第8話 (3)



 イグニシアスという人間は、思うがままに、酔狂だけで生きてきたようなものだった。いまも、自分のやりたいように動いた結果、フォルッツェリオ国首都エクスエリスから郊外にかけての道を馬車で移動している最中だ。

 馬車は箱型の客席にゆったり四人は乗れるもので、両脇に小型の硝子窓が嵌め込まれた質のよいものだが、ごく庶民的なものだ。室内にはイグニシアスの他に、向かいにフォルッツェリオ国家兵団長であるビルトランが共に乗り込んでいた。彼の片手は足元から斜めに立てている大剣の柄を握ったまま、ときおり目を閉じたり、馬車の周囲を警戒するように集中した目線で窓の外を見たりしている。

 実用的な兵団の馬車を使えば、もっと速度が出せただろう。この行軍が国家兵団長の屋敷に侵入した賊を捕らえるためであるという理由ならば、本来ためらいなくそちらを使っていたはずだが、“かよわき女性術者ニース”のためだけに、ビルトランは座り心地が適度によく安定して走るこの馬車を選んだ。

 賊の居所までを精霊に探らせていたイグニシアスは、いま現在もその感覚を追っている。目を閉じたまま、笑いそうになる口元を動かさぬように努めていた。ビルトランのニースに対する丁寧な姿勢がくすぐったくて、笑えてきて仕方がない。

 イグニシアスはこの国に着いてから、ずっと女性の格好をし、婦人であることを通していた。デットとエルが正体をビルトランに明かしたあとも、自身はニースという女性術者だと偽ったままだった。

 イグニシアスが女装までしている今回の酔狂の理由は、馬車に共に座っているこの男にあった。

 “地雷”のビルトラン。

 イグニシアスの祖父の店“穴熊”にやってくる客のほとんどがその名を知っている。いや、戦士と名乗る者たちのすべてが知っていると言ってもいい。

 数多の戦場を馳ける傭兵の中でも歴戦の猛者であり、華麗な魔法戦法ではなく、強固で堅実な接近戦を得意とし、傭兵仲間以外にも、雇われ先の兵士たちの多くからも慕われる“傭兵の鑑”。

 多くの戦士たちから尊敬され、目標とされ、人と距離を置きがちな戦士ともよく付き合い、支え合い、助け合ってきた男は、かつて、一人の傭兵を相棒として、戦場を多く共にした。

 その寡黙な戦士は、ビルトランと同年代で、命を預け合う友だった。

 二人は砂漠の憩いの町ナカタカを拠点として戦場を股にかけ、ナカタカに戻って“穴熊”で酒と食事を共にし、二人揃って色街へと繰り出すこともあった。

 ナカタカの色街は、ただ男に体を売る女がいるのではなく、歌や踊りといった芸を磨いて、客のほとんどを占める戦士たちを癒し慰める花娼が勤める店が多い。

 ビルトランの相棒は、色街で一人の花娼と恋に落ち、その花娼はやがて、一人の男の子を産んだ。

 ビルトランはナカタカに滞在しているときには相棒の子を共に可愛がったし、相棒を戦場で亡くしてからは、単身で母子の様子を相棒の代わりに確認に行った。

 ビルトランの相棒が愛した女性は、子を産む前から病弱で、彼女は愛した男が戦死してしばらくのちに、あとを追いかけていってしまった。

 ナカタカの花娼たちは、仲間の幼子を共同で育てていく。両親がおらずとも美しい花娼たちに囲まれてすくすくと育っていた男の子は、父の相棒だった男の足が遠のいても彼のことが大好きであったし、いつかまた彼が訪ねてきてくれることを願っていた。

 男の子は思春期を迎えると、そのまま色街に暮らし続けるのはよくないと、町に住む祖父の家で暮らすことになった。男の子の祖父は“穴熊”という食事処と斡旋屋を兼ねた店を持っていて、男の子はなに不自由なくその後も悠々自適に暮らしていくことができた。

