四.始まりの音は騒々しく

 一人の青年が落ちてくる。


 いつもの空き抜けた朝。変わりばえのしない石作りの家々。建ち並ぶ街並は過ぎ行く色のない風景。だが今日の窓はいつもの風景を彼女にスローモーションのように長い時間を経過させ、色彩を与えた。


 その色の透けた黒髪は晴れた青雲を突き抜け、


 その驚きに満ちた茶の瞳は宇宙のその先を見つめ、


 その過酷を知らない体は落ちゆく風に押され、


 高所からの恐怖にもがく手は、何処にも届かない。


 その後彼はどうなったのだろうか。だが彼女の求めるものがそこにあるのは間違いない。

止めることの出来ない関心は急激に高まり、ここから今すぐにでも飛び出してしまおうかと考えてしまう。だがそうすることは出来ない。何故なら彼女はここから出ることは許されていないからだ。

焦る必要はないのだ。まだ時間はたっぷりと残されている。徐々に情報を収集していけば良い。そうすれば自然に運命は彼女を引き合わせてくれる。彼女はこれまでの失敗を思い出し、自分の心を諫めることに集中する。


 しばらくして大きな鐘の音が街にも鳴り響いた。 








 佐藤 浩之(ひろゆき)は目を開けると空を見ていた。屋根に空いた穴から見える快晴の空にはカモメのような鳥が飛んでおり、どうやら港町の少し海から離れた家に落ちたらしい。これは予想していたことだ。


 肉体の転移先は選べない。世界は外から内側を見ようとしてもマジックミラーのようになっていて見えないのである。箱の中身はなんだろな状態だ。その為適当に肉体を放り込めば海のど真ん中ということもあり得る。それを避けるため以前中に入ったり、調査をする為に空けた穴の痕跡から入ることとされている。そうすれば大陸変動が大きな世界でない限り陸地にたどり着くことは出来る。だが今回使った穴が開けられたのはかなり昔のようで調査を行った時と今ではその地上の様子が様変わりしているようだ。


「ごふっ」


 落下時の衝撃で折れた肋骨が肺を損傷させ、血が口から溢れてくる。痛みはほとんどないが、約1週間ほど前の同じ味とともに思い出される様々な顔が閻魔を寂しい気持ちにさせた。


 現在佐藤浩之の外見は傷一つ屋根の埃を被って汚れているだけでなくなんともないように見える。だが、全身のありとあらゆる骨が骨折し、また内蔵もいくつか破裂していた。だが、それでも難なく動ける。


 手で血を拭い、床かから土煙を被った体を起こす。閻魔は自分の落下したあたりを見渡した。天井の形からして屋根裏部屋、そしてベッドの上だったようだ。だが、落下の衝撃で2つにへし折れ、さらにはその下の床まで壊したようだ。


 まとわりつくようなが風が”びゅう“と閻魔の顏をなでる。正面には窓だ。そこから外を見ると石造りの家々が並んだ先には広大な海。眩しいほどの黄色い太陽が反射して白く塗り替えられ、それがターコイズブルーとエメラルドグリーンが混ざり合うコントラストに更なる美しさを加えている。それが窓枠いっぱいに広がっていた。


「おおー!!事前に調べておったが、やはり良いでは無いか!」


 ピザ職人として研修に行った際に立ち寄ったイタリアシチリア島のシラクーザを彷彿とさせる。あの時は住み込みの研修でザ窯とずっと付きっきりだったためほとんど観光が出来なかった。そのリベンジはどうやらここで出来そうだ。


 閻魔は右側を見渡す。素朴な縦長の木造部屋だ。照明は一つ。家具はたった一つだけ。窓の右側にこの部屋との不釣り合い差から異様に思えるものが。まるでこの部屋の主であるかの様なかつて立派なものだったであろうロココ調の鏡台だ。所々の塗装が剥げ落ち、装飾が欠け落ちている。だが、きちんと掃除され、乗っている恐らく化粧道具だろうものも整理されている。決して大切にされていないわけではないというのが第三者から見てもわかる。それどころかこうなる程までになっても使っているのだ。余程思い入れのあるものなのだろう。


