第11話 冷夢

――――終わりだ。

 現実じゃないからって、目を背けていた。それは日常に関係のない所で滑っていくのだと思っていた。

 それなのにほとんどやろうとしたことにも力が入らず、冷凍されたままだ。どうやらこの世界は終わってしまう。数々のメディアがまことしやかに叫ぶのは、今後どうすべきかではなくて「慌てず恐れないでください」

 そんな感情に寄りうだけの無力感は皆が共有していた。

 生きるしかあるまいよ。なんで、どうして、こんな恐ろしいことって。

 だから、淫蕩いんとうふけりただただ生き物のサイクルを続けていた。もう終わってしまうから、それらの歴史の最後に、生き物らしく。

 そうやって、小さな火花がきらめくのを続けていた。

 飽きるほど、もうどうしてこんなにぐちゃぐちゃになっているのか分からないほど、世界が終わってしまうという事実から目をそらした。

 そうやって肉を感じて、常に終わっていく肉体とこの快楽の続きは僕らのこの生が不死とそうでない部分に分かれていて、大部分が不死に分類されているように感じた。

「快楽って、死ぬのと同じだ」

 うつろに天井を見つめ、僕は体に手を伸ばす。

 それは不死だろうか。世界は終わるって言っている。現にどこかの大陸の、どこかの国は跡形もなく消えた。

 現場から連絡が入ることもなく、ただ「消えました」と皆が言っている。

「終わるんだから、知っても意味がないよね」

「さあね。ダニとかってただ生きてるし、わたしたちも変わらないよ」

 部屋は湿り気を帯び、どこかでガラスが割られる音が聞こえる。突風でサッシがふるえ、隣に寝そべっていたはずの女は消えた。

 シャワーの音が聞こえる。僕の意識は離散的で、とぎれとぎれの認識しか持てなくなっていた。突然全ての物事が切り替わり、考えていたことが次のシーンでは全く通用しなくなっている。記憶に慣れなくちゃならない。人の営みにそれほど特異なことはないから、それでも生きていける。

 体は冷え切っていた。だから動かせなかった。

 テレビは過去の何かを流して、それが風呂場から聞こえる。

 薄情にも聞こえる軽快な笑い声とコメントと、誇張されたアニメーションの声と、ざあざあとびりびりと風呂場を飛び回る水滴だけが僕になる。

 体に掛けられたタオルケットがあまりにもぴったりと体に張り付いているものだから、僕はそこに冷凍されてしまったんだと思う。

 暖かいシャワーもそれは想像だけで、冷水が流れているかもしれない。

 だらららら、と浴室の扉が開いてまた同じだけ閉じる。ばち、ぱっ。じゃわあああああ、ドライヤーがその熱風で髪を乾かす。もう明日にも世界が終わるかもしれない。

 それなのに、日々の生活は不死のように振舞う。それをすればまた明日がちゃんとやって来るんじゃないかって、皆そう思っているようだ。

「今日はカレー作るねー!」

「はーい」

 これは演技だ。人が人と関わる時、常に何者かを演じている。これまで経験してきた生活のやり方、家族との生き方、それが「死」を提示されるまで変わらないものとして日々を演出し続ける。


 僕は凍ってしまった。それだから、こうやって体も動かせない。


 そんな気持ちとは裏腹に体を持ち上げて、ベッドの上にあぐらをかく。端に置いた常温の水で喉を潤す。ガラガラとした渇きが消える。

「カレーを作るには、野菜を買わないと、肉を買わないと、後は卵も牛乳も。あー忙しい、ねえ聞いてる? お風呂入っておいてね」

 一人取り残された。元々そうでなかったか。


 お湯が流れ出す。シャワーヘッドは結構前に壊れてホースだけになっている。さっきシャワーのざああという音が聞こえたはずだった。今日はカレーを作るんだっけ。

 浴室の外側にビニール袋が置かれているのが見える。僕は服を着たまま、久しく体を通していないジーンズとジャケットが水を含み重くなって動けない。

 ただ動けなかった。ポケットが膨らみ、ひっくり返せば水は流れる。ぐるりと中から石と固められた紙が流れ出す。

 取り出し忘れたものと、入るべきではないものが排水溝でせき止められる。

「今日はカレー作るね。今日はそうするね、明日は一緒にいられるかもしれないから」

 服は脱がない。お湯は気付けば冷水になる。冷たい浴室に沈んでいく。

「そうだね。一緒にいないといけない」

 服は脱げず、体に力は入らない。じっと眺めていれば、足は浴室に生え揃う。プラスチックと同じように薄いクリーム色をしている。一緒にいないといけないから、冷たいのでそこで冷凍されている。

『小さな一歩を踏み出そうね、そうするしか。なんだよ』

 まだ小さなころ、言い聞かせるようにして何度も僕の顔を見ていた人は幼稚園かまたは何かの集まりだったか、黒々とした目の底に固定されて動けなくなった。

 その時に肩にかかる体重のせいでここから動けない。小さな一歩を踏み出した。そうしたつもりだった。

「今日も世界は終わるって、皆焦らないで慌てなくても変わらないって、スーパーはとても静かで、自動販売機から出て来た瓶を割って遊ぶ子供の注意して、お爺さんが救急車で運ばれてね、どんどん通り過ぎていくの」

 ああ、そうでした。

 浴室で固まっていたから、それは終わっているのと変わらないよなんて思ったけれど、空気は自由に出て行く。僕の声は自由に広がり、減衰して消える。

 この震えが意識だった。浴室越しに話す今日のこと、ザクザク刻まれる大根。じゃあじゃあと鍋に張り付く鶏肉。換気扇でつながっているから、お風呂と料理も同じように外へ流れていく。

「進歩的機械で足を伸ばそう」

 口からそう出た。プラスチックの衣が柔らかく脱皮する脚。ざらざらとしたシボ加工された足は元からそうだったかのようで、僕の体はシボ加工がされて自分じゃないみたいだ。

 水は止まり、戦闘機が遠くで流れ、何か大きな振動と音がやって来る。

 電気が消え、浴室から出ればそのままにキッチンの火は消えず、大量の食材が詰まった鍋と、ルーだけが残っていた。

「それならこっちへお願い」

 小さな一歩を踏み出そう。そうするしか。それしかない。

 ぺた、またはぬちゃりと床が濡れている。重いから安心できる。まとわりつくからシボ加工で距離を取る。

 外は青空が一面に広がって、太陽は心地よい温度と湿度を保っている。


 対して部屋の中は採光が悪く少し暗い。

 ここにはいないね。太陽は。


 布団もなく、リビングは元々あった本棚、エアコン、棚、全て消えている。寝そべって、呼ぶ。

 女は床の何かを見ていて、ぱたり、ぱたりと左右の足を上げては下ろしている。足の裏は埃やらで汚れ、部屋着はフローリングと同化したような色だ。

「なにを見てるの」

「なにも。こうしてるだけ」

 隣に寝そべり、少し口をやわらげ目地と人工的な木目に指を這わせる。蠱惑こわく的、または快楽に属している動きで、開いて閉じた。

 少し動いて体を寄せられる。その熱は僕を凍らせた。溶けだして体が動かない。

「小さな一歩なんて、ここでカレーを作るようなものじゃない」

 指先に力が入り、爪の先が白くなる。爪の光沢のある薄い桃色は生きていると主張している。ぐぐぐ、と床をなぞれば埃が削れる。見えなかったけれど汚れていたのだ。

「きれいになったよ」

「そうかもね」

 そこから床は裂けて僕の頭は落下していく。床と同化した女はまた立ち上がってカレーを作るのだ。誰でも同じ味で、誰にでも提供できる食事が僕だって出来たのにと思い、またこの意地の悪さ故に落下するんだと、あまり感情は動かされずきれいになったよと言う。


