雪の如くに 改選雪川家譜

百合宮 伯爵

第1話

 永禄3年(西暦1560年)、5月19日。

 16歳にして元服を済ませたばかりの、花のごとき若武者、雪川義春は、主君、今川義元と共に、桶狭間の地にあった。

 昼過ぎ、急な雨に襲われたのも、初陣にはやる若者の血気を冷ますには足らなかった。


「何を急いておるか、義春よ」


 うずうずしている様子を見とがめたか、輿こしの上から、主君、義元が話し掛けてくる。


「はっ……。雨も止みましたし、陣を払ってはいかがかと。早う、手柄を立てとうございます」


「焦るでないわ、たわけ」


 たしなめる今川義元だが、その口調に、責める風は無い。自らが烏帽子親も務めた若武者の、血気盛んなさまを、むしろ愛おしむようであった。


「尾張の信長はうつけというが、油断ならぬぞ。雨で、物見の報告も遅れておる。まずは、それは待ってからじゃ」


 今川義元は、この時42歳。駿河、遠江に加え三河も支配し、武田、北条とも同盟。誰もが認める、天下に最も近い男である。

 側にひざまずく雪川義春もまた、このいわおのごとく重厚で、雄大な主君が、天下の主となることを、夢にも疑いなどしなかった。


(さすがは殿。落ち着いておられる。それがしも学ばねば……)


 義春は、5年前に世を去った今川家の宰相、太源雪斎のことを思い出す。

 雪川家にとって重恩ある軍師雪斎。彼は、今川義元の師父にして、世に比類なき知恵者であったが、その雪斎と比べても、今の義元はどうだ。

 王者のごとき鷹揚さに、曇り無き戦略眼。とうに、師父を超えている。


 雪川義春は、自らを省みて、急に恥ずかしさを覚えた。

 この初陣で、義春は、父、義信から、家宝の大鎧を譲られ、着用している。

 嫡男に華を持たす父の計らいではあるが、堂々たる主君の態度に比べて、何とまあ、浮かれた様子であることか。


(せめて、先祖伝来のこの鎧に恥じぬよう、働きたいものよ)


 義春が決意を新たにしていると、嵐に濡れた木々が、急に騒がしくなった。


「何事か」


 今川義元が物見を走らせようとした、その時である。


「敵襲ーッ! 織田の奇襲にございます!!」


 世に言う桶狭間の戦い。雪川義春の、苦い初陣である。

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