 落下時にはかなり大きな音を立ててしまった。そろそろ誰かが気づいてこちらに来る頃だろう。まず考えられるのは住居侵入罪、器物損壊罪。どの世界でもあるだろう。


「とりあえず、これらは後で弁償するとして、まずはこの部屋の主人に謝らなくてはな。なんて事情を説明すれば良いものやら」


 そう閻魔は独り言を言うとなんとなく後ろを振り返った。そしてこの部屋がL字状になっていたことを知る。さらに今自分は現行犯で捕まるかもしれないという最悪な状況にあることも。


恐らく20代前半だろう。白い肌に身長は160cm程度、手足は細く長いほうだろう。長い金髪はこの暗い部屋のせいでひときわ煌びやかで、前髪はその端正な顔立ちをさらに可憐に見せている。職業はメイドで、オーソドックスな形のものを身につけ、さらにその下にはネイビーの下着をつけている。何故そこまでわかったかというとパジャマから仕事着へと着替え中だったからだ。その子は凍結したかのように固まっている。


「違う!断じて変質者ではない!ちょっとした事情があって、それでタイミング悪くお着替え中の所に落ちてきてしまったのじゃ!」


 いいことがあったら悪いことがある。この法則に習うと次の展開は予想出来る。


「わしは確かに男じゃ。君に魅力を感じないわけではないが、わしは君を襲おうなどと一切考えていない!以前産婦人科医として働いていたこともあるから女性の体は見飽きている。安心してくれ!」


 だが、その法則を回避するのは容易い。これをいいことだと思っていないと示すことだ。


「壊したベッドは必ず弁償する。今は手持ちがないのですぐにとはいかんが、少し時間をくれれば必ず金を持って戻ってくる。なんならここで今魔法契約書を書いてもよい」


 魔法契約書とはこの世界における一種の強制差し押さえが可能な契約システムらしい。古くからあるものらしく、閻魔が事前に調べたところでは対象である契約者と高耐久の羊皮紙や紙に複雑で高度な魔法をかけることで、その契約内容が履行、または破棄された時に報酬又は代償を債権者が自動的に回収等することができるというものであるらしい。そしてその担保は命ですらもとすることができるため奴隷契約などにも使われており・・・・・・などと書かれていた。


 彼女は身動き一つしなかったが、表情からは羞恥と恐怖、混乱そしてもう一つの感情が読み取れた。しかし、閻魔には何故その感情が湧き起こっているのか理解できない。だからその答えを婉曲的に聞こうと閻魔は口を開こうとしたのだが、残念ながら彼女の指先の動きの方が先だった。


「あ、あなた首が・・・・・・」


「ん?」


 彼女に目を向けているとその後ろにあった奥の姿見が目に入った。


「え?まじ?」


 なんと閻魔の頭は逆方向についていた。


 肉体を落とした時の衝撃で頭が逆方向に折れ曲がったのだろう。そういえばなんだか体を動かす時の感覚が以前と比べておかしいと思っていた。


「よし!まずはお嬢さん落ち着いて!叫びたくなるのはわかるが!そしてわしも一旦落ち着こう!」


 パニックはまずい。今の閻魔の状況がさらに悪いことになるのは明々白々、和解という選択肢はまずなくなる。閻魔だって客観的にみれば問答無用ですぐさま現行犯逮捕されても仕方ないと思う。だが今回はあきらめることはできない。捕まれば警察に身元の一切を調べられるだろう。そしてその一切の情報が出てこない男を警察はどう思うだろうか?逃げることは簡単だが、大手を振って街を歩くことはこれから不可能になってしまう。そうなれば閻魔の延長休暇は台無しだ。


 他国に行く?ダメダメ。わしはこの場所のこの海の風景がいいの!


