盆の終わり

  盆の終わりが来たというのに、耳障りな蝉の声と京都の煮詰まるような暑さはとどまることを知らないようだ。

 あちこちで陽炎の立ち上っているこの天気の中でも、黄土色のビルの上に城の屋根の乗ったような独特の形をした陰陽局の京都支庁舎は荘厳に建っていて、それが却って暑苦しいようにさえ思えた。

 智は最初は遠巻きに建物を眺める場所に立っていたが、その暑苦しい見た目に耐えきれず、建物の車寄せに移動した。石造りの柱に寄りかかり、スマートフォンに目を落としながら、時折建物の玄関の方に目を配らせる。

 おそらく陰陽師なのだろう、守衛の若い男に時折会釈で返しながら、目当ての人物を待つ。

 待つこと十数分。建物の奥から線の細い、オフィスカジュアルに身を包んだ若い男に手を引かれて、智の目当ての人物はやって来た。

「よう」

「やあ、堀池」

 目当ての人物――立木隆は気恥ずかしそうに、右手を挙げた。

 ちょうど一週間前のあの霊園での一幕の後、智達の見ている前で陰陽局の人員に連れて行かれた立木はこの京都支庁舎につれていかれ、一週間ぶっ通しの泊まり込みで厳重注意処分と各種の取り調べが行われ、今日釈放となったのだ。

「今日出てくるってどこで聞いたんだ?」

「犬童さんが教えてくれたんだよ」

「ああ、あの人」

 バツが悪そうに立木は頭を掻く。立木の隣の男も、桜の名を出した途端、困ったように顔をしかめていた。

 一週間ぶりに見た立木は、あの晩に見た漂流者のような様相と打って変わって、髭も剃り落とし、髪もスポーツ刈り一歩手前という程に短く切り揃えられていた。隣に立つ線の細い男と比べても、髪の短さは一目瞭然だった。

 そのおかげで余計に今の立木には、憑き物が落ちた、と言う表現がしっくりきた。

「随分様子が変わったじゃないか」

「局内の床屋が勝手に切ったんだよ。俺のガラじゃないだろ、こんな短い髪」

「いや、案外似合うぞ」

 お世辞ではなく、好青年風で似合っていた。今までのぼんやりした凡庸な髪型より、こっちのほうがはっきりとしていて、智としてはこっちのほうが気に入ったほどだ。

「……じゃあもう二度とここには来ないように、お願いしますね」

 立木の傍らの男――おそらく陰陽師なのだろう――は立木の方を見て念を押すように強い語調でそう言い、立木は無言で頷く。

 陰陽師だろう男はそれを確認すると、立木と智に一礼し、踵を返して荘厳な陰陽局の庁舎の建物の中に再び入っていった。

「さて、この後どうするか……」

 その様子を見送ると智は踵を返し、表通りの方向に顔を向ける。

 スマートフォンに目を落とすと、正午を少し過ぎた頃。

「飯、食いに行くか?」

「おう」

「積もる話もそこでする……か。ちょうどいい店を教えてもらったんだ」

「誰にだ?」立木が一応と、半ば解っていることを確かめるような口調で訊ねる。

「犬童さん」

 やっぱりそうか。と立木は少し引き気味に言う。

 どうにも立木は、犬童桜がまだ苦手らしかった。

「大丈夫、味は保証する。ファミレスよりちょっと値段は張るけど、そこなら隠れて今回の話をせずに済みそうだし」

 そう言って、智は立木に着いてくるように促して、二人は未だ煮えた鍋底のような暑さの中にある京都の街へと歩き出した。

 

 

