね」


 穏やかな声音に宿る、何かじわっとしたものを感じて、僕は少しだけ目を反らした。


「死なないで下さいね。そして、生きながら死ぬのもダメです。あなたが目標を諦めないように、あなた自身のこともまた、諦めずにいて下さい」


 エスタシオンはさらさらと言葉を繋げると、いつも口ずさんでいるどこか知らない場所の言語らしき歌を小さく歌いながら、小屋を後にしようとする。

 子守唄のようなその響きに少し揺らぎながらも、僕はあわてて追いかけた。


「──あ! ちょっと先生、これ本当に……」


「お願いだから返さないで下さいね、その服。また厚着しすぎだって副学長殿に怒られるので」


 いたずらっ子のような明るい声は普段のエスタシオン……鬼才でアホな学長と呼ばれる彼らしくて。


 僕は、小さくため息をついたんだ。





 ……あれから、どのくらい経ったろう。


 エスタシオン・アウィス・アクアーティカ……

 正しくは、アウィス・アクアーティカ。


 水鳥の名を持つ師は、この世界……セレスのラナンキュラスに転生して……

 そして……


 僕と、僕のエスタシオン時代の同期生で共に守り人のルーチェ、僕ら二人の二重の術によって、狭間の世界とこの世界の均衡……秩序の維持のために、葬られた。


 跡形もなく消し炭となって消え去ることが、師から託された願いだった。


 この世界の理と、彼の愛娘のシェエラザードを守るために。




 ……彼は「あなたも本当の感情……心と、出逢えたのですね」と微笑んで、逝った。


 「あなたは」ではなくて、「あなたも」。

 それが、救いだった。




 僕と彼の人は、少しだけ似ていたのかもしれない。

 目指していた場所は生まれた時からすぐ手の届く場所にあったのに、何年、何十年経っても、何をしてもどんな偉業を成し遂げても、決してそこに届かない。


 ぼんやりした感覚からくる底なしの空虚を、常に抱えていた……




 彼の人は……おそらく。

 フィンリック副学長……学府エスタシオンの現学長が、僕がこちらに来るときにそっと示唆してくれたように、生まれ里のアクアーティカの集落からの存在の承認を。


 僕は、故郷ユンヌの……

 もう、この世にいない僕の母親からの……




 ──でも。


 きっともう、彼の人も。

 そして僕も、大丈夫だ。





 エイシアは天高くそびえるセレス城を見上げながら、軽く笑う。


(さて、ルーチェを呼びに飛んで……それから、準備を急ごう)


 ヴァルドの兵器は、少々厄介だ。

 本来なら僕ら守り人はぎりぎりまで手出ししないことになっているけれど、そのぎりぎりは、人が生きているぎりぎりじゃなくて、星が滅びるか滅びないかのぎりぎりを指す。


(なんでかなあ、ぎりぎりまで我慢できなくなっちゃったんだよなあ……)


 彼の人と同じ蒼の髪を持つ、器用そうで不器用すぎる人物。

 少し氷ったような眼差しだったその子は──アズロは、再び会った今、少し人間らしくなっていた。


 まだまだぎこちないあの子の心に、確かに芽生えつつある感情を、守ることはできるだろうか?


(この世界は、なんとなく好きだし……)


 何かを決心したような眼差しで、エイシアは転移方陣の示した先の空間に消えていった。

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