 両親は愛情を注いでくれたし、彼らがいなくなってもたくさんの親代わりがいて、可愛がってくれた父の親友もいた。祖父はぶっきらぼうな男だが、傭兵を引退したいまも多くの戦士に慕われ、ナカタカの町の顔役の一人を担ってもいる。

 自由に愛情たっぷりに育った男の子は、イグニシアスという酔狂な人間になった。

 イグニシアスは幼き頃、ビルトランに幾度も会ったことがあった。幾度も遊んでもらった。目の前に座るニースを女性であると疑いもしないビルトランに、イグニシアスは何度も笑いそうになるのを堪えながら、精霊を追う感覚を鋭く保っている。

 イグニシアスがこの国にやってきた理由は、ナカタカで出会ったエルが不憫でなにかしてやりたいと思ったからだ。いまはデットという味方がいて、エルの表情はずいぶんと明るくなったが、絶望や悲壮なことには縁がなく、たくさんの愛情を受けてきたイグニシアスは、エルの心に巣食う闇を払ってやりたかった。

 ビルトランのことは別問題で、彼が自分の正体に気がついたときにいったいどんな反応をするのか、大変楽しみに思っているのだった。酔狂以外のなにものでもない。

 ビルトランはなにも知らずにイグニシアスのすぐそばに座っている。ほくそ笑みながら、じれったくもある。化粧もそれほどしていないのだから、そろそろ気がついてもいいのではないか。

 自分の容姿を人から言われて知っているイグニシアスだが、他人の心情まではわからない。色街で暮らしていたときは女たちに着飾られることもよくあり、髪を女性型に結うことも慣れているし、簡単な化粧なら見ずともできるため、こうして正体を知られずに過ごしていられるのだが、女装した自分がどれだけ魅力的であるのかまではさすがに理解しきれていない。

 白皙の顔容に編み込まれた漆黒の髪が映え、目は形よく大きく、睫毛は足さずとも長く、眉は優しげ、小ぶりの鼻は可愛らしく中央にあり、薄めの小さな唇はほのかに彩られている。男では華奢で小柄という体格は女性であれば程よい肉付きに写る。質素だが女性らしい衣服に身を包めば、二人といない美貌の女性の出来上がりだが、目の見えないイグニシアスは自分が振りまく魅力や愛嬌には無頓着だ。

 そろそろ差し迫った賊の居所に近づきつつあった。その任務に集中しながら、イグニシアスはビルトランの様子をうかがっている。

 昔から変わらない、揺るがぬ大地のような確かな気配。

 そんな強い気を放つ戦士であるのに、“ニース”に対するときの舞い上がったような態度がなんともおかしかった。

 そんな彼もいまは任務を前に、引き締まった気配を辺りに漂わせている。

 とにかく賊の居所を突き止めることが最優先事項であり、全盲のため地図を読むことのできないイグニシアスは、こうして精霊の感覚を実際に追うしかなかった。場所を特定したあとは、この馬車のあとを分散しながら離れて追ってきている兵士たちが迅速にことを起こす手筈となっていた。

 馬車内に漂う緊張感と不思議な高揚感、ビルトランの戦士として初めて感じる気配に影響を受けて、イグニシアスは自分も気を昂らせていた。その初めてといっていい感覚に心地よさも感じていたが、ふいに、自分の意識を中断させるほどの強い感覚の衝撃を受けた。

 その方角へ一気に顔を向ける。

 イグニシアスは見えぬ金色の瞳を現すと、その方角を見つめようと瞳に意識を注いだ。

 ビルトランも鋭い目つきで見据えたその方角。

 そこにあるのは、戦士が闘うためではなく、人が争う姿を見届けるために存在した悪趣味なほど巨大な旧国の遺物。

 遠く離れたこちらにさえ届く巨大で烈しい闘気が、イグニシアスがいまだ知らぬ場所から、あふれんばかりに放たれていた。

 未知の感覚のそれに、イグニシアスは畏れ、見えぬ目は眩い光のような精霊の強い力を見取っていた。



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