 バスを乗り継いで四条烏丸までたどり着くと、智は桜と来た日の道順を思い出しながら路地に入り、例の洋食屋を見つけると立木を伴って店内に入った。

 軽やかなドアベルの音に気づいたらしく、新田が厨房からカウンターに出てくる。

「ああ、今日は桜ちゃんは一緒じゃないんですね」

「はい」

「開いてる席ならどこでも良いですよ。好きに座ってください」

 新田に言われたとおりに、智は最初に目についた一番カウンター寄りの席に座る。立木もテーブルを挟んだ反対側の席に座った。

 水を持ってやってきた新田に智はオムハヤシ、立木はカルボナーラを頼む。

「で、取り調べはどうだったんだ?」智が切り出す。

「祓鬼士に色々聞かれたよ。何時、どこで、どんな奴から反魂香や依代を買ったかとか、幾らで買ったかとか」

「刑事の取り調べかよ」

「実際そんなもんだからな。あいつら」

 立木は眼鏡の下の目を細めて、ぎこちない笑い顔をした。

「だから言ってやったよ。今年の七月のはじめに、反魂香も依代も、全部三条の居酒屋で変なおっさんに掴まされたって」

 やはりネットがどうとかというのは、下手な嘘だったようだ。智はそこに触れず、立木の話を聞き続ける。

「胡散臭いフォーク歌手崩れみたいな丸いグラサンしたおっさんでさ、占い師を名乗ったんだけど……俺がこころを亡くしたのを引きずってたことを言い当てて、その後、親身になって話を聞いてくれたんだ。だから俺もついべらべら、こころが死ぬ直前に酷いことを言っちまった事とか、それを恨んでたんじゃないかって事を話したんだよ」

 立木の表情は少しだけ曇り気味になる。

「そうしたらそのおっさん、俺に言ってくるんだ。あくまで優しい口調で、諭すみたいにさ。俺の言葉がこころを殺した。俺はその罪を負っているから、決着をつけなくちゃならないって。その話を聞いていたら俺もどんどん乗せられちゃって、終いには完全にその気になってた。こころに裁かれなきゃいけないんだって思い込んで……その時に反魂香と依代を渡されたんだ」

「そのおっさん、なんかヤバい奴じゃないのか」

「そうだったらしい。話した途端に祓鬼士が滅茶苦茶慌てて、変な暗示もかけられてたんじゃないかってまで言われた。そのおっさん、暗示とか言葉で人の心を揺さぶるのが得意らしいから」

「へえ」

 陰陽師の世界もなかなか複雑で、悪いやつも居るようだ。

「たださ」立木は指を組みながら、先程よりもやや真剣そうな声色で続ける。「そのおっさんに突かれたとおりに、俺もこころを追いつめたことに負い目を確かに感じてたんだよ。だからおっさんの術にはまったのも、たぶん俺に原因があるんだよな……」

 智はそこで立木の言葉を「それは違うと思うぞ」と遮る。立木は突然言葉を遮られた事に驚いてか、顔を上げて、智の方を見つめた。

「人間なんて突然なにかの終わりを迎えたら、そりゃあの時ああすればって後悔の一つも出てくるだろ。お前はそれを重く受け止めすぎたんだ」

 そうだ、と智は思った。立木は何らかの重い感情を抱いていたのを、そのおっさんに利用されたに違いない。やったことは確かに重大なのだろうが、思い詰めるほどのものでもないはずだ。

「重く受け止めるような理由が、俺にはあったんだよ」

「結局違ったみたいだろ。どんな理由だったんだよ、一体」

 立木は「あのなあ」と呟いたあと、しばらく押し黙る。抵抗感がやはりあったのだろう。

 そして、暫くしてからどこか吐き捨てるような様子で言い出した。

「小説の内容をどうするかって話だよ」

「小説の内容?」

 智はきょとんとする。もっと愛憎の混じった話を想像していたのだが、完全に肩透かしを食らったのだ。

「あくまで発端が、だからな」

 立木はそう前置きしてから、ぽつぽつと思い出すようにして語り始める。

「部誌に載せる小説の内容で、俺はちょっと挑戦して最初結構陰鬱な感じのを出したんだ。最後に誰も報われないバッドエンド系のやつを。そうしたらそれ読んだこころが顔真っ赤にして突っかかってきて、こんなの立木くんの作品らしくないし、酷い出来だ。すぐ書き直せって言ってきたんだよ。当然俺は怒ったよ。ちょっと挑戦した結果をそこまで言われた上に、それが『俺らしくない』って理由でなんだから」

 そこまで言うと、立木の口は再び止まって、そして智に聞こえるか聞こえないかの小さな声で続きを無理やりのように紡ぎ出した。

「でも実際のとこは、こころに嫉妬してた部分もあるんだよ」

 智は自然に、立木から視線をずらしてテーブルに視界を落としていた。

「こころの事は、本人には最後まで言わなかったけど好きだったよ。それでもあいつの才能に嫉妬してたところもあった。あいつは新人賞も狙える腕だって何度も持て囃されて、それに部誌に出したSFだって、悔しいけど出来が良かった。そんな奴が『俺らしくない』みたいな理由で突っかかってきたら、もうわかるだろ。もう途中から嫉妬心と怒りでぐちゃぐちゃになって、こころにとんでもない罵声浴びせまくってた。」

