第4話 謎の名前

 去来庵は、紫陽花見物帰りの多くの客で混雑していた。

 いつもならば、店の外までずらりと行列ができるのだが、この日は待つことがなかった。いや、それだけでなく、1テーブルだけ空きが出て、夕夏と横山は待つことも無くあっさり店内に入ることが出来た。


「どういうこと?いつもなら、店の外で最低30分は待たされるんだけど」

「あはは、だから言ったでしょ?僕が行くときはすんなり入れるって」

「店に知り合いとかいるの?それとも、単なる偶然で?」

「どうなんでしょうね。運がいいだけ、かな?」


 横山は飄々とした雰囲気で答えていた。

 しかし、お腹が空いている夕夏は、深く追求せず、すぐさまメニュー表に目を移した。


「あ、これこれ!『特製ビーフシチューセット』。あ、バタートーストとライスのどっちか選べるんだ?当然ライスよね、ここは」


 夕夏は、納得した顔でメニュー表を横山に手渡した。


「じゃあ、僕はコーヒーのホットで」

「え?今、何て言いました?」

「だから、コーヒーのホット」

「な、何で、去来庵まで来て、ホットコーヒー?冗談でしょ?」


 仰天した表情の夕夏をよそに、横山は店員を手招きし、注文を告げた。


「特製ビーフシチューセット1つ、それから、ホットのコーヒーね」

「ええ?ま、マジで、ホットコーヒーなんだ…」


 夕夏は驚いたが、横山は気にする様子もなく、カメラを取り出すと、レンズを調節し、中のデータを確認した。


「どう?いい写真、たくさん撮れたでしょ?」

「ああ。どれも良い写真だね。さすが夕夏さん、僕が見込んだだけのことはあるな。最高のモデルでしたよ」

「でもさ、私、笑った顔で写った写真が少ないでしょ?昔から、悪い癖なんだよね。レンズ向けられると緊張しちゃって」

「だから、良いんですよ」

「ど、どういうこと?」


 その時、店員がビーフシチューセットを持って、夕夏たちのテーブル前に現れた。


「わあ、来た来た!冷めないうちに、お先に頂きまーす!」


 両手を合わせ微笑む夕夏に対し、横山はにこやかな顔で右掌を前に出し、「どうぞ」とだけ告げた。

 スプーンで触ると柔らかく弾力のある肉、風味豊かなスープ、丁度いい位の固さに煮込まれた野菜…どれをとっても、ここのビーフシチューは完璧である。

 それだけではない。このシチューをライスの上にかけると、ハッシュドビーフのような食感が楽しめる。

 夕夏が去来庵のビーフシチューが好きな理由は、まさにこの食感である。


「おいしい!ここのシチューはライスにかけて食べると本当においしい。ねえ、横山さん、私が美味しいものを食べてるところは写真に撮らないの?こんなに笑顔満面の私を撮るのは、今がチャンスだよ!」


 しかし、横山は頬杖をついて、ずっとコーヒーをすすり続け、笑顔満開の夕夏には見向きすらしなかった。

 普通であれば、美人でえくぼが綺麗な夕夏の笑顔は、まさにシャッターチャンスであるが、横山は全く興味を示さなかった。

 夕夏は横山の反応にちょっと苛ついたが、美味しいシチューにありつけたことが嬉しくて、とりあえずは水に流そうと思った。


「あ~美味しかった!今日は撮影がんばった元は十分とれたかも。ごちそうさま、そして、鎌倉の素敵な場所を沢山教えてくれて、ありがとう」

「こちらこそ。あなたにお会いできてうれしかったです。あなたを見ると、小百合さゆりさんのことを思い出さずにいられなくて」

「え?さ、小百合?」

「あれ?なんか、僕、はずみで誰かの名前を言っちゃいましたかね?」

「うん、今、『小百合』って言ってた」


 すると、横山は突然、無言になった。

 その表情は、伏し目がちで、何かもの哀しいように見えた。

 そして、何を思ったのか、突然ポケットからハンカチを取り出し、顔の辺りを拭いだした。

 

