第6話 『見えない世界』

 ――一人、また一人。

 今日もまた、前触れもなく姿を消していく。

 行き着く先は闇の中。

 誰も知らない摩訶不思議な現象。

 だが、彼女らは知っている。

 自らの身に起きた出来事。

 それはひたすらに、心も体も恐怖で支配していった。

 彼女らの目に映る景色には、希望の光などと形容できるものは微塵もない。

 視線の先にあるもの。

 絶望、ただそれのみ。

 そして消えゆく者は皆、一様にしてこう叫ぶ。

 ――助けて。

 と。

 


 昨日同様、青々とした空に一つ。主張激しく輝く太陽が、ゾルタニア王国を燦々さんさんと照らしている。

 木陰の下で昼寝したら気持ちいいだろなぁと、若干の眠気を感じながら授業に出席するライルは、頬杖をつきながら窓の外をぼんやりと眺めていた。


 ――次のターゲットはサナ・メルロンド。ライルと同じクラスの女子学生ね。

 ――相手が相手だから、もしかしたら少し手を焼くかもだけど、成功すれば小説の貴重な資料に・・・じゃなくて、彼女が変わるきっかけにもなると思うの。

 ――んじゃ、頼んだわよ。ライル♪


 昨日、エリシアが別れ際に話した言葉。

 ライルはそれを思い起こしながら、右隣に座っている少女を横目で見遣った。

「――では、このページを・・・サナ・メルロンドさん。読んでもらえる?」

「へ・・・あ、あぁぁああはは、はいぃ!」

 突然指名されたことに驚いたのか、少女は目を見開き、跳ね上がるように立ち上がる。

 自身の声が裏返ったことに気がつき、髪先が内に巻かれたナチュラルボブヘアの少女――サナは、目を潤ませながら赤面する。

 教師は教科書の文章に目を通しながら、彼女が読み始めるのを待っていた。

 しかし、一時待てど中々読み始まらない。

 不思議に思った教師は、

「八行目の『火の魔法と』ってところから読んでもらえる?」

 読む場所がわからないのでは、と思ったのだろう。行を示してから再び彼女を見遣る。

 だが、サナは読む箇所がわからない訳ではなかった。

 肩に力が入り、腕をピンと伸ばしたまま教科書を持っている姿はまさしく緊張しているのだと、教師は察する。

「あ・・火?・・・ひ、ひひ、ひひひははわわわわわ」

「さ、サナさん?大丈夫?」

 常軌を逸した声の震えは、教科書に目を向けていたクラスメイト達の視線を一点に集中させた。

 一変した空気、そしてクラス全員が自分に注目していると気づいたサナは、心臓の鼓動も緊張も限界突破したのだろう。

「ヒッ!」

 ぷつんと何かが切れたように、突如その場に崩折くずおれた。

「――え?・・・サナさん!?た、倒れた!?ちょっと、誰かー!いむ、医務室の先生呼んできて!」

 サナが倒れるという想定外の出来事に、授業は一時中断。

 養護教諭が来るまでの間、教師は慌ててサナの元に駆け寄り、できる限りの処置を施す。

 一人の男子生徒は指示通り率先して医務室まで養護教諭を呼びに行き、サナを心配して周囲を取り囲む学生も散見する。

 だが、そんな生徒はクラスの中でもほんの一部の人間のみ。

 残りの生徒は席に座ったまま動くこともない。

 クラスに漂う空気は、驚きや心配など、サナを思いやるものではなかった。

 ある者は溜息を漏らし、またある者は嘲笑を浮かべる。「またか」と言わんばかりの冷ややかなものだった。



「なぁなぁ、ライル。今度のクラス会でやる出し物、決まったか?」

 今日の授業が全て終わった放課後。