 立木はまた再び言葉を止め、水を飲み込む。

 智もそれに合わせた。今何か言葉をかけるのは、躊躇われた。

 店内放送のボサノヴァが、二人の間の会話を埋めるように流れる。

「もちろん言ったあとにすぐ後悔したよ。でも顔を合わせづらくって、謝罪はできずじまいのまんまで……その何日か後にさ、こころがマンションのベランダから落ちたって聞いて。それでもう謝れないっていう後悔と、俺の言葉がこころを追い詰めたんじゃないかって思いが強くなっていって……そしてあのザマだ」

 立木がそこまで言って再び言葉をつまらせたたところで、殆ど助け舟のように新田が二人分の料理を運んできた。

 まだ立木の中では、江藤こころとの最後の大喧嘩はしこりとなっているようだ。智はスプーンを手にしながら立木の様子を伺い、一口、二口ほどオムハヤシに口をつけてから、低い声で言った。

「……無理に聞いて悪かったな」

「いいよ。言ってすっきりした」

 智は小さく頷き、再びスプーンを口に運ぶ。自家製らしい濃厚なデミグラスソースの酸味が舌を刺激し、食欲を誘った。

「でも、本当のことが聞けてよかったな」

「ああ、うん。あれで一気に目が覚めたからな」

 カルボナーラを食べながら、立木はどこか煮え切らないような口調でそう返す。

 そして一度それを飲み込んでから、立木は上目遣い気味に様子を伺い、おそるおそる口を開いた

「……あれさ、あの女陰陽師がわざと遅れてきて、霊を呼ぶセッティングをしたんじゃないかって言われたんだよ。陰陽局で」

「は?」

「萩原って……さっき俺と一緒に居た祓鬼士が俺だけに話してくれたんだけど、死者の霊を降ろすのに使う大層な呪符をたまたま持っててるわけなんか無いし、反魂香が立ちこめてるところであの女陰陽師が現れたのもタイミングも良すぎたって。だから最初っからあの女陰陽師は俺が反魂香を焚いた煙を使って、こころの霊を降ろすことを考えてたんじゃないかって話だ」

 智の脳裏に桜があの墓地で見せた笑顔と、「条件が揃った」という言葉が過ぎる。つまりあれは、その祓鬼士の推測が正しければ、最初から全てわかっててやっていた結果ということになる。

 そうでもしないと立木が止められないと判断した結果なのかもしれないが、もしそうだとすれば、あの小さな陰陽師はずいぶんと大胆で、面の皮の厚いことをしたものだ。

「本当に最初から最後まで、驚かされっぱなしだ」

 智はぼやきながら、水を思いっきり煽って口に含んだ。

 そこに水の入ったステンレスのポットを持った新田が現れて、智のコップに水を注いでいく。

「彼女はそういう人ですから」

 新田が静かにそう言った言葉に、智は、無言でもう一度小さく頷いた。立木も少し居心地の悪そうな笑顔を浮かべていて、たぶん自身も同じ顔をしているのだろう、と智は思うのだった。

「だからこそ、彼女は陰陽の世界には居て欲しい人なんです。そのやり方はともかくとしても、ですが」

 新田はどこか含みのある言葉を残しながら、厨房の方へと引っ込んでいった。

 そしてふたりとも料理を食べ終え、店を出ようとする。会計を終えたところで智を新田が「ああ、お客様」と呼び止めた。

「お客様が今後、陰陽の世界に関わらなくなったとしても、当店はお客様を歓迎します」

 それを聞いて智は「はい、できれば」と苦笑しながら答えた。

 確かにこの店の料理は美味いのだが、どうにも犬童桜に鉢合わせてしまいそうで、しばらくの間はあまり進んでは利用する気にはなれそうにない。

 新田もその事を察したのか「では、またいずれ」と同じように苦笑しつつ、智を送り出してくれた。

 店の前で待つ立木に声をかけると、智は烏丸四条の街を地下鉄の駅に向かって歩き出す。遊ぶには大学生にはやや日が高すぎる時間であるし、今はどうにも立木と遊ぶ気にもなれない。お互いに、帰ったほうが良いだろうと言う判断で、立木もそれに同意してくれた。

