第五話 御霊箱、開帳
思慕くんの矮躯は、いまだ拘束されたままだった。
彼女は力無くうなだれている。
だが、変化の兆しは、既に始まっていた。
「なに?」
萌花くんが、眉間に皺を寄せる。
思慕くんの両手両足を縛る縄が、ギリギリと撓みはじめたの。
縄は次の瞬間、バツン! と音を立てはじけ飛んだ。
支えを失い、落下するかに思えた思慕くんの身体は。
しかし羽毛のごと、ゆっくりと舞い降りる。
地面に降り立った彼女の足は、泥水ひとつ跳ねさせない。その身を不可視の力場が包んでいるかのように。
「誰……?」
不信感からではない。
ただ純然たる問いかけとして、ヨギホトが、萌花くんが、
歩き巫女が、顔を上げる。
突風。
一陣の風が、地獄と化した伊賦夜島を駆け抜ける。
風は少女の
閉ざされていた瞳が、いま開く。
現れたのは、圧倒的な虹色だった。
虹色の
……彼女は、本当に妣根思慕だろうか?
ぼくの知る、口が悪く、性格も悪く、けれど人を愛した彼女だっただろうか?
あのひとが、こんなにも冷たい表情を浮かべるとは──
「額月萌花、潮時だ」
「!?」
歩き巫女の口から、絶対零度の声音が漏れる。
彼女はボディーバックへ指先を伸ばし、あるものをつかみ出す。
それは、両の手のひらに載るほどの、箱根細工にも似た模様が施された箱。
歩き巫女の指先が、表面模様をひとつ撫でれば。
いままで一枚板と思われた側面の一部が、カシャリとスライドする。
降りしきる赤い雨。
空を閉ざす暗雲。
山より流れ落ちる濁流と化したぬっぺふほふたち。
彼らはアワシマと同化し、川に流されまいと島の全土に手を伸ばし、へばりついている。
まさしく地獄絵図。
その中にあって、小さく。
しかし清浄な音色が響く。
カシャン、カシャン、カシャン、カシャン、カシャン、カシャン──カシャン!
「や──やめなさい!」
なにかを悟った萌花くんが、触腕を思慕くんへと叩きつけようとして──だが遅い。
「御霊箱、開帳」
神域の音楽とともに、烈光が視界を塗りつぶした。
箱。
開かれた御霊箱は、華のような形状へと変化し、その中央から放たれた金色の光が天空を衝く。
光は渦を巻き、突風となって暗雲を雲散霧消させ、一瞬にして周囲に降りしきる雨粒の全てを消し飛ばす。
光。
もう何日も見ていなかった暖かな光。
陽光が、空から降り注いで。
「そ──」
萌花くんが、叫ぶ。
「それはなんですか、妣根思慕!?」
「────」
「あ、ああ、あなたのような小娘に、何が出来るというんですっ? なんのために私の前に立ち塞がるの!? 私はただ、先生と結ばれたかっただけなのに、それを邪魔するおまえはなんだ!? なんなんですか、あなたはいったい!?」
「妣根思慕。それがおれの、現世での
低く、しゃがれた声で。
厳かに彼女が言葉を発する。
光が弾けた。
風圧によって彼女のフードははじき飛ばされ、烏羽玉色の髪がまっすぐに背後へと流れる。
虹色の眸は目映く輝き、世界を灼くほどに凝視する。
ひとめで理解できた。
この島の人々が神の肉によって人としての尊厳を保っていたように。
あの眼帯こそが、この箱こそが、思慕くんを人間たらしめていた拘束であったのだと。
彼女はいま、本来の役割に回帰しようとしている。
天と地の狭間、地獄と天界の端境で。
ただ純粋な、神意の執行者として……!
