第16話

 新年初めてのキリヤ堂。僕は何度も、あけましておめでとうございますと言った。森川さんや内田さんは底抜けに明るく、あけおめーと言って、佐々本さんはいつものようにやる気のないシンディローパー。白川さんはみんなに両手を前で組んで深々と僕にまで頭を下げながら丁寧に、神田さんもいつものように指でオッケーサインを作った。森山さんも早番から出勤していた。昨日僕から年賀状が届いたようで、株式会社小沢勇って何と笑いながら聞かれた。お客さんの数も新年初日の営業なのにいつもと変わらない。みんなが生地を買いにキリヤ堂へ訪れる。僕は昼休みの休憩時間に河本さんに、今月の十五日はシフトでは出勤になっているけれど小沢君は成人式をどうするのと聞かれた。僕は成人式になんか全く興味がなかった。それでもみんなが、成人式だけはちゃんと出た方がいいと揃って僕に言ってきた。成人式と言っても僕はスーツも革靴も持っていない。そして河本さんの提案で、キリヤ堂で僕の成人式をやってくれることになった。僕と同い年の森山さんと三階の岸本さんはどうするのだろう。十五日なんてあと一週間とちょっとでやってくる。煙草だって吸っているし、飲めないけれどお酒だって飲める年になった。でも僕はフリーターだし、大人になった実感なんてないし。煙草なんか二十歳になる前から吸っていたし。給料から毎月所得税を払っているけれど選挙とか政治も全く分からないし。一人暮らしをしているから、みんなが小沢君は偉いとか、しっかりしていると言ってくれるけれど、自分が子供だってことは僕が一番よく知っていることだし。僕はその日の仕事が終わった後に、村尾さんと森川さんと森山さんの四人でご飯を食べに行った。当然村尾さんの奢りで。村尾さんもあまり友達がいない。こんな年下のガキである僕なんかとよく一緒の時間を過ごして、休みの日にはパチンコへ行ったとか風俗に行ったとか、そういう話しか聞かなかった。僕はそこで村尾さんに昨日と一昨日に一人でパチンコへ行ったことを話した。村尾さんは少し驚いたみたいで、僕の初めてのパチンコで十二万五千円勝ったことはビギナーズラックと言うもので、ギャンブルは初めてやった奴はだいたい大勝ちしてハマってしまうんだと言い、パチンコは勝つことより負けることの方が圧倒的に多いもので、それでも大当たりをした時に気持ちがいいからやるものであって、あくまで自分の小遣いの中でやるもので、生活がかかっている君はあまりやらない方がいいと言った。それから僕はボーダー回転数の話をして、五倍以上のハマりをしたことも話し、店がいかさまをしているのではないかと聞いてみたが、そんな五倍ハマりも普通にあるし、君も最初は一回転で大当たりしたじゃないか、確率だから当たらない時は十倍ハマっても当たらないと言った。それから、それでも五万円は手元に残ったんだからプラスに考えた方がいいと言い、悪いことは言わないから残ったお金をパチンコに使うことはせずに有意義なことに使った方がいいと言った。森山さんは訳が分からない顔をしていて、森川さんは僕に、村尾氏は給料全部が小遣いだからパチンコでぼろ負けしようが全然いいけれど、小沢君は生活がかかっているんだからギャンブルにハマるのは絶対によくない、小沢君を悪の道に誘った村尾氏が悪いと言った。それからキリヤ堂でやってくれる成人式の話になった。森山さんもその日は着物を着て参加すると言っていた。着物を着て参加するということはシフトには入らずに、一般の成人式にも出るのだろう。村尾さんが、パチンコで勝ったお金があるんだからそれでスーツと革靴を買った方がいいと言った。僕はスーツと言われてもピンとこなかった。森川さんや森山さんも、五万円の臨時収入があったのならスーツと革靴を買った方がいいと言った。村尾さんや森川さんの話だとスーツは安いものなら一万円で買えるし、革靴も安いものなら五千円しないらしい。それから村尾さんが、ネクタイは余っているのがたくさんあるので何本か僕にくれると言ってくれた。天然パーマでもじゃもじゃの髪の僕がスーツを着て、ネクタイをして、革靴を履く。自分でも想像出来なかったけれど、なんかいいかもと思った。スーツを着てネクタイをして革靴を履いて、二階で生地を切っている姿を想像すると僕はキリヤ堂の社員みたいに見えるかもしれない。