宵闇の子守唄

〜5.宵闇の子守唄〜




 ──どのくらいの時間が経ったのか。

 間に何があったのか。

 ほとんど覚えていない。


 虚ろな瞳で、人と人とのやりとりを見ていた。

 人から人へ、受け渡されて。


 村の倉庫。

 広い街道。

 中継地点の町々。

 都アフィリメノス。


 そして、最終的に辿り着いたのが、この施設だった。


 きっと、秘密裏に処されるのだろうと思った。朦朧もうろうとした頭で、それが一番いいのかもしれないとも考えた。


 なのに、ここに来て与えられたのは、処分ではなく、今まで拘束されていた身体の自由と、清潔な衣服と、広い部屋だった。


 持っていた物は没収されている。

 部屋にも、何もない。

 食事も運ばれてくるが、そこにも身に危険を及ぼすような道具は一切ついてこなかった。


 食事を拒み続けていると、数人がかりで無理やり何かの薬のようなものを飲まされて……飲んでから一定の時間は監視され、吐くこともできずに……。

 おそらくは、食べ物と同じような効果があるのだろう。

 ──今日まで、生き続けてしまった。





 周りはもう眠っているのだろう。

 何の物音も聞こえてこない。

 静かな、宵の闇。


 少し落ち着いてきた鼓動と呼吸に、深く息を吐く。


「私は──」


 呟いて、ぎゅっと両目を瞑る。


 奪ってしまった、かけがえのない人の命。

 もう決して戻らない、あの笑顔。


 閉じた瞳に焼き付く鮮やか過ぎるあの日の夕焼けが、記憶に眠る穏やかな日々を燃やした。


「ごめん……なさい……。ごめんなさい……ごめんなさい……」


 もう届くはずのない言葉を、何度も紡ぐ。

 完全に声が出なくなるまで、シェーナは同じ言葉を発し続けた。


 声が伴わなくなって、何度目かの、口を動かすだけの言葉が紡がれたとき。

 ふわり、と、どこからか歌が響いた。


 やわらかく、優しい音色。

 鈴の響きのように、小さく、澄んで響くその歌は、きつく閉ざされていたシェーナの両目をゆっくりと開かせた。


 だれ?

