3 ATM

   ***


 私は依頼人への連絡は原則メールで行っている。依頼人の都合を考えてというより、私自身が依頼人と直接電話で話したくないからだ。

 約束の時間のきっちり五分前に事務所のインターホンを押した依頼人――もしかしたら、このビルの一階に入っているコンビニで時間調整していたのかもしれない――は、水色のファイルに綴られたどんな書類を目にしても、まったく取り乱さなかった。

 本当に、ごくごく普通の若い女性だ。派手ではないが、地味というほどでもなく、特徴といえば、ストレートの長い髪とやや小さめの目くらいしかない。ただでさえ人の顔を覚えるのが苦手な私では、街中で見かけたとしても気づかないかもしれない。いや、たぶん気づかないだろう。これまで私が初めましてと挨拶した人間の過半数は初対面ではなかった。

 だが、それだけに、その冷静すぎる態度が私には異様に思えた。一週間前には、時折涙を浮かべながら、切々と私に事情を訴えていたというのに。それにほだされて、嫌な案件だと思いつつ受けたところもある。一週間前にこの事務所を出てから、彼女の心境を変える何かが起こったのだろうか。

 しかし、それを訊ねることは私の職務ではない。流れ作業的にこれで調査終了としてもよいかどうかを確認し、同意を得てから――ごくごくたまにだが、調査結果に納得できず、やり直しを求める依頼人もいる。そういう場合、吉野はその依頼人の知られてはまずい個人情報を各方面に拡散し、社会的に抹殺してしまう――黒いローテーブルの端に伏せて置いてあった請求書兼領収書をひっくり返した。

 中小企業の女子社員には決して安くはない料金だ。だが、依頼人は金融機関名が印字されている緑色の封筒から無造作に紙幣を抜き取ると、何のためらいもなく私の前に差し出した。

 金払いのいい依頼人は大歓迎だが、ここまで潔いとかえって戸惑ってしまう。


「あの……本当にこれでいいんですか?」


 領収書を手渡しながら、とうとう私はそう言ってしまった。すぐにこれでは意味がわからないだろうと後悔したのだが、依頼人は一瞬目を見開いてから、意外なことに晴れやかに笑った。


「ええ、いいんです。騙されてたことがはっきりわかって、とてもすっきりしました。依頼して本当によかったです。ありがとうございました」


 私は我が耳を疑って、依頼人の顔を凝視した。彼女は恥ずかしそうに目は伏せたが、領収書はしっかり受け取って、几帳面に折りたたんでから、紙幣の入っていた封筒の中にしまいこんだ。


「本当は、あの人がいなくなる前にはもうわかってたんです。あの人が欲しかったのは、いつでも自由に金が引き出せるATMみたいな女で、自分を縛りつける結婚相手じゃないって。でも……もしかしたらって思ってしまったんです。もしかしたら、あの人は何かトラブルに巻きこまれて、携帯も住所も変えないといけなくなったのかもしれない……私を巻きこまないために、黙って姿を消したのかもしれない……」


 独り言のように呟く彼女の目は、ローテーブルの上で広げられたままになっているファイルに向けられていた。あの男が彼女ではない女の肩を抱いて笑っている。


「最悪、死んでしまっているかもしれないとまで思っていたんです。でも、こうしてちゃんと生きていて、単に私を捨てて逃げただけだってことがわかって、本当にほっとしました。……私はもうこの人の心配なんかしなくていい……この人のことで泣いたり苦しんだりしなくていい……」


 これ以上見ていられなくて、今度は私のほうが彼女から視線をそらせた。

 彼女は金以上に大切なものをなくしてしまっていた。おそらく、あの男の居場所がわかったという私のメールを読んだ瞬間に。

 自分を騙した男の写真を眺めながら、彼女は満足そうに微笑んでいた。もう復讐心すら抱けないほど、身も心も疲れ果てていたのだろう。男に再会するためではなく、男から完全に解放されるために、彼女は私に人捜しを依頼したのだ。そして今、その願いは叶った。