それから地元に詳しい森川さんが安いスーツを売っているお店と安い革靴を売っているお店をいくつか教えてくれた。村尾さんが、スーツや革靴も余っているのがたくさんあるからそれを譲ってあげてもいいのだけどサイズがあるし、これから就職して正社員になることを考えたら絶対に自分に合ったサイズのものを買った方がいい、色は濃紺が若い人には似合っているし、着ている人も多いと言った。それから革靴は基本、黒か茶色で安いものも高いものも見た目はそんなに違いは分からないと教えてくれた。それから思い出したように村尾さんが僕に、念のために聞いておくけれどワイシャツも君は持ってないよねと聞いてきた。僕は当然そんなものは持っていない。僕は、ワイシャツも持ってないと答えた。村尾さんは少しの間、うーんと考え込み、やはりワイシャツも余っているのをあげてもいいけれどサイズの問題もあるし、古いワイシャツはどうしても襟の部分が汚れてしまっているし、これからのことを考えるとどうせ一着千円とかで買えるので新品を買った方がいいと言った。森川さんも、村尾氏のワイシャツを着ると小沢君が汚れると言って、新しいものを買った方がいいと言った。村尾さんはもう慣れっこで森川さんに、だから君は何故そんなに僕のことを悪く言うのかな、と言った。森川さんは、村尾氏は風俗に行きまくってるし、正社員でいい大人なのに未だに実家暮らしで給料全部自分の小遣いに使って何の苦労もしてないからだと言い、森山さんも、そうだそうだと言った。僕から見れば、村尾さんを責めている森川さんも森山さんも村尾さんと同じじゃないかと思った。森川さんにはお母さんがいないのだけは気になっていたけれど。

 翌日、村尾さんがたくさんのネクタイを持って来てくれた。僕はいよいよ本格的に人生初のスーツを意識し始めた。そしてたくさんの柄のネクタイを見ながらうっとりした。ポリエステルで光沢のあるものや、起毛のもの、中には麻のネクタイもあった。村尾さんが言うには麻のネクタイは高いものらしい。僕は休憩室の鏡で安物の綿のトレーナーの上からネクタイを一つ胸に首から下がるようにあててみた。なんかかっこいい。そこで僕はとんでもないことに気が付いた。ネクタイの結び方が分からない。ネクタイってどうやって結ぶのだろう。僕は村尾さんにネクタイの結び方を聞いてみた。すると周りにいた女性の社員さんやパートさんがみんな集まってきて、みんなが分かりやすく僕にネクタイの結び方を教えてくれた。河本さんが代表して、僕の目の前に立って、僕の顔にものすごく自分の顔を接近させてきて、河本さんの目線は僕の首を見ていて、僕もネクタイを結んでいる河本さんの手を見るフリをしながら、チラチラとすぐ目の前にある河本さんの化粧できれいに決まっている大人の女性の顔を見ていた。女の人にネクタイを結んでもらうのはとても興奮する。よく、新婚さんが旦那さんのネクタイをお嫁さんが結んであげる話を聞いたことがあったけれど、とてもいいものだと思った。そして河本さんにネクタイを結んでもらって、分かったかと聞かれたけれど、僕は興奮してそれどころではなかったので、難しすぎてあまりよく分からなかったと答えた。次に千田さんに結んでもらう。またしても興奮してそれどころではない。経理の谷口さんが、みんなどいてどいてと僕の前にやってきた。谷口さんには僕は興奮しない。しかも谷口さんの教え方はゆっくりでとても分かりやすかった。僕はメモ帳にネクタイの結び方を自分に分りやすいようにイラスト入りで書き込んだ。それからその日の仕事が終わった後に村尾さんと森川さんと僕の三人でいつものようにドーナツ屋さんで村尾さんの奢りでドーナツと紅茶を飲みながら話をしていた。二人が僕に、明日の仕事が終わった後に安いスーツを売っているお店と革靴を売っているお店に一緒について行ってあげるから買いに行こうと言った。それから予算は二万円以内でお釣りがくる程度で一緒に選んであげるから明日は二万円を持って仕事に来るようにと言った。僕は絶対に泥棒が入るわけがないようなぼろいアパートに住んでいたけれど、押し入れの段ボールの下に五万円を封筒に入れて隠していた間は常に盗まれたらどうしようとドキドキしていた。だから銀行のATMが使える四日の朝にはすぐに銀行に五万円を預金した。