 *****


 どうやら僕は記憶の断絶があるようだ。

 透き通った宝石が小さな川を流れるのを見る。隣には永らく一緒にいたであろう男が竿を振るう。周囲は白く、地面はしっかりと乾いている。

 宝石は焼いて食えないもんだから、価値がない。

 雑に血抜きされた雑魚が積まれ、周囲の生臭さに気付いた。

 夢というものが続き、地下茎リゾームの如く全てを内包し混ざりつつある。さまざまな意識があり、そのどれもが死に繋がっている。

「つかぬことをお聞きしますが、ここは死者の国ですか?」

 落下していったような気がして、足がそこに根付いていたような気がして、世界は終わったのだろうから。死者の国があるのかと思った。

「はあ? 釣るか釣らないか、国家なんて解体されちまったよ」

 引き揚げられた糸の先には瑪瑙めのうからみ、その先に色とりどりの宝石で出来たエギがぶら下がっていた。

 パシャん、割らないよう慎重に放られる。

 何度かゆする内に瑪瑙は転がり、エギは他の宝石と混ざり分からなくなった。

 僕が眠っている間に、記憶が途切れている間に、多くのものが消えていった。魚は積まれているのに川には何もない。宝石だけが流れて、それ以外ないようだ。

 さまざまなものが夢の間から顔を出し、それらはかつて見た幻想物語で、妖精や神の世界を望郷していた現実家、合理的でいて、疑うことをやめない生活にうんざりしていた。

 糸が流れに揺蕩たゆたうのを見る。川の先に白い山がそびえてそこまでは草木ひとつないがれ場が続いている。

 僕はペヨーテを探しに中南米へ向かった。アヤワスカを手に入れ、その苦い苦い儀式の先に夢の世界が見えた。

 そのようなことを繰り返していたら記憶が断絶した。

 というようなことも自己の経験と断絶している。そんなことをした覚えはない。

 は、あまりにも空虚だ。


 川は流れている。それだけははっきりとしている。


「***おにーさん***」

 もしくはリップサービス。

 川辺を漂う小悪魔はその尾を引っ張って遊んでいた。または僕にまとわりついた。

 柔らかな春を感じる匂いが魚をかき消し、そんな季節があったことを思い出した。

「なにを望んでいるの?」

 自分が何を望んでいるかも知らないのに、わかりきった小悪魔の望みを確認する。

 何かを聞くのは自分の回答を探るためだ。僕に答えはない。だからこんなにも記憶は胡乱うろんで、水面に映る老い始めた顔と体を持つ以外にわからない。

「いやですねー、いやですねー。単純になろ?」

 そんなことを言って消えてはまた現れる。全てをあの摩滅まめつ、もしくは愛と呼ぶだけの不理解。

 例えば、幻想生物が全て性の領域に消費される。愛しているよ、とは、1射精につき1度。誰かの世界観との接続だけが愛の概念を教えてくれた。

「気持ちよくなればなんでもいいよー」

「うるせえなぁ。夢と死の領域を持ち込まんでくれ」

 ぼやく釣り人。引き揚げられた先にビスマス結晶。

 その人工的に見える四角の連続構造は僕たちの住む都市を思い出させた。

「あの領域から逃げてきたんでしょー」

 コミュニケーションだろうが。

 夢魔を叩き脇へ追いやる。もしくはそれらが離れている。

 それは小悪魔であったが、単に快楽だけが頭に流れていた。それは歌だ。

「死と夢は地続きでさ、見ろや」

 次に宝石の中から釣り上げたのは半身の怒り。砂上の近代都市群が栄えてついえたその繰り返し。感情は流れるから、釣りあげられれば空虚に映る。

 サッと引き上げられた半身の怒りはすぐに消え、白い破片としてそこら中に散らばる。

 僕は、連続したことがない時を過ごしている。この場所も、釣り人も続きながら断絶する。

 帽子と紅茶が巡り生首を銀の皿に置いて踊る。身体中の金銀宝石、全ての資本を差し出し他者を助けるのみの像は天を巡る。巡るは桃で、どこまでも転がり、ワインの賭け事は策略さくりゃくで運すらない。

 鍛冶場から世界創造の意識の流れ。僕はどこから始まったんだろうか。

 表皮的にしか世界を理解出来ないものだから、二項対立と暴力、一方を見えない所へ追いやるまで分けていく。その中で生きる人はお構いなしに、事実だけが僕の土として現れる。

 僕は、人間を知らない。

「なにボサっとしてんだ、釣るか、去るか、さっきっからよお、そうして何年過ぎた? 数分か」

「釣り竿がないからね」

 書いたことがあるならなんでも。羊は描かれなくともその箱の中で弱々しい鳴き声をあげ、ゲオルギウスの竜殺しは僕を刺し貫いたが、竜とは哀れな生贄に過ぎぬのだろうその血が川を流れ泡立ち、黄金の竜は人によって眠らされ、巨人は大地を支え続ける。

 全て人々のための舞台であり、彼らは物言わぬ不死のままだ。

 その中を出勤する沢山の電車とその中身は人ではなく数々の記録と不死の大群だ。

 固められたもの。僕は川辺に落ちている宝石を1つ手に取る。

「お前が釣った魚だ」

 釣り人にとっては全て同じ魚。釣れればなんでもよかった。

 宝石を割るとすぐに透き通るのをやめた。白く、用を成さないそこらに散らばる石。この川辺と大地はそのようなもので出来ていた。


 川に透き通る宝石に釣り人、彼の名はなんと言ったか……


「思い出してみろ。生魚」

 また1つ、死んだ魚が積み上げられる。その底には血が溜まっているんだろう。

 意味ありげな目配せの後は必ず死んだ魚が釣れる。宝石しか見えない川から、その栄養のなさそうな川から、魚が取れるならそれは死んでいる。

 僕は生魚と呼ばれた。ただ横に積まれた死んだ魚と姿はかなり違っていた。生は魚を別のものに変えたのかとにかく僕は魚でもない。

「泳ごうとしてみて、泳げる? はは、無理だよキミじゃあね」

 飛び立つハルピュイアは汚れを持ち込んだ。汚れは流され、川は徐々に拡大している。最初は小川ほどだったが、もう大海のように広い。

「生魚だから、泳いでみろ」

 足を水につけてその無感覚さに驚く。空気と変わらないように、するりと川の中に吸い込まれた。

「うわっ」

 ずばあ、ぐごごごろ、ぐぷぷ。水中に入り込む感覚は変わらなかった。慌てて腕を振っても抵抗はなく落ちるばかりで恐ろしくなる。

 振り乱して、その内に水中で止まった。苦しくもなく、水の中の音の感覚だけが残っている。川は深く深く、底は遥か下に有って色とりどりの宝石が光っているのが見える。

 水は透明で、光はどこまでも透過していく。壁のように見える岸の方からは太めのラインが垂れていて、カラフルなエギが踊っているのが見える。

 腕を振っても動けない。脚をばたつかせても動かない。泳ごうとしても泳げない。あの小鳥ハルピュイアは知っていたから笑っていた。

「生魚だから、生魚だから、魚らしく?」

 漂う人魚あるいは水母はほとんど透き通って内臓もあるか分からない。形だけが浮かんでいる。

「絡めて、抱いて、釣り人さんへ」

 浮遊感とこそばゆさを感じながら、その触手はとても慎重に動く。張り付く。後ろに大きなものがいる。体を動かそうとしてもなにも出来ない。

「ほら抱いて、エギだよ。ほんとはこっちを抱きたい、ほらいくよ」

 釣り人のエギは川の中ではとても大きく、放られた僕はその端にぶつかりながら掴まる。

 するとラインが引き込まれていく。

「戻ってね。小鳥は悪戯好きだから」

 離れていくものは体の色を変えてもう来ないよう威嚇する。あれはイカだ。名残惜しさもなく、スッとすぐに透明になって見えなくなっていった。


「生魚、喰われなくて良かったな」

 引き上げられて、川の外側に移る瞬間に僕の体もエギも大きさが戻る。慌てて川岸で藻掻もがこうとして、膝と顔を地面にぶつける。

「泳げない。泳げない。なーんにも知っちゃいない」

 ハルピュイアは常にうるさく、邪魔する以外の要素を持たない。

 僕は濡れていない。けたけたと甲高い哄笑こうしょうが頭上に響く。彼らは決して1匹だけではないから。

「うるせえ! 静かに釣らせろや!」

 釣り人が石を投げれば大げさな悲鳴を上げて少し距離を置く。

 誰が置いたか電信柱があって、がい子の上に止まって毛づくろいをする。ぴいぴいぴい。ちゅちぇちぇ、ぐがあ、げらげら。どこにも接続されていない。

「釣ってんのはさ、対話だがよ。かつてイワン野郎が同じように垂らしてたもんだ」

「現世から夢へ、夢から死へ。全ては混然として、ワタシが生まれた」

 そんなところに木は生えていただろうか。釣り人と面した僕の後ろ側、広くぎざぎざの葉をつけた木が伸びている。そこから声が聞こえた。

 そうしてその端から姿を見せた女はするりと柔らかくこちらへやって来る。

 一目見て、それは愛を求める美しさであることは明白で、それは母なるものをも想起させる。黒と紫、差し込まれる金色。それらを基調とした光沢のある布。またはドレス。

「誰だろう。知っている?」

 釣り人は首を振り、垂らした糸の方に意識をやる。拒絶を感じた。

「分からないままでも、すぐに気にならなくなるから、ね」

 次々に現れては消える夢魔はかつての醜い魔女の姿を失った。とにかく体も顔も何もかもがそれそのもの以外に規定されなくなった。

 或いは姦淫を誤魔化ごまかすための建前から飛び立つ。夢は全てを曖昧に、疑問は全て気にならなくなる。

 そうやって差し出された腕も吐息も、なにもかもが触れずに通り過ぎた。

「生魚は泳がないから、ほら、こんなにも」

 夢は死と連続しているから、襲われ、しかしそれはすり抜ける。

 その女の全てが僕を通り抜けて、心臓の部分から腕を出したりしてくすくすと笑っている。その態度は少女のようにも思えた。

 数々のものが通り過ぎた。始まりはただ愛を求めた。僕はただすり抜けていった。

 僕の世界からズレているから、それは本来の形からかけ離れる。

「悲しいわね、誰ともすれ違わないのって。もっと混ざり合いましょう」

 そう言った女の名を僕は知らない。体は愛を体現した。その一挙一動の全てが、ただそれだけを求めていた。恐ろしい死はないのだ。混ざればそれらは柔らかい。

 僕は人間を知らないから。

 人間たちが生み出した様々なものがすり抜けていった。

 白く巨大な山は陽の光を浴びて輝き、遠くにその巡礼者が見える。10^-43秒後に生まれたものと、その終わりと、冷えた極点から始まったこの巡り合わせが僕たちをここへ引き連れた。

 死の明滅の瞬間、細胞の崩壊の最期に現れる発火と、それによって見出されたリゾーム。巡礼者にも話を聞かなければ。

「あいつら答えねえよ、この宝石と同じだから頭をかち割ってやれ」

「ふふ、固いものを柔らかくするのも、また悩むの」

 釣竿にかかるセイレーンまたは絡み合う不死を面倒くさそうにはたき落とし、それらは川に還った。

 川には詩篇しへんの含まれた瓶が漂う。その文字はどれも見たことがない。その一つを拾い上げれば、瓶はすぐさま暗く閉ざされてしまう。

 かつて世界の終わりがこの世にやってきた時、それらは無数にやってきた時、温泉の端から端へ蝋燭の火を渡し、愛、または聖女、母なるものは浮かび、混ざり、交接は終わりを退ける。

 その瓶を抱いて寝転がる。雑草がサクサクと音を立てる。けれども元は石があったから気持ちよくはない。

「見るだけしか出来ないけれど、それもまた夢の途上」

 その上から組み伏せられた時に共鳴する。中のうねりは血の流れと、この意識を続けさせようとする無意識な体、システムの一部であるがそれ故に無意識を知覚できない。

「ああ、中に、中に。ああ、酷く痛むのですね」

 なにをいうのだろうか。背中から宝石が入り込んでひどく痛む。僕は異物だ。感覚の何もかもがズレている気がする。

 なにも望みませんから、ただ地の塩でありますから。かつて泊めるのを拒否したものは彷徨さまよった。僕は瓶を握りしめ、目をつむり、その中で火がきらめくのを見る。

 僕は無意識にさまよう。かつての聖地は二分され、枯れ果て、無価値な男たちを生かすために聖母から分離した母なるものが愛を求める。または教える。繰り返す。

 もっともっと、望みは際限なく、その痙攣けいれんの中で死を知らぬまま、世界は救われた。


 眠っていたのだろう。酷く痛むのだから沈み込む。

 沈む? 浮かぶ?