 いつか桜と通り、話をしたアーケード街の十字路で信号に掴まると、智は隣に立つ立木の腕を眺める。

 さっきの洋食屋で気づいたことだが、今日はその腕にあの空色のブレスレットの姿がなかった。

「なあ、立木」対角線の歩行者信号が点滅し始めた頃、智は立木に切り出す。「ブレスレット、今日は嵌めてないんだな」

「陰陽局にまで嵌めてくるのは気が引けたからな。何言われるかわからないし」

「それはそうか」

「それに……あんまり引きずるのは良くないって、一緒に買いに行った本人から言われたんだよ」

 ああ、そうか。と智は納得するのと同時に、信号が青になる。

 盆の終わり。まだまだ京都の街は煮えるような暑さの中にあったが、あれだけ煩かった蝉の声も落ち着きはじめるのを、智は感じていた。

 

                  *

 

「犬童、よくやったな」

 犬童桜が『事務所』と呼称するくたびれた町家の一室。祓鬼士・萩原賢治は以前のようにスプリングのへたり込んだソファに腰掛け、桜にそう呼びかける。

 もっとも、よくやったと言った萩原のその口調は、むしろ『よくもやってくれた』とでも言っているふうに聞こえたのは、桜の気のせいではないだろう。

「どこからどこまでお前の想定だったんだ? え? 霊呼なんて大それた事をわざわざやって、墓場の後処理に加えて余計な手間まで取らせてくれて。霊呼が要指定呪術だって知らずにやったって訳ないだろ、お前」

「まあまあ萩原さん。良いじゃないですか」桜が苛つきがちな萩原を宥めるように、手をふらふらと振る。「立木さんもあれで発端となった思い違いを解けたことですし、みんな丸く収まって一件落着ってことで」

「ああ、立木隆の一件はお前の言うとおりに丸く収まったことは収まったよ。お前が陰陽の世界を一般人に教えたこと以外は」ぎしり、とソファを鳴らして萩原が天井を仰ぐ。蛍光灯の明かりに目を細めた。「『陰陽の術、神霊鬼しんれいき、衆目に晒すべからず』は陰陽師の心得だって陰陽寮で習っただろ」

「それは陰陽師の心得というより、陰陽局の原則ですから」

 萩原は額を手で抑えて、「ああー」と奇妙な嘆息をつく。

 目の前の人物は陰陽師の秩序を取り締まる役目も担う陰陽局の祓鬼士で、その中でも生真面目で、悪く言えば教条主義的な男だ。そういう屁理屈が何より癇に障るのだろうが、桜の手前、そんな感情を表に出すのを抑えているのだろう。

 そう思うと悪いことをした。と桜は少し反省する。

「まあ、立木隆の件を置いといても今回の反魂香騒動は問題だらけだったけどな」

 萩原は桜に聞かせるように、自ら振り返るように独りごちる。

「反魂香の取引組織は壊滅させたが、チンピラ同然の法師陰陽師の烏合の衆で、とても反魂香を生成する能力なんて持ってなかった。しかも立木が反魂香を売り渡した男の特徴を言ったんだが、それがある男そっくりだったんだ」

「ある男?」

鳴上丁字朗なるかみていじろう

 その名前を聞いた瞬間、桜の眉がぴくんと跳ねた。

 鳴上丁字朗。陰陽の世界に長くその身を置いた人間ならその名を知らないものは居ない、当代最強の陰陽師にして、『今道満いまどうまん』の名を欲しいままに陰陽局を揺さぶるテロリストだ。

 萩原はさらに神妙な口調で続ける。

「もし本当に鳴上が関わっているなら、六月の狗神事件の後の不意を突かれたことだからな。祓鬼部はまたピリつく羽目になるし、本当にここ何ヶ月か鳴上には振り回されっぱなしだ」

「お疲れさまです」

「本当にお疲れさまだよ。これから本当に大変になるぞ」

 萩原が大きく吐いた溜息に、桜は少し同情した。

 桜はテーブルの上の麦茶の入ったコップを手にとって、くぴりと飲み込む。萩原もまるでそれがウィスキーであるかのようにからからとコップを振ってから口に含んだ。しばしの間二人は何の言葉も口にしないまま居て、うるさく鳴るクォーツ時計の音と、たまに外の通りを通ってゆく自動車の音だけが空間を支配していた。

「なあ、犬童」

 先に口を開いたのは萩原だ。

「立木の件は確かにお前の活躍で解決した。だけどいつまでこんな探偵まがいの真似を続ける気だ? 今は見逃してるが、陰陽局だってそのうちお前のことを許容できなくなるぞ」

