17駅目 水道橋

 耳に突き刺さるような声を出して笑う女に不快感を覚える。


 楽しそうにはしゃぐ連中を横目に駅の方面へ歩く。皆はこれから観覧車にでも乗るのだろうか。観覧車なんてただ回るだけの鉄の塊じゃないか。


 横を通り過ぎる人達の評価を勝手につけ、マイナスな所ばかりを頭の中で罵倒する。あれにはなりたくないなと思う奴らばかりが増えていく。


 なりたくない、なりたくない、なりたくない、なりたくない、なりたくない。


 自分は一体、何になりたいんだ。


 世の中的に見れば、悪くない大学に入れた。でも、そこでぷっつりと何かが切れた。今まで親や先生の言う通りにやっていれば良かったが、大学に入ってからはそうもいかなくなる。自分でやりたい科目を選び、サークルに入り、バイトをする。そんな簡単なことが難しく思えた。


 周りが難なくこなせることがどうして自分には難しく感じるのかわからない。

 自分に出来るのは、とにかく皆に合わせて生きることだけだった。


 そんな時に皆がやっているからと塾の講師のアルバイトを始めた。


 大学が水道橋にあったため、1駅先にある4階建ての進学塾で高校生を相手に授業をしている。ついこの前まで、自分も高校生だったため学生からの評判は良かった。


 その塾は受付がいて授業準備などもしてくれる為、雑務はほとんどなく、ただ授業さえすればバイト代が支払われた。


 受付は20代前半の若い女だった。彼女は愛想は良いが、つまらなそうにただ仕事をこなしているように見えた。そんな彼女ならこんな荒んだ自分をわかって貰えるのではないかとつい期待してしまう。

 ほとんど話したことがないのに。


 そんなことを考えている間に授業が始まろうとしていた。急いで4階の教室へ向かい、いつも通り淡々と仕事をこなす。

 何人かの生徒から質問を受けた後、帰ろうとエレベーターに乗り込む。乗って直ぐにエレベーターが止まり、3階から彼女が乗ってきた。


 塾の受付は、いかにもOLというような制服を着ている。白い襟付きのブラウスに黒のベストを身に着け、下は膝丈のタイトスカートを穿いている。

 ミディアムロングの髪をハーフアップにした彼女は、地味な装いが似合わないほどのスタイルであることに気が付いた。

 ブラウスから黒のキャミソールが少し透け、さらに華奢に見える上半身とは裏腹にタイトスカートから尻の形がはっきりとわかる。

 そしてなによりも彼女から漂う甘いフリージアの香りが鼻腔をくすぐる。


 彼女は、何も興味なさげにぼーっとしていた。

 1階に着き、エレベーターが開くと彼女はこちらに愛想の良い笑みを向け、先に通してくれる。そんな当たり前の行動も彼女から向けられると、今すぐにでも想いを伝えたくなる。


「雛形先生、お疲れ様でした。」


 彼女はそう言い、エレベーターから出るとそそくさと受付へ戻って行った。


 また数日間、家と大学とバイト先を行き来するだけの生活が続く。

 今日もそんな変わらない日だった。授業が終わり、大学構内を歩く。季節は冬になり、日が落ちるのが早くなったため、まだ17時を過ぎたばかりだというのにすでに辺りは暗かった。


 ふと大学内に設置されているベンチに人影を見付け、目を凝らす。そこには、あの受付の彼女がぽつんと1人座っていた。俯き加減の彼女は、髪を下ろしていてチェックのワンピースを着ていたため、いつもより少し幼げに感じた。


 どうしてこんな所に居るのだろう?


 そう思い、声を掛けようとする。

 その矢先、彼女の顔がぱっと明るくなった。彼女を笑顔にしたのは、40代の男性であった。顔の掘りが深く、笑うと年相応の皺が出来る、いかにも紳士という言葉が似合う男だった。


 どこかで見たことがある。

 入学式の時に渡されたパンフレットを思い出す。確か法学部の准教授。そんなことを考えている間に2人は、街中へ消えて行った。仲良さげにして。


 次の日、いつも通りバイト先へ行き、いつも通り授業をした。


 授業が終わりエレベーターに乗ると彼女が追いかけるように乗り込んできた。

 無言が続く。あっという間に1階に着き、ドアが開く。


「雛形先生、お疲れ様でした。」


 彼女はいつも通り声を掛け、受付に戻ろうとした。自動ドアが開く前、何か思い出したようにこちらを振り向く。


「この前のは秘密でお願いします。」


 少し悪戯気味に笑い、中へ入っていった。


 何にもなれてないのは自分だけだったのかもしれない。彼女と准教授の関係性はわからないが、ただ虚しさを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る