 詩篇が瓶の中で繰り返す浮沈。

 

 取り出され見えなくなった言葉の隅々まで。

 痛みとは柔らかさを覚えるためだけにあった。


「焼けばいいだろうに」

 次に目覚めた時、僕は川辺から離れていた。波の音、にぎやかな声、ざりざりと口の中に入り込む砂。

 誰かの放った言葉に気付き体を起こす。体中がべたついていた。熱。

 焼けた巨大な鉄板が目の前にあり、砂浜に沿ってずっと続いている。それは地平線をまやかすのに一役買っている。その先にある太陽すらも歪んで見えた。

 だるほどの熱気、生きたまま苦しむたこ烏賊いか、その触手ののたうつ様はこの熱をうんざりさせた。

 いつからいたのだろう、柔らかいものは僕の首に手を回している。ヒヤリとした腕は青白く、熱を絡め取ろうと指は僕の動脈を探してうねる。

「なにがお望み? あたしたちならなんでもしてあげられるよ」

 これも夢の続きなんだろう。彼女らは常にそこらに曖昧に存在している。僕は弱々しく伸びて焼けてしまった烏賊の触手をつまむ。

 裂けた、裂けた。口に入れてくちゃくちゃとやる。

「あっ、臭いんだ」

 サッと腕は離れ、烏賊の味が口に広がる。振り返った先には青っぽい彼女らは過去すべてに分化して水際ではしゃいでいる。

「生魚は焼かないか?」

 忙しなくトングとヘラを使いこなし、食材又は自分の仲間を焼き上げ、周囲の者に配るのはタコ。器用に空いた触手で山積みにされた食材を指す。

「焼かない」

 チャキチャキとヘラが食材を細かくしていく。貝殻や様々な容器に放られ、それを受け取る。僕は特になにも希望しない。

 色々な感覚があって、またそれが遠くに感じられる。

「焼かないか」

 すこし残念そうにタコは次なる者の相手をする。インド人がつぶらな瞳で豆を焼けと言い、その脇ではネコが文句を言っている。

「豆なんてないの。野菜なんていらないってば」

 タコは目を細め、体の色を変えた。ヒョウモンダコの鮮やかな星々が現れ、どこからかスパイスを取り出す。ネコは嫌な顔をしてサッと消えた。

「スパイスから焼かないか」


 この場所は一体どこだろうか。

 長い長い砂浜と豊かな騒ぎ。僕の記憶にない。


 巨大な水槽が砂浜に沈んでいる。大半は砂の中に埋もれているのか、少し背伸びすれば上から中が覗ける。深い青と縁に据えられた目の細かい網とポンプから延々と海水が組み上げられて様々な生き物が網から移され食材になる。

 ずっと組み上げ続けても、魚はなくなる気配がない。

「この際生魚でもいいから、手伝ってくれよ」

 太いホースを支える男から声を掛けられる。ポンプから出て来る海水が砂浜に流出しないよう細かな調整をしているのだ。

「いや、オレが入ろう。生魚は落ちたやつを拾ってくれ、お願いする」

 僕がよく分からないままに近づけば、体の大きな男がそれを制して交代でポンプを支え、とにかく大量の食材が必要だ。この鉄板全てで焼くんだからなと忙しない。

「ほら、こっち! 拾ってさ、入れるんだ」

 ネコとイヌはおこぼれを狙い、それを止めようとする。まだ生きている魚介を素早く拾ってはカゴに入れる。忙しなく歩いて拾うのは日焼けした女。

「おっそいなあ、そんなんじゃ日が暮れちゃうよ」

 拾って入れる。拾って入れる。理由は分からないけれど、やった方が良さそうだ。

「あ、毒あるやつもいるんだった。分からんよね?」

「分からない」

 と拾い始めようとすると慌ててこちらにやってきてカゴを取り上げられる。

 返事をする前から分かっていたように女は頷く。

「生魚だからなあ。っま、いいや。やっぱなしなし」

 何かをしなきゃいけない。ここにはそんな気配がある。けれど生魚はその限りじゃない。そんな示し合わせがあるかのよう。

「だからー。なんでもしてあげられるのに、来ないの?」

 曖昧に存在している者たちを無視して辺りを見れば、ずっと先まで続く砂浜と鉄板に並走している道路、ピックアップが走りどこからか陽気な音楽が聞こえる。

 生演奏だ。

 

 鉄板は 焼こう。

 溶けて 溶けて どうすんだ。

 熱は、 熱は、 溶けたものがいる。


 CRE MA TIA BO' W-Q

 HINH HINH TFREOL


 ポリリズムと繰り返される打楽器の打ち鳴らしと強弱。

「冷えろ! 冷えろ!」

 裏に差し込まれる掛け声とは裏腹に奏者は絶えず汗を流す。横断幕には『YRE YRE TUTU』と書かれ、砂浜の上に小さなステージが据えられている。

「さて、どうか。この」

 強い日差しと早まるリズム。流れる音楽に耳を傾ければ足を叩かれる。

 足腰はしっかりとしているのに杖を持った短いパンツを履いた人がいて、もったいぶったその様子は演技めいていて手のひらで支えた紙皿の上に生きたイカが乗る。

 足を優しく叩いていたのはこの杖だ。

「シメて。あたしは怖いのさ」

 短髪と刈り上げ。髪色は海の浅瀬のようで、割れたガラスレンズの眼鏡を首から下げていた。真鍮しんちゅうメッキのチェーンが太陽にまぶしい。

 小さなイカだ。恐らくアオリイカだろう。紙皿の上で茶色のまだらで威嚇してくる。指を近づければ触手で抱こうとする。


 鉄板は 焼けた!

 焼けて 張り付き どうすんだ。

 皮は、 体は、  焦げちまったよ


 YRE MA THIA BOoooeee' W-Q

 HINH HIiiiiiiNH TFREOoooooL


「あんがと。じゃ、またね」

 肌は黒く、白い砂浜とのコントラストが印象的だ。

 僕は演奏と歌声の盛り上がりの中で小さなアオリイカをシメた。職種と目の間をきゅっとつまみ、うろ覚えだったから最初に上だけ白くなる。

 やり直して真っ白になったイカは動かなくなった。音楽はカーン! とカラッとして抜ける音で少しの間空白が生まれた。

 シメられたイカは白というか、柔らかなエメラルドグリーンも混ざっている。杖を持った人が焼いてもらうのかと思って、足取りを目で追う。男か、女か、そんな単純な話じゃない。

 シメたイカは砂浜に沈んだ巨大な水槽の中へ放り込まれた。水槽の表面は藻や貝類で埋まり、黒々とした影だけが泳いでいるように見える。ぱしゃ、沈むイカ。その後に聞こえる大量の跳ねる音。

 と、それに混ざる演奏終わりの打楽器のソロ。

 揺れる大地とひびが入る水槽。

「やっばい。シメたら入れちゃいけないって、やっばいって」

 逃げないと。

「ポンプを止めろぉぉ!」

 騒いでいるのは水槽周りの人々。ばしゃん、ポンプは止まり水槽はばぎばぎと白いヒビが稲妻のように走る。

 周囲から生き物が離れていく。曖昧なものたちは水辺ではしゃぎ、水槽が割れそうなのを見て楽し気に笑う。

「鉄板はもう冷やせないか。潜るぜ」

「泳ぎたくなかったのに、はぁ。ほら、野菜はもういいでしょ」

 タコは砂の中に潜って消え、ネコやインド人はぶつくさやりながら浜辺に浮いているエアーボードに乗って漕ぎだしていく。

 現実味のないまま、僕は水槽から深いところの水が漏れ出すのをぼんやりと見ていた。その海水は光があまり届かないのか黒々とした青色をしている。

 海は広がり、水槽の残骸はすぐに見えてなくなった。なっている。なる途中で、漏れ出す範囲は広がり、ここが底になるのだ。

「もう、一緒にいるしかないけどね」

 インクを流すように砂浜が青くなっていく。それらはしみこまず、ただ溢れる。

 僕の足元に溜まる海水。触れればひやりとして、心地よい。

 体にまとわりつく夢の続きは僕の体を支え、まさぐり、水槽は破れる直前だ。


 ――っど、ずわおずわお、ごご、ごご。


 水槽が割れ、溢れるのを待ち構えていたかのように海水は固まりとなって迫る。混ざる。混濁する。押し込まれる。潰される。

 一瞬にして冷たい海水の中で転がった。流れ出す海水の中ではイワシボールが沢山転がって、それを追うサメ、サメを喰らおうと深海から狙うダルマザメ、イルカ、飛び出すシャチ。

 その中でもゆらりと漂う水母。流れなど、溢れなど、まったく意にも介さない。

 海を喰らう水槽の海。僕は砂浜から遠く遠く、海の中で海の上を滑り、混ざり、生き物が進化と頽廃たいはいを繰り返す。退化はその後の生魚だ。

「だいじょうぶだよ、そんなこわがらなくても」

 柔らかな体が転がる僕を傷つけない。ゼリーのように包まれていた。

 間違って何かを飲み込んでしまった時に、もう助からないなんて思った。

 転がされて、様々なものがぶつかって、あるいは通り過ぎて目まぐるしい。それでも体を支える夢の続き。望んでいましたか?