 わざと名前を入れていない水色の書類袋にファイルと預かっていた資料を収めると、彼女は何度も感謝の言葉を口にしながら、結局飲まなかったペットボトルの温かい緑茶を持って、颯爽と事務所を出ていった。

 自分で茶やコーヒーを入れる習慣のない私は、いつも一階のコンビニでペットボトルの緑茶を買ってきて、そのまま依頼人に出している。今のところ、このことに対して文句をつけてきた依頼人はいない。

 彼女の足音が聞こえなくなってから、私は大きく息を吐き出した。自分用に用意していたペットボトルを開栓し、半分ほど飲んでから口を開く。


「吉野」

『何だ』


 慣れ親しんだ吉野の声は、私が座っている黒い革張りのソファの左手、ここを事務所らしく見せるための舞台装置の一つでしかない灰色のデスクのから、間髪を入れず返ってきた。

 そこには今、ほとんど私用でしか使っていないタブレット型端末が置かれている。私の上着の内ポケットには携帯電話もあるが、今回はあちらを利用することにしたのだろう。ここからでは見えないが、今、そのタブレットの画面には、吉野がプロフィール写真がわりに使っている満開のソメイヨシノが映し出されているはずだ。――結局、たった二回しか一緒に見られなかったあの桜。


「やっぱり、俺にはこの仕事は向いてないな。当事者はもう納得してるのに、完全に部外者の俺が納得できないでいる」

『おまえにはあの男が許せないのか?』


 私が婉曲にしか言えなかったことを、吉野は一言で総括した。いつもならもう少し、無駄な会話をしたがるのだが。


「そうだな……確かに、あの男のことは許せない。でも、俺にはあの男を罰する資格も権利もない。裁判官でもなければ神様でもないからな」


 しかし、私は〝天網恢恢疎にして漏らさず〟という言葉を信じていない。だからこれほど腹立たしい。悪人が必ずその報いを受けるとどうして言いきれるのか? 悪人の追跡調査でもしたのか? しょせん、それは悪人を捕らえることができなかった人間の根拠のない願望でしかないのではないか?


『まあ、俺も裁判官でも神様でもないが、あの男が許せないってのには激しく同意する』


 苦笑まじりではあったが、明らかに吉野は怒っていた。私と違い、依頼人に感情移入することはない吉野だが、この手の約束を守らない人間は大嫌いなのだ。だが、私が望まなければ吉野は何もしない。私が望まなければ。


『由貴。神様はともかく、裁判官が裁けるのは人間だけだろう?』


 私の内心を見透かしたように、吉野が甘い声で囁いた。目を閉じると、まだ大学生のあの吉野がデスクにいて、にやにやしながら私の様子を窺っているような錯覚を覚える。左手で頬杖をつき、右手でタブレットをいじっている。昔だったら、そのタブレットは中古の文庫本だったことだろうが。


『俺は人間じゃない。俺が何をしても、裁判官には裁けない。……言えよ。俺にどうしてもらいたい?』


 瞼を閉じたまま、私は自嘲の笑みを浮かべる。わかっていた。この吉野がこう言うことは、最初からわかっていた。わかっていて、あえて吉野を呼んだ。

 そして、吉野も待っていた。私と依頼人との会話を盗み聞きながら、私が吉野の名を呼ぶときを。


「おまえに任せる。でも、あの依頼人には絶対迷惑がかからないようにしてくれ」

『わかった。じゃ、またな』


 それきり、タブレットは沈黙した。私は目を開き、デスクに顔を巡らせる。

 デスクはブラインドが下げられた窓を背にして置かれている。そこにはもちろん誰もいなかった。私自身、あのデスクに座ることはほとんどない。あそこは吉野の席だ。吉野が座るはずだった席だ。決して私の席ではない。

 私は嘆息すると、ソファにもたれかかってまた目を閉じた。疲れた。今回はことさらに疲れた。このまま何もかも忘れて眠ってしまいたい。

 しかし、実際そうすることができたとしても、私は私を起こす吉野の優しい声を聞いた瞬間に、すべてを思い出してしまうだろう。

 ああ、あのとき私の額を撫でた吉野はもうこの世界にはいないのだ。

 ――私が、殺した。

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