 とにかくまずは正しい位置に戻さなくては。そう思って腕を動かす。


(えーっと、右手が今左手で前に動かそうと思ったら後ろに動かさないといけんのじゃよな・・・・・・意識すると難しいぞ。で、肘は逆方向だから後ろに曲げる感じ・・親指と小指は逆になっているから力の入れ方も逆にして・・・・・・それで腕を上に上げる・・・・・・)


「うーむ、難しいぞ。なんじゃこれは」


 閻魔は今下手に操られるマリオネット状態だ。


「すまんが、直すのを手伝って貰えんかの?」


彼女の顔は恐怖一色単に塗りつぶされた。


「いや、すまん!いきなり現れた不審者にそんなこと出来んわな!ごめんね!hahaha!」


それもあるが、今この状況を見れば一番はそうではないだろう。首が180 度、いやそれ以上に回っていて、口には血の跡、そして動いて喋っているということが問題なのである。ブリッジして階段下りてくる某ホラー映画を思い出してほしい。それが目の前にいるのだ。


閻魔は彼女が絶対に引くであろう最終手段をとるかどうか考える。いや引くだけならばいい。もしかすれば彼女から化け物の認定証をもらってしまう可能性もあるな。であればやはり手段はないのか。閻魔は次次と案を巡らせる。だがその答えは透き通った美声がその一切を遮った。


「わ、わかりました。とりあえず回せばいいんですか?」


 どうやら、彼女は勇敢な神父様のような人物だったらしく閻魔の前を通り過ぎ、 鏡台の椅子をぽんぽんと叩いた。


「こちらに座って下さい」


「す、すまんの」


 まさか聞いてくれるとは思っていなかった閻魔はそそくさと顔を後ろにして席に座る。


「では行きますよ」


 そう言って彼女は閻魔の両顎を持って右に回した。


「うーん」


 気分は整体を受けているお客だ。


「うーん」


「お嬢さん思いっきりやってくれて構わんよ。わしはこのくらいでは死なんのでな」


「わ、わかりました。思いっきりですね」


 そう言うと彼女は閻魔の頭を抱き抱えるかのようにして胸に引き寄せおおよそヘッドロックのような形をとった。彼女はあれから一切装いを変えていない。なので閻魔の顔に当たる部分は直である。


「うりゃーっ」


 それから閻魔は彼女の善意の汗に塗れたぱふぱふを何度か体験することとなったのだが、首は少しも戻りはしなかった。おそらく骨が折れた際に一緒に断裂した筋肉繊維等が間違った形で修復されているのであろう。つまり元に戻すにはもう一度首を引きちぎるしかない。


「ここまでやってもらってすまんの」


「いえいえ、気にしないでください」


「変に首が治ってしまっているようでの、どうやら手の力だけでは難しそうじゃ。もっと強烈な、首と胴体が分離してしまうほどのおおきな力が必要じゃな」


「じゃあ私魔法が使えますのでそれで試してみてはどうですか?」


「ほう。魔法か。面白そうじゃの」


 この世界の魔法技術は事前にある程度読んでいたがさっそく実物を見れるとは思いもしなかったため閻魔の好奇心が刺激される。


「ただ、使えるようになったのが最近なのであまり細かい制御はまだできなくて・・・・・・衝撃波とかになっちゃうんですけどいいですか?」


「構わんよ。わしは只々おぬしの善意に甘えているだけの立場じゃ。力いっぱいやってくれ」


「はい!ではいきますよ」


 彼女はそれはそれは嬉しそうな表情をしながら両手を構える。何やら力の波動のようなものが溜まりつつあり、 その数秒後には彼女の両手の周りの空間が歪む。 そしてそれは一気に放たれ、次の瞬間


「え、嘘」


 壁一面を吹き飛ばした。


 閻魔は瓦礫とともに宙に浮く。だがこれまでの整体を受けている時間の中で大体の体の動かし方は理解していた。宙に浮くそのわずかな時間に体勢をコントロールし、綺麗にスーパーヒーロー着地を決めた。だが顔は相変わらず逆方向であるのが締まらない。