「すがたやいみはまざるから」

 または水槽が壊れて転がった。全ての生き物は水槽の中にいるから。

 イワシボールも、シャチも、ひとも、タコとサメが踊るのも、怒られた人が神を叫び、怒るものは太陽となって深い青をたたえる海水を照らした。

 光は透らない。けれど内側から乱反射する。天から降り注ぐ光の帯と遥かな雷鳴と遠大な雲。

 生魚はその間を飛び、唸る風、優しい熱、ビキニ環礁から消えた小島、溶けて圧縮され、ただれた鋼鉄と終末の黎明れいめい。自我は転がり、乱反射しては抜け出せない。

 偉そうな態度のひとが見せる微表情は恐怖で占められ、シメたイカは白く口腔こうくうで暴れまわり、喉を傷つける。

 ――……! ‥‥!!!

 声が出ないのは海水の中にいるからでも、夢の続きに支えられているからでもない。

 喉を傷つけられたのだ。

「水槽に投げ入れていいのは生き物だけだから、傷つくのは当然だよ」

 水槽から出た海水が全てを占め、僕は転がるのをやめた。

 背中から体を包んでいたゼリー状の軟体の彼女らはするりと体から剥がれて海水を漂う。

「生魚は、生魚か」

 声は出なくとも光は感じる。その声は低く、低く伝わってくる。

 そうやって太陽は僕に向けて撃ちだされて、僕は水の中で焼かれた。焦げる皮膚、またはうろこえらを傷つけられれば一瞬だ。

 太陽を賛美するものがいる。砂埃にまみれて、荒々しい声で呼んでいる。

 海水なんか関係なく、自由に歩き回り、叫ぶ。

「銃は殴るもの! 祈れ! 殴れ! 太陽は撃ちだされる!」

 彼はヤマダと名乗った。自身をシュっとした顔立ちのアラブ人だと説明して、けれども信仰は忘れてしまったとさまよう。

 理由はなく、彼は海に浮かぶことだってある。

 なぜ、

「それは太陽のせいだ。撃ちだされた銃弾で念入りに殺された。けれども怨んじゃいないさ。だって一瞬だったもの。それよりも、撃った方の苦しみを想像する」

 声は出なくとも意図は通じる。彼は続ける。

「ここには神なんかいないからさ、オレは世界巡りの途中なんだ」

 日雇い労働や、路上販売で旅の資金を得る。ソ連の映画で未来都市が首都高だったように、この奇妙な連中の住まう土地を歩く。

 沢山の家族と友人の元を離れても良かったのか、喉元でわだかまる言葉と一瞬だけ見せる悲しみ。

「そんでよ、太陽を見付けて、撃ちだせって」

 弾丸は発射されなければならない。金貸しの老婆に一撃を加えなければならない。現世の聖人は死後深く臭う。その腐臭に困惑する。

 僕の皮膚が焼けたのは、彼が持つリボルバーが太陽を発射したから。

「ああ、やはり苦しい。これは苦しいぞ、生魚よ」

 軽やかなステップが海水を漕ぎ、彼は溺れているように見えた。自由に動き回れるのに、ただ流されるだけの生魚とは違うのに、

「オレ、ただのヤマダなんだ」

 日本的なんだ。陰陽と鳥居と慎ましやかな愛と大和撫子なんだ。日本の生まれさ。

 言えば言うほど、彼はアラブ人のように見える。気さくな、それでいてどこかに覚悟がある。

 けれども、今あるのは向けられた銃口から太陽が飛び出るのを見るばかりの意識。

 熱にさらされ、膨大なエネルギーとしてことごとくを消化する。シンプルな恒星のカタチがある。

 

 僕は焼かれた。

 死後臭うのは、焦げた体。

 YAAALLA YAAALLA


「どうしたの、もうだいじょうぶなのに?」

「アッ! ここは……」

 わたしたち消えちゃうね。

 青っぽい軟体の彼女らは小さくしぼんで地面に吸い込まれていった。

 僕の目には小さなダニまで見える。その一つ一つの中に消えていった。


 ただ。

 なんてことはないように。消えていった。


 星空はこぼれ、この切り立った場所では小さな居場所しかない。

「なあ、生魚は食べられないよな」

 転がった先に海水は引いていく。

 荒涼とした岩場に生き物の姿なんか全く見えない。引いていった水に残された生魚は唯一、この小さな足場に立つ。

 降りるか、落ちるか、底の見えない岩場はただ闇だけを映し、頭上には隙間なんてほとんどないくらい星で埋め尽くされている。

 遥かな距離はその関係を縮小する。その一つ一つの生魚は、まるで一つだ。

いただきがここにあるの思い込め。よくよく大地を見直してみろ」

 誰かの声が響く。けれど周囲を見渡しても人はおろか、生き物の姿はない。

 眼下は急峻な岩場で、灰色や赤茶けた無機物の世界が広がっている。

「そんな下にはいない。思い込みとは空飛ぶ兎にも等しい」

 声は頭から降ってくる。途端に聞こえだす羽ばたき。フレーバーとしての役割しか持たない羽。それは肉体を支えるにはあまりにもひ弱に見えた。

 上方で飛ぶのは羽の生えたヒトだ。僕にはそれが男か女であるかわからない。

 肉体的な美しさは性を超越するのだろうか。

「いいや、見方の問題だね」

 思考は読み取られ、または分かりきったもので、そのヒトは笑う。

 ほら、とばかりに僕の上を下を左を右を飛び回り、後ろに立っては体を抱く。

「どうだろうか、私は女と言えるか? 男と言えるか? 感覚でわかるか?」

 分からないはずがない。

「女だと思う」

 言ったそばから自信が失せる。そのようにも感じた体の柔らかさは、しなやかで健康的な肉体でいながら、引き締まった筋肉と力強さも感じられる。

「感覚はウソをつくぞ。私はどちらでもない。またはどちらでもある」

 そう言って僕の体をまさぐり、そこにあることを確認している。

「生魚なのに鱗がない。お前はなんだと思う?」

「生魚は、生魚」

 もう生魚であることを受け入れつつあるから、そう答えた。

 すると、つねられる。当然鱗なんかないから、痛いだけ。

 のはずが何かが剥がれていく感覚がある。

「それならこれは、なんだろうね?」

 そうやって眼前に示される鱗。指に抓まれた光沢のある魚の証。

 驚いて体を触っても、そのざらついた感触は感じられない。

 あれ。

「服は着ていたはずだけど、生魚は服を着ないって? そんな」

「私は何者か? 生魚は鱗もなく生身をさらした、この無機質な塔と悪魔たる私は火にくべられるか?」

 悪魔の指は僕の口を捉える。無理矢理にこじ開けられ、頬を引っ張られ、口は塞がれ、僕は言葉を無くした。

「火は隠せ、私はくべられた。あの愛は、溶け出し、もはやお前からは見えぬ。生魚はそこを通っただろう? 悩ましく、混ざる前に通り過ぎたのだ」

 もう片方の手で目が塞がれる。爽やかなライムの匂いがして、僕は足場を見失った。

 飛んでいる。風が吹きつける。浮遊感はどこへ向かう?

 目はなく、口は話すための役割を放棄している。生魚は少しだけ積もる塵を食べて、闇の中を漂う。ただそれだけのために生きている。

 ガスが吹き出して、その周りを覆うエビ。堆積するチューブワームは彩りを添えたが、それは誰も見ない。


    空へ?

             大地は?

                       どこにも。


 体は熱を持ち、大気は僕らを焼く。浮遊感は落下を続け、空気は熱を持つ。

 そうやって焼かれた体は大気に冷やされる。

「冷えた肉は弱く、開く疵口きずぐち、私を焼け、焼け、どうだ、愛は飛び去り、混ざるそばから吹き飛ばせよ」

 悪魔は何かを言っていた。僕には知覚だけがある。触れる肌、熱、愛、それらはめしいで、言葉などない。

 ただ、ただただ、焼かれながら冷やされる。抱かれたから、逃れられずにいる。


    下へ?

             落下は?

                       確実に。


「くべられる前に、溶け出す前に、私は通り過ぎなければならない。生魚は浮かび、宙に舞う」

 大気を突き抜け、大地を貫通し、星が割れた。音はなく、ただ感じる熱と破片と光がそう感じさせる。

 落下は遂に全てを破壊してしまった。

 混ざる前に下へ、下へと、上に消え去るものは全て、僕とこの悪魔以外だ。


 その先に何かがあるとは思えない。

 けれども、目の前に確実に広がる何か。居るだけで確実に存在する。


 振動と震える肉と、荒い息だけが僕を支える。汗ばんだ体と、湿ったTシャツは冷えていく。

 時折吹く風が心地良い。隠された視界と奪われた喉は戻ってくる。

「ただ求めるものを頑張って用意したのだが、少しばかり問題があるからとヒトは文句ばかり言うのだ。反対に、生魚は求めるものが見えぬ。その気になれば愛ですら用意するのだが……」

