第2話 のんぷれ

 ぼくには体の感覚がない。


「いーにー」

 どうしてだろう、

「みーにー」

 消えたいと酒をくらっていた、

「まぃーにーもー」

 しらばっくれるな、

「頭に打ち込まれたステープラー」

 現実と向き合え、

「いーにー」

 そんなものがあるのか、

「みーにー」

 なのに体は動かない、

「まぃにーもー」

 動かない。

「振り下ろされるソーダ水」

 目の前に何かある。なにかいる。

 頭から砂糖水を被ってそれが目に染みて、ぼんやりと目を覚ました。

 布袋越しに伝わる気配、意図に敵意はほとんどない。許された。許された。許さないから。

 依存症の彼女と連絡取ってないからセックス第2号と遊んでいるだろう。ぼくが第2号かもしれないし、その差はあまり関係ない。

 えーと、そうだった。ぼくは拘束されていて、どこか知らない場所にいて、目の前にその犯人と思われる人がいる。

「近く、曰く、タロウくんは世界を守っていました」

 それは女のひとの声で、機械音声で、近くにある熱は人だ。口はテープで塞がれ、手は麻糸で結ばれている。誘拐、拘束、体の自由が目の前の人物の手にある。

 しかし、この状態でもうかなりの時間が経った。ぼくは出来たのは、二回の排尿と一度の排便をこの体勢のまま、垂れ流したこと。

 乾いてぱりぱりとした感じがあり、もうこの嫌な臭いにも慣れた。

 慣れてない。慣れるはずがあるもんか。さっきまで不貞寝していたけど。

「世界を守るには排泄も必要だものね、タロウくん」

 垂れ流した後に何度か水をぶっ掛けられ、それで洗ったことになった。だから、その部分がじくじくと水分を持って痒くなる。そのうち爛れて傷になってしまう。

 ぼくはタロウじゃない。山下狗韋覇くいはという、大嫌いな名前がある。

「見てる。いい手もあるものだ」

 ぼくはべたつく顔と体を動かそうともがく。緩く拘束されているから、どうにかなりそうだとまだ諦めていない。

 口は湿気でテープが剥がれているけれども、声を出してもなんにもならないことはもうわかってる。目的が分からないから、どんな抵抗をしても無駄なようにも感じる。

「大丈夫、大丈夫、ほら、静かに」

 縛られた手に冷たいものが触れ、ぼくの体と手足を拘束している縄のようなものが床に落ちる。ぱたり、がさり。

 頭に被せられていた布袋が取り払われて、ぼくは周りを見ることが出来る。

 けれども周囲は明るく、暗闇に慣れていた目は眩んで何も見えない。

 後ろでドアの閉まる音が聞こえた。ぼくを見張っていた何者かはどこかへ行ってしまった。

 どんなヤツがこんなことをしたのかと、その姿を見てやろうとふてぶてしくも思ってた。見なくてよかったかもしれない。

 コンクリート張りの無味乾燥とした部屋を想像していた。けれどここは全く普通の部屋で、隣にはベッドと簡易机が置かれている。

 それ以外にものはなく、寝るだけのちょっとした部屋だった。

 窓からは月明りが差し込み、夜だってことが分かる。

「うわ、汚ない。鍵も掛かってるし」

 改めて自分の服装を見ると、悪臭を放っているし異物感が酷い。ぼくはパンツとその内容物を脱ぎ捨てる。

 窓から出られないかと思ったけど、窓は鍵が掛かっていてその部分が動かせない様にワイヤーで固定されている。

 ここから逃げ出す為にはドアから出るしかなかった。

 だから、ついでに犯人に出くわしたら「どうして誘拐したんですか」と聞いてみよう。


 ***

 

 ぼくは監禁されていた場所から抜け出して、すぐになんとかなるんじゃないかと安易な想像をしていた。この治安のよい国なのだから、警察だってきっとすぐ来ると。

 だけれども、部屋から出てみればこの場所はどこかの戸建てでも、人目を避けた廃屋でもなかった。

 誰かが管理しているどこかの建物。外からは時折車の走る音が聞こえる。

 抜け出そうと思えば、今すぐにでも抜け出せる。

 そう思っていたのは間違っていた。ぐるりと高い塀が拒絶するように立ちふさがっているから、何故だかどこからも入れないように思えた。

 ぼくは彷徨さまよい、どうしてか演奏ホールの入り口に立っている。

「さあ、コンサートを始めます」

 席が立ち並ぶ中ほどまで来ると、ピアノが喋った。

 ぼくはそう言われて、なぜか答えてしまった。

「宜しくお願いします」

 ちょっとしたステージにグランドピアノ、そして演奏する女性がいる。

 観覧席に人はいない。その代わりに逆さまになった紙袋が置かれている。

 静かな音で始まる。Gメジャーの眠りに誘うような曲。ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌが流れ出した。

