4 横断歩道

   ***


 三年生の終わりだった。就職活動はすでに解禁されていたが、大学院に進学するつもりの私と、大学卒業後はフリーターとしてあのコンビニで働くことが内定していた吉野にとっては、まったく余所事だった。今思えば、最高に気楽で幸福なときだった。

 だが、その日の前日に限って、私は吉野と喧嘩をしていた。――否。喧嘩ですらなかったかもしれない。非は全面的に私にあり、だから吉野も謝罪はしなかった。

 私は部屋に引きこもり、一人腹を立てていた。が、少しずつ冷静さを取り戻すにつれ、後悔と不安の念が胸の中に広がりはじめた。

 吉野は人見知りの私が初めて得た、唯一のそして自慢の親友だった。きっとこの先どれだけ生きても、吉野以上に親しくつきあえる人間とは出会えない。そんな人間を自分が原因で失ってしまうのは、どうしても嫌だった。

 結局、翌日の午後まで延々悩みつづけた私は、自分から吉野に謝ることにした。昨日の今日で恥ずかしかったが、背に腹は替えられない。

 シフトどおりなら、今、吉野はコンビニにいるはずである。とりあえず、吉野の携帯電話にメールを入れておいたほうがいいかもしれないが、やはり直接会って謝罪したい。悪かったのは私のほうなのだから。

 陽光はもう赤みを帯びはじめていたが、私は部屋を飛び出し、走るのは体力的に無理だったので早足で――自転車にも乗れなかったので、私の移動手段はもっぱら徒歩か公共交通機関か吉野の自転車だった――吉野がいるはずのコンビニへと向かった。

 私のマンションからだと、四車線の道路を横切る横断歩道を渡らなければ、吉野のコンビニには行けない。私がその横断歩道の前に立ったとき、信号はあいにく赤だった。

 信号が変わるのを苛々と待ちながら、そのときふと――本当にふと、悔やんでも悔やみきれないことを私は思いついてしまった。もし過去に戻れるなら、このときの自分を殴り倒してやりたい。


 ――ここから電話で吉野を呼び出してやろう。


 悪かったのは私だが、やはり何だか悔しい気がしたのだ。吉野はたぶん、私の頭が冷えるのを待っていたのだろう。でも、メールの一本くらいくれてもいいのではないか。たった一言、〝信じろ〟だけでもいいから。

 私は携帯電話を取り出すと、リダイヤルで吉野にかけた。バイト中でも吉野は携帯電話を持ち歩いている。が、すぐには出られないだろうと私も思っていた。何しろ向こうは仕事中だ。しかし、コール二回でつながって、私が都合を訊ねる前に口早に言った。


『悪かった』


 謝るつもりが謝られてしまった。

 出端をくじかれ、私は言葉を失ってしまったが、ここでわざわざ電話をかけた目的を思い出し、意地悪く笑った。


「今、店の前にいる。すぐに来い」


 それだけ告げて、即座に電話を切る。

 そのとき、横断歩道の信号が青に変わった。だが、そこを私の周りにいる人々と一緒に渡るつもりは毛頭なかった。私は今ここにいて、ここから吉野を呼んだのだ。ここまで吉野が来るのが筋というものだろう。

 このときの私は完全にのぼせあがっていた。吉野にだけはどんな我儘を言っても許されると思いこんでいて、実際、吉野はほとんど許してしまっていたが、神はそんな私を許してはいなかったのだ。

 私が電話を切ってから数秒後、ちょうど横断歩道を渡った先にあるコンビニから、見覚えのありすぎる長身のコンビニ店員が飛び出してきて、ものすごい勢いで首を左右に振った。『店の前にいる』と言われたから、当然、店の真ん前にいると思ったのだろう。道路を挟んでいてもそのことがはっきりわかって、私は優越感と共に失笑した。

 いきなり謝罪してきたことといい、今のなりふりかまわない反応といい、あちらも私のことを気にかけてはくれていたようだ。私にかつがれたと誤解して店内に戻ってしまうかと思ったが、ふと横断歩道のほうに目を向けたその店員――吉野は、こちらが恥ずかしくなるくらい露骨に相好を崩した。本ばかり読んでいるわりに視力のいい彼は、一目で私を見つけ出したようだ。おかげで私は安心して迷子になることができる。

 しかし、そんな吉野に対して、私は微笑み返したり、ましてや手を振ったりはしなかった。――照れくさかったのだ。まだ日は落ちていなかったが、かなり肌寒くなってきていたので、コートのポケットに両手を突っこんだまま、お気に入りの白いマフラーの中に顔を埋めていた。

