第1話 フレーミング効果

『この前むいみちゃんに会ったんだ』

 ヨシトは友人が気の触れる前にそんな事を言ったのをふと思い出した。

 異性とマトモに接する事も出来ず、社会で不安を感じていた彼が女の子の話をしている。一見すれば良いことのように思える。

 そんな友人が楽しそうではなかったのは、誰でも同じだろう。

 良くある都市伝説の一つ。ちょっとした恐怖を味わう為のもの。そんな空想に出会ってしまったのだから、表情は暗い。

 確かそれも、出会うと気が触れる類の話だったと男は記憶していた。

 タチの悪い冗談のようにも思えてならなかったからか、彼は首を捻る。

『夢、じゃないのか?』

 友人は頷く。その様子が演技でないことは、これまでの付き合いで分かっていた。だから、ヨシトは友人の話を信じることにした。

 むいみちゃん。『ちゃん』が付いているから、きっと女の子だろうとまことしやかに囁かれていた。

 そもそも、それが何か。興味を持ったことのない男はよく分かっていなかった。

『実際はどんなものなんだ?』

『わ、分からない。会ったんだ。でも、あれ。いや、忘れてくれ』

 友人も良く分かっていないらしかった。その時ポツリと呟いた話題はそれきりで終わり、仕事や今の生活の愚痴なんかを話して別れた。

 その後、友人はむいみちゃんに関する話題を避けるようになった。

 その事に触れられるのを避けているようにも見えた。


 そして、三ヶ月ほど経って友人は気が触れてしまった。

 『緑の削岩跡に行こう! マイニングは僕らを最もむいみにしてくれる』

 仕方なかった。そうして友人とは話が通じなくなった。

 友人はもう無意味な言動以外しないのだ。彼の両親が、気の触れた理由を知ろうとヨシトに連絡を取ってきた事で知れた。

「何か、こうなる前の予兆、みたいなものは無かったですか?」

 その時、むいみちゃんの話題をすっかり失念していた。だから、

「オレも分からないんすよ、テキトーに愚痴言い合ってただけで」

「三ヶ月前は特に変わりは無かったということですね。はい、有難うございます」

 それきりで話を終えてしまったが、仕方の無いことだ。

 二言三言の話題などはすぐに忘れてしまうし、あの後から気が触れるまで連絡していなかったのだから。

 友人は入院させなければならなかった。

 むいみちゃんのせいだろうか?