 掠れて、ほとんど空気しか出ないような声で、口の形だけで問う。


 返事は、かえってこなかった。

 ただ、歌だけが、そっと、長く、シェーナへと響いていた。


 どこか懐かしいようなその歌を聴きながら、シェーナは知らず眠りへと堕ちていった。





 カタ……カタ……ガタン。

 遠慮がちに扉が開く音で、シェーナは目を開けた。


 全身に少しだけ、痛みを感じる。

 遠くに、皺一つない、白いベッドが見えた。


 ベッドより少し遠いところに、靴が──人の足が見える。

 足は、壁際に座ったままのシェーナへと近づいてきて、食事の載った盆を傍へ置いた。


「お食事をお持ちしました。一時間後にまたさげに伺います」


 もう何度繰り返されたかわからない、いつも変わらない、抑揚のない一言。

 その一言が終わって、立ち上がり、いつもと同じように扉へ向かうはずの足は、何故か途中で立ち止まった。


「それから──」


 思い立ったようにぽつりと呟くと、足は入り口へ向かって声をかける。

 目の前の足よりも細く、小さな足が部屋の中央へと歩み寄り、一礼した。


「はじめまして、シェーナ様。ルーアンと申します。今後三月ほど、シェーナ様のお世話をさせていただくことになりました」


 鈴のような、小さく揺れる花のような声が場に響いて、シェーナは視線を動かさぬまま、瞳だけを見開いた。




 足が……制服に身を包んだ男の人が、入り口から時刻通りに去っていった後も、声は、部屋の中央に留まり続けた。

 食事に手をつけずにただ茫然としていると、声は、シェーナの傍へとおずおずと近寄り、ぺたりと床に座り、座ったままのシェーナの低い視界へと姿を映した。


 声は、少女だった。


 十二のシェーナより、いくらか幼くも見える。

 透き通るような銀の髪を長く垂らして、青とも紫とも言えない藍の瞳が、雪のように白い肌に彩を与えていた。

 裾の長い、淡い色の服に身を包んだその姿は、どこか神秘的で……近づくのに躊躇しそうな気さえする。


「……召し上がらないのですか?」


 少しの間座ったままシェーナを見守り、それから何かを考えるようにほんの少しだけ首を傾げた少女は、シェーナへと視線を合わせて言った。


「……」


 口を開こうとしたけれど、掠れて声が出ない。

 立ち上がろうにも、思うように力が入らない。

 仕方なく首を振ると、少女は俯き、頷いた。


「わかりました。では、せめてお薬のほうは飲んでくださいね。……少しの間でしたらお薬でも持ちますけれど……長く続けば続くだけ、身体は衰えてしまいます。食べて頂きたいのは山々なのですが……」


 少女はどこか切なそうに言うと、入り口の方へ戻り、置いてあった薬と、水の入った木製のコップとを手に持ってシェーナのもとへと戻った。


 長い服の裾が、床に広がる。


「……」


 少女が差し出してくれたコップを、受け取ることはできなかった。


 このまま、消えてしまえればいい。


 声の出ることのない口を微かに動かして、シェーナは少女の淡い瞳を見つめた。


「でも……」


 言葉を読み取ったのだろうか、少女は小さく呟くと、ふと自分の服の袖へと手を当て……それから、はっとしたように頭を振って、シェーナの隣へと移動し、壁によりかかって座り直した。


 瞳を閉じ、深呼吸すると、口を開く。


「幻にしたたりしひとしずく……繋ぎ紡ぎし夢色の……ころもまといて今舞わん……」


 りん、と、鈴が響くような、不思議な音色。


 昨夜、夢現に聴いたものと同じ声音で、ゆっくりと、小さく、唄が紡がれた。


 横を向くと、瞳を閉じた少女の表情があって。

 それは、とても穏やかな笑顔だった。


 シェーナは前へと向き直ると、そっと目を閉じ、耳を澄ませた。




 一音、一音、小さく儚く、確かに紡がれる。

 淡く、淡く、少しずつ彩られていく唄の風景。




 閉じた目に、凍るような寒さが見えた。


 うだるような暑さが見えた。


 陽の光に照らされて金色に光る畑が見えた。


 過ぎ去った日々の中、笑う自分の姿が見えた。




 よくちょっかいを出してきた隣のセフ。


 いつも野菜を差し入れしてくれたエイナおばさん。


 大きな手でわしゃわしゃと頭をなでてくれたウォルトおじさん。


 会うたびににっこり微笑んで手をふってくれた村長さん。




 そして……




 繋いだ手の先に、隣にいた──。




 その姿を想像しかけて、閉ざした目をさらに強く閉じる。


 たとえ懐古だとしても、あの大切な人の表情を、見るのが怖かった。




 ──けれど。




 目を強く閉ざしたところで、想像は止められない。

 動き出した映像は、必然、次の場面へと進もうとしていた。


 観念してイメージに任せたその先にいたのは……



 いつものように微笑んだ、シエラねえさんの姿だった。




 ふと──辺りの風景が歪んで、どこまでも紅い光景が映る。


 目を閉じてしまいたくなるようなその光景の中に、シエラねえさんの微笑みが映し出された。




『助けてくれて、ありがとうね』




 ひとつひとつ、絞り出すように、発せられた言葉。




 思わず手を伸ばしかけて、目を開けて、項垂れる。


 瞳から、一筋水が伝い、顎から落ちて床へ沈んだ。


 力の入らない歯で、下唇を噛む。




 それからは、続く歌を、目を開けて聴いていた。







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