 TシャツにはかすれたTがある。白地に橙と紫のグラデーションが消えかけているものの、新しい肌触りがした。

 悪魔は目を細め広がる廃墟はいきょを指す。

 コンクリート製の1〜5階建てが規則もなく乱立する。その中に混ざる黒っぽい木造建築、這い回る電線と入り組んだ路地が見える。

 見覚えの有りそうな、僕の住んでいたような、住宅街のような街並み。

 計画もなく、無軌道に建てられ、行き止まりや謎の暗渠あんきょがあった。警戒的な老人の目と、子供の走り回る私的領域。

 拒まずに呑み込まれる。生活の一部として、そこは帰る場所だ。

「逃げ場はない。混ざり、入り組んだ袋小路は入念に計画された。『合理性』から、生魚はそれが分からない」

 日が差して心が失われる。

 全てのものはそうなるように出来ていた。

「誰もいない?」

 言葉は宙を彷徨った。

 広がる家々を残し、悪魔は消え去る。背後にはずっと、赤茶けた砂礫の堆積する荒地が続いていた。

 清々しい天気と、死んだ建築物。やはりどこにも行けず、海から飛ばされていった場所に、人々は隔離されていった。仕事と、生活と、森も海も通り過ぎるだけ。

「袋小路で生魚は迷う」

 僕は分からないのだから、計画はなく、迷う。

 魚は囲い込まれれば逃れられなくなる。原始的な手順に従って、何もわからないのだから、袋小路に滞留する。窒息する。

 声は吸い込まれ、響かない。


 少し歩けば物音のしない密やかな家々と人々から取り残された掲示物。そこには営みが書かれている。

 町内会、例大祭、ちょっとした習い事など。雑多な人々の生活、そこにいるから息づき、色づくもの。

 靴は履いていなかった。所々隆起してひび割れたアスファルトを肌で感じる。その間に見え隠れする雑草がこそばゆい。

 そんな刺激で僕は無軌道に方向を変え、住宅の入り口を見る。

 全て開け放たれて、人の気配はなかった。他人の居場所だからか薄暗い洞穴のように感じる。

 途中で行き止まりに当たれば引き返して、真っ直ぐ進む。電源の落ちた自動販売機に安く増量ばかりされた缶を見る。当たり付き。

 掲示されている缶は倒れ、幾つか抜けている。

 ここは、生活から取り残されて、そのままになった場所だ。

「閉じられてしまった」

 ぺたり、と地面を感じる。適度な刺激と、その気になればいつでも引き裂ける大地の怒りがある。

 なんとはなしに行くべき場所があるような気がしている。けれども悪魔の言う通り、生魚には分からない。

「なんだ、生きているじゃないか」

 雑草と肌の感覚にそんな言葉が出る。1つ、ガラスの割れていた5階建てビルが気になった。外側に張り出した看板は薄汚れて判読できず、ビル自体も黒い汚れが満潮の跡のように染みついてしまっていた。

 ここは隠されているから。入念に計画されたものだ。

 ドアが開け放たれたビル、またはマンションに踏み入れば薄暗く埃が積もっている。長い間使われなかった入り口に小さく用意されている守衛室は小窓がなく、小さな机にはタマゴの殻が散らかっていた。

 だからだろう。ここには水が流れる。サラサラとした流れは奥の暗闇からこちら側に来ては渦を巻く。

 ぴしゃ、ぴしゃ、とタマゴの殻の上で跳ねる水滴は繰り返され、時計の針のように機械的でいて僕の目を捉えて離さない。

 水が垂れ落ちるから、殻は少し動く。そのうちに小さな欠片が水に浮かび机の外側に進み、落ちる。

 守衛室は吸い込まれていく。水量は増え、底へ底へと、流れ落ちる。

「吸い込まれそうだよね」

「いいや、吸い込んでいるんだ」

 現れた2人組は非常に小さい。指の関節一つ分ほどの人生は楽しいだろうか。こちらを見て、大げさに呆れた顔をする。

 街は滅んだから、人は小さいのだと思う。

 彼らは現れたのではなく、もともと守衛室のはめ込みガラスがあったへりに腰掛けていた。カシャカシャと音が鳴るウィングスーツに身を包んでいる。

 それぞれ緑と赤を主に白の指し色が入ったもので、若い男女だ。

「危ないんだ、あんた生魚だな」

「見てなかったよね」

 僕の指と彼らとの間はほとんどなくて、叩かれる。

 痛い。小さくとも、その手にあるガラスの破片は大きな指を傷つせるのには十分だ。ぷつりと血の点が生じる。

「とても、悪いことをした」

 気付かなかった。それだけで取り返しのつかないことがある。そんな時は胸がざわつく。

「とても、とても、悪いことを」

 もうなんにも出来ないんだ。この時は繰り返すから戻らないんだよと、クラス全員からの糾弾きゅうだん俯瞰ふかんしていた。大縄跳びに失敗したのだ。

「それならさ、屋上まで連れて行ってね」

「降りたんだよ、ここまで」

 早く手のひらに乗せてよとせがむので、縁に手を寄せてやった。

 気になったから、取り返しがつく。

 少なくとも、それが世界の一部だって知ることが出来るから、失ってもいい。

「わかったよ」

 誰かの期待に応えるのは良いことだ。

 ごぼ、ごぼ、ぶすゅあ、と守衛室は失われていった。

 僕がその場を離れて、それだけで壊れて、黒い黒い濁流に呑み込まれる。ずず、ず、とビル全体が滑るような音を立てる。

 崩れて潰されてしまいそうだ。それでも、屋上を目指すことにした。


「普通に行けると思ったのなら、間違いだな」

「降りてきてないんだよね」

 階段は中途半端に途切れているのが常だ。どこかへ行けるようで、迷う。

 ここは、2階まで。その先は滝になっている。どおお、と大質量の水が階下に空いた深い穴に落ち込んでいた。

「生魚はどうするんだ」

「そのウロコとエラで泳いで見せてよ」

 滝はビルを穿ち、空を映し出していた。その光で無数の埃が舞うのが見える。

「僕は泳げない」

 なによりエラもウロコもないから。

 滞留する空気は湿っていた。所々から滴る水とふやけた紙屑。

「ふーん」

 それで、どうするの。と僕の指先まで歩く。危ないけれどお構いなしだ。

 気の向くまま、生魚は漂う。

「上るんだ。泳がないで、生魚だから」

 滝は昇るもの。生魚の感性はそう告げている。何より、空が見えるのはそこだけだったから、他にやりようがない。

「へえ、間違わないんだ。偶には、分かっているね」

 そんな気がしていた。初め、川に飛び込んだ時も、砂浜で海が溢れた時も、僕に水の感覚が無かった。だから、ここではそうなんだと思う。

「ちょっと、入るね」

「気にせず上るんだ」

 小さな二人は腕を伝い、服の中へ消える。皮膚が引っ張られその隙間に入り込む感覚がある。鱗が生えているかもしれない。

 落下していく。滝は落下していく。

 消え去るためにやって来る。滝の中にきらめく銀色は上へ上へと遠ざかっていく。

 底を覗いても闇が広がるばかりで、きっとその先は呑み込まれた宿直室へ繋がっているんだ。

 屋上を目指すには、この滝を上らなければいけない。

 見上げてもその水が遠くの空から降り注いでいるのが分かるだけだった。

「飛び込むかい?」

 僕の恐怖を感じ取ったのか、体から声が震え出す。

 その小さな人の言葉には答えず、滝に手を差し出せば、ぐらぐらと涙が流れる。

 理由もなく、滝に近づけば涙が出るのだ。

「触れたら、もう上るしかないね」

「そうかもしれない」

 約束してしまったから、また水の中へ。

 今度は、自分から望んで飛び込む。そうしなければならない。

「まだ、やり残したことがあるんじゃない」

「ゲームじゃあるまいし、もうこれしかないんだよ」

 本当だろうか、滝から溢れた水を体に浴びてまた、Tシャツは体に張り付く。動けないような感覚はなく、僕は自由に体を動かすことが出来る。

 冷たくもない。太陽の暖かさもない。

 ただ濡れる、湿った体と滝に伸びる手。僕は昇る、上る、のぼった。


 ――きゅうおわ、ごわお、ごわお、びゅう、ごば、ぼば。


 滝の中に入り込み、その怒濤どとうのような水圧の力に何も出来ない。手を上げようとも、体を、足を振ろうとも、ただ下へ下へと落ち込むより他ない。

 ただ落ちるだけの滝が僕らを下に引き込もうとするから、体は丸まり、眠りの中にあったあの恐れを感じる。

 こうやって1度死んで、また起きて、その死んだ後に広がる無窮の闇と布団から体を出せばそこから崩れて落下していく。

 だから腕を、足を、その両方を繋ぎ、上るなんてことはまったく考えられない。

 ただ、滅茶苦茶に、ただ、圧縮されるように、ただ、轟音だけが僕を包み、途方もない距離を落ちていく。

 それはまるで自ら押し出されていくような感覚で、大質量の水は僕をここから追い出そうとしている。

 だから、それに抗う必要はない。

 けれど、それに恐れる必定のことわり。

 ごぅわごぅわごぅわ、その中で奈落へ、あの深い穴の闇の中へ。滝は1つの方向へとずっと伸びている。

 耳も、目も、口も、鼻も、まったく用を成さず、瀑布の中で窒息する。自分の肌に触れている感覚だけがすべてになる。


 ――生魚だからな。上るしかない。


 それがすべてだから、感覚に従えば上っている。滝は押し上げる水で、僕は上へと上昇する感覚がある。

 体を丸めれば、それは闇だ。どうしようもなく、僕は押し出される。

 それでも真っ白な破砕する水の中にいて、くるくると回るタマゴの殻のように、外から見ればそれはとても穏やかなんだろう。

「思い込んでるだけで、ほら、怒濤なんて嘘だろう」

「気付けなかったら、と心配したね」

 だから僕は丸まっている。全身を押さえつけるような水があるから。

 小さな人の声が聞こえることはないはずだ。轟音も、圧縮も、僕をそれだけの存在にするには十分すぎるほど。

 そのはずだった。

「丸まって、潰れて、闇の中にでも入り込んだか」

「どうだろう、じっと、目は開いているよ」

 小さな人が目の前にいる。あぐらをかく。何回か手を振り、その後はそこらを歩き回る。

 歩き回っている。滝の中で?