 ヨシトにはよく分からない。社会に出れば辛い事も多い。

 その話を思い出したのも、自身の職場で同じことが起きたせいだった。

「僕も、むいみちゃん、に会いましてね」

 同じように職場でむいみちゃんの話をしていた同僚が、先月から休暇を取っていて、マネージャーからもう来ない。そのまま辞めるだろう。と聞かされていた。

 こんなものは、理由なく気が触れてしまう事を説明するのに作り出された都市伝説だ、気にする事はない。疲弊している社会なのだから。

 思えば、どちらも何を考えているのか分からない奴だった。

 そんなふうに思うことも出来る。

 友人は時折LSDを舌に載せていたし、同僚は嫌なことがあると時々頭を壁に打ち付けていた。恐らく、どちらも孤独だったんだろう。

だから、気の触れてしまう理由はしっかりとあった。

 ヨシトがそんなことをぼんやりと考えていると、電話が鳴った。

「今、ちょっといいかな?」

 交際中の女、斎賀さいがナオからだった。

 ヨシトが承諾すると「そろそろ、結論を出して欲しい」と。

 取り留めのない雑談もなく、切羽詰まった様子で、彼女は言う。

「それじゃあ、籍を入れよう」

 特に思い入れがないヨシトに対してナオは不満げな声色で抗議する。

「そう淡々と進めるようなことじゃないでしょう」

 彼女は数十分後に家に来ると言って、電話を切る。


 ヨシトの家に最初に来たのは、別のものだった。

 電話から十分後に鳴ったチャイムに出る。

 戸口に立つのは女ではない。しかし、それを何であるかを表現する術をヨシトは持たなかった。

 ああでももうこんな話は止めよう。無意味なんだ、女は来ないし、籍はいつまで経っても入らないから。

 初めましてはいみを持たない。ヨシトは戸口でやって来た者になにやら話をした後、しばらく放心した様子でドアの前に立っていた。

 その一方で、ナオには籍を入れたい理由があった。結婚をした女という肩書、家族という響き、これまでの生活で培ってきた結婚に対する想いは強い。

 確たる女としての役割を自分で納得したかった。

 しかしそれは叶わない。放心を終えて、ヨシトはナオに電話をかける。

「もう止めよう、さっき別の人が来たんだ」

 意味が分からない、説明して。と、ナオは追及したが、コウジは機械的に同じ事を繰り返した。

「別の人が来たんだ」

 ナオが話すのを無視して、ヨシトは電話を切った。

 かけ直したところで、カレが電話に出ることはなかった。


・・・


 その後も諦めずナオが何度か電話をしてみても、ヨシトの住むマンションまで行っても、反応はないままだ。

 部屋の明かりは消えているし、部屋の前で呼びかけてもインターフォンを鳴らしても、カレが出てくることはなかった。

「全く意味がわからない。なんなのアイツ」

 自分の気を落ち着ける為にナオは言う。他に当てもなかったから。

 少し頭を冷やせばまだ大丈夫。ナオは考え直してカレの部屋から引き返し、電話をかける。十回ほどコールした後、相手が出た。

「コウジ君。聞いて欲しいことがあるの」

 開口一番、ナオがそう言うと、電話の先からぼそぼそと声がして、それだけですぐに電話を切る。通りを走行中のタクシーを停め、行き先を告げた。

 コウジと呼んだ男が彼女の気持ちを吐露するのに最適だった。

『いつもの、でいいかい?』

 彼が電話越しに呟いた言葉だ。ナオは自然と煙草に手が伸びるが『お客さん、禁煙』と運転手のぶっきらぼうな言葉に気付いて止めた。

「はい、お客さん。千二百四十円ね」

 待ち合わせ場所まではそれほど遠くない。十分もしない内に着く。

 ナオがやってきたのはいつものろくでもないファミレス。白と赤を刺し色に、くすんだ茶色で消している店内。煙草は駆逐されていない。

 コウジは先に着ており、彼女の姿を認めると手を挙げた。

「悪いね、奢ってあげるからさ」

 ナオは腰を下ろすや否やすぐにピアニッシモに火をつける。

「斉賀。煙草、止めたら?」

 彼はあまり喋らず、メニューボードを眺めていた。店員に幾つかの料理を注文した後でも彼はメニューを見るのが好きだった。

 コウジとナオの関係は大学時代からのもので、彼女は食事を餌に度々愚痴や不満を言う相手として彼を呼んでいた。

 彼はナオに同姓の友人が少ないことは知っていたし、良い様に使われているのも承知の上で、奢って貰えるなら話を聞くのは安いものと考えていた。

「おまたせいたしました」

 数分してハンバーグとスクランブルエッグ、ポテトが載ったプレートが運ばれてくる。彼はあまり野菜が好きではなかった。

 コウジは何も言わず、それらを黙々と食べ、全て胃の中に収めるまで声を発することはない。それが食に対する最低限の礼儀といわんばかりに。

 斉賀はそれを見ながら、きっかり三本の煙草を吸い終えた。

「で?」彼は口を拭きながら聞く。

「私のカレが籍を入れようって、言ってくれたの」

 コウジからから深い溜息が出た。

 またしょうもない話を聞かされるのか、と嫌々な態度だったが食事代分の義理を果たそうと口を開く。

「いいことじゃないか、それで?」

 コウジは口数が少ない。余計なことはしない性格なのだろう。

 また、言葉少なに素直な感想を述べてくれる。面倒な裏表のある関係でないところが、ナオの性格と合っていた。

 だから、彼女はそれを安心して受け止めていた。関係が長く続いていたから。

「家に行ったら、やっぱり止めようって言うの」

 ヨシトが深く落ち込んで何も言わなくなってしまった事に対し、女はコウジの立場から何を考えているのかアドバイスを貰おうとした。

「適当な奴なんだろ」

 コウジはヨシトを知っていた。「軽いヤツ」という認識しかなく、ナオの付き合う対象は大体がそうした人ばかりだ。

「いや……何か、別の人が来たって言うし」

 ナオが言うにはその後、深く落ち込んだ様子で電話を切られたという。

 ヨシトは彼女に対して壁を作ったが、突然過ぎるので浮気でも無さそうだ。

「何か、いつもと変ったことは?」

「最近、友人と同僚が立て続けに精神病院に入院したって。そういう話で、カレ、滅入ったのかな?」

 コウジは少し顔を乗り出し、やや声色を変えた。

「それは‥‥穏かじゃない。そんな話を聞いたのかもしれない。他には?」

 ナオは五本目の煙草に火を付ける。

 彼は嫌そうに顔をしかめたが、彼女は全くそれに意を介さない。昔からこの女は煙草をバカバカと吸う。いつもバッグに三箱は入っている。言っても意味がないから、コウジは我慢するより他ない。

 コウジは以前、そんなヘビースモーカーで良く男が出来るな、と聞いたことがあったが、その時のナオの返答は『気にする男なんてそんないないの、ヤる時だけ気をつけてればね』と、何とも現実的だった。