キリヤ堂の給料も銀行振り込みだった。銀行は朝の九時から昼の三時までしか窓口はやっていないし、ATMも夕方を過ぎるとお金をおろすにも手数料が百円かかる。僕は常に財布の中にお金は多くても三千円までしか、基本的に入れていない。水道代や電気代、ガス代や電話料金などの三千円では足りない時だけ、銀行に行ってお金をおろす。家賃は手渡しなのでかなりの大金で毎月ドキドキする。幸い、僕がお金を預けている銀行は荻窪の駅前にあったので銀行を利用するのはキリヤ堂が朝の十時からだからその前か、朝がバタバタして仕事前に行けなかった時は休憩時間に足を運んでいた。仕事が終わってからだと、窓口はやっていないし、ATMは百円とられる。あとは休みの日は比較的好きな時間に行けたので都合がよかった。銀行で最初に口座を作る時に判子が必要だと言われた。僕は判子を田舎から持ってきた安っぽい地方銀行の判子しか持っていなかった。実印とかの存在をその時に教えてもらって、役所にも印鑑証明としてその安っぽい判子を実印としても使っていた。判子はかなり使う機会があった。履歴書にも判子は必要だし、契約書や書類に判子を押すことも多かった。僕はどんなに長くて文字がたくさんの難しい契約書でも全ての文字を読んでから判子を押すようにしていた。そして意味が分からない文章は常に相手に説明を求めていた。うっかり内容をよく読まずに判子を押すととんでもないことになると東京に行く僕にお母さんが何度も口を酸っぱくして言っていた。世の中に一人で出ることはとても危険なことなのだと。僕は翌朝、銀行に行って二万円を窓口でおろした。パチンコで五万円勝ったから二万円使っても三万円残る。あの時八万円勝っていた時点でパチンコを止めていたら六万円残っていたのに。でも三万円残っているし、一回五千円までと決めてパチンコにまた行けば増えるかもしれないなあと考えていた。そう言えば村尾さんはよく奢ってくれる。いつも奢ってくれる。パチンコ代まで奢ってくれた。キープとして風俗代まで奢ってくれる予定だし。でも現金を僕にくれることは一切なかった。正確にはパチンコ代を奢ってくれた時は一万円を僕に手渡してくれたけれど、それはあくまでパチンコに使うお金としての奢りであって。キリヤ堂の小沢君募金箱にも名前は募金箱なのにお金を入れてもらったことは一度もなかった。人にお金をあげることなどあるのだろうかと僕は考えたりした。その日のお昼休みもたくさんの女の人が僕にネクタイの結び方を僕の前に立って、顔を思い切り僕の顔に近づけて教えてくれた。相手によって興奮して説明をきいてなかったり、興奮せずに説明に集中したり。そして自分でやってみて気が付いたことがあった。ネクタイは長さを上手く調整しないと細い方が下から出てしまい、太い方が細い方より極端に下になり不格好になる。太い方と細い方がちょうどよいバランスに結ぶのはとても難しい。村尾さんが何度も手本を見せてくれた。何度やってもあっという間にバランスよくきれいな状態でネクタイを結んでしまう。しかも裏技も教えてもらった。村尾さんが同じように僕の目の前でネクタイを結んで、それから、よく見ててねと言って、片手でネクタイの太い部分を引っ張ると一瞬でネクタイがほどけた。僕はそれを見て、その結び方を是非教えて欲しいとお願いした。僕が今まで教えてもらったネクタイの結び方は緩めてやって太い方をネクタイで作った輪から抜かないといけなかった。村尾さんがやって見せてくれた片手だけで一瞬でネクタイをほどいてしまう技はすごくかっこいいと思った。僕は村尾さんにそのネクタイの結び方を丁寧に何度も繰り返し分かりやすく教えてもらい、細かくイラスト入りでメモ帳に書いた。その日、仕事が終わった後に昨日の三人でスーツと革靴とワイシャツを買いに行った。先にスーツ屋さんの方が遅くまでやっているからという理由で靴屋さんに革靴を買いに行った。僕は五千円ぐらいと聞いていたのでまず五千円がなくなることを覚悟した。いろんな靴が売っていてその中で革靴を売っているコーナーを見つけて三人で見に行った。黒か茶色ばかりで見た目も全然違いが分からない。よく見れば細かいところで違いはそれぞれあるのだけどパッと見ではまず僕には分らない。僕は値札ばかりチェックしていった。村尾さんや森川さんもいろいろと見ていた。