 水の中で浮かぶのとは違い、地に足をつけている。

 ビルの上から落ちる滝があって、その中に入った。その轟音に晒されていたはずで、そんなところで歩き回れるはずがない。

「え、どうして……?」

 この場所も流れ、選び取る前から消え去った。

 僕は横たわる。けれどもそれは滝の中ではなく、冷たく堅い地面の上に。

 滝は一滴の雫で、額から零れ落ちて地面と癒着する。ただそれだけで、動き回る小さい人と空に繋がるフェンスと、日差しが右の頬を焼く。

「お、立つんだ」

「屋上から、飛ばないとね」

 立ち上がり、空を見上げれば雲ひとつない中に水滴が1つ。

 それらは地面に幾つかのシミを作っていた。

 崩れかけたビルは半分だけ屋上が無く、階下が見える。どこからかツタがはい回り、シダ植物が茂っていた。

 どうやって上ったか記憶にないけれど、ビルの屋上に立ち、周囲の住宅街が見えるから、小さい人をここまで連れて来れたんだ。と思える。

 そして彼らは飛び立とうとしている。屋上は風が強いから、そうするにはうってつけだ。

「それなら、どうぞ」

 小さな人に掌を差し伸べ、文字通り彼らに手を貸す。

「ああ、気が利くな」

「端に行ってね、善く飛び立てるように」

 小さな人を落とさないように、慎重に風を避けてやりながら屋上の端へ歩く。

 飛び立ってどこへ行くのだろう。

「そんなの決まってる」

「飛んで、どこにもいかないの」

 飛んで、また次の場所で飛ぶだけ。シンプルな答えだけが帰ってくる。答えたことになっていないようにも思えるけれど、彼らは意に介さない。

 不意に強い風が吹き、咄嗟に二人を掌で覆う。

 今度は気を付けているから、危なくはない。そう思ったが、掌の中からチクりと刺す痛み。

「危ないな!」

「飛びかけたね」

 ゆっくりと掌を開けば小さな人はふくれている。

「気を付けるよ」

 まあ、飛ばされたら飛ばされたで、いいんだけどね。と、彼らは飄々としている。また、チクりと掌を刺される。

「ほら、そろそろ行かないと」

「そうだね、それじゃあね」

 屋上の端の角からここら一体を見渡す。代り映えのしない住宅とビル群はやはり人の気配はない。

「それじゃ、バイバイ」

 僕は掌を上に挙げ、小さい人が飛び立つに任せた。

 しばらくすると、先ほどと同じように強い風が吹く。

 指の第一関節ほどの小さい彼らはそれだけでサッと、空に舞い、緑と赤のウイングスーツはすぐに見えなくなった。

 なにしろとても小さかったから。風と空の中に消えて、またどこかへ降り立つ。

 ほとんど何もしていないけれど、彼らを見送った満足感がある。

「ここから、どうしようか」

 見渡せばこの人のいない町はずっと先まで続いていそうだ。

 あとは荒涼とした大地のほかに何も見えない。

「生魚は迷う。ここは袋小路」

 悪魔が呟いた言葉をなんとはなしに反芻はんすうしてみる。生魚とは一体なんだろう。僕はそう呼ばれる。呼ばれるから、その通りの役割をやるだけ。

 そしてここはどこなのだろう。川辺も、砂浜も、頂も、見当が付かない場所だ。

 けれども、僕はそれをそうとして受け入れている。悪魔や宝石の川なんてものが現実にはないことも、この場所がリアルな感覚を持って存在するということも。

 ここに留まっていても仕方がない。

 僕は、ただこの建物群の先まで歩くことにした。


「ずっと、上り坂だ」

 ビルを降りて足の裏が痛くなり始めたころ、この場所が徐々に坂道になっていたことに気が付いた。

 あれから人らしき姿はないままで、開け放たれた住宅、まだ電気が通っていたビル。放置された自転車。抜け殻のようになった町。

 世界が終わるから、ちょっとした思い込みが大きな騒ぎとなって、それで誰もがいなくなってしまったようだ。

 道は徐々に狭くなって、目の前にあるのは、枝分かれした上り階段、小道、はしご、突然の石垣や色々なものを避けるためにそのどれもが折れ曲がり、どこへ繋がるか想像がつかない。

 後ろを振り返ってみれば、この建物群は山に食い込むようにして存在していて、詰め込める場所にぎっちりと詰め込まれたよう。

 山は今いる場所よりもかなり高く、頂上は雲に隠れて見えない。そんな高い場所から、降りて来たのか、はたまた別の場所から悪魔に連れられたのだろうか。

 見上げても連なる建造物しかなく、これがずっと続いているかに見える。

 階段に足をのせ、上へ、上へ。

 石組み階段の隙間から雑草が生え、後付けされた手すりは錆でざらついている。

 山を切り開いて造られた場所だからか、所々に木々が残り日差しは相変わらず暖かく、鳥の声でも聞こえて来そうだ。

 けれども変わらず、周囲は静まり返ったままだ。

 僕だけの音がして、それ以外はやっぱり消えてしまったかのようで、汗もその一滴一滴が地面に落ちれば吸い込まれてしまう。

 ただ上るだけで、その先も袋小路だ。

 目的はなく、上るだけ。上れども、登れども、坂道に嵌ったような住宅はトタン屋根や木造の古びたものばかりだ。

 坂の上の住宅に橋渡しされた洗濯紐、気が付けば電柱も電線もない。

 記憶はあったのだろうか。その断絶はなんだろうか。

 一歩、上る度に息が荒くなる。それほど体力はなかったということに気付く。

 階段の終わりに来れば、道は三方に分かれて一方は未舗装の曲がりくねった道があり、木の杭にはシンプルに「山道」とだけ書かれている。

 他は石段が続いているが、あまりに代わり映えしない。住宅がやはりずっと続いていて、果てはないように思えた。

 そして何より、山道の先にうずくまる茶色の毛玉を見かけた。

 生き物がいる。都合よく用意されていると感じた。ただ流されるだけで、そんな余裕はなかったけれど、今は考える時間がある。

「こんにちは!」

 挨拶をしなければいけない。そんな気がした。

「うるさい。なぜ、死んだというのに」

 猫だ。眠たげな視線でこちらの声に答えた。他の生物だから、喋れない。そんなことはない。

 そんな記憶はないものの、生魚だから。そんな言葉で僕は納得してしまう。

「死んではいないよ、ほら、ここに」

「それがどうして、死んでないと言える」

 ここにいる。意識があるから、死んではいない。極々当たり前のことに猫はつまらなそうに突っかかる。

「歩いているし、こうして会話もしている」

「そこらへんを歩いているだけで、ここがどんな場所かも知らず、オレに喰われるだけの生魚が、死んでないとは笑わせる」

 そうして猫は立ち上がり、ゆったりと奥の道へ歩いていく。

 彼の誘うような様子と、誰もいない場所を歩くよりも誰かといる方がよかった。だからその後についていく。

「喰えるものか、その小さい体で」

「生魚は猫に喰われる。体に塩でも塗って、準備をしてな。寝ている時はずっとオレが喰う。死者と、世界の終わりが何度も続きやがれば、こうやって断絶する」

 猫は駆け出し、僕は追う。彼は素早くはない。追える速さで駆けて、駆けて、山道は緩やかさを無くしていく。

 だから走ればすぐに息が切れ、猫は駆けて消えて行く。

「はぁっ、猫は素早い」

 三つほど曲がった先で荒い息を一つ吐き出して、立ち止まる。これ以上は走れない。走らない。猫を追ってなんになるのか、この場所で終わらない坂道をずっと上って、何かを忘れていて、その記憶は何だったのか。

「ふぅっ、漂うからここは死者の世界か」

 世界が終わるだなんて、馬鹿げている。人生が続く限り、世界は続いて、1人は消えて行くだけ。

 この場所は死者の世界だったろうか。

 夢の続きはどこにでもあって、その中を流れていく。

 落ちて、上って、そればかりが続く。そこに目的はなく、ただ続く。

「本当か、そうでないか、生魚はここを死者と言えるか。泳げもせず、歩く。歩く。歩く。それだけが価値で、ここにはそれだけしかない。そうだろうとも、町に人がいないから死者の世界か、それは見えていないだけだろう。屋上からの眺めはどうだ、

 滝に押しつぶされたか、夢は傷むか、痛みがここに連れて来たから、登ればいいさ」

 少し休めば傍らに猫が現れて毛玉を吐く。

 彼は様々なことを知っていそうだ。それだからか面倒そうに、つまらなそうに呟くだけだった。

「登って、僕は何をしているんだろう」

 改めて口にしてみる。そうしてみても、いまいち現実味がなかった。そうしなきゃいけない。それだけが僕の中にある。

「進むほど、それが分からなくなるのは当然だ。この先にあるのは生魚の池で、そこでオレに喰われちまうって寸法よ。そのためだけに登っている。泳ぐなら、そこは死者で、漂おうとも、この場所は、どこか。全て傷んでいるのさ。体に生えているのはなんだ、触れてみればわかる。意識しなければそれが分からない」

 猫は前肢まえあしを舐め、欠伸をする。僕は体に触れて、ざらついた鱗を感じた。

 彼とゆっくり山道を歩く。体中に付いた鱗を取ろうとすれば、痛みがある。

「生魚だから、登っている」

「そうだ。喰われるために、登ってんのさ。ほら、その先だ。オレは夢の中で何度も繰り返した。狩って、喰う。その度に世界を呑み込んで滅び、また飛び立つ。その果てに形は変わり、オレは猫で、かつての夢は死と同質となった。全てを呑み込むのは、海だ。そしてそれは山頂にある。だからオレも繰り返しの途上で、小さい人はそこから離れて行った者たちだ」

 Tシャツを上げれば、そんな鱗はないようにふるまう。土と枯れ葉を踏みしめると染み出す水分がギュッと集まっては離れる。

 猫はなにかを対比して、やはりつまらなそうに歩く。地面を踏みしめることがないから、水は彼のもとには集まらない。

「どうして、歩くの」

「知らねえ。ただ、それしかない。また岩は転げ落ちて、また岩を山頂まで転がして、その間に弾けた飛礫がオレを作り出したからだ。『お爺さん、こんばんは』『調子は、どうですか』そんな具合で欺いて取り入る。全身をはい回る虫が、生魚の鱗に入り込んだ虫が、女のまさぐりと爪痕であらわになった。なあ、オレがいつガキをさらって喰ったよ。ただ泣いてただけなんだぜ」

 面倒そうにしているのはただの照れ隠しだって、気付いている。

 饒舌な猫は、こちらを見てせがんだ。

「肩に乗せてくれ、足が濡れるのが嫌なんだ」

 僕は二つ返事で了承する。頷けば素早く肩に重みと、ちょっとした痛みが走る。

「爪、出さないでくれよ」

「知らねえ。出ちまうんだ、中指と同じで」

 器用にバランスを取って、肩に収まる猫。その柔らかい毛がこそばゆい。

「鳥みたいだ」

 そんなことを言えば、前肢を頭に乗せられる。

「ほんとうに、喰っちまおう。そうだ、そうしようか」

 単なる冗談。だって、猫は喋らないし、夢の欠片は単なる処理落ちに他ならないから、そうであるように振舞っているのは、そうであるように思っているからだ。

「いて、いたた、咬まないでくれよ」

「うるせえ、ほら、プールだ」

 猫の言葉の先には普通の住宅が建っている。茶色の四角形が2つ組み合わさったような家。どこにでもあるような、どこにでもいる家庭の家。小さな格子門に、数段のステップと子供に配慮された縦長のノブがなんともありふれた感じを抱かせる。