 急に、後ろの方ではしゃぐ声が聞こえて、ナオの声は聞き取り辛くなった。

「…ちゃんとかなんとか、都市伝説とか何かの話を」

「なに、ちゃんだって?」

 むいみちゃん。「知らないな」彼は即答する。

「そう。でも、カレは本当に一体なんで、情緒不安定じゃなかったハズ」

 ナオは六本目の煙草を口に咥えたが、コウジの露骨に嫌そうな顔を見て火を点けるのを止めた。

 最近は結婚を意識してか、吸う量を減らそうともしていた。非常に難しい試みではあったが、一日一箱程度までは減煙出来ていた。が、今日はそうもいかないようだ。

 テーブルの上の携帯端末が振動し始め、彼女は席を立った。

「カレから。ちょっと行ってくる」

 外に出つつ通話を始めた。コウジはメニューボードを眺め店員に何かを頼んだ後、飲み物を取りに行った。

 ガラス張りの店内から、ナオの姿が見える。学生の頃と変わらない様に見えるが、険しい顔をしていると社会に出てからの苦労の痕がまざまざと見て取れた。

――俺も、そうなんだろうな。

 コウジは誰に言うでもなく呟く。

 始め、ナオは眉をひそめ、少しイライラした様子で話していた。

 口論をしているようにも見える。

 それに注意を払わず、コウジは我関せずと温かいココアを口に運んでいた。

 話を始めてしばらくすると、ナオは感情の整理が付いたのか段々とイライラが納まっていくのが分かる。

 コウジの前にはアイスの乗ったアップルパイが置かれていた。彼はそれを黙々と食べる。そのこと以外には全く興味がない様子だった。

 ナオは色々なことを言い終えて、少し安堵していた。そして、何度か頷いた後、電話を切る。彼女はガラス越しにコウジを見て、微笑んだ。

 彼は黙々デザートを食べていた。

「俺は何も出来ない。恨むなよ」

 ナオが店内に戻る最中、コウジは彼女の吸いさしをぼんやりと見て、そんなことを呟いた。

 ファミレスの中に戻る時には、彼女の悩みが解消されたかに見えた。少なくとも、コウジと待ち合わせた時の気難しそうな表情はなくなっていた。

「時間取ってくれてありがとう」

 カレとは明日ちゃんと話をする。やっぱり、少し気が滅入っていただけみたい。ナオは申し訳無さそうな顔をした。コウジはフォークとナイフを置き、口を拭いた。

「そうか、良かった。替わりに煙草、貰ってもいいか?」

 きょとんとした顔をしながら彼女はコウジに煙草を箱ごと渡した。中には半分ほど煙草が入ったままだ。彼はそのままそれを肩掛け鞄にしまう。

「吸わないのに、なんで?」

 彼が偶に変な行動を取るのはいつものことだ。ナオは少し笑っている。

「偶に家で吸うんだ」

 適当な理由を付けてコウジは席を立つ。レシートを持って。

「奢るからいいよ。ほら」と、ナオは手を出す。

「やっぱり、俺が払うよ。それじゃあ」

 コウジは手をひらひらとさせながら、そのまま店の外へ。ナオはそれを見送って、新しく煙草を取り出し、一本吸ってから店を出て行った。


***


 それからしばらくして、近くに座っていたヨシトがナオの吸った煙草の本数を数えてみると、九本合った。三本増えている。

――なんだか騙された気分だ。

 そう呟いた。全てが滑稽で無意味な事象に思えた。ヨシトはナオの吸いさしを一つ摘まんで火をつける。煙を吸い込むも、その間眉一つ動かさない。

「コウジは、分っているんだ」

 ヨシトは残りの吸殻を無造作にポケットに突っ込んで、店から出て行く。

 表情は店を出るときまでかわらなかった。


***


 次の日、ナオは自宅でカレを待つ。

 昼過ぎには来れるから。そう言っていた。

 部屋に散らばっていた衣服を衣装棚に仕舞い、汚れていたものは全て洗濯機を回し、掃除機をかけた。迎える準備をしている時の顔は晴れやかだ。

「これでようやく……頑張った頑張った」

 口ぶりは上向きで、この先に良いものが待っているような雰囲気を出そうと努めている。

 午前中の内に全ての家事を済ませ、カレを待つ。

「ゲームとお菓子。出しておこうかな」

 二人で楽しんでいたボードゲームと、カレの好きなマシュマロ入りのパイをテーブルに添えて、手を止めた。

「いつ振りだっけ」

 こんな風に時間を決めて、準備して。

 ナオは久しく誰かを待ちわびたことはなかった。

 だから、そんなことを考えると、手を止めてしまう。

「やめよう。いま、いま」

 それは過ごしてきた時間。彼女は最近時間についてよく考えていた。それは確かに相対的だし、過ぎるものだ。部屋のカラーボックスには「時間とはなにか」に関係する本が置かれている。

 その本は汚れておらず埃だけ被っている。

 ナオは自分に言い聞かせるように呟きながら、棚に飾られた二人の写真を眺める。

 その中では二人は明るい表情をして、とても楽しそうだ。

「連絡しとこう」

 それでも彼女は少し心配になって、ヨシトにメッセージを送った。


 ヨシトがやって来たのは、夕方になってからだった。

「遅くなった」

 どういう訳かカレからは表情が失われている。済まなそうな声色であるにも関わらず、表情は全く動かない。

 まるで仮面を付けたよう。その様子を見て、ナオはタダならぬものを感じつつも、家に上げた。

「ど、どうしたの? 昨日から元気がないように見えるけど……」

 彼女の心配をよそにカレは答えない。

 何も言わず、座椅子に座る。

 元気がない。のではなくて、別の人に感じられた。

「お茶入れるね」

 普段とは違う沈黙に、ナオは気持ちを落ちつかせようと台所に立ち電気ケトルを火にかけようとしてしまう。

 やって来た男は喋らない。その背中は不動のまま、窓の外を見ているように見えた。やはり、様子がおかしい。

「九本、あった。」

 ヨシトはポツリと、そんなことを言った。

「え?」

 ナオは聞き返してみるが、ヨシトは何も話さない。

 何か不機嫌になることをしただろうか? 不安は高まる。

 湯が沸いた。茶葉を入れた急須に注ぐ。お揃いのカップと急須を盆に載せカレの真正面に座りつつ丸テーブルに置く。

 表情は豊かではないが、落ち着いた表情をしたカレはそこにいなかった。

「感情の欠落したロボットのよう」

 ナオは言葉が素直に口について出た。一体どうしてしまったのだろう。一貫したヨシトの様子が怖い。

 カップに茶を注ぐ手は強張り、そわそわと体を動かす。煙草がどこにあるのか、見渡して、目の前にあるのに気付いて口に咥え、思い直す。

「分っているんだ。分っているんだ。」

 カレはテーブルにくしゃくしゃに握りつぶされた吸殻を落とした。

 ナオは一瞬ギョッとした顔をするも、それが自分の煙草と知ると震える声で言う。

「それは、昨日の?」

 何故かそう思っていた。なぜあの場所に。なぜ吸殻を。にわかに恐怖が高まる。

 ヨシトの知り合いでもあるコウジに会ったことは別に秘密でもない。

 そこにいて、煙草の吸殻を持って返ってくる行為に嫌悪感がこみ上げる。

「意味が分からない。何を考えているの?」

「ただそこにいて、ただそれだけだ」ヨシトはゆらりと立ち上がる。

 昨日の夜、カレに何があったのだろう? ナオにそれを埋める想像力はなかった。

 誰かが来た。浮気の可能性を疑ってみても、あまり現実的に思えない。けれど、何か良くないことがあった。

 ヨシトの様子を一変させてしまう何かが。

「じゃあ、昨日誰にあったの?」

 ナオは訊ねた。

存在。僕はもう意味がないから」と、そのまま玄関へ歩き出した。

 距離を置く。ナオは呆けたように見上げ、カーペットに置いた指は白くなっている。

 ヨシトはもう傀儡だ。話しているのは別人の言葉にしか思えず、そのまま帰ろうとするのを見ていた。

 がちゃ、ドアが閉まるとすぐに鍵を掛け、窓からカレが出て行く様子を伺う。自分のことに納得がいかない時、大抵の男は暴力を振るう。ナオはそれを恐れていたから、去る所を確認したかったのだ。