 ロッカーの荷物を手提げ鞄に入れ、帰宅の準備をしていたライルに金髪頭の男子学生が話しかける。

「いや、まだ何も決めてないな」

「マジ?まだ何も決めてないのかよ、大丈夫かー?」

 ライルは手を止めること無く、淡々と帰りの準備を進めていく。

「クラス会って明後日だろ?まだ時間あるし、なんとかなるだろ。そういうコウルはもう決めたのか?」

 一通り帰り支度を終えたライルは金髪頭の少年に向き合い、問いかける。

 期待していた質問が来たのだろう。口角を上げ、前髪を触りながら少年――コウルは得意げに、

「俺?俺はな、マジックを披露する予定だよ」

「へー、どんなの見せる予定?」

「ふふふ・・・、それは当日までの秘密だな」

 勿体ぶるコウルに、ライルは気になって仕方がない様子で、

「えー。いいじゃん、ちょっとくらい教えてくれたってさ。誰にも言わないから、な?」

「ったく、しょうがないな。じゃ、ライルには特別に教えてやるよ」

「やった!サンキュー。で、どんなのするのさ」

 コウルは人差し指を突き立て、間を取る。そしてライルだけに聞こえるよう小声で、

「実はな、水のま――」

「ねぇ見た?今日のアイツ、まーた授業中に気絶しちゃったよね」

 若干のネタバレを語ろうとするコウルを遮るように、女子グループが騒ぎながら話す声が教室中に響き渡る。

 クラスの中でも一際目立つ様相の彼女たちは、周囲の目を気にすることもなく授業中に起きた一幕を話し始める。

「見た見た。なんか変に声上擦ってたし、しかも白目向いて地面にビターン!って。気持ち悪ぅ」

「もう何回目って感じよね。・・・アイツ、他の人に迷惑をかけてるって自覚無いでしょ」

「これじゃあ、今度のクラス会でも同じように倒れるんじゃね?次は口から泡吹きながらとか」

「いやいや、そもそも学校こないっしょ。どうせビビって家に引きこもるって」

「ちょ、ほんとに来なかったらマジ爆笑なんですけど」

 一斉に高笑いする彼女たち。

 今ではギスギスした嫌な雰囲気だが、当初はこんな風ではなかった。

 彼女たちも倒れるサナを心配して声をかけていた時期もあった。

 だが、短い期間で同じことを繰り返すサナを見て、心配する周囲の声は少しずつ別物に変わっていった。

 ――わざと倒れているのではないか。自分を悲劇のヒロインとでも思っているのか。

 そんな心無い噂が徐々に広まっていった。

 そして気がつけばサナに隠れて悪口を呟く集団が現れ始め、彼女の居場所はとても小さなものになっていた。

 決して心地の良い会話ではない様子を離れて見ていたコウルは、

「アレは流石に言いすぎだろ・・・。サナだって好きで倒れてるわけじゃないだろうに」

 ライルもコウルと同じ気持ちだった。

 サナを助けてあげたい。そう思っていたライルだったが、中々タイミングを掴めないでいた。

 ――彼女が変わるきっかけにもなると思うの。

 エリシアが話した言葉。それは相手の心を読めるエリシアだからこそ、サナを心配して選んだ言葉だったのだろう。

 正義感の強いライルにとって、やっと巡ってきたチャンス。

 一刻も早く、彼女を助けてあげたい。笑顔にしたい。

 ライルは女子グループを見つめ、そう誓いを立てたのであった。



 コウルと正門前で別れ、一人帰路につくライル。

 正門を出て左に曲がった先にある並木道は、長時間の授業で疲れた生徒たちの心を癒やしてくれる。

 その並木道を多くの生徒が皆同じ方向に進んでいく中、ライルは道の途中にある細い路地裏に入った。

 辺りを見渡し人がいないことを確認してから、

「もういいぞ、クロ」

