夕暮れの町で・後編

 薄闇が、辺りに漂い始める。

 街からは活気が消え、昼の喧騒が嘘のように静まりかえっていた。

 うたた寝をしてしまったせいだろうか、まだ重い瞼をこすりながら、少女はそっと家の戸を開けた。


「さすがに、この時間になると人はいないね……」


 呟きつつ、静かに歩を進める。

 目指すのは、街からそう遠くない所にある国境だ。


 セレスと呼ばれるこの星には、大小様々な国が存在している。

 ここ、ヴァルドは大きくも小さくもない中堅国家で、ほぼ正方形の国の四辺は、他の国々に囲まれている。

 東には、水の国、アクア。巨大な湖を湛えたこの国には、古代の神殿が立ち並び、参拝者が後を絶たない。

 西には、工業国、ログレア。近年、新技術の開発等で稀に見る発展を遂げている。

 南には、古き都と呼ばれ、半世紀前までは世界の中心であった国、アーリア。

 そして北には、現在の世界の心臓、セレスがある。星の名をとったこの国は、五十年前には無かった国だ。いつの間にか現れて、いつの間にか世界の中心になっていた。領土も年々増しており、ついこの間も、ヴァルドの北にあった小国、エアルが呑み込まれた。

 だから今は、ヴァルドがセレスの隣接国だ。


 今、少女がいる町、フォーレスは、ちょうどセレスとの国境に位置する。

 元々活気のある町だったためか、エアルがセレスに併呑されてからも賑わいが失せることは無かったが、夜間は以前に比べると、かなり静けさが増した。


 セレスは表面上、ヴァルドに宣戦布告はしてきていない。ヴァルドに手を伸ばせば、古き都アーリアとの緩衝材を欠き、戦力が五分五分のアーリアと全面戦争になることが解っているからだ。アーリアにしてみてもそれは同じで、ヴァルドを間に置いて睨み合っているのが現状だ。


 ──昼間は賑やかで、静かだ。


 陽の光に照らされた場所で、鳥は動かない。

 日が落ち、街が静けさで満たされたころ、鳥は飛ぶ──羽音を立てずに、空を切って。


「昨日は、この辺だったかな」


 北の国家、セレスとの国境に辿り着き、少女は誰にも聞こえないくらいの声量で呟いた。


 二月前から、夜のフォーレスは事件が絶えない。

 国境警備兵が急に姿を消したり、街を歩いていた人間が消えたり。見ず知らずの人間が、町を闊歩していたり。


 ──昨日もだった。


「さて、それじゃあ始めますかね……気乗りはしないけど」


 少女は背中まである長い髪を首の辺りで一つに結わえると、何をするでもなしに歩き出した。

 街灯がある町はまだ明るいが、国境付近は生い茂った草木で視界が悪い。

 暗い闇の中、けれど、少女は小型のランプすら持たずに歩いていた。


 ──どのくらい歩いただろう。

 散策を始めてから、もう数時間は経ったはずだ。

 少女は一度足を止め、ゆっくりと深呼吸した。


 と──その時。


 数メートル先で、木の葉が揺れる。

 足音はしない。

 が、風もない。

 少女は慎重に足を進めると、左手をそっと掲げた。


 闇に──はしる。

 音も無いそれは、数メートル先の木の葉を、木もろとも切り倒した。


 ドォオン──

 木が倒れる音。


 ガサッ──

 木陰から何かが飛び出してくる音。


 少女はその二つの音を確認した後、小さく息を吸い──


 舞った。

 誰にでもなく、ただただ、舞うために。


 舞った。

 瞳に深い闇を映しながら。


 少女を取り巻いていた草木が、円形に倒れていく。

 木の葉と雑草は宙を舞い、天へと昇っていった。


 何も無くなった円形の場所に、人が一人、倒れていた。

 傷は所々にあるものの、致命傷は無い。

 少女はそれを確認すると、一文字に結んでいた口許を少し緩める。


「ごめんね」


 気を失っている人間にそう囁くと、左手で念じながら抱え上げた。

 両腕には、人の重みは無い。

 肌に触れるか触れないかのところで、その人間は宙に浮いていた。


 ヴァルド側最北端の町フォーレスと、セレス側最南端の町……旧エアル国の町、セレネは近い。人の足でも、二時間あれば着く距離だ。

 国境地帯が草木の生い茂った林道になっている以外、これといって障害は無い。

 少女の<力>をもってすれば、警備兵に見つからず、気を失った人間をセレネに運ぶことができた。


 少女は人間──おそらくはセレスの間者──をセレネの門に横たえると、再びフォーレスを目指した。


「急がないと……」


 二人分の気配を消しながら移動したせいで、時間を浪費してしまった。

 空が白み始める前に、フォーレス側に戻らなければならない。

 先ほどまで黒々としていた空には、青みがかった色が混じってきた。

 あともう少しで、夜明けだ。


 空の色が変わる──

 濃い藍色から、鮮やかな朱色へと。


 家々の白壁は仄かに赤みを帯び、街灯は一つ、また一つ、静かに眠っていく。


 カタ、ガタガタ。

 早々と開店準備をする朝市通りの窓が開き始めたころ、少女は町外れの自宅のベッドに伏していた。


「……あぶなかった。間に合った……。よかった……あぶなかった……」


 切れ切れに息をしながら、仰向けになり、手の甲で額の汗を拭う。


 今回は、時間がかかりすぎた。

 戻ってくるのがあと少し遅ければ、見つかっていた可能性が高い。


 国境の町、フォーレスを守ること。

 それが、少女の役目だった。

 否、守る、と言うと語弊があるかもしれない。セレスとヴァルドは友好関係にある。ただし、実際国境を越えるには厳重な審査が必要で、国交は無いに等しいという、表面上の友好関係ではあるが。

 それでも、セレスから軍隊が、ヴァルド最北端の町フォーレスに攻めてくることは無かったし、フォーレスにも、ヴァルドの軍は駐留していない。

 互いに少数の兵士が、国境を警備しているだけだ。


 ならば不法の国境越えも容易であると思うのが常だが、セレス領セレネの町の後方、歩いて半日の距離には、セレス遠征軍が駐留している城塞都市シリルがあり、運良く国境を越えられた者の命運もここで尽きてしまう。

 ヴァルド側も同様に、フォーレスの後方、歩いて約一日の距離に城壁の町、ラシアンが位置しており、東西に広く伸びた城壁が、向かうものの行く手を阻む。国境に軍を敷かないかわりに、ヴァルドはラシアン以南を首都からの遠征軍で固めている。

 城壁からはみ出す形で国境近辺に位置するフォーレス、セレネの両町は、軍同士の対立の無い証…表面上の平和の象徴であり、事実上、二国の緩衝地帯であった。


 少女の役目は、危険人物にフォーレスを通過させないこと。

 夜陰に乗じて忍び込もうとする輩、工作員と疑わしき人物を、ラシアン軍の手を患わせずに、フォーレスで食い止めることだった。


 あともうひとつ──


 少女は横になったまま少し考え、首を振り、そして、寝る準備をするために立ち上がった。

 井戸から水を汲み、大きな桶に水を張る。

 そこに体を沈めると、ゆっくりと息を吐き出した。


 少し経ってから軽く食事をとり、町に喧騒が戻った頃、少女はそっと目を閉じた。

 数分後、薄く日の差し込む部屋には、微かな寝息をたてて布団にくるまる、あどけない寝顔があった。

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