 ヨシトは一度、感情の無い顔で彼女の部屋を見つめ、そのままスクーターに乗ってどこかへ行ってしまった。

「なんなのアイツ」

 ナオは理解が追いつかなかったが、その手は自然と煙草に伸びた。

 

・・・


「カレを捜すのを手伝って欲しい?」

 三日ばかりが経った。

 ナオはコウジと都合を付け、いつものファミレスで落ち合っていた。

 彼女はヨシトが音信不通になった事を誰かに相談したかった。結局のところ、同性の友人はなく、コウジに相談するのだった。

「無理。俺はそんな器量好しでない」

 彼は相変わらず、彼女の奢りで飯を喰らっている。鉄板が二枚置かれていて、既に一方は空いている。

 ナオは、でも、と言いかけ言葉を止める。

 頼れる人は他にいないが、たった二、三日連絡が付かないだけで騒ぐのはどうかしていると。

 普段通りであれば別段気にすることはない。だが、数日前の異様な雰囲気のヨシトは、普通とは言い難い雰囲気だった。

「一緒にカレの家について来て欲しい」

 彼女はそう言い直した。

「それなら、まあ」

 フォークとナイフを皿に置いてコウジは答えた。ナオは不安で咥えていた煙草(既に四本目だ)に火をつけて、胸いっぱいに吸い込む。

 そして一呼吸置いて、微笑む。

「ありがとう。なんだか一人で行くのは怖くて」

 彼は頷いて食事を再開した。

 ナオは相変わらず煙草を吸い、コウジが食べ終わるのを待っている。

 彼女が彼と知り合ったのは大学のグループワークで一緒になってからだ。何についてのワークだったかは覚えていない。

 ただ、なんとなく。

 この人とは恋人にはならないが、長い付き合いになると思った。

 そうした予感は大体当たる。恋仲になる人とそうでない人には、何か明確な差があるように感じていたが、それが何かはどうでもよかった。

 その結果、今の関係がある。どちらも友人か知人以上と思ってはいない、ラフな関係。連絡を取らなければそのままだし、連絡を取れば会う。

 連絡は専らナオからだったが、彼女はこうした関係を気に入ってもいた。

「ちょっとゴメン」

 相変わらず丁寧な咀嚼だ。彼女はそう思いながら化粧を直しに席を立つ。

煙草ばかり吸うものだから、服からは酷く煙草の臭いがするのだろう。

 何度も禁煙しようと思っていた。止めないのは、乙女じみた思い出があるからだ。

 手洗い場で見るナオの顔は、疲れた表情を窺わせた。

「旅行に行きたい」

 彼女は誰に告げるでもなく言う。


 ナオが席を立ってしばらくしてコウジは食事を終えた。

「今ならまだ間に合う、このまま帰れ」

 彼は誰に言うでもなく、一人呟いた。

 しかし、席から立つことはない。

 ワケありだがその理由は誰も知らず、コウジはナオから貰ったピアニッシモを弄んでいる。次第に、周りの喧騒が消えていく。

 それは眠りのような没入感にも近かったが、彼はすぐにそれが異様であると気付く。喧騒が消えたのは彼の中だけではなく、周囲の皆が話すのを止めて何かを見ていた。

 コウジには見えないが、何か注目を惹くモノが確かにそこに在る。

 或いは、固定されている。

 そんな静寂を破る様にナオが化粧直しを終えて戻って来た。彼女は他の人とは違い、普段通りに見える。

「ねえ、皆は何を見てるの?」

 彼に尋ねた。コウジは「出よう」と一言だけ。

「ちょっと、えっ?」

 珍しくコウジが女の手を引いて、適当な枚数の千円札と伝票をレジに置いてそのまま店を出る。

 困惑したまま従ったのは信用していたから。

「このままカレの家に行こう」

「突然、どうしたの?」

 コウジが乗って来た四角い小型車に二人は乗り込む。

「何か‥‥奇妙な事が起きているのは分かる。本当に何も知らないの?」

 車の外、ファミレスの中、人々はある一方向を見ているようだ。

「知らない。勘みたいなもんだ」

 コウジは車を出す。古臭い内装と、小さい車内に二人は収まる。

 ナオはさほど気に留めなかったが、歴史あるボロ車は何度かの手直しがされて綺麗な状態を保っていた。

「今度は事故か……」

 道路に出ると赤いランプが回っている。交差点の先で車が横転しており、血塗れの老婆と呻いている老爺が救急車に乗せられている。

 右折するしかなかった。ヨシトの家は車で三十分程の距離にある。コウジも何度か行ったことがあり、場所は頭に入っていた。

 それがどうしたことか右折した先も渋滞していた。

「普段は渋滞しないんだ、今日は何か変だ」

 朝は習慣的に見ていたTVを点けなかった。家を出る時にいつも鳴いていた烏がいなかった。毎日の習慣と違うところに意識が向く。

 そして何より、そんな些細なことが気になった自分を訝っている。

 単なる偶然。コウジは偶然を気にしている。

 車はジリジリとしか進まない。その内に二人はある事に気付いた。

「ファミレスにいた人とおんなじだ」

 ナオは通行人や前後の車の乗員が自身の進行方向とは関係ない方を見ていることを指摘する。

 彼等は何かに固定されたかのように、一つの方向に顔を向けていた。

「奇妙だ」

「みんなが変な方向を向いている事が?」

 彼は首を振って答える。

「あっちは、ヨシトの家の方だぜ」

 左の脇道へ入る。生活道路のような狭いこの道も、渋滞している。

「この道で混むかよ」コウジは吐き捨てる。

 ここでもやはり、皆が同じ方向を向いていた。通行人だけでなく住民と思われる人も、わざわざ家の外に出てきてまで、そうしていた。

 寝巻き、ジャージ、ぼさぼさの髪、裸足。

 どう考えても尋常ではない様子の人々。

 先ほどの事故も、この渋滞も、彼らが原因に思えた。ただ、一方向だけを向いている人たちは、他のことに注意を払う様子がない。

「まるで、マネキンみたい」とナオは言う。

 一体何が起きているのだろう。非現実的な事象に巻き込まれている。

 正直に言えば、コウジはこんなロクでもない事には関わりたくなかったが、ナオへの義理もあってヨシトの家へ向かう。

 渋滞の中、変わらずにカレの家を見る人達の間をじりじりと通り過ぎていった。

「なんだか、現実味がない。煙草、吸っても良い?」

「それだけは勘弁してくれ」

 数十分もすれば、ナオもコウジも彼等の姿が気にならない様になる。最早単なる渋滞でゆっくりと向かっているだけだ。

 前の車は所々道に擦ってはいたが、ぶつかって止まるまではいかない。

 コウジの運転する数十年も昔のマニュアル車は危うげな感じで、二速で繋ぐ。古くなっているのか、一速には入らない。渋滞の時は不便だが、彼はあまり気にしてはいなかった。

「そろそろヨシトの家だ」

 コウジは十階建てのマンションを示す。遠くからでも何か違和感がある。

 こちらからはマンションの通路が見え、一つのフロアを除き住民が外に出ていた。やはり、これまで見た人達と同じように。

 彼等も同様にある一点を注視している。

「みんながみんな、カレの部屋を見てる。やっぱり、気持ち悪い」

 ヨシトの部屋だ。

 その場で引き返すことも出来た。

 しかし、恐怖の間に好奇心もあって、ナオは『戻ろう』と言わなかった。

 いざとなれば、コウジもいるからと若干高を括っていたのだ。

「行きたくねぇなぁ」

 コウジは心底嫌そうな顔をしながら、近場のコインパーキングを見つけるとそこに停めた。立ち止まって一点を見つめている人達も、車が近づくと脇へ避ける。あらかじめそうインプットされたかのようだ。