僕は一番安い一足二千九百八十円の革靴を見つけて、それより安いものがないのを確認してから二人にこれがいいと思いますと言った。村尾さんもそれでいいと言った。しかし、森川さんが意見を言った。僕が選んだ靴は一足なら二千九百八十円だけど、二足買えば四千九百八十円になる、もともと五千円の予算で考えていたのだから二足買えば千円お得だと。しかも二足買えば黒と茶色の両方が買える。僕は悩んだ。村尾さんも森川さんも、今後のことを考えるならば絶対に革靴は必要になるし、一足だけでは絶対にいずれ二足目、三足目を買うことになるから今のうちにお得なのだから二足買った方が絶対にいいと言った。僕はそんなもんなのかと思って二足セットで買うことにした。それから森川さんが、小沢君が履いている靴は穴が開いているのだからスニーカーなら安いもので二千円しないぐらいで買えるのだからついでに買えばいいのではないかと言った。その提案には僕は悩まずに即答した。今履いている靴で不便を感じたことはないし、気に入っているから新しいのはいらないですと。本音を言えば不便だとはいつも感じている。雨の日は水溜まりを避けて歩かないといけないし、靴下も汚れるし、臭いし。でも愛着もあったからまだまだ履けるから新しい靴はいらないと思った。店員さんに僕は念のため、革靴で一番安いのはこのくつですかと聞いた。店員さんは、そうですと答えた。それから店員さんは、サイズが合っているか確認するために試しに履いてみてくださいと言い、僕に足のサイズを聞いて、箱に入っていた靴をわざわざ取り出してくれて試し履きをさせてくれた。僕は人生で初めて革靴を履いてみた。サイズはピッタリだったけど足のつま先が窮屈で痛いのと、今まで履き慣れていた穴の開いた靴と違ってしっかりとした靴底の感触が心地よかった。これで誰かにつま先でキックしても僕の足は全然痛くないだろうと思った。それぐらい硬くてしっかりとした感じだった。僕は、サイズはちょうどいいですと店員さんに言ったら、店員さんはもう片方の方の色違いの靴の方まで試しに履いてみるようにとわざわざ箱から革靴を取り出した。そちらも最初に履いた革靴と全く同じような感じだった。僕は、これでいいですと店員さんに言った。店員さんは僕の穴の開いた靴を見たけれど何も言わなかった。穴は見えているはずなのに。それからレジでお会計をした。店員さんは一番安い靴なのに丁寧に試し履きした革靴を丁寧に箱に入れなおしてくれて箱を普通に普段のカバンに使えるんじゃないかと思うぐらいきれいで紐を引っ張ればキュッと閉まる袋に入れてくれた。一足の革靴に袋は一つ。二足だから袋は二つ。僕はこの袋は弁当箱を入れるのに使おうと思った。それから財布から一万円札を出してお釣りを受け取った。靴屋さんに来る前は、五千円は大きな出費だと思っていたけれど、きれいで便利な袋二つに入った大きな箱と新品の革靴を実際に手に持ってみると店を出る時にはとてもいい買い物をした気持ちになった。それから次にスーツ屋さんに三人で向かった。僕の自転車の籠の中はすでに革靴の大きな箱二つ分でいっぱいになっていた。森川さんも村尾さんも歩きだから僕は自転車を押しながら歩いた。財布の中身はあと一万五千円。スーツが一万円だからワイシャツが千円として四千円は余るかなとか考えながら村尾さんと森川さんの後をついていった。スーツ屋さんはテレビのCMでもよく見る安いことで有名な大きいスーツ屋さんだった。自転車を停めて、僕は買った新品の革靴を盗まれないように手に袋を持って三人で店の中に入った。たくさんのスーツが目に入った。値段を見ると二着で五万円以上とか一着で三万円とか値段が表示されていて、それでも高いものと安いものの違いが全然僕には分らなかった。村尾さんがスーツは大体ウールとポリエステルで作られていると教えてくれた。それからウール百パーセントだと高価なものになるし、他にもいろいろあって麻が混ざっているものもあると教えてくれた。そして安いコーナーに行くと確かに一万円のスーツが売っていた。色も黒、茶色、濃い紫っぽいやつは村尾さんが言っていた濃紺というものだ。僕には高いスーツと一万円のスーツの見た目だけでは違いが全く分からなかった。僕は二人に、少し見学がしたいと言ってたくさんのスーツとそれがどんな素材で出来ているのかを見て回った。