「……ずっとです」

 桜は重い口を開いたと思うと、にこりと笑みを浮かべて、そう言い切った。

「私はまだ陰陽局のこと根に持ってますから。あのときも、今回も、この先も、祓鬼部や陰陽局が早々に諦めた最良の選択肢があると信じて、私はそれを探して、選び続けます」

 桜の顔は晴れ晴れとしていて、そのくせどこかに憂いを秘めているようで。

 萩原はその桜の様子を見て、至極厄介そうに目を細める。

「……お前も強情な奴だな。あの件からもう三年だぞ」

「私の始まりなんです。あの事件は」

 そう呟く桜の瞳は、萩原を掴んで離さないで居た。茶色がちな黒の瞳に、力強い炎のような光が確かにあるように萩原はまた感じた。

 こういう光が見えるときの犬童桜は何より手強く、面倒くさいのを萩原は知っていた。三年前、あの事件が収束したときに初めて、反抗的な視線の中にその光を見たとき以来、それはずっと変わらなかった。

 三年前。二条陰陽寮に属していた一人の旧家出身の女生徒が現代の陰陽道では失われ、その方法も禁忌とされた『夜鬼従やきじゅう』と言う危険な呪術を一人取り行って、陰陽局の祓鬼士に取り押さえられれて、陰陽局に囚えられた事件。

 件の女生徒の身を案じて彼女を止めようとし、萩原を含む祓鬼士に何度も突っかかってきた彼女の親友と名乗る真っ直ぐで感情的な少女の面影が、目の前でソファに座る桜の瞳の奥には確かに残っている。

「私は、日奈子ひなこと同じように心の闇に浸け入られて、陰陽の術に苦しめられる人を一人でも減らしたいんです」

 それこそが桜の、桜たらしめる部分。梃子でも何でも動かせない、彼女の根幹たる部分。

 ソファに尻を沈み込ませて座り、普段よりもずっと小柄に見える桜の身体を、萩原は見下ろしながら足を組み替えて、再び天井を仰いだ。

「やっぱり真っ直ぐで、自分の心のままに無理を通す奴は苦手だ」

「ごめんなさい。真っ直ぐで」

 そう言う桜の顔は晴れ晴れするほどに清々しく、それが萩原には眩しいようにも思えて、同時に癇に少しだけ障った。

 それから暫くして、ソファから立ち上がって帰り支度を始めた萩原が「そうだ犬童」と桜に突如訊ねる。

「お前が立木の家を尋ねたとき、例の堀池って大学生が鍵が勝手に開いて中に入っていたって話。どうも立木の話と辻褄が合わないんだよ」

「合わないって?」

「立木が言うにはちゃんと鍵はかけたし、陰陽局が来るのを恐れて式神は備えといたが、勝手に鍵が開くような仕掛けなんてした覚えがないって……そこが今少しわからなくて困ってて。なあ、お前があの大学生を助けたんだろ。何か知らないか?」

「さあ」

 そう言われてみると、確かに妙な話だった。

 鍵がひとりでに開くような仕組みをわざわざ仕掛ける意味など無い。堀池智は罠だと言っていたが、陰陽局を警戒しているだけならそんな無差別な罠を仕掛ける理由も無いのだ。

 じゃあ誰が扉を開けたのか。桜は口元に手を当てて、ふーむと唸りはじめる。

「誰かが開けたとか」

「無人の部屋で誰が鍵を開けるんだよ」

 にやりと桜の口元が釣り上がる。

「案外こころさんの霊とかじゃないでしょうか? あの部屋、反魂香を何度も焚いていたって言いますし、立木さんを止めたくて鍵を開けたとか」

 萩原は忌々しげに桜を見下ろし、あのなあ。と否定の言葉を言いかけて、止める。

「……まあ、あり得るかもな。江藤こころの霊じゃないにしても、反魂香のせいで出てしまった思念霊の仕業って線は」

 そう言うと萩原は帰り支度を整え、足早に玄関に向かい、立て付けの悪い引き戸を開ける。桜もそれに続くようにつっかけを履いて屋外に出ていった。

「萩原さん。お気をつけて」

 おう、と萩原は振り返って応える。

「また俺がここに来てに説教と愚痴を溢さないように、できるだけ大人しくしとけよ」

「それは時と場合によっては出来かねます」

「そうかよ」

 やはりまた不機嫌そうに応えると、萩原のシャツを着た白い背中はは路地を歩きだし、やがてバス通りの方へと曲がって消えていった。

 その後姿が見えなくなるまで見送ると、桜は空を見上げる。

 盆の終わりの宵空には大きな白い三日月が浮いて、桜と、この古都を照らしていた。

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二条陰陽寮の少年たち・外伝 ~犬童桜の京都怪異行 上野ゆかり @ueno-asakusa_1927

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