 二人は車を降りて、カレの住むマンションに向かう。

 部屋までの道すがら、言葉を発さずにジッとマンション見つめていたと思われる人々が、小さい声で何かを呟いているのが分かった。

「視線が……とか、外来が……とか、良く聞こえない、どうだ?」

 ナオは首を振った。

「早く行こう」

 彼女は気味が悪くなっているのか、あまり周囲を見ていない。半ばコウジの後を付いて行くようだった。

 マンションに近づくにつれて無表情の人々の数は増え、正面の入り口は彼等で塞がれていた。二人が近づいても、彼らは微動だにしない。

 正面から見上げると、カレの部屋の階以外は通路に出ている人で溢れている。

「裏から入ろう」

 二人は裏手に回った。

 用意されていたかのように、裏手には人はほとんどいなかった。

 ヨシトの部屋は五階の一番奥だ。裏手にある非常階段を上る。あまり手入れされていない鉄製の階段は所々が錆び、上るたびに嫌なふるえがあった。

「鍵、持ってる?」

 前を上るコウジが振り向いてナオに聞く。

 ハッとした顔をして、しばらくバッグを漁ってみるが、彼女は恥ずかしそうに微笑む。持っていない。

「……忘れたみたい。行くだけ行ってみようよ」

 ナオは車で向かう最中に電話を掛けてみたが、カレは電話に出なかった。

 ヨシトのスクーターは裏手の駐輪場にある。

「良いさ、多分いるから」

 コウジは少しだけ悲しそうな表情をしていた。何かを知っているような感じを受ける。もう取り返しが付かない。そんな風だ。

 五階に着く。他のフロアと異なり、人のいない通路が不気味に感じた。

 二人は押し黙って歩く。廊下の最奥まで。

 部屋の前で止まる。二人は一息つく。緊張していた。

 静まり返った通路。ナオがインターフォンを鳴らす。

「いないの?」

 一度鳴らした後、数十秒待っても物音すらしない。

 ナオはそれを期待しているような声色だった。このまま何もない、で終えればまたいつもの日々が戻ってくる。そう思いたかった。

 待ってみても、何も返答はない。

「いるんだろ、開けろよ」

 痺れを切らしたコウジはドアを三度叩く。

 それでもヨシトは出てこない。

 周りからは音が消えたように、異様な視線がこの場所に注がれている。

「やっぱり……」

 本当にいないだけなのではないか。

 ナオがそう思い始めた頃に部屋の中から物音がする。

「いるんだろ!」

 チェーンとロックを外す音が聞こえた。部屋の主は姿を現さない。

 コウジは、ほらな、とばかりにナオを見た。

「一体、なんなの?」

 ナオはそういってドアノブを回す。徐々に苛立ってきていた。

 ドアを開けると、第一に黴臭さが鼻に付く。

 長い間、人に使われていない。そんな雰囲気が漂う。

 人が生活している部屋だというのに、ちぐはぐだ。

 リビングに続くドアのすりガラス越しに座っている人がある。ヨシトだろうか、そのカレはこちら側を見ているようだ。

「ぶつぶつと何か言ってるな」

 ぼそぼそとした話し声が聞こえる。

 コウジは耳が良く、玄関のドアを開けたときには独り言が聞こえていた。

 外は曇天で部屋にはカーテンが掛かっているのか薄暗かった。ナオがリビングに入ると、カレはぶつぶつと何か言いながらソファに座っていた。

「そうだ、食べなくちゃ!」

 そして二人が部屋に入ると、カレは名案を思いついたかのように立ち上がり、止める間もなくリビングに併設されたキッチンから出刃包丁を取り出した。

「まるで、私達が来たことなんか全く眼中にないみたい」

 ナオはがっかりしたような様子でカレの行動を見ている。刃物を持っているのにも関わらず、あまり恐れてはいない。苛立ちも消えた様子。

 イカれたような姿に現実味が無く、彼女はただただ呆れていた。

 または、非現実に想像力が麻痺していた。

「●、それで何をするつもりなんだ?」

 コウジが声を掛けた。●の名前は上手く聞き取れなかった。●だったものが●になったのだったが、それが意識下でマスクされているように感じられる。

 すると●は「ははぁ、さてはそういうこと。食べるんだ!」と笑う。包丁の向けられた先には何も置かれていない机。