 その一言を聞いてか、歩くライルと足並みを揃えるようにクロが姿を現す。

「うん。今日もお疲れ様、ライル。待ちくたびれちゃったよ」

「悪い、ちょっと友達と話し込んでいたからさ」

 立ち止まり、膝を屈めてライルはクロの頭を少し乱暴に撫でた。

「いいんだよ。友達と仲良くできているのは、ボクにとって喜ばしいことだから」

 クロは乱れた毛を繕い始める。

 クロとの生活はもう長いが、今でもこのシーンは癒やされる。

 体型も昔と殆ど変わっていないため、小さな動物が手足を使って必死に毛繕いする姿はなんとも愛らしい。

「それで、彼女を助ける方法は見つかったのかな?」

 乱れた毛も綺麗に整えたクロは、ライルに向き合って依頼の話題を振る。

「いや、正直いい案が出てこないんだよな。声をかけるにしても、前回のテルの様にすんなり話してくれるタイプじゃないだろうし」

 臆病で内気な少女だ。

 クラスの人間に対してもどこか他人行儀であり、話しかけられても長く会話をしている所を見たことがない。

 ライルに至っては依頼遂行となると、どうしても変装しなくてはならない。

 変わった装いをした見ず知らずの人間から声をかけられたとなると、こちらと会話する意思すら無くなってしまうだろう。

「うーん、中々手強い子なんだね。ライルが依頼で詰まっている所、久しぶりに見た気がするよ」

 いたずらっぽく笑うクロに、ライルは頭を掻きながら、

「うっさいなー。自分を変えようだなんて思うことは簡単だけど、根幹はそう易易と変えられないんだよ」

「ふふ、やっぱり人間は面倒な生き物だね」

 ライルは再び歩き出し、後を追うようにクロも動き出した。



「やっべ、教室に忘れ物しちまった」

 道中、何かを思い出したライルは自身の鞄の中身を漁りだす。

 だが、目的の物が入っておらずライルは歩みを止めた。

「おや、何を忘れたんだい?」

「エイトから借りてた本だね。鞄の中に入れたつもりだったけど、うっかりしてたな。取りに戻らなきゃ」

 ライルの幼馴染――エイト・アーマインから借りた一冊の本。

 暇そうにしていたライルを見て「これ、読んでみて」と渡された本だったが、正直あまり期待をしていなかった。

 だが、存外面白いストーリーであり、時たま読み進めるには丁度よかった。

 もう少しで読み終えるだけに、このまま教室に忘れたままにしておくのは少々気持ち悪い。

 通ってきた道を戻ろうとするライルだったが、

「明日じゃダメなの?」

 特に予定が無いとは言え、ここから戻るとなると時間がかかる。

 そこを心配したクロの提案だったが、

「最後の方を少し読み残しててさ。今日中に読み終えて、明日には返したいなって思ってね」

「なるほど、それじゃあ戻るしかないね」

「そゆこと。んじゃ、回れー右ー!」

 ライルは忘れ物を取りに戻るため、通った道を辿り始めた。



「――とは言ったものの、軽く駆け足しただけでも疲れるな」

 足早に歩き始めて十分ほど。

 教室のある棟に到着したライルは息を切らし、膝に手を当て呼吸を整える。

 決して早いと言えるスピードではなかったが、当事者としては目一杯の速さで歩いたつもりでいた。

「もー、距離とスピード考えても息を切らすほどじゃないと思うけど・・・。貧弱すぎぃー」

 息切れ一つしないクロは、情けない姿のライルを見て棘を含んだ言葉を投げかける。

「いいんだよ。無駄に力があっても持て余すだけだし。最低限の体力とかパワーさえあれば充分なんだよ」

