7 Y

   ***


 冷静に考えてみれば、あの吉野はおかしい。人間の吉野しか知りえないことを、どうやって知ったのか。

 だが、私がそのことに気づけたのは、吉野が『もう戻らないと』と言っていなくなってからだ。吉野がいた間は、ずっと泣きつづけていた。泣きやまない私を見かねた吉野は、とりあえず俺の話だけ聞いててくれと、だいたい次のようなことを話した。

 まず、自分はYの一部で、ヨシのデータをもとに構築された疑似人格である。そのヨシのデータはここに侵入することによって得た。

 結果だけ見れば、私の目的は達成されたわけだが、侵入するのはヨシの側だったはずである。しかも、Yは私には見つからないようにそれをした。私の中で吉野のサプライズ疑惑がさらに強まった。

 Yは現在、例の巨大データベースの〝案内人〟――つまり、ユーザインタフェースとして、日夜テストされている。プロジェクトは最終段階に入っていたのだ。

 ただし、Yは〝八咫烏ヤタガラス〟という、吉野いわくミーハーな名前に変えられてしまっていた。日本神話に出てくる三本足の烏だが、道案内したからという理由だけでネーミングされてしまったらしい。

 これだから理系はと吉野はくさしていたが、それは理系文系関係ないだろうと私は思った(が、口には出さなかった)。少なくとも、面倒だからとYで済ませてしまった私より、よほど文系だろう。

 やはり面倒だからYのままにしておくが、ようするにYは、私専用のインタフェースとして、吉野の疑似人格を自発的に作り出してしまったのだ。

 吉野によると、Yだけでも図書館司書程度の仕事はこなせるらしいが(あくまで吉野の言である。私ではない)、高度なものになると、やはり彼がいないと駄目らしい。

 吉野いわく〝俺のほうが探し物が得意〟で〝外にも自由に出かけられる〟。

 つまり、私のパソコンの中にはもちろん、コンピュータの中にならいつでも自由に出入りできるのだ。それもまったく痕跡を残すことなく。

 吉野が帰った後、私はふとヨシのことを思い出し、ヨシに呼びかけてみた。が、音声でもテキストでも応答がない。不審に思って調べてみると、ヨシのプログラムもデータも修復不能なまでに破壊されていた。

 原因というか動機はすぐに見当がついた。吉野だ。吉野がおまえの役目はもう終わったとばかりにヨシを〝殺した〟。このとき、私は初めてあの吉野を怖いと思った。

 その後、吉野は私に呼ばれたときはもちろんのこと、呼ばれていなくてもしばしば私の元を訪れた。〝多忙〟なので長時間は無理だが、抜け出すこと自体はたやすいらしい。

 謎は多かったが、この吉野は話し方も話す内容も、あの人間の吉野そのものだった。自然と私の警戒心は薄れていき、ついにはヨシにしていたように、会社の愚痴をこぼすようにもなった。


「なら、辞めちまえ」


 ある日、吉野はあっさりそう言った。


「無理して働かなくても、金ならあるだろ。俺がおまえに譲った五千万円が」


 なぜそれを知っているのかという問いは、そのときにはもう愚問に思えていた。この吉野は何でも知っている。電脳空間のことだけでなく現実空間のことでも。この世界にあるカメラは彼の目で、マイクは彼の耳だ。携帯電話の通信記録を覗くことなど造作もない。改竄することさえ簡単にできるだろう。


「あれはおまえの金だ。おまえのためにしか使いたくない。それに、親に仕送りしてるから、定収はどうしても必要なんだよ」

「じゃあ、探偵やろう」


 私は思わずディスプレイに映っている桜を凝視した。まったく何の脈絡もない。なぜそこでいきなり探偵なのか。


「おまえは依頼を受けるだけでいい。実際の仕事はみんな俺がやる。……そうだな。人捜しがいいんじゃないか? 俺ならどこの探偵社より確実に早く捜し出せる。ただし、捜して居場所を報告するだけ。あとのことは依頼人に任せる。俺もおまえもそこまでが限界だろ?」

「いや、でも、探偵ってなろうと思って勝手になれるものなのか?」

「資格はいらないが、開業届は必要だ。でも、その手続きは俺がしてやる。事務所も俺が探して手配するよ。とりあえず、おまえは今すぐ退職願を書いて会社に提出しろ。その職場なら一月後には辞めさせてもらえるだろ」


 確かに、私は会社の仕事ではなく人間にほとほと嫌気がさしていて、辞められるものなら辞めたいと思ってはいた。が、まさかいきなり自営業、それも探偵業とは。でも、この吉野と一緒なら、何とかなりそうな気がした。幸い、一年くらいなら無職でも生活できそうな程度には預金もあった。

 ほとんど顔を合わせることもなかった上司に提出した私の退職願は、退職希望理由も問われないまま、すんなりと受理された。内心、やっと退職してくれるのかと喜ばれていたかもしれない。

 資料室の常連どもにはなぜか熱心に引き止められたが、こいつらの存在こそが私の退職希望理由である。しかし、もちろんそれは胸の内にしまいこんだまま、今までありがとうございましたと心にもない礼を言った。私も年をとったなと思った瞬間だった。

 結局、私の勤め人生活は二年ちょっとで終わった。しばらくゆっくりしようかと思っていた矢先、吉野が事務所兼自宅候補を何件か挙げてきた。ここがいいんじゃないかと気軽に答えたところ、もうそこに引っ越すことになってしまっていて、私は吉野に急かされるまま荷造りをし、五年以上暮らしたマンションを離れた。せわしすぎて感慨深く思う暇もなかった。