「これが、プールなのかな。想像とは違うけども」

 これまでずっと開け放たれていた玄関だったが、この家だけは閉まっていた。

「想像でなにが言える。想像は正しくない。想像は空を飛ぶ。オレが獲物を逃すのも、肉食獣が飢えて死ぬのも、余計な想像をしたからだ。全ては場しかない。オレたちは古典物理学の存在なのさ」

 山道の崖に面して、なんとも不可思議な場所に立つ家。

 道の先は上に続く石段があって、見上げればその先にまた住宅らしき建物が見える。ほんとうに、終わりがなくこの場所が続いているのだと思えて、うんざりした。

「それじゃ、このプールに入ってみよう」

「早くしろよ、もう想像がすぐそばに迫っている」

 門を開け、ドアを開け、玄関は小さなタイル張りで中から塩素と湿気が溢れ出す。

「確かに、確かにこれはプールだ」

「だろ? オレはなんでも知っているんだ。想像力のことなら、そこの悪魔よりもな。どうせ、また愛だのをやり始める。放り出してみろ、来るときには来る。それだけで、オレは泳がないからな。この水、この魚、引っ被ったのは飢えとこの岩の繰り返しだ。作り物と紛い物に夢を見出したか、はっ。小さな人は喰っちまったよ」

 猫は肩から降りて二足歩行を始める。プールの外側で、壁に背中を預けた悪魔はただただラムをやっている。瓶を意味ありげに回して、中身を確認していた。

「私は知っている。お前は酒を求めているから、ここに用意した。これは、と一緒にやるものだ」

 猫のために瓶を床に置き、悪魔は僕を見て続ける。

「そして、このプールは、底なしだ。どうしようもなく、生魚でもよほどのことが無ければ溺れる。ここには釣り人もおらず、記憶を引き上げてやることも出来ない。私が用意したのは猫が望んだからだ。生魚はやはり惑い、暖炉から現れた私を殴りつけた。火掻き棒は熱く、焼けただれ、人魚どもがこぞってその身に印をつけた。だから、これは、それを冷やすためにある。生魚」

 ちゃんと外周に排水溝があり、苔一つないプールは消毒されて生き物の気配なんかないように見える。どこまでも透き通って、光が届かなくなったその先まで広がっている。

 水が、あの川の時に沈み込んだように抵抗すらないのだとすれば、僕は生魚で、この消毒された生き物のいない空間の中で沈み続ける。

 悪魔は来ていたジャケットを脱ぎ捨て、その腕に焼きつけられたをプールの水に晒した。

「しっかりと観察しなければならない。これはなんだ、この現象をどう説明する、私はこれを望んだものを知っている。人魚たちがあの賢人まがいを誘った時、その無遠慮さ、傲慢さをわらったものだ。君たちの歌は、クジラに勝てない。その誘惑は一過性で、ただの磨滅まめつに過ぎない。その鱗も、不老不死も、巡るものどもには必要ない。ほうら、穴が開いたぞ」

 その薔薇は血を溢れさせ、その中へ潜っていく。血が血を呼び、薔薇は瞬く間にその中に隠れてしまった。

 そうして引き上げられた腕には穴が開いている。周囲に少しだけ薔薇の痕跡を残して、腕を貫通する虚空。

「果たして、果たして、この腕は、誰のものか。廃墟に打ち棄てられたものと、別世界への妄想と、私はこの社会を回している。プールに広がる血は、私を無数の針としてどこまでもどこまでも広がっていくが、それには誰も気付けない。」

 なにをいっているのか、僕は理解できない。悪魔も、猫も、やはり饒舌で、なにかの期待と、不安を覗かせていることだけは分かった。

 そして、プールに誰かが浮かんでいるのを見つける。

「飛び込む前に、浮かんでいる女がそこにいる。彼女を知っている?」

「おや、おや。これはこれは。すすけた夢と深海の人魚様ではございませんか。こんな場所はつまらないでしょう」

 悪魔は驚いた様子だ。それも、あまり良い方向ではなさそうだ。

 最初に見た。僕を組み伏せた女だった。

「悪魔さんは芯のところをあんまり知らねえんだ。へっ、柔らかい麺ばかり喰って、スプーンはお入り用ですってか。ふざけたヤツだ」

 猫は懐から取り出したザラメをがりがりとやっている。ラムを飲んだところで、彼の表情は変わらず、たまにヒゲを拭う。

 プールの端に座り込み、そっと足だけをその透明な水につける。

 するりと、抵抗もなくその液体を感じることが出来ない。確かにそこに水はあるのに、浮かぶことも泳ぐことも出来ない。

 バタ足をしてみても、波は立たず、空気のようにすり抜けた。

「ふふ、こちらまで。どうか」

 意識をすればプールには無数の詩篇が浮かぶ。

 ❝❝まったく想像力でいっぱいなのだ。狂人と、詩人と、恋をしている者は❞❞

 劇作家はそう言った。生きるか、死ぬか。この浴槽プールから落ちるか、浮かぶか、それだけが問題だ。

 だからと言って、辺獄に住まうキリスト史以前の詩人に引かれて歩くものじゃない。あの光の中で、目は焼かれ、あの地底の中で、欲は枯れ果てる。

 だから、僕は引用する。


 ❝❝Until the Moss had reached our lips ――

  And covered up ―― our names ――❞❞


 そうすれば瓶は広がり、詩篇は大地となり、プールには水が満ちる。

 答えはないが、答えなくとも生魚は泳げるようになった。

「時に覆われて消えちまうまでは、蜘蛛の光の大陸だって壮麗そうれいだ。まあ、俺はそれを前肢まえあしで叩くが、いつだって遊びなのさ」

 たたっ。

 するりと猫はプールへ飛び込む。滑らかに水面に吸い込まれて、また顔を出して漂う。中央で浮かぶ女の髪はどこまでも広がっていくように見える。

 その髪は深夜から明け始める空の色。まだ暗く、輝きを湛える前の藍色だ。

 猫は少し漂った後、真っ直ぐと彼女の方へ泳ぐ。悪魔は唾を吐き、僕の傍に立っている。

 マッチの擦る音が聞こえ、煙草の香りが漂う。

 腕に空いた穴からはごくわずかに、血が垂れ続けている。プールに落ちた血液はその中の水と混ざり合わず、ずっと縁の辺りに漂っていた。

「沈降も、明滅も、等しい意味を持つ。私は漂い、そのどちらも選べないが、あの忌々しい夢、私が漂う以外に出来ないものだからと、そこに浮かんでいる女。ろくでもない混濁と解放のすがた。あれは問いを提示する。語る口があれば、私も生魚も続くが、そうではない」

 マズそうに、少しだけ吸った煙草をプールの中へ落とした。

 それはいけないよ。言おうとしてすぐ、隣の悪魔はプールの中へ飛び込む。

 けれど、けっして水の中に沈み込むことはない。柔らかい何かで阻まれ、水の上で寝そべることしか出来ない。

 そうして、ニヤニヤとこちらを見て言うのだ。

「お前が見ているのは、水か、私か、服はどうだ、濡れることはない。だから私は悪魔だ」

 転がってみせる。あの時生えていた羽根は消えていた。

 先ほど浸した腕はどうして、今は水に触れることもないのだろう。

「薔薇を捨てればただの悪魔だ。水から弾かれ、自らのしたいことの前に人々が集う。これは弔いだ。ほら、早くいった方がいい」

 悪魔は内ポケットに入っていた煙草、マッチ、大量の鍵、そして似合わぬ山高帽をプールの中へと落とし、ジャケットも脱いでしまった。

「私以外はこうして沈んでいく。かつては沈み、泳ぎ、そうして寄り添ってきたが、追い出された。しかしそれは錯覚で、あの儀式と月と太陽、常に晒される男であるものと女であるもの、タブーとは予告で、この底から私は弾かれた」

 それは私なりの愛だったのだ。そんなことを言いながら悪魔は自身からプールへ零れた血の揺らめきを指でなぞる。

「ああ、悲しいわけじゃないが、生魚」

 ふと、何かを思い出した様子で、プールの中へ入ろうとしていた僕に向けて人差し指を立てた。

「なんだろう」

「溺れたから、生魚だ。飛ぼうが、飛ぶまいが」

 眉をひそめながら口角だけをゆっくりと上げて、なんとも言えない表情をする。

「だろうね」

 理解はしていない。そう思っただけ。

 悪魔はすぐに飛び上がり、天井近くの開いた窓に腰かけて手をひらひらとやるだけだ。

 僕もそろそろ行かないと。泳がないと。

 底の見えないプールにそろりと足を入れ、詩篇によって抵抗が生まれる。水のような感覚で足を振れば水中で多くの詩篇が現れては砕けている。

 ともあれ、普通に泳げそうだ。縁に掴まりながら体を水の中へ入れた。

 衣服は濡れずに張り付くこともない。水の抵抗を感じて、手を離し体を上に向ける。

 ふよふよと水に浮き、触れられない悪魔とは違って水に触れながら、その抵抗を感じながら、天井を見上げる。

 民家の中だけをくりぬいて作ったようなプールだから、2階部分に相当する空間には何もなく、すぐに天井があるのが分かる。外側から斜めに高くなる3角がそこに形作られている。