 流れてくる。ぼくは音を立ててはいけないような気がして、それをじっと身に受ける。ゆったりと単調に聞こえなくもない。そこには弱弱しさが目立っている。

 ぼくは少し間の抜けた感じがして、影になって見えない奏者がどんな人なのか、気になっている。

 けれどもこの演奏が終わるまでぼくは動けない。だから、どうしてこの場所に辿り着いたのか、何の目的があるのかを考える。今のぼくにとっては、このアクセントの弱いそれほど巧くない演奏はあまり興味を引かない。

 女性はサイズの有っていない青紫色のドレスを無作法に捲って演奏している。

 この変な状況がなんで起きたのか。どうして出口が見当たらないのか。ぼくは彷徨っていたちょっと前を思い返すくらいしか今やれることがない。

 施設は広くて、様々な部屋がある。ガラス張りのトレーニングルーム、マットが敷かれた児童用プレイルーム、PCが並ぶ部屋、カードキーがないと開かない扉。

 床には『タロウくん専用ルート』と書かれた緑のラインが蛍光色で描かれている。

 青っぽい白かクリーム色の壁面、綺麗なタイルは新しい。やや早い感じで、曲の良さが失われている。

 そこに大きく書かれている文字はまだ乾ききってなく、踏めば簡単に消えた。低音の打鍵が強すぎる。音の粒が揃っていない。

 きっとさっきのヤツが書いたんだろう。それでも、しっかりしていそうな施設だったからぼくは緑の光を探した。けれども、廊下を置くまで進んでも見当たらない。階段は幾つかあった。最初の窓からは、地面が下に見えた。だからぼくは何度か階段を降りたりして見て、一階に着く。

 だけど出入口はまだ見つかってない。演奏は迷子で、聞くに堪えない。

 それに、ぼくを拘束していたヤツはどこにも見つからなかった。

 演奏が中盤に差し掛かったころ、ぼくは手近な紙袋が動くのを見る。ぶるぶると、がさがさと、浮く。

 そしてかさりと落ちた。演奏に抗議でもしたいかのように。

 出て来たのは地蜘蛛。そして弱った銀蠅がふらふらとその近くを飛んでいる。

 目のいい地蜘蛛は蠅が近くに来た時に飛び掛かる。素早く毒と消化液で蠅は溶けていく。

 ピアノの音が一瞬止まった。ぼくはめまいに襲われた。

 蜘蛛の目で蠅が見える。動く蠅は自身の能力全てで危機を脱しようともがく。けれども、その精緻さを欠いた羽と筋線維、神経のこぶじゃ到底無理だ。

 蜘蛛の目は慎重に、確実なセンサーとして、その動きの隙を、飛び掛かる為の準備をしている。そうして、確実に届く距離で蠅に飛び掛かる。

 ぼくらから見れば一瞬の出来事だった。

 なのに、なのに、それが蜘蛛の目線を通してやって来る。それは捕食者、肉食動物の蜘蛛。同種しか食べないオナガグモで、それは男を受け入れた女の視点で、その広がりはクジラの歌だった。