「うーん、ライルの最低限は程度が低いからなぁ。同世代の平均を下回ってそうだよね」

「ははは、問題ない、問題ない」

 呼吸も落ち着いたライルは、長い廊下を歩き始める。

 校舎の窓から見えるグラウンドには、いつものように運動部が大きな掛け声で練習をしていた。

 だが、熱のこもった張りのある運動部らしい掛け声とは別に、

「・・・ん?」

 柔らかく、おしとやかな印象を受ける音がライルの耳を打つ。

「クロ、何か聴こえてこないか?」

 問いかけられたクロも足を止め、音に集中する。

「言われてみれば・・・。誰か歌っているみたいだね」

 ライルは再び耳を澄ます。

 耳に入った音の正体。それを探るように、目を閉じて全集中する。

「女性の声・・・だよな。何だろう、透き通った声っていうのかな。綺麗な歌声だなぁ」

 音の正体。それは女性の歌声だと結論づける。

 音楽系の部活動はコルタニア学園にもいくつか存在するが、歌声はライルのいる棟内からのもの。

 部活動関係の部屋は別棟にあるため、部活動生の歌声ではないだろう。

 つまり、一般学生がどこかで歌っていることになるのだが、

「あれ、ライルの教室からじゃないかな?この歌声」

 クロが突き止めた歌声の発生元。それはライルが日頃滞在する教室からだった。

「うそ、俺のクラスから?一体誰が・・・」

 音を立てないよう教室に近づき、扉の窓からそっと中を覗く。

 そして、教室内から聞こえる歌声の正体に、ライルは思わず目を見開いた。

 彼の目に入った人物。それは、

 ――サナ・メルロンド!?・・・嘘だろ、マジかよ。

 他人から注目されるのが苦手で、昼間の授業中、気絶して倒れた少女――サナ。その人だった。

 ――あの歌声の正体が彼女なのか?・・・意外だ。意外すぎる。

 予想外の人物に驚きを隠せないライルだったが、何かを思いついたのか、クロを抱えてサナに気づかれぬよう後ずさりする。

 そして教室からある程度距離をとってから、

「クロ、いけるか?」

「おや、なにかアイデアは浮かんだのかな?」

「ちょっと、な。上手くいくかどうか分かんないけど、試してみる価値はあると思う」



 少女は鈴蘭の如く純白で屈託のない、可憐な笑顔で気持ちよく歌っていた。

 今この瞬間、この空間だけは自分のもの。

 そう言わんばかりのサナの姿は、教室内を間違いなく彼女の色一色に染めていた。

「ふぅ。・・・気持ちよかった」

 一通り歌い終わったサナは一息つき、体外に出ていた自分自身を、ゆっくり丁寧に体内に戻していく。

 ――こんな時間が、いつまでも続いてくれたらいいのにな。

 そんな風に思いながら余韻に浸っていた矢先、教室の扉から突如拍手が聞こえてきた。

「ひぅッ!?だ、・・・誰?」

 突然の拍手にサナは逃げるように窓際へと移動し、涙目になって体を強張らせていた。

「すまないね、驚かせてしまって。あまりにも綺麗な歌声だったものだから、つい聞き入っちゃったよ」

 称賛の声を投げかける人物。

 見たことのない濃紺の羽織物、独特な音を醸し出す履物。そして極めつけは目と花を覆うように着けられた白と赤が混在した装飾品。

 どれも初めて見る格好をした男――ライルの姿を見て、サナの彼を見る目は更に険しいものになっていた。

 警戒心を強める少女を見たライルは自身の装いを見て、

「あぁ、この服?これは『浴衣』で、顔に着けているのが『お面』って言ってね。どれもこの世には存在しない、唯一無二の物らしいんだ。・・・って言っても、譲り受けたものだから俺も詳しくは知らないんだけどね」