 ゆっくりと足で水を蹴る。両手は自由に、無意識にただ浮かぶだけに任せた。

 詩篇が散らばるプールではなんとか泳ぐことができる。恐らく、中央にいる女と猫と、その方向に向かっている。

 縦に長く、50メートルほどある。その中心で、猫は女の髪の上に香箱座りをしていた。猫は軽いから、どんなものの上にも乗れる。生魚は違う。

「うさぎ穴みたいに飛び込んでみろよ」

 蹴った水が顔に飛んできて、砕けた詩篇の欠片の声が聞こえた。

 ただ、その詩篇に窒息することはない。僕はそのどれもが意味を持たない文字の羅列にしか感じられないから。

 いつも親しんでいた筈の文字はよそよそしく、僕を知らんぷりし続ける。

 目で追おうとも、手で触れようとも、それらはただこの浴槽に満ちるだけだ。

 泳いで、漂って、そろそろ中心だろうか。体をひっくり返して猫と女を捉える。広がる髪は終わりかけの夜のようだ。

「ちりばめられた宝石を狙うのはオレたちじゃねえ。どうして欲しいのか、背中に埋まって痛かったろう。痛みはもうここにはないぜ」

 猫は女の黒と紫の夜に乗り、その胸元へ座り込む。

 泳いでも目の前の髪にも、女にも触れられない感じがしている。手で、足で、水を、詩篇を蹴り出したとしても、前に進まない。

「混ざれないの」

「っ、どうして」

 そんな僕を見て、優しく告げる女からは拒絶を感じた。宝石が痛かったから、その柔らかさが触れ得ないものとして、ただただ沈み込むだけとなった。

 それに、ここでは痛くないから、入り込む必要はない。

 柔らかさは嗜虐性しぎゃくせいを掻き立て、その広がる髪を引っ張ってやろうと手を伸ばしても、すり抜ける。進めないから、苛立ちを感じている。

 それを見て、猫は髪の上に乗って得意そうに笑う。

「もう少しだ、ほらっ、ほんの少し手を伸ばせよ」

 届かないのを知って彼は言うのだ。

 そうやって手を伸ばして掴んだものは用を成さない詩篇の欠片。

「QAA QAA SESSAROTH TISTE PAKGEYBBNU」

 1つ、それは泣き虫カワイルカのつまらない孤独さ。猫はよく知っている。

「PEEBUU PEEBUU TあRうPOOO」

 2つ、架空の縄張りを主張するヒポは糞便を詰まらせて死んでしまった。

 そんなものばかりがあり、刹那せつなに作り出される生き物のことばばかりが跳ねて飛びかかって泳げなくなる。

 沈み始める体を浮かそうと手を、足を、必死に動かしても、反対に力を抜いても、呑み込まれていく。

「いつかは届く。なんて思ってたんだよ、オレもさ」

 猫は僕の体の上に飛び移り、その少しの重さで水の中へ沈み込む。

 咄嗟に反応できず詩篇を呑み込むとそのことばが氾濫する。

 さまざまな生き物が騒ぎ立てる音、その中で溺れている。

「今日は食べるんだ、代われ」

「狩はこう、いっぺんに、――一思いに、首元へ」

 一人立ち出来ないと死ぬから必死だ。狙いを定められるヤクはそんなことはお見通しで、素早く崖に張り付く。

 あゝ、駄目なんでしょうね。諦められて手持ち無沙汰。溺れる目と耳。猫は背中で跳ね、僕は何も掴めない。インチキだ。こんなの聞いてないや。

「EL――太陽と月、どちらも影を落とすの。終わらない、続かない。そこは終わり、詩篇は捨てられ、わたしはわたしであったことを終わらせた」

 女はそれだけ言い、ずっと詩篇の上で漂っている。

 僕は潜り、ただ沈降していく。焦り、レギュレータを外してしまったダイバーはたった70mで闇を迎えた。意識に反して落ちていく。沢山の縦穴と核に繋がる重力がずぅっと働く。

 かつて迎えられた場所を拒絶してしまったから、歌は不可視の境界を示していることも忘れてしまった。

 水の紛れる音と詩の声とが混ざりあって歌に聞こえる。

「キレイか? そうじゃねえだろ」

 沈み込む最後のストンプで背中が押される。猫が飛んでいったように見えたのは、沈んでいくから。

 息をしなくとも大丈夫。

 相対的に0だから、その近くで生魚となり、空には女の髪が広がり、夜を迎える。その光は届かず、ほとんど何もない底まで、ただ沈降する。


 詩篇と水の柔らかさは人が感じるには抵抗が少なすぎた。

 生魚だから、エラで水を吸い込む度に詩が響く。けれども、それはもうほとんど言葉とならない。


هنا. هنا.

رجاء. كن هادئا.


 聞いた覚えのない言葉がある。生魚は、遠い。

 

 喋る猫も、悪魔も、あの夜も、もう点のようで。

 プールの境界も消えて。

 

 鱗がある。こしとられた塩は留まる。

 

 漂うプランクトンもいずれは底で止まる。

 そのわずかに零れたものだけで生きている。


 わずかなものを受け取る腕。

 口と目と、そうしたものはいらなくなった。


 この中では、


「変わらないんです」


 ずっと、そこにいたので、それが分からなくなってしまいました。


 底はなく 空もなく 沈んでいるのかもわからず漂う。

 手を広げて、口を開け、それらがないことに気付く。

 

 沈みゆくだけで、体は窮屈に迫り、もうなにもない。

 それは、とても長く、何も、何も要さない。

 

 ずっと、そこにいた。

 幽かに伝わる柔らかな砂地。かつて滅びた潜水艦の砕けた力が未だに残っているから、時折低い唸りを帯びた振動を感じる。

 なにも見えないのに、そう感じた。

 生き物たちの距離は遠い。わずかな流れも、振動も感じることが出来る。

 ただ、体は動かせず、そうした空間への意識だけがある。ぐらぐらと振れれば、どこかでガスが噴き出し、チューブワームとそれに集うエビとが小さなコロニーを形成して、それが生まれては消えゆくのを感じる。

 人間の残滓が震え、震え、その最後を感じていた。


 GROU GRAOUL

 GROU GRAOUL


 振動は地面を割ろうとしていた。

 柔らかい砂地は更なる底へ呑み込まれていく。

 ずっと、そこにいられると思っていたのに、それすらも終わってしまう。

 延々と続く落下と沈降。かつての人間の残りが響き渡り、それは最後に辿り着く。体は変わり、生魚かどうかも分からないまま、砂の中に呑み込まれて、その底の熱で焼けていく。

 溶けだした底と海はあぶくとなり、空へ上る。

 泡でもない僕は、ただ焼けて、焼けて、焼けて。


 光を知覚出来なかったから、ただその太陽に焼かれる。

 変わらず、そうである以上は、ただその熱の中に沈み込む。

 かつて根付いていたものを無理やり合わせてしまったから、その統合に苦しむ。だから焼かれた。


 沈み込み、泡の最中で、その火に、焼かれた。

 もう、生魚でも、なんでもなく、それは終わったのだ。


 *****


「変わらなかったんです」

 カレーは出来た。僕は床に寝そべり、しかし床は一面水浸しだ。

 天井からも水が滴り、空は灰色で轟音で雨が続く。部屋は、家は、ここら辺一帯は全て水没を始めていた。

「これが、終わり?」

 火は、砂は、泡は、そんなものはなく、いつもの日々がそこにあるだけだ。

 世界は終わってしまう。だから、全て水没してしまう。

 理由なんてどうでもよかった。ただそうあるようになるだけだから。

「今日もうるさかったよ、デモなんかしても終わりは来るのに」

 寝ぼけた様子に見えたのか、一緒に暮らしている女はそんなことを教えてくれた。

 変わっていなかった。もう床を掃除する必要はなさそうだけれど、ベッドにまで水がやってきても変わらない気もする。

「寝てても良かったんだよ、今日はわたしの分担だったし」

 誰がやっても同じ味の食事を続ける。水は滴り、火は出るから困らない。

 面倒だからずっと水着で生活していた。日常は続き、連日終わりについての情報が巡り、毎日の分担は変わらずに続く。

「水、捨てに行く」

 起きた時の習慣だ。

 習慣だけは、この体を裏切らない。

「はーい」

 上から滴るから、様々な色の受け皿を置いている。床はもうどうしようもないくらい水浸しだっていうのに、受け皿の中に落ちる音を聞くためだけに置いている。

 ただ、キッチンだけは、滴らないようプラ板を取り付けて水を逃している。火は使いたいから、プロパンはまだ業者が交換に来る。

 玄関を出ると、つかの間の曇天。今にも戻りそうだった。外の排水溝はもう溢れて使い物にならない。このアパートの通路はコンクリートで作られた垣のお陰で乾いている。

 その外側に水を捨て、戻って容器を置き、また水を捨てる。古くなっているわけではないのに、この2階建ての小さなアパートは上から水漏れをするし、床下には水が溜まってしまっているのか常に湿っている。

「ああ、寒いな」

 それほど低くない気温でも体が濡れているから寒い。

 体はあまり動かない。どこかで落としてしまったみたいに、抜けてしまった感覚があって、すこしだけ外へ出て歩く。

 換気扇は周り、電気は通っている。長靴を履けば水浸しの地面も歩ける。

 空の灰色を地面が反射して、その奥に詰まった太陽を写す。車高の高い車が水を掻いて進み、人々は一様に濡れている。乾かすのは無駄と知っているからだ。

『どうか慌てず、普段通りの毎日を過ごしてください』

 政府の街宣車はこの世界が無くなってしまうこと、完全に消え去り、これまでの営みが全て灰燼かいじんに帰すなんてことは信じていない。

 だって、まだ皆普通に生活しているじゃないか、野菜は届くし、肉もスーパーに並ぶ。仕事だって、遊びだって、変わらずにしている。

「いったいなにが終わるんだか」

 また雨が降り始め、地面が揺れていく。

 染み出した水と降り始めた水とが混ざり、わからなくなる。

 なにが終わったというの。今日はまだあるのに。そういって毎日の分担を決めた。意識は分かれているし、続くように見えても違っているから。

「ごはん! 食べようよ」

 そうやって呼ばれて、重くなった長靴をがぼがぼと引き上げながら、部屋に引き返した。


 ~~おわり~~

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