 海の中で広がる。人よりも遠く、先まで届く対話。

 蜘蛛の書肺はそれほど機能が高くない。だから、ぼくは陸にいるのが息苦しい。目の前に捉えた蠅をゆっくりと溶かして啜る。

 ぼくの以前かこの先か、回っているのが生き物たち。

 気が付けば演奏に力強さが戻っていた。アクセントの無い弱弱しさは消え、静かでも強く人を想う。そんな音の連なりが聞こえてくる。下手に聞こえたぼくの耳。

 その音に紙袋がぶるぶると共鳴を始める。ぼくは恥じて震えている。

「ふうぃぇぇぇん……ハオォォォン……」

 遠くへ語り掛ける声が聞こえた。

 これは紙袋から聞こえている? ピアノの音は静かに続いている。

 違った。

 ぼくがクジラの歌を歌っているのだ。

 この場所にいること、謎のピアノ演奏に、ぼくをここへ連れて来た何者か。それらが不意に消えて、海の中に届けている。

 広い海の中を、一人で、泳いでいく。

 けれども歌がぼくを繋げて、誰かと先のことを歌う。

 だから一人じゃない。

「イーニーミーニーマイニーモー」

 そんな声はもう届かない。タロウくんを呼ぶのはとても身近な声だ。

 どれにしようかな、と迷っているうちにそれが何かわからなくなった。ぼくは歌を歌う。「ギュ~ワッ」と繰り返す音、底から響くような音。

 歌を歌っていれば遭難することもない。

 ぼくは逃げる必要なんかない。実は拘束も形式的で、自分の力でどうとでもなる。

 歌って静かにながめている。ピアノは静かに音が消える。

 演奏していたのは森さんだった。

「お願いしていた通り」

 思い出した。ぼくは森さんに頼まれて、自由じゃない状態が知りたい。という彼女の些細な好奇心に付き合ってあげることにしてた。

 学校の帰りに偶然見つけた森さんはじぃっとぼくのことを見て、少ししてから手を挙げて二、三度降った。

「山下は自由って何かわかる?」

 ぼくはそのことを考えて、

「‥‥アメリカ?」

「ふーん。あのさ、ウチ来ない?」

 と、ぼくはそれがとても刺激的なことのように感じた。

 けれども特に会話もしてないから、ぼくは「知らない人についていかないこと」という子供の常識を思い出していた。

「い、いいよ」

 でも、ぼくは自身の高鳴りを否定しなかった。

 それで、森さんの家に向かった所までは覚えてる。

「ちょっとだけ寂しかったんだよね」

 そんなことを言いながら、森さんは生地の薄いドレスが脚に張り付いているのに気付きひらひらと剥がす。

 床に流れ込んだ水が跳ねて、ぼくは彼女の脚に目がいく。

「ここはね、わたしのウチ」

 ぼくはにわかに信じられなかった。少なくとも四階建てで、学校よりも広い。そんな家を一つの家族だけが所有するなんて、現実的じゃないから。

「疑っているようだけれど、わたしのコト、全然知らなくない?」

「し、知ってるさ」

「なにを?」

 どこか他の所を見ているような切れ長の目、色素の薄い肌、運動と勉強はそつなく平均レベル。

 ミドルカットの髪は染めていない。

 友人もそれなりにいて、毎日が充実していそう。

「ほら、そんなもの。山下タロウくん」

 学校で、上っ面だけしか見ていなくて、それだけしかないのを非難された気がして、ぼくは頬が厚くなるのを感じた。ぼくはそんな名前じゃない。

 というより、目の前に森さんが来て彼女の体温を感じている。

「今度はしっかり逃げて、どれにしようかな」

 ぼくの頬に手を当てて首を傾げる。森さんの動き、形をずっと見ていたい。

 森さんの体温を感じているのが嬉しい。

「タロウじゃなくて、狗韋覇」

「じゃあ、わたしは?」

 森さん。森神咲もりかすみ、これでかすみと読む。それくらい知ってる。

「今月は出欠当番だったよね。まあいいや」

 ぼくはこの状況はよくわからない。けれども、森さんと会話が出来て嬉しい。

 彼女はぼくの胸を押して、向こうへ行くように示す。

 ここから逃げないといけない。追われているから。

 ぼくを追いかけるのは森さんだろうか。この小さなホールから出て、どこへ行けばいいんだろう。わからないけれど、そうしないと。

「次会うときは、もう少し話をしたい」

 それだけ言って、森さんに背を向ける。向けたくないけど、彼女の強い目で語られる意思はそうしろと言っていたから。

「ぅーーふぇぃぃん、ぶヴぁぐうろお」

 クジラの歌だ。ホールから出るぼくに投げかけられる彼らの声。

「ヒント1.そんなものはない」

 森さんは何か言っていた。ぼくはぱしゃ、と水を踏みしだいてホールを出る。