 少しでもサナの警戒を解きたいライルは、自身の服装を軽く説明しながら、やれやれといったポーズを見せる。

 目元は見えないが、口元の微笑みを見ると感情はなんとなく読むことができる。

 少なくとも彼は私に危害を加える人物ではない。

 そう感じ取ったサナは、少し緊張がほぐれたのだろう。固く閉ざした口元をゆっくりと開き小さな声で、

「あ、うぅ、えーっと・・・わ、私に、何か・・・?」

「そう、サナ・メルロンド。俺は君に用があってここに現れたのさ」

 警戒も少しは解けたと感じたライル。

 だが、サナにとって今のライルは変な服装をした怪しい男性。見ず知らずの男から自身の名前が出たことで、サナは再び警戒心を強める。

「っと、そんなに警戒しなくたっていいんだけどな。流石の俺も困っちゃう」

 何も考えず名を呼んだが、確かに知らない人から名前を呼ばれると怖いものだ。

 もう少し段階を踏むべきだったなと反省し、

「君のことを心配している人から依頼されてね。その人物から君のことを少しだけ教えてもらったのさ。だから名前を知ってるってワケ」

 名前を知っている理由を話す。

 ライルにとっては同じクラスメイトなのだから名前を知っていて当然ではあるのだが、現状依頼経由で知ったことにしなくては話がこじれてしまう。

 ライルはこじつけの理由にどこか気持ち悪さを覚えてしまった。

「私を、心配して・・・?」

 心配の二文字に反応したサナは、驚いた様子を見せながら、

「・・・こ、こんな私にも、気にかけてくれる人がいるんですね。・・・少し、嬉しい、です」

 強張っていた表情が少しだけ、柔らかいものに変わっていった。

「それじゃ、早速本題に・・・といくつもりだったけど、その前に少し話をしないかい?」

「いきなり、ですね。私、あなたのお名前、知らないです・・・」

「おっと、そうだったね。失礼」

 サナにライルの、引き上げる者サルベラーとしての自分を知ってもらいたい。

 そんな気持ちがあってかライルは咳払いし、真剣な眼差しでサナ目を見る。

 そして自身の胸に手を当て、

「心奥底に抱えた想いの結晶を引き上げて、一歩を踏み出すお手伝い。不思議な服を身に纏った謎多き青年。それが俺、『引き上げる者サルベラー』さ。どうぞ、よしなに」

 演劇を見せているかの如く熱のこもった迫真の動作。

 左手を腹部に当て、綺麗に腰を曲げた敬礼。

 ――決まった。

 台本のない、アドリブを効かせた自己紹介。

 自身でも納得のいく紹介なだけに、手応えは充分だった。

 ゆっくりと敬礼を解いていき、彼女の顔を覗く。

 だが、ライルが期待していた顔とは程遠く、ポカンと口を開き、何が起きたのかと硬直したままのサナがそこにいた。

 咄嗟に考えた自己紹介。

 ――これは今後、改善する余地がありそうだ。



「それにしても驚いたよ。君がそんなにも歌が上手だなんて」

 爆死した自己紹介から数分。

 少し落ち込んでいたライルも今や気持ちを切り替え、自分の席に座ったサナに向かって言葉をかける。

「・・・小さい頃、お母さんがよく歌ってくれた曲、なんです」

 歯切れが悪かったサナの喋りも、少しずつはっきりするようになっていた。

「へぇ、お母さんが」

「私、真っ暗な所が苦手、でして。当たり前なことですが、夜になると外が暗くなるじゃないですか。部屋の明かりが灯っていたら大丈夫でしたけど、・・・寝る間際に明かりを消すってなると、怖くて泣いちゃってました」

 昔の自分を思い出してか、サナは柔らかな表情を見せていた。

「そんな時、お母さんが枕元で頭を撫でながら、歌ってくれまして。・・・優しい声が、『怖い』って気持ちを和らげたのだと思います。気がついたら私、いつの間にか眠っちゃってました」