イタリア製のオックスフォードという言葉が目に入った。スーツ屋さんなのに生地が飾ってあった。村尾さんに、スーツ屋さんに何故生地が飾っているのか、サンプルなのかと聞いてみた。村尾さんは、あれはイージーオーダーと言って、生地を選んでそこから仕立てでスーツを作ってくれることだと教えてくれた。また、キリヤ堂でもスーツのイージーオーダーはやっていると教えてくれた。キリヤ堂の四階ではカーテンを売っているがカーテンのオーダーもあるらしい。安いスーツ屋さんなのにイージーオーダーの値段はものすごく高く六万円とか七万円とか十万円を超えている。全然イージーではない。カシミアという言葉が目に入った。どこかで聞いた言葉だった。カシミアのコートだ。漫画なんかで見たことがあった。カシミアのスーツはものすごく高い。村尾さんにまた質問してみた。カシミアとは何なのかと。村尾さんは、カシミアもウールのことであり、ウールは羊の毛のことであると教えてくれた。カシミアはカシミアヤギと言ってとても貴重なものだと教えてくれた。素材にはどれもウールという言葉ではなく毛という言葉が使われていた。村尾さんに聞くと、基本的に毛もウールも同じことだけど、毛の場合はいろいろな羊以外の毛も使われていると面倒くさそうに教えてくれた。おそらくこれ以上聞いたら村尾さんもそれ以上詳しくは知らないのだろうと僕は思った。全然イージーなお値段じゃないイージーオーダーのコーナーから僕は一番安い一万円のスーツのコーナーに戻っていろいろと見て回った。店員さんが来て、お探しの商品はありますかと聞いてきた。僕は、一番安いスーツを買いに来たと答えた。すると店員さんは笑顔のまま、この一万円のコーナーが一番安いし、裾上げも込みのお値段だと言った。僕は裾上げの意味が分からなかったので小声で村尾さんに裾上げとは何のことか聞いてみた。村尾さんは自分が履いているスーツのズボンの足の部分を引っ張って見せて、このズボンの一番下の部分をそのままにするのがシングルで折り返しを付けるのがダブルのことだと教えてくれた。そう言えば学生服を着ていた時もズボンの裾は折り返しを付けているか、そうでないかの二種類あった。僕はシングルでいいと思った。スーツを買うことは簡単なことだと思っていたけれど、実際には体のサイズ合わせとか裾上げとかいろいろとあるようだ。僕は濃紺の一万円のスーツをお願いした。店員さんは試着してみてくださいと言って、僕の伸長を聞き、腰回りの長さをメジャーで測り、僕のサイズに合った濃紺のスーツを試着室で着てみるように勧めてきた。僕は試着室の中に入り、いつも履いているジーパンと上着を脱いでトレーナーとトランクスの上から人生で初めてスーツを着てみた。サイズはぴったりだった。なんか鏡に映ったスーツを着た自分を見て、自分がすごく大人になったような気持になった。僕はスーツを丁寧に脱いでハンガーにかけて、いつものジーパンと上着をまた着なおした。鏡を見るとさっきまでの大人の自分はいない。いつもの幼い僕が鏡に映っていた。これでワイシャツとネクタイと革靴とスーツを着たら僕はすごいことになるぞと思った。僕は店員さんに、これでいいですと試着室から出てから言った。店員さんは、裾上げをするので、シングルにするかダブルにするかと聞いてきた。村尾さんに聞いていたので僕は恥をかかなくて済んだ。シングルでお願いしますと言うと、試着室でもう一度ズボンを履いて、店員さんが裾を折り返して針で止めていた。それから、裾上げに少しだけ時間がかかると言われ、その間にワイシャツを買おうと森川さんに言われて、僕は店員さんに、ワイシャツも買うので裾上げの時間にワイシャツを見てきますと言った。店員さんは笑顔でワイシャツのコーナーの場所を教えてくれた。僕は、裾上げをしている間にこっそり僕が店からいなくなったらどうなるんだろうかと思った。ワイシャツもたくさんの種類のものがあった。普段は白いものだと思っていたけれど青いものや黒いものもあった。黒いワイシャツなんて怖い人が着るものだと思った。それにワイシャツも値段が高いものから安いものまである。高いものだと一着一万円。スーツと同じ値段だ。安いものだと九百八十円。ここでも素材は様々で、綿百パーセンのもの、綿とポリエステル半々のもの、麻も混ざっているもの。形状記憶と言ってアイロンをかけなくてもいいワイシャツもあると聞いたことがあった。僕は九百八十円なら安い、四千円余ると考えていた。そこで森川さんが提案してきた。九百八十円のワイシャツを三着買うと千九百八十円で千円得すると。よく見ると三着同時お買い上げで千九百八十円と書いてある。三着買うと財布に残るのは三千円。村尾さんも、絶対に今後のことを考えると一着では足りないから三着買っておいた方がいいと言った。パチンコ屋さんでは五百円玉をドンドン使っていたのに、こんなに大事な買い物で千円をケチろうとしてしまう。僕の金銭感覚はどうなっているのだろう。僕は結局白いワイシャツを三着買うことにした。村尾さんが、家に余っているアイロンがあるからそれを僕にくれると言った。アイロンは布団の上や座布団の上でかければアイロン台はいらないと聞き、それから火事にだけは気を付けるようにと言われた。昔、学生時代に夏服は母親がアイロンでいつもきれいにしてくれていた。冬場も黒い学生服の下にワイシャツのようなシャツを着ていたし、腕まくりをすればしわになっていたし、だらしないやつはしわだらけのシャツを着ていた。一人暮らしの僕の部屋にアイロンが来る。僕はドンドン大人になっていく。環境だけが大人になっていく。自分の中ではいつまでも成長なんか感じないのに、とうとう今日、スーツに革靴にワイシャツにネクタイが揃う。僕は昔見た映画の歌の様にスニーカーのまま、年老いていくと思っていた。ポニーテールのまま年老いていくのが美しいと思っていた。でも、それは理想であり、現実としていつかは僕も就職をして、正社員になり、人の親になり、家を買ったり、車に乗ったりするのかもしれない。免許も取る日が来るのかもしれない。車の免許なんか聞いた話では取るのに二十万円以上かかると聞いていた。フリーター、時給八百円で二十歳の成人式を迎える僕はスーツに革靴、ワイシャツを自分のお金で買い、ネクタイやアイロンも村尾さんに譲ってもらう。田舎を飛び出して東京に来た一年前にはそんな二十歳の自分なんか想像もしていなかった。レジでお会計を済ませ、自転車の籠に入りきれない荷物を抱えて店を出た。スーツはスーツを入れる専用のよく考えられた袋に入って手渡された。持つ部分がちょうどハンガーの様に、かけられるようになっている専用の袋。しかも運びやすいように上手く二つ折りにされている。僕は自転車の籠にワイシャツが入った袋と革靴の箱が入った袋を詰め込み、自転車のハンドルの片方の方にスーツを落とさないように引っかけて、自転車を押しながら三人でいつも行くドーナツ屋さんへと向かった。たくさんの買い物をした僕の心はとても充実していた。ドーナツ屋さんにもせっかく買ったスーツや革靴とかを盗まれないように両手に抱えて店の中に入った。四人席のいつもの座席。いつもは一つだけ空いている椅子に僕の買った大量の荷物。よく分からないけど喜びに似た感情がじわじわと心の底から沸き起こって来る。それは生活必需品ばかりにお金を使っていた僕がそれ以外のものに大金を使ったからである。ブランドもののアクセサリーや、無駄に高いバッグに大金を使う人の気持ちが分かる気がした。こういうのをお金で買える幸せと言うやつなのだろう。暮らしには関係ないけれど、心が豊かになると僕は思った。その日の夜、僕は買った革靴を試しに履いて、実際にワイシャツを着て、ネクタイを村尾さんに教えてもらったやり方で締めてみて、スーツを着てみた。そこでスーツにはベルトがないとずり落ちてしまうことを知った。僕は安物のジーパンとかに使っているスーツには合わないカジュアルなベルトを仕方ないので代用に使った。スーツの前のボタンをするとベルトは見えない。僕の部屋には鏡が無いのであまり鮮明には映らないけれど、窓に映る自分を見た。外が暗くて、部屋の電気のおかげで窓が鏡の代わりになった。毛五十五パーセント、ポリエステル四十五パーセントの濃紺のスーツ。ネクタイもそれに合わせて濃紺。鏡と違って、窓では色までは映してくれないので実際にはどんな感じなのか僕には分からなかったけれど、それでも窓に映った僕はいつもより大人に見えた。

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