 閻魔の頭はいままでは上から見て頭が180度回転していた。が、今はそれに加えて正面から見て顔が90度ほど回転した状態となっている。さらに手足の一部はあり得ない方向に曲がっている


「・・・・・・」


 閻魔は立ち上がり、とりあえず治せるところ、逆方向に曲がった指や明後日を向いた足首を無理矢理、力技で治した

治している最中はグシャリと嫌な音を立てていたが、それよりも好奇心から外の風景が気になった閻魔は今向いている事故現場とは逆方向を向いた。するとそこにいたのは2人の男だ。現地の言語で左胸に“警官”と書かれている。


 閻魔は既にこの世界の言語については行くと決めた日の夜の間に日常会話から読み書きまで大体については既に習得済みだ。これは閻魔が長い間裁判を行う際に様々な世界、国の被告人の弁明を聞くために言語学習を何度も何度も繰り返してきた恩恵だろう。閻魔の喋れることの出来る言語は既に何千万語にも達し、新たな言語を学ぶことは、それまで学んだ言語のどれかに法則が当てはまることが多いためかなり容易になっていた。


 目の前の2人の警官の様子はデジャブだ。全く動かない。 両手の手の甲を上げて弁明する。


「違う!わしは――――」


「ぎゃああああ!化け物!!!」


 2人は右手の平を閻魔に向け火炎球を発射した。


 間一髪のところそれを閻魔はダイビングキャッチをする野球選手かのごとく回避する。


「うぐっ、待って!話を聞いて!」


「おい!なんだよ!あれ!」


「知るか!とりあえず打て!打て!」


 不味い。とにかく今は逃げるしかない。閻魔はすぐ様起き上がった。頭はまだ元に戻せていないので必然的にバック走だ。


「ひぃぃぃぃぃぃ」


 頭の正面から見て後ろからドカン、ゴカンと爆発音が鳴り響く。まるでアクション映画の1シーンさながらだが、主役である地獄の頂点閻魔が今佐藤浩之の格好をしているということを加味しても"ひぃぃぃぃ"とは情けなさすぎである。


 とにかく全速力で走る。あまり魔法の命中精度は良くないらしく、距離が離れるほど明後日の方向に向かって火炎球が飛んでいく。このままなんとか振り切れそうだ。


 走りながら頭を戻そうとトライしてみる。だが既に逆方向にしっかりとくっついてしまっているようで腕の力だけでは戻らない。


(うーむ、やはりこの肉体あまり力は無いのー)


 この肉体を現世で使うのは初めてだ。ある程度研究され予想はされていたが、何が出来て何が出来ないのか一切不明である。とりあえず今のところ確実なことは本来の力が出無いこと。痛みはほとんど無いこと。そして首が折れても生きていることだ。


 走っている先は全くわからない。もしかすれば行き止まりになっているかもしれない。だからなるべく人通りの多いところを選ぶ。目撃されるのは避けたいが、追い詰められて死ぬ方はもっと避けたい。


 そうしているうちに開けた場所にでた。どうやら町の広場らしい。中央に噴水が上がり、その周囲に人々が腰を下ろし談笑している。 周りには露天が立ち並び、ポップコーンやアイスと言ったお菓子類からその場で食べられるスナックフードなどが販売されているようでその周囲には子供が集まっていた。 噴水周りの建物の入り口にいたストリートミュージシャンは広場の情景にあった音色がファンタジー感をより一層強く感じさせてくれる。 先程の街路に比べるとかなり人通りが多い。街路では見なかった人間種以外の者もいる。


 そしてそんな中を首が捻転した者が走り抜ける。


「きゃああああああああああああ!」


「化け物ー!」


「うわぁあああああああああああ!」


「嘘だろ!なんだよ!あれ!」





広場は騒然となった。


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