 ***


 イーニーミーニーマイニーモー。ぼくは虎。もしくは可愛い子豚。

 小学校か幼稚園の頃に英語の会があって、そこで歌ったことがある気がする。

 そう言いながら、追ってくるのは誰か。森さんよりも背が高く、ぼくと同じくらいの背丈の誰か。顔はよく分からなかったけれど、若くはなさそうだ。

 特に思い当たる人がいなくて「タロウくんですか?」と一度叫んだけれど返答はない。追ってくるものの、ぼくが階段を上り下りして逃げると距離が広がる。

 そして、この道順は『タロウくん専用ルート』

 地面に書かれた矢印の通り進んでいるだけで、特にそれ以外考えてなかった。

「ふう、少し休憩」

 ぼくは十分くらい走り回って追ってくる人の気配が消えたのを確認して、手鹿な部屋で休むことにした。

 やっぱり、この場所を走り回るほど、家というよりは商業施設のような気がする。

 それか、公民館のような公共施設を貸し切って遊んでいる。そんな感じだ。

「逃げたって、出口がないんじゃなあ」

 逃げ回ってみて、追ってくる犯人がぼくに追いつけないことが分かって、少し余裕があるから、ぼくはこの先のことを考える。

 森さんの家に呼ばれて、行ってみたらどこかの施設に監禁されてました。

 追ってくる人がいて、おそらくぼくを拘束していた犯人で、ここから逃げなきゃいけないけれど出口が見当たらない。

 森さんはよくわからないけど、あったかくて気になる人で、ピアノを弾いてた。

 だからどうしろって言うのか。

 ぼくは分からないまま、とにかく捕まらなければとの思いだけで今は休んでる。

「……ーニー‥‥‥‥モー」

 どこからか声が聞こえる。

 どうしようか。ぼくには何も策がない。

 入口があるはずなのに、ぼくはそれらしき場所を見つけられなかった。ガラスを割って、逃げないといけない。

「さっさと何か見つけて、外に出よう」

 スマートフォンはポケットに入っていない。ベルトがあるから、硬いものを巻いて適当なガラスを割ろう。

 細いワイヤーが入っているガラスばっかりで、鍵は固定されて簡単には解けなそうだった。けれども、割れば何とかなるような気もする。

「喉渇いた」

 ぼくは部屋に沢山置いてあったパイプ椅子を並べてみる。会議室で使う用の椅子。

 その一つを手に取って、ドアを開く。

「なにがイーニーミーニーだよ」

 どうして逃げないといけないのか。パイプ椅子で地面を鳴らす。早く来いよ。

 ここから逃げる。そんなことを考えていると、ムカついてくる。コンサートにも、乾いた排泄物も、追ってくるヤツにも。

 どうせなら、最初にいた所で待っていてやろう。そして、不意打ちしてやろう。

「……マイニーモー。キャッチャタイガー」

 出て来る。曲がり角からヤツがやって来る。

 ぼくは走る。捕まえて何がしたい。

 矢印はぐるぐると回っている。

 ぼくは階段を上る。ガシャガシャとバシャバシャとパイプ椅子が鬱陶しい。

 床にはしっとりと水があって、蟹か何かを踏んでしまう。

「なにがイーニーミーニーだよ!」

 と言ってみても変わらない。

 森さんはどこに行ったのか分からない。ぼくは逃げている間ずっと彼女を探していた。つるつるとしたタイルに水があるものだから、滑って転びそうになる。

「森さん!」

 と、どこにいるかもわからないのに呼びかかけてみる。

 一度ピアノがあったホールを覗いてみたけれど、誰もいなかった。

 変わらずに後ろからは、追ってくるヤツがいて、ぼくは最初に拘束されていた部屋が見えてくる。

 遠くからか、ぼくの内側からか、歌はまだ聞こえている。

 内開きで、壁面と同じようにクリーム色をしたドアの中に入る。

「おかえり。ここにいる理由は分かった?」

 目の前には森さんが待っていた。

 ぼくは右手を肩口辺りまで上げて息を整える。

「……ん、わからない。」

 だからぼくはドアを閉めて、ノブ側の脇に立ってパイプ椅子を構える。

「なにそれ?」

「やっつけるんだ、あんなの」

 そう言って、すぐにドアノブが回りヤツが入ってくる。

 だからぼくはその間抜けな頭にパイプ椅子の角を振り下ろす。

「はぁ? どうかしてる」

 けれども暴力を振るうのに慣れていないぼくはソイツの肩にがつ、とパイプ椅子を当てただけだった。

 人はそれほど簡単に気絶なんかしない。

 そして、苦し紛れにもう一度椅子を振り上げた。

「っ、くっそ。離せよ」

「逃げて回ってそれでも分からない」

「タロウくんは世界を救うんだもの、精一杯、歌ったもの」

 二人がぼくをここへ連れて来た。なんのために、クジラの歌があるから?