「優しいお母さんなんだね。・・・お母さん、か」

 燃え盛る炎のように綺麗なオレンジ色の空を見ながら、ライルは呟く。

 決して憂いを帯びた表情を見せていた訳ではない。だが、サナはどこか物寂しげな雰囲気を彼から感じ取っていた。

「・・・?どうかしましたか?」

「いや、こっちの話さ。・・・それで、ずっとお母さんの歌を聴いていたら、いつの間にか覚えていたってことかな?」

「そうですね。寂しい時や落ち込んだ時に歌って、自分を落ち着かせています」

 その言葉を聞いた時、ライルは一つ合点がいった。

 彼女は不本意ながら昼の授業中、教室内で倒れている。

 今日に限った話ではない。幾度も経験してしまっているからこそ、どうやって自我を保っているのだろうかと気になっていた。

 母親が歌っていた心から安心できる大切な歌。

 それこそがサナ・メルロンドという人間を支えているのだと、ライルは感じた。

「因みに、その歌の名前ってあるのか?」

「・・・はい、ちゃんとありますよ。”常闇とこやみ”って、言います」

「とこやみの、ひ?・・・初めて聞いたな」

「私も、お母さん以外が歌っている所を見たことがなくて。・・・もしかしたら全然知られていない、マイナーな曲かもしれませんね」

 記憶を辿っても、似たような曲を耳にしたことがない。

 サナが言っていることは、あながち的を得ているのかもしれない。

 そうライルは一人結論づける。

「なるほど。その常夜の陽を歌ってたってことは、・・・何かあったってことだよな」

「え?・・・そう、ですね」

 先程までの和やかな空気が一変。

 そろそろ頃合いだろうと舵を切ったライルの一言は、サナの表情を少し強張らせた。

「サナ。君は今、悩み事があるんじゃないか?」

「悩み事、・・・ですか」

「依頼主から聞いた話だとね、君は緊張のあまりよく気絶して倒れてしまうらしいじゃないか」

「・・・」

 痛い所を突かれてしまったサナの表情には笑みと呼べるものはない。

 だが、ライルはその変わりようを気にせず話を続ける。

「その人は君が倒れる現場を何度か目にしたらしくてね。周囲の人間やサナ、君自身のことを思うといよいよ居た堪れなくなったそうだ。『もしかしたら、倒れる自分のことで悩んでいないかな』って」

「・・・」

 俯いたままのサナの沈黙は続く。

 この話はエリシアからではない。

 同じクラスで過ごしているライル自身が思っていたこと。それを依頼主が言ったかのように表現したもの。

 若干の罪悪感を感じながらも、彼女のためを思うと言わずにはいられなかった。

「そこで、俺のもとに依頼が来たんだ。『サナの悩みを聞いてはもらえないか』って。きっと、何か解決の糸口が掴めるかもしれないからって」

「・・・」

「どうだろう。一度、腹を割って俺に話してみないか?もしかしたら何か助けになるかもしれない。クラスの人とだって、学園生活だってもっと良いものになるかもしれない。だから――」

「お話は、それだけですか?」

 必死に語りかけるライルの言葉は、サナの一言によって遮られる。

 先程まで俯きながら話を聞いていたサナだったが、遮った途端に顔を上げる。

 その顔はライルが今まで見たことのない、怒りを含んだものだった。

「え?あぁ。そう、だね」

「・・・そうですか。・・・ごめんなさい。今日はもう、帰ります」

 サナは自身の鞄を持って席を立つ。

「ちょちょちょ、ちょっと待って。帰る?急にどうした、この後予定でもあるのか?」

「・・・違います」

「じゃあどうして・・・、どうして急に帰ろうとするんだ?」

「・・・これ以上話を、したくないから、です」

「したくないって・・・。それじゃあ、君の悩みは解決されないぜ?」

 突然の帰宅宣言に焦りを隠せないライルは、どうにか彼女をこの場に留めさせようと必死に言葉を続ける。

「周囲の視線ばかり気にして、縮こまってばかりでいいのか?さっきの君の歌声、表情、仕草。どれもとても魅力的だった。こんなに素晴らしい側面がありながら、何故その姿をクラスの人間に見せようとしないんだ?自分を変える大きなきっかけになると思う。なのに、どうして・・・」