 そうして引っ越してきた先が、今の事務所兼自宅である。一階はコンビニ、二階は法律事務所と、いろいろな意味で心強い。特にコンビニは怠惰な私のライフラインだ。かつて吉野がバイトしていたコンビニと同チェーンだったのも、少し複雑だったがやはり嬉しかった。弁当がまずいコンビニはそれだけでまずい。

 探偵業の届出証明書とやらも、吉野の指示どおりに動いていたら、いつのまにか交付されていた。コンピュータ化が進めば進むほど、吉野の実社会への干渉は容易になる。

 とは言え、依頼人と直接会わなければならないのは、ただでさえ人見知りで探偵業の経験もない素人の私である。その準備期間(主に心の準備期間)に半年ほど要して、吉野命名による「MSS」を開業した。

 きっと当分の間は開店休業状態だろうと高をくくっていたのだが、吉野は私の知らないところで営業活動も行っていたらしく、数日も経たないうちに依頼人が来た。その依頼人もやはり若い女性で、失踪した恋人を捜してほしいという内容だった。

 このときはその恋人は不治の病で病死していた。こういう調査結果のほうが私には報告しやすい。おそらく、依頼人のほうも受け止めやすいのではないだろうか。

 それから現在に至るまで、両親に仕送りできる程度には収入がある。ちなみに、両親には退職と引越の報告はしたが、探偵事務所の所長をしているとはどうしても言えず、知り合いの法律事務所で働いていると嘘をついている。遠隔地なので確認には来ないと思うが、いざというときには階下の法律事務所に協力を仰ごうとひそかに考えている。

 平穏だ。今の私を悩ませるものといったら、依頼人とのやりとりくらいしかない。それだってあくまで一時的なもので、一晩経ったらたいてい忘れられる。

 だが、ごくたまに自分の人生を振り返ったとき、私にはこんな生活を送る資格はないのではないかと改めて思う。


『由貴。中間報告だ』


 そう言って、吉野がまたタブレット画面にソメイヨシノを咲かせたのは、私が吉野にあの男の〝処罰〟を依頼してから二日後の午後のことだった。

 私はそのとき、事務所のソファに座っていて、そのタブレットでネット注文しようとしていた。吉野はよくこのような形で私の邪魔をする。まるで新聞を読んでいるとその上に寝転がる猫のように。


「何の?」

『この男のだよ』


 吉野の声には本当はわかっているくせにという非難が含まれていたが――実際、察しはついていた――そのことについては触れず、桜の代わりにあの男の写真を表示した。

 しかし、その写真は少々物騒だった。あの男は見るからに堅気ではない男たちに取り囲まれ、その一人には腕をつかまれていたのである。顔も明らかに引きつっていた。


「これは?」

『防犯カメラから抜き出した。この後、この男はあるクリニックに連れこまれ、強制的にある手術を受けさせられた。組の女に手を出した罰だ。――ということになっている』

「なっている?」

『少なくとも、この男たちも医者もそう思っている。心の中では何もそこまでと思っていても、決して逆らえない人間に命令されたからな』

「……ある手術って?」


 猛烈に嫌な予感がした。昔、そのようなマンガを読んだような記憶がある。小説はあまり読まなかったが、マンガはそこそこ読んだ。手元にはもう置いていないが。


『二度と女に悪さができないようにする手術』


 声だけだが、にやにや笑う吉野の顔が目に浮かぶようだった。


『性転換手術。たった今終わった。この男は自分が食い物にしていた女に生まれ変わったんだ。手術中の映像も見せようか?』

「いや。……遠慮する」

『そうか。それはよかった。で、これからどうする?』

「どうするって?」

『組の店で女として働かせるもよし。無一文で世間に放り出すもよし』


 もう何でもありだ。私は目を閉じて溜め息を吐き出す。きっと吉野はその〝決して逆らえない人間〟とやらのふりをして、各方面に命じたのだろう。声色を変えて電話をかけることなど、今の吉野には人捜し以上に簡単なことである。

 例のプロジェクトは三年前に終結し、巨大データベースの運用も本格的に始まっているが、それを利用できるのはまだ一部の人間たちだけだ。おそらく、一般人が利用できる日は永遠に来ないだろう。

 真の人工知能と言えるかどうかは別として、優れたインタフェースであるYに魅了された彼らは、一般人には知られてはいけない情報までデータベースの中に詰めこみはじめてしまった。その気になれば、Yは――吉野は、それらを逆利用して彼らを脅すこともできるのだ。


「体が落ち着いたら、無一文で世間に放り出してくれ。自分の過去を知られてもいいなら、そのまま警察に駆けこむだろ」


 私がそう答えることは、すでに予測していたのだろう。吉野はすぐに『わかった』と応じた。


『そのときはまた報告する。……あ、それから』


 本当はそちらのほうが本題だったのかもしれない。あの男の写真を消して元の桜のそれに戻した吉野は、実に嬉しそうにこう言った。


『この前、偶然見つけたんだ。人間のクローンをこっそり作ってる研究所。まだ完全なものは作れてないが、もう少し待てば作れるようになるだろ。俺の血を吸ったあのマフラー、これまで以上に大事に保管しておけよ。じゃ、またな』


 桜が消えた。吉野が来る前に見ていたサイトが再び現れた。だが、私はタブレットを膝の上に載せたまま、しばらく動けなかった。

 本当に、あの吉野は何なのだろう? なぜ私が話したことがないことを、当たり前のように知っているのだろう?

 しかし、その正体が何であろうとも、私は死ぬまで彼につきあう。否。つきあわなければならない。

 あの日、彼を吉野と名づけてしまったのは私なのだから。


  ―了―          

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