「あれ?ひょっとして、泣いてます?」

「い、いやだなあ。泣いてなんかないですよ。さ、帰りましょうか!夕夏さんもそろそろ自宅に帰らなくちゃいけない時間でしょ?今日は何だかんだで1日付き合わせてしまって、本当にごめんなさい」


 横山は慌てふためいたような様子で、早口で夕夏への謝罪の言葉を口にすると、ハンカチを顔に当てたまま、立ち上がった。


 「ちょっと、話、終わってないですよ。誰ですか?小百合さんって。そしてその人と私に、一体何の関係が?」


 横山はハンカチをズボンのポケットにしまい込むと、夕夏から目を逸らし、無言になった。


「私、ずっと気になってたんですよね。何で私みたいな人間が、見ず知らずのあなたに声を掛けられたのか?そして、ニコリと笑いもしないしポーズも取れない愛想の悪い私に、あえて何も言わずにシャッターを切ってることもね」


 すると、横山は店内に響く位の大きな咳ばらいをした。

 店内にいる人達がその音を聞いて一斉に横山の方を向き、横山はちょっと顔を赤らめたが、やがて怪訝そうな表情で、夕夏の方に向き直った。


「わかりました。正直あまり話はしたくなかったのですが……夕夏さん、お時間は大丈夫ですか?一緒に、行ってほしい所があります」

「いいけど……一体、どこに行くの?」

「いいから、付いてきてください。そこでちゃんとあなたにはお話しますから!」


 横山は、いつもの優しい口調でなく、ややいらだちを感じるような口調で夕夏を手招きした。

 会計を済ませると、横山はヘルメットを夕夏に手渡し、カブのエンジンを回した。

 鎌倉街道の、どこまでも数珠つなぎのように並ぶ渋滞列の脇をスピードを上げて突き進み、やがて鶴岡八幡宮前の交差点に出た。

 横山はここでさっき通った若宮大路へと行かず、住宅地を縫うように走る細い二車線の金沢街道へと進み、やがて、「鎌倉宮」手前の三叉路へと差し掛かった。


「もうすぐですから、ちょっと我慢してくださいね」


 カブは、三叉路を左折し、やがて二階堂地区の住宅街へと入っていった。

 緑に囲まれた閑静な住宅街を進むと、西洋風の洒落た住宅の手前で横山はブレーキを掛けた。


「ここが僕の家です。さ、どうぞ降りて下さい」

「え?私も一緒にあなたの家に入るの?見ず知らずの男の人の家に入るなんて、ちょっと怖いかな……」

「大丈夫です。今はおふくろと二人で暮らしてるんで。それに、あなたにどうしても見せたいものがあるからね」


 そういうと、横山はヘルメットを外し、玄関の扉を開錠した。

 中に入ると、腰の曲がった白髪の老婆が、杖を突きながら、にこやかな表情で出迎えてくれた。


「あら、眞一郎、おかえりなさい。どこに行ってきたの?」

「撮影行ってきたんだ。あとで母さんにも見せるよ。そうそう、今日は僕の撮影にお付き合いしてくれた人を連れてきたんだ。こちらが夕夏さん。東京から観光で来てたんだって」

「眞一郎の母の初恵はつえといいます。すみませんね、うちの息子が無理なお願いしてしまったようで」

「あ、いやいや。さんには鎌倉市内をあちこち案内してもらえたんで、楽しかったですよ」


すると、初恵はかけている眼鏡を夕夏に近づけ、しばらくじっと見つめていた。


「どうか……されました?」

夕夏は、初恵の様子が気になって、尋ねた。

すると、初恵は顔の筋肉をピクピクと震わせ、手にしていた杖をカタカタと音を立て震わせながら、大きく目を見開いて夕夏の顔を覗いた。


「あなた……小百合さん?小百合さんだろ!どこに行ってたの?」

「え?私が……小百合?ど、どういう、ことですか?」


初恵から突然発せられた言葉を聞き、夕夏は慌てふためいた。

横山も言っていた謎の女性「小百合」とは、一体、誰のことなのか?

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