 誓ってもいい。このとき、横断歩道の信号はまだ青だった。あのときあの場にいた人々もそう証言したと言う。私も証言できていたら証言していた。だが、信号の色が何色だったとしても、あのとき起こったことを取り消すことは誰にもできないのだ。

 吉野は何の躊躇もなく、横断歩道に向かって走り出した。確かに少し不注意だったかもしれない。しかし、吉野でなくとも予測は不可能だっただろう。まだ人が渡っている横断歩道に、赤信号を無視した車が猛スピードで突っこんでくるなど。

 白いセダンだったと思う。もしかしたら白ではなかったかもしれないが、とにかく白っぽい色をしていた。どこのメーカーの車かはわからない。もともと私は車にも興味がなかったし、何しろ一瞬だった。

 その車は最初から吉野一人を狙っていたとしか思えない。私しか見ていなかった吉野を車の安全テストに使われるあの人形のように跳ね飛ばし、そのうえ、道路に転がった彼を踏みつぶして走り去っていった。――そう。逃げたのだ。止まるどころか、さらに速度を上げて。

 時が止まったようだった。運よくあの車を避けられた数人も、横断歩道を渡り終えて歩道にいた人々も、凍りついたように道路の一点――うつぶせになって倒れたままぴくりとも動かない吉野を凝視していた。

 私も見ていた。吉野が来てくれるはずの場所から、彼だけを見ていた。そして――

 それからほぼ三ヶ月間の記憶が、私にはない。

 気づいたとき、私はマンションではなく実家の自室の中におり、ベッドの側面に寄りかかるようにして、薄いベージュのカーペットが敷かれた床に座りこんでいた。

 本当に、ある日突然、私は我を取り戻したのだった。まるで転寝からふと目覚めたかのように。

 昼だった。よく晴れている。何時かはわからなかったが、部屋の中は照明なしでも充分明るかった。

 何となく自分の両手に目を落とす。大きな茶色い染みのついた白いマフラーをきつく握りしめていた。これがカシミヤ製で、一年生のときに吉野からクリスマスプレゼントとしてもらったものだということはすぐに思い出した(私はお返しに黒い革手袋をプレゼントした。もったいないと言ってほとんど使ってくれなかったが)。だが、どうしてこんなに汚れて、しかもそのまま放置しているのだろう。これではクリーニングに出しても落ちないかもしれない。

 首をかしげながら、今度は室内に目を転じる。壁に沿うようにして平積みの本のタワーが林立していた。ほとんどが文庫本で、白いビニール紐によって括られている。このままちり紙交換に出せそうだ。

 私にはこれほど大量の本を買いこんだ覚えはない。では両親か? それにしては多すぎる。

 手がかりを求めて、私はいちばん近くにあった束の背表紙に目を走らせた。全部見終えて、ああ、これは吉野のアパートにあった本だとわかった。吉野は部屋のスペースの都合上、自分が気に入った本だけを手元に置いていた。それでも布団を敷いたら畳が見えない状態になっていたが、ここから引っ越すことになっても絶対手放したくないと言っていた。私は〝吉野コレクション〟を読んだことはなかったが――吉野も無理に読ませようとはしなかった――背表紙だけはよく眺めていた。作品名。作者名。出版社名。自分が興味ないことはなかなか覚えられない私だが、せめて吉野の好きな本くらいは把握しておこうと思ったのだ。

 しかし、吉野の蔵書がどうして私の部屋、それも私の実家のほうの部屋にあるのだろう。吉野が私に預けた? なぜ? どこへ行っても持っていくとあれほど言っていたのに、吉野は――

 そこまで考えたとき、私の頭の中に立ちこめていた深い霧が一瞬にして吹き飛んでいった。無意識のうちに自己防衛本能が働いていたのかもしれない。だが、それを無効化してしまうほどに私は吉野を求め、そして、思い出してしまったのだ。


 ――吉野は死んだ。轢き逃げされて死んだ。私があんな電話をかけたせいで……死んだ。


 事故直後からここで正気に返るまでの間のことは相変わらずわからなかった。しかし、吉野は死んだ。死んだから私は今実家にいて、吉野の蔵書に囲まれていて、たぶん吉野の血を拭ったマフラーを握っている。吉野は死んだ。否。私が殺した。私が、私が、私が!

 狂えたらよかった。でも、狂えなかった。どれほどの罪悪感にさいなまれたとしても、こんな私に呼べばいつでもどこでもすぐに行くと誓ってくれた、あの優しくて聡明な親友のことを、もう二度と忘れたくなかった。

 私はマフラーを持ったまま、ベッドにすがりついて泣いた。何に対して泣いているのか、よくわからないままただ泣いた。やがて日が傾き、窓が赤く輝き、母がそろそろ夕飯だと呼びにくるまで、ただただ泣きつづけた。

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