 机の上の虚空を切断すべく、片方の手を包丁の背に添えて体重を掛ける。すると、見えない何かが切れたように見える。

 ざくり、とした音さえも耳に残る。

「判らないか‥‥」

 コウジはそう言うと、●にタックルをぶちかまし、頬張ろうとしたなにかはカレの手から離れた。彼女の方へ飛んだようにも見える。

 倒れざまに●の頚動脈を絞めた。●は取り落とした包丁を掴もうともがき、ナオはそれに取り乱すことなくただ観察していた。

 それはいみがないんだ。

 そんなような言葉が聞こえ、●は動かなくなった。一時的な気絶。

「悪い。●を止めるにはこうするしかなかった」

 コウジは自分が●の名前を呼べないことに、意識に登らないことに、違和感を覚えていたが、あまり気に留める様子もない。

 ●を止めたのは、刃物を持っていたら危険。現実的な理由だ。

 しかし、彼は他のことで恐怖してるように見えた。

「ひどい。」

 ナオは異様な雰囲気に圧されることなく、それ以上は何も言わなかった。

 彼女の反応はどこか現実味がなかった。

 この場にある現実的なものはどれだろうか。机も、包丁も、セットのような感覚で、意識を取り落とした●の上でコウジは携帯電話を取り出す。

「救急車呼ぶから」

 型落ちで傷だらけの端末はモノクロの液晶。●は気絶して動かない。:7)それなのに●はもう食べてしまったのだ。ナオは刃物が気になるのか、出刃包丁をシンクに投げ入れた。

「●は何を考えていたんだろう」

 バシャン、シンクが響くと共に、皿が入っていたのか割れた音がする。

 ●にはいみがないという。コウジは簡単に状況を説明している。

「呼吸が普通なら大丈夫? えぇ、ハイ、それは、ないですね。ハイ」

 単なる気絶なら問題はない。いみのない行為だった。=4)ということに気付いて、コウジは唐突に電話を切る。彼はナオを見て悟ってしまった。

「何をしているの?」

 彼女はソファに向かって話しかけた。●は遂に立ち上がる。意識があるかは定かではなく、外へ向かおうとしているのが分かる。

 それは最早●ではなかった。平べったい何かを口から吐き出して、コウジは●の背が伸びていることに気付いた。

「それならこれからはこれからのこれを始めるべきよね」

 ソファに話しかけていたはずのナオの姿は消え、●の中から声が聞こえて来た。

 もうナオは食べてしまった。たべられることが;5))宵の為にある。●は天井に頭をぶつけ、ねじれ、コウジは逃げ出そうとする。

「あー、ちくしょう」

 コウジは悪態を吐きながら外へ駆けだそうとしたが、ナオの声が聞こえた。

「「●●●●。」」

 消えたはずのナオはベランダに立って、言語にならない声を発した。●はもういない。何故なら地味な(%4)が立ちあがる対岸の視線を捉えて離さないのだから。

 部屋は徐々1:)2-)に壊れ始める場所だ。コウジは一刻も早くその場から離れたかった。女は斉賀ナオだろうか、何か別のものに変わりつつある気がした。

「たばこを、😉すいたいの😉」

 部屋から出ようとすれば一部分の女がいて、それに煙草を渡してやる。

 彼が持ち得る唯一のリアルはそれを置いて他にない。いみがない●はいみがない●はそろう。小さな権現さん。

 その一部分の女(もとはナオ)煙草に火をつけてぷかぷか:4:と吹かす。

 この場所から離れなければ、非常階段を下りるべきだ。コウジはその一部分の女を脇に抱えながら空を仰ぐ。不定形のようで、大きくはなかった。

 ピアニッシモが漂い、階段を鳴らし、ここはどこだというのか。

 コウジはありえないほどの速さで階段を飛び降りていく。

「たばこ、おいしい」

 ものの一分で階段を駆け下り、溢れ出た畜生の涙に、空に刺さる視線。

 コウジは駐車場まで走り、律儀に料金を払って乗り込んだ。虫払い。

 マンションには形容しがたい何かが溢れ、●は女としての崩れ去りを体現する排卵をしていた。それは常に、いみを持たず。知らず。白い益体なし(餅)のように見えたり、規則的なホワイトノイズに見えたり、その中でニジマスが泳いでいると言っても何も間違いはない。