「貝木稀人には理念があるといったな。ならば、おれにも理念がある」
それは。
「この世在らざる神格の。
これなるはつまり、神秘殺し。
「いまを決死で生きるものを、過去より来たる妄執から守ること。それがおれ、歩き巫女──妣根思慕の理念である!」
カッと、少女が両眼を見開いた。
御霊箱が、空恐ろしいほどの圧力を放つ。
啓く。
黄金の光の中に、赤々とした闇黒が。
奈落の底が、いま啓く。
「アワシマ、並びに伊賦夜の島民よ。ヨギホト、並びに額月萌花よ。貴様らは母なる国の教えを忘れ堕落した。人の世界にとどまり人と交わり、人を支えて生きろという本分を喪失した。害為すものと成り果てた。故に」
歩き巫女が、神託を下す。
「御霊箱を以て、貴様らを母なる国へと送還する」
「何を、何を言ってるんですか、あなたは……!」
「
彼女は順番に、その虹色の眸を以て睥睨し。
回避不能の呪いを告げる。
「ここに──〝密封〟する!」
「ふざけるなぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
絶叫し、萌花くんが全身から触腕を放ったとき。
御霊箱もまた、光の奥の闇黒から、それを解き放っていた。
眼――眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼――眼。
腕――腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕――腕。
眼球。
然るに、腕。
無数の、億千万の、無量大数の、空を覆い尽くす眼球が対象を捉え。
無数の、億千万の、無量大数の、地を埋め尽くす光り輝く腕が伸び。
細く、太く、いびつで、整合の取れた、短く、長い、無数の
ヨギホトの全身へと、絡みつく!
「あああ、アアアアアアアアア!」
ヨギホトだけではない。
アワシマにも、亡者たちにも、余すことなく腕は絡みつき、尋常ならざる力で、箱のなかへと引きずり込んでいく。
それは加護を、呪いを、言祝ぎを奪うのか?
島民達も、腕に掴まれた端から次々にぬっぺふほふと化して、箱へと引きずられていく。
逃げることも、隠れることも、姿を変えることも許されない。
眼が、あまねく眼がすべてを見通すが故に。
質量保存則など、この場で何の意味も持たなかった。
あの小さな御霊箱の裡側に、島全土を老い尽くすほどの亡者全てが収納──密封されていく。
例外はない。
例外は
それは、萌花くんであっても。
「先生っ、せんせい!」
彼女が、悲痛な表情で叫ぶ。
「なんでですか、どうしてですか。私はただ、幸せになりたかっただけなのに。繋がっていたかっただけなのに。なのに、どうして。私は間違えたんですか? こんなちっぽけな願いすら叶わないなんて──どうして!?」
「それはな、額月萌花」
思慕くんが、超然とした表情で。
けれど、僅かに優しい声音で、こう言った。
「おまえの欲望の名前が、間違っていたからさ。それは恩愛ではなく──独占欲だったんだよ」
「────」
萌花くんは面食らったように目を丸くして。
「──ああ」
それから、納得したように目を瞑り、一筋の涙をこぼした。
御霊箱が、全てを呑み込んでいく。
だが、亡者たちは、アワシマたちは諦めようとすらしなかった。
『るぅあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!』
咆哮、絶叫、断末魔。
しがみつくことをやめない彼らの力に、ついに島の方が限界を迎える。
地震。
それも、これでまでのどれよりも大きな極大の地震が、伊賦夜島を襲う。
度重なる豪雨。無数の地震。地殻変動。
そして、怪異の腕力に晒されてきた島へ、それはとどめの一撃となった。
藻採山が崩れた。
岩と、土砂が雪崩落ち、土石流となってぼくらへと殺到する。
それはさながら、山から海へと向けて津波が走るように。
「おお、おお……! この世の終わりじゃ……! は、はっはっはっはっはっは!」
狂ったように笑い山へと向かっていた鬼灯翁は、真っ先に土砂へと飲み込まれ。
「萌花くん! 蛭井さん! 思慕くん!」
ぼくの、伸ばした手は――
「……またな、稀人。縁があったら、陽光の下で会おうぜ」
――誰にも届くことなく、空を切った。
そして、ぼくもまた、土石流に飲み込まれる。
「ぐっ、がはっ!」
圧倒的な圧力に負け、そのまま海へと押し流されたぼくは、無数の岩とともに、海底深くへと沈んでいく。
どうしようもない水圧が、鼓膜と頭蓋骨を圧搾し。
胸郭は酸素の全てを吐き出してしまう。
眩む視界。
闇黒の視野。
死ぬのだと、そんな諦観に支配され、目を閉じる。
なにかが、頬に触れた。
霞む視界が、海中へと降り注ぐ日の光と、そして何かのシルエットを捉える。
それは、人であって人でなく。
まるで、御伽噺の人魚のような姿の何かで。
「ありがとうございます。それから、ごめんなさい」
どこかで聞き覚えのある言葉とともに、押しつけられた唇。
そこから、熱い呼気が肺臓へと吹き込まれる。
にわかに活性化する全身。
人魚はぼくの身体を抱きしめると、そのまま海上へと向かって浮上をはじめて。
「さようなら。心から愛したヒト」
彼女は、ほつれるように儚い微笑みを見せて。
そして、泡になって消えた。
ぼくは。
ぼくは──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます