第2話

 この時今川義元が率いていた兵は、2万とも2万5千とも言われるが、織田方の砦を攻める為、兵を分散。桶狭間の本陣を護る者は、わずかであった。


 先刻の雨で泥濘ぬかるんだ桶狭間の山は、すでに恐ろしげな怒号と、戦の音に包まれている。


「おのれっ、推参なッ」


 本陣にも、はや織田木瓜の旗を掲げた敵兵たちが襲い来ている。

 義春は槍を振るい、主君を護るべく敵を突き伏せるが……花のかんばせに掛かる朱の血生臭さは、初陣の高揚など感じさせてくれなかった。


(前衛は何をしていたのだ。大高城に入った、松平殿らは……!)


 これが初陣であり、戦の経験など無い義春にも、今の危機的状況は分かる。

 天下に手を掛けた主君が。ここで。うつけと呼ばれる無名の若者に、討たれるというのか。


「義春ッ……!」


 暗澹あんたんとなる義春の耳を、主君の命が、雷鳴のごとくに震わせる。


「この今川義元の首を狙うからには、敵も乾坤一擲であろうよ。おそらく信長も来ておる。そなたは本陣を離れ、信長を探せ。奴の首を挙げ、この戦を終わらせてみせよ!」


「ははッ!!」


 危地に有っても堂々たる主の、不敵な姿に、義春は胸を打たれる。

 かの王に、勝利を捧げん。熱くなる血潮に突き動かされるまま、義春は槍を片手に、本陣を駆けだした。


「織田信長の首、必ずや獲ってご覧に入れます!」


 去っていく背中を、重臣の一人、朝比奈親徳が、


「待たれよ、雪川殿!」


 呼び止めるが、間に合わなかった。


「殿、御身を護る者を減らしては……!」


 朝比奈は今川義元に目を向けるが、そこで、主君が戦場に似合わぬ柔和な笑みを浮かべているのを見て、全てを察した。


「……」


 今川義元は、ここで討ち死にを覚悟したのだ。若武者に逃げよと言っても聞くまい。ゆえに、真っ先に狙われる己の身から遠ざけようと。


「買い被るでないわ、たわけ」


 朝比奈の視線に、義元は微かにはにかむ。


「そなたは、この今川治部大輔が、易々と討たれるとでも思うのか」


 それには答えず、朝比奈親徳が頭を下げる。


「……殿。某は、お供させて頂きまする」


 そして、本陣に残った義元以下、今川の武者たちも、腰の刀を抜き払い、迫り来る織田の兵たちへ斬り込んでいく。


「……生きよ。若者よ」


 その刹那、今川義元の眼差しには、慈父のような光が有った。

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