 コウジは考える余裕はなかった。ただただ、自分の感性が逃げろ、と言っているに過ぎない。

 行きに存在していた見ている者達は姿が見えない。コウジは法令違反であることを知りながらも、車を飛ばした。恐らく、今なら、誰も咎めない。

 大通りに出ても無理な運転を続け、ひたすらに距離を置こうと喘ぐ。その溢れだす何か、コウジは嫌悪感たっぷりにミラーに視線をやる。

 普段なら体に余計な負荷が掛からないよう運転するのだが、今は違った。体は左右に振られ、タイヤは歪に鳴く。

 誰かが通報しなければと思う程に、運転は荒く、死に近かった。

「まだ😉あるじゃない」

 一部分の女は車のレバー付近に置いてある煙草を咥え、吸い込んだ。

 それは形をはっきりと保っていた。顔と胴体と片方の腕。荒い運転でも、特になんでもない様子で、吸い込まれた煙は胴体から漏れ出す。

 そのナオらしき女は、煙草に火は点いていないが満足した様子だったので、コウジは触れなかった。体が中途半端なことにも気づかないフリをする。

「ようやくあのクソッタレが見えなくなった」

 マンションから離れるにつれて、速度を落とし、平常運転に戻る。

 彼はもう何も考えたくなかった。このまま海へ行こう。

 そう思い、車を走らせる。

『無意味だって事は分かっていたのでは、だから知らないフリをしてて』

 ラジオをつけてみて、すぐに消した。どの局も同じ話しかしていない。

 無意味だ。から逃げ出したのか、それを考えることも。

「何が言いたいんだか」

 発した言葉はすぐに陳腐化してしまうように感じられた。

 人間、自身の存在感に質量がない。

 そんな感じが強まっている。

 手にしている唯一の現実は、車の運転と交通ルールだった。

 クラッチを踏む、シフトノブを触る、アクセルペダルを踏む。赤信号に気付く。

 そういった一連の動作だけが、コウジの現実を把持してくれていた。

「●だけがLIMBOになかった、芯の要素はなかったハズなのに」

 ナオは胴体が消え、頭と腕になっていたが、コウジはそのことについて考えない。切れ目からは血は流れていないし、理解の範疇外だった。

 コレは代弁しているだけ。煙草を吸う以外はもうあの女ではなかった。

 彼は分かっていた。始めからどうしようもないこと、ただ逃避する以外に意味のある行動はないことも。

「結局俺だけが残るんだ、いつもそうだ」

 似た様なことが過去にあり、そのどれもが今と似た結果を産んでいたのだろう。コウジは忌々しげに吐き捨てた。

 その後は海に着くまで一言も発しなかった。隣の代弁する女も声を発することはない。相も変わらず、煙草に火はついていなかった。

「たばこ、おいしい」ピアニッシモの香りは漂っている。

 忌々し気な顔でコウジは窓を開け、風を感じていた。


・・・


 夕刻過ぎに着いた季節はずれの海には全く人がいない。

 駐車場にも彼一人だった。車を止めた時にはナオはいなくなっていた。

 コウジは少し歩き、海が見える堤防の辺りまで向かった。

 特に目的はなく、昔から何かから逃げるときはいつも海だったと言わんばかりに、潮風を浴びながら伸びをする。

「もう、駄目だ」

 凝り固まった体をほぐすように体を動かし、コウジは見てしまった。

 振り返った時に、来た道は既になくなっているのに気付く。駐車場も、彼のお気に入りの車も、何もかもが白い。

 思わず気弱な台詞を吐いたが、彼は動転せずに携帯電話を取り出し、画面に映る自分の顔を見る。小さい画面に映る自身の顔。

「……そういうこと」

 彼はこれが自分の顔だとどうにも思えなかった。

 来た道は溶けて消えた。自分の相貌も同様にして消えてしまったのか。

 ●のマンションを中心に、全ての概念は形を保てなくなった。

 人間が全て意味的消失を引き起こした。

 原初の混沌へと戻りつつある。そんな現実の喪失感を振り切るように傷だらけの携帯電話は地面に叩きつけ、中身が見えた。かしゃ、やけに小さい音。

「そう思っているのは、貴方だけ」

 消えていない。ナオはまだそこにいた。一部分だけに見えていたのは幻だったのか?

 目線の先に立っていた彼女は、人間の形を保っている。口にした言葉は人形じみていたが。

 コウジはその意味を少し頭に巡らせる。

「そんなことはない。こっちに来る●を見ろよ」

 マンションで伸びて巨大な形となった●が駐車場だった方向から歩いてくる。

 アレも幻だったというのか?

 空は白に溶け始めていた。

 ●はいなくなっていた。こちらに向かってくるのは、見慣れたカレの姿。カレは、誰か。●もカレもナオも海側に立つ。カレは柵の近くに佇み、コウジに気付いた。

「俺たちだけが「ようやく会えた!」‥‥待てよ!」

 目線を読んだのか、言い終わらないうちにナオはカレの元に駆け寄った。

 コウジはそれを追う。

「あの時に切り分けておけば良かったんだ!」

 ヨシトは近づいて来た恋人に出刃庖丁を振るう。シンクの中で皿を割った包丁だ。

 二度、三度と肩口を刃で叩く。切れ味の悪い錆びた刃だから、肩は割れていく。

 遅れて走って来たコウジは、先程と同じようにヨシトを突き飛ばす。

「もういないぜ」

 倒れたカレはすぐに起き上がり、ナオは消えていた。包丁もない。

 これは幻なのか?

 現実が幻なのか、自身の認知が幻なのか。

「むいみちゃんに会ったんだ」

 だからどうした。

「遅から早かれこうなるんだ」

 そんなことあるものか。

「だから、だから。そうなんだ」

 一度、海が哭いた。

 海面の一部が沈み、一つの大きな凹みが現れつつあった。

「僕と●は別なのに、君はそうは思わなかった。混在だ」

 コウジは借りて来たように喋る狂言廻しの言葉には耳を貸さず、ヌルヌルと歪み始めた地面を意に介さず、服を脱いだ。


「相手してられるか」


 自分でも、何をしているのか、よく分かっていない。こんな物事から逃げ出すには、どうすればいいのか。彼は心に決めた。

 だから。彼はもう何も喋らなかった。

 海へ走り出し、柵を乗り越え、テトラポットを渡ってその中に飛び込む。

 一心に、ただただ、沈み込み始めた海面の境界を目指して。

 その中央まで一心に泳いだ。ゆっくりと、小さな点となって波間をただよっているように見えたが、進んでいる。

 虚ろな器が海を吸っている。空を喰っている。ヨシトも●もナオもそれを承知していた。ただ、から逃げ出そうとしたのはコウジだけだ。

 ヒビ装飾の入ったそれは、コウジに見覚えはない。

 器だろうが、なんだろうが、どうでもいいことさ。

 彼はそう思いながら、流れる水の勢いを借りて器を殴りつけた。

 一度、二度、三度。

 器から何かが漏れ出た。

 かつての友人愛犬蹴り上げたムシャクシャしたから

 苦しめたのは、カレか?