 ライルにとって、この発言は彼女を思いやった精一杯のものだった。

 サナに集中する視線、そして空気が彼女の緊張を激しくさせている。

 だが歌っている姿のサナは周りを気にせず、自分だけの世界を作ることができていた。

 ならば、その姿をクラスメイトたちに見せることができたのなら少しは緊張も解けていくのではないか。

 彼女は、サナには素敵なところがあるんだと、そうわかってもらえるはず。

 しかし、サナには彼の真意は届かない。彼の言葉は、

「――いて」

「ん?」

「放っておいてください!私は・・・私は!今のままで良いんです!」

 サナにとっては目に涙を浮かべ、怒りと悲しみの入り混じった表情をさせる凶器となっていた。

「名前を呼ばれる度に緊張して、皆の視線を一気に集めて、頭が真っ白になって気がつけば倒れてしまう。・・・クラスの皆には迷惑かけてるなって思います。・・・凄く申し訳ない気持ちでいっぱいです。それが原因で私のことを色々言っている人もいるんだってことは、なんとなく・・・察しがつきます」

 サナの体は小刻みに震えていた。

 自身が感じていたもの。それは他人であるライル以上に、彼女がよくわかっていたことだったのだろう。

「サルベラーさんの言う通り、確かに自分を変えたいなと思ったことは何度もありました」

「それなら――」

「だけど!・・・怖いんです。変わろうと決めて、いざ実行に移そうとしたその瞬間、・・・悪いイメージが私の頭をよぎるんです。・・・今の自分が消えて、生まれ変わった自分の姿が想像できなくて。変わった自分を見る周りの視線に耐えられそうもなくて。なにより、今の生活よりもっと酷いものになるんじゃないかって。そう思うと・・・。私には、変わろうとする勇気が・・・無いんです」

 今まで心に溜め込んでいた物を吐き出すように話すサナ。

 ライルはもう、何も言うことができないでいた。

「だから今のままが一番楽で、安心できるんです。周囲の目を気にしながら、細々と過ごす、今が・・・」

 悲しい言葉だった。

 何度も何度も、諦めてしまった彼女だからこそ辿り着いてしまった結論。

「さようなら、サルベラーさん。私は、・・・帰ります」

 彼女はそう告げると、突っ立ったままのライルの横を通り過ぎていく。

 扉の閉まる音を最後に、教室から一切の音が消える。

 今のライルにはもう、どうすることもできなかった。



 机の上に突っ伏して、ライルは暫く動くことができないでいた。

「・・・ライル」

 落ち込んだ様子のライルをみて、クロは心配そうに見つめる。

「サナのクラスメイトで、倒れる姿を何度も見ているキミだから。彼女を見る周囲の目も知っていたから、なんとかしてあげたいって気持ちは伝わったよ」

「クロ・・・」

「だけど強引すぎだ。その熱意の分、サナの気持ちを汲み取ることができていなかった」

 クロの指摘は間違っていない。

 ライル自身、サナへの思いが強すぎて空回りしていたのではないかと反省していた。

「俺、間違えてたのかな・・・?サナのあの姿を見せることができたなら、きっと皆、サナを見る目が変わると思ったんだけど・・・」

「それはまだわからない。でも、諦めないで。完全にどうすることもできなくなった訳じゃないから」

 クロの励ましの言葉は、傷心のライルを優しく包み込んでいた。

「ほら、今日は帰ろう。しっかり食べて寝て、そしてまた彼女と対峙すればいい!だから、ね。顔、あげよ?」

「そう・・・だよな。・・・こんな所で落ち込んで立ってしょうがないよな」

「そうそう。ほら、本来の目的を忘れずにね」

 言葉では切り替えようと見せたライルだったが、席から立ち上がる姿はどこか頼りなく、弱々しい。

 そんな風にクロの目には映る。

 ライルは自身のロッカーに置き忘れていた借り物の本を手に取り、手提げかばんの中に入れる。

 彼女は変身した相手がライルであることを知らない。

 明日教室で会ったとしても、彼を見て怪訝な顔をすることはまず無い。

 だが、ライルが彼女の顔を見た時、平然としていられる自信がなかった。

 心のどこかにモヤモヤを抱えたまま、ライルとクロは再び帰路についた。

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