 こんな時でもぼくは背中越しに森さんの体を感じて少し喜んでいる。

「これが自由、それに……」

 腕をまくられ、目の前のヤツがぼくの腕に注射針を突き立てる。

 当然ぼくは暴れてどうにかそれを回避しようとしたけれど、上手くいかなかった。

「笑ってる。不安がるのも最初だけ」

 中の液体が身体に入ってくる。ぼくは詳しくないので、それが何かは知らない。けれど、どこか現実味の無い場所で、よく分からないままに逃げていたからあまり怖くなかった。

「よくわからないことを当然の様に話すなよ」

 この二人はきっと妄想が激しいんだ。

 ぼくはこの状況に不安はある。けれども、やろうと思えばなんとかできそうな気がする。

「どうぞご自由に、タロウくん」

 紙袋で顔を隠した目の前のヤツの声に聞き覚えがある。

 けれども、ぼくは段々と自分が分からなくなっていく。

 最後に残っているのは、クジラの歌だけ。

 森さんの体も、彼女に対する色々なものも、全然関係なかった。

 ただただ、よく分からないもの。

 ぼくが囲まれているもの達の中で、高く、低く響く歌だけが心地よく感じた。


 ***


 ぼくは体の感覚がない。

 確かに追ってきたヤツの頭をパイプ椅子で殴ったはずだったのに、ソイツが動かなくなるまで殴ったはずで、それで森さんを探して終わりだと思ってた。

「そんなわけないから」

 森さんはそう言ったけれど、男だから、女に負けるはずがない。

 だから、今の状況が理解できなかった。

「そうだよねタロウくん。世界は広いから」

 感覚がないぼくの代わりに、後ろ側のぼくがその体を受け持っている。

 ガン、という強い衝撃と頭から流れる血液。

 痛い。痛い。痛い。

 違っていた。体の感覚がないのは、ぼくじゃない。

「イーニーミーニーマイニーモー」

 ぼくを殴ったヤツは子供の様に歌う。ぼくは知っている。

「森さん。自由ってなんだろうね」

 色々なことを何度か問いかけてみたけれど、二人は答えない。クラスで見ている時の雰囲気は全くなくて、二人の森さんは何かぼくの知らないもののように思えた。

 不安。ぼくが選んだことの結果。

 その中で、少し自由を感じた。

 学校や家で何か窮屈な感じがあったのが、ここにはない。

 ぼくは適応する為か、そんな風に思い始めていた。

「気持ちの問題は自分で解消して、世界に入らないと」

 森さんはクラスに二人いた。かすみ、ともえ、双子じゃなくて偶然。

 ぼくはかすみの家に向かったはず。どうしてともえがここにいるのだろう。

 この二人が一緒にいる所はあまり見ない。仲が良いとも聞いたことない。

「ともえは山下のことが好きで」

 だからこれは愛なの。と、ぼくの分からない言葉を使う。

「ふぅぅぅーん、ごあああ、くぅぃーん」

 ぼくはクジラの真似をして歌う。

 それだけがぼくの現実だ。

 森さんの誘いに乗って、あわよくば良い思いが出来るんじゃないかって、自由を知る為にこんな目にあってる。

 でもそれが、窮屈なものに感じない。ぼくは体の感覚がない。

「うたをうたいます」

 ベッドにうつ伏せにさせられて、さっきまでいたはずの施設のような場所じゃない所にいる。ほのかにいい匂いがして、アラームが鳴り始める。

 ピピピ。首を曲げれば八時十六分。学校に行くならもう遅刻は免れない。

「そう。うたをうたいます」

 ここはきっと森さんの部屋で、これは森さんのベッドなんだ。

 実はぼくはこうしているのが嬉しい。

 自由だなんだ。学校だなんだと言いながらも、

「イーニーミーニーマイニーモー」

 と歌う二人の下にいて、悦んでいる。


 ~終~

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