 器は砕けむいみにちった

 但し、虚ろなカレはもう伸びることはない。女が煙草を減らさぬように

 それは幻。

 |与太話を孕んだリアリティから、彼一人が溺死へと。《薄桃色をしたヒビ装飾の器と共に》

 溢れ出た海水に呑み込まれた。

 コウジにはそう感じた。

 器から流れ出たものは?本来ある秩序と概念の軛

 そして穏やかな海だけがそこにある。

 カレも●もコウジもナオも消えた。喰われた空も、吸われた海も、溶けだした地面もない。

 駐車場には小さな車だけが残されていた。


***


「きっと僕は頭がおかしくなっていたんだ」

 男は●として、病院に閉じこめられた。

 彼は以前からここに来ていた友人にこれまでのことを話していた。

 彼女を傷つけて警察に追われ、死のうと海の中に飛び込んだが、運よく救出されてしまった。その後、調査と聴取を受け罰を受けるものだとばかり思っていたが、責任能力無しと判断された。

 彼自身は立派にその犯罪の責を負う覚悟があったにもかかわらず。

「彼と元カノには酷いことをした」

 男の頭の中では、コウジと女の関係を勘違いし、嫉妬した故に彼らに暴力を振るった。そういうことになっている。

 それは彼が責任能力無しと判断された理由の一つだ。

「うん、確かに酷いや」

 と、何度かぶつぶつと呟いてから、友人は男に向かって言った。

「で、でも、見てくれ、窓を」

 駐車場が窓から見えた。友人は窓を開けようとし、ロックが掛かっていることにがっかりして肩を落としていた。

 まばらに停まっていた車の中に、見慣れた小さい車がある。海辺の駐車場に放置されていたはずのコウジの車。

 海水でもかぶってしまったのか、車は錆び付き、動かない様に思える。

「●へのお見舞いかもしれないよ」

 うん。男は小さく頷いて手を組んだ。

 その車を見ても、彼の心は別のことでいっぱいだ。

「でも、僕は本当に酷いんだ。家に呼んで、二人を刺したりして」

 病院に来てから、男はこの話を何度も繰り返した。ファミレスまで後をつけたこと、ついついぶっきらぼうな態度を元カノに取ってしまったこと。

 友人にその話をしている内に、外の小さい車のことは忘れてしまった。

「じゃあ、また明日」

 そうやって男は簡素な夕食を胃に収め、静かに一日を終える。

 彼はこの場所がどこであるかも気にしていなかった。

 本当に悪いことをしてしまった。許されるなら、彼らに謝りに行きたいが、まずは自分がまともにならなければいけない。

 自身の罪を悔いていた。

 そのことを医者に話す度に、益々自分が悪いと思い込む。

『記憶障害、被害妄想、対話不可、理解不能』

 といったようなことが診断書の備考欄に汚い字で書き込まれていた。

 彼が自分のことに気付けると、主治医は考えていないのだ。


 ある日の朝、男は外を散歩していた。施設内であれば、散歩は問題ない。限りなく自由に行動できる。ここはそんなルールだった。

「来てくれた!」

 その途中、駐車場に停まっていた自身の車を見つけ、男は驚いて駆け寄った。

 ようやく、彼に謝ることが出来る。自分本位だったが喜んでいた。

「お見舞いに来たんだ。うん、悪いと思ってる」

 近付いて見ると、もうその車は動かないことが分かる。タイヤはパンクして、丸見えのエンジンルームからは明らかに必要な部品が足りていない。

 廃車になってから、かなりの年月そこに置いてあったようだ。

 誰も乗っていないが、男は猶も話を続ける。

「もう、治ったんだね」

 煤けたガラスに映った男の顔は、●に見えたが、しばらくするとコウジの顔にも見えた。

 誰も、彼が何者か知ることは出来ない。

 それでも意味不明が入り込んだあの日をこの男が思い出すことはない。

 自身の実存が曖昧なままであることも、彼にはおかしいと思えない。

小さく渇いたガラス細工。安定して話せるよう努力はしている」

 口にするむいみな言葉も、自分が病気だからと只々受け入れるばかり。

「僕は病気が治るまでここにいるよ」

 車はロックが外れていた。男はシートに座り、刺さったままの鍵を回したがスターターは動かない。そこにないから。

 繰り返すうちに鍵は根元から折れる。長い間刺さっていたから固着していたのだ。

「もう行かないと、食事の時間だから」

 助手席に転がったピアニッシモとライターを手に取る。

「元カノも元気そうでよかった」

 それを自然と口に咥え、火を着ける。ライターと煙草は妙に新しく、古ぼけた車の中にあるのは奇妙だった。

 昔から、●は煙草が吸えなかった。

 男は深く煙を吸い込もうとしてむせてしまう。

「本当にいるのかもしれない」

 ひとしきり咳き込んでからそんな事を言った。

 彼は車から出て、大きく伸びをした。

 そこへ職員がやって来る。表面的にはにこやかだが、せかせかと歩き苛立ちを見せていた。

「おはようございます。出る時は守衛さんに一言残して欲しいんですが」

 ちょっとした非難の言葉に耳を貸さず、男は車のガラス越しに自分の顔をまじまじと見つめている。

「僕の名前を教えてください」

 ポツリ、そんなことを言う。

「●●でしょう。ほら、コウジさん、朝食を食べにいきましょう」

 職員に言われて彼は笑った。

「そうします。おかしなこと聞きました」

 コウジは嬉しそうに、職員と院内へ向かう。ゆったりと歩く彼のポケットには無造作に煙草が入っていた。

 ピアニッシモの香りと、吸いさしについた口紅。

 ただ、それだけだった。


~~終~~

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