彼女の決意と彼の迷い -1

「なんてことをしてくれたんだ!」

 開口一番、桜に浴びせられた言葉がそれだった。

 桜はテーブルを挟んで向かい合う相手に、たじたじになりながら手のひらを見せて落ち着くように促すが、効果はなさそうだ。

「あの、萩原さん、近所迷惑なのでできればもうちょっとボリュームを抑えて……」

「うるさい! 黙ってられるか! 黙ってられるわけあるか!」

 西陣のうら寂れた住宅街の片隅。今にも崩れそうな古びた京町家――犬童桜が『事務所』と称する彼女の住居――の室内で、祓鬼士ふっきし萩原賢治はぎわらけんじの怒号がこだました。

 桜は頭から浴びせられた怒号に怯んでしまい、ソファの上でただでさえ小さな身を更に縮こませる。

 それを目にして萩原はすぐに落ち着きを取り戻したが、それでも表情からは怒りの色が払拭されることはなかった。萩原は夏用のメッシュのワイシャツの襟元に人差し指を引っ掛けて、何度かぱたぱたと伸ばした後に、その手を膝の上に持っていって、もう片方の手の指と絡ませる。

「あのなあ犬童」

 萩原は膝の上で組んだ両手を小さく上下させながら、言葉の端に苛立ちを乗せて、桜を上目遣いに睨んで、口を開く。桜には萩原が全身で不機嫌と苛立ちを表現しているように思えた。

「お前は陰陽局に黙って勝手に世に出た反魂香を追って、その結果反魂香を持った人間を逃したわけだぞ。おかげで反魂香も所有者も行方不明。しかもその上に一般人に陰陽術の存在を知られたわけだ。これでどれだけ陰陽局が迷惑したかわかるか?」

「わかってます、わかってますよ」

「絶対にわかっていないだろ」

 萩原は桜の方に向けてにゅっと顔を近づける。

「お前が勝手に所持者の男を追って逃したために、危険物が一つ野放しになった。その上に陰陽局はただでさえ手の足りない祓鬼士をそいつの捜索にも割くことになったんだ。式避けの符を持ってどこに居るかもわからないようなやつをだぞ。犬童、お前が出しゃばらずに通告だけしておけばもう済んでいたはずだったんだ。全て、済んでいたはずだったんだ」

 はい、と桜はばつが悪そうな顔で、余計に縮こまった。結局あの立木という男を止められず、のがしてしまったのはまごうこと無く桜の責任なのだ。

 今までだって責任は感じていたが、いざ陰陽局の祓鬼士ふっきし――人の世に害をなすや不逞陰陽師を取り締まる陰陽師――である萩原に口に出して事実を突きつけられると、責任と罪悪感が重く胸の中につっかえて来る。

 桜はテーブルの上に置かれた麦茶に手を伸ばし、飲み干す。からん、と氷がガラスを叩く音が狭い町家の和室の中に大きく響いた。

 萩原も前のめりになっていた上半身を引っ込めた後に、独り言をぼやくように言う。

「おかげで俺なんか、お前の知り合いってだけで、京都支庁中の祓鬼士から嫌味聞かされる羽目になってるんだ。『あの探偵ごっこをどうにかしろ』って」

「探偵ごっこじゃないです!」

 今度は桜がテーブルに手をかけて身を乗り出した。

「頼むから今は俺以外にはその反論はするなよ」

 萩原は低い声で釘を刺す。

「六月の件があってただでさえ気が立ってる所に、反魂香をばらまいたアホが出てきて余計にピリピリしてるんだから」

 そんなこと、言われなくてもわかっている。と桜は言ってやりたかった。

 確かに桜には立木を逃した罪悪感はある。

 だが、自分のやっている事を侮辱されるのは嫌だった。自分のやっている事が真摯なことでなければ、犬童桜という陰陽師自体が否定されることになってしまうから。

 ふう、と萩原は息を吐いてから、手元の麦茶をくぴりと飲み込む。

 弱々しい白熱灯の灯りに照らされて、桜の目にも、先程までは苛立ちで隠れていた彼の疲れが見て取れた。

「……俺はお前のやりたいことはわかるさ」

 だがな、と萩原は真剣な口調で続ける。

「一般人でありながら反魂香に手を出すようなやつが、お前の言葉で止まると思ったら大間違いだ。そういうやつは強すぎる感情が心も頭も支配している。お前もそのくらい理解できるだろ」

「……理解自体はできます」

 そう、桜にも理解自体はできている。痛いほどに。

「そういう奴には何言っても無駄だ。だから祓鬼士の強硬手段で止める必要があるんだ」萩原は拳をぱしん、と叩きあわせる。

「でも」と桜。「それじゃあ何の根本的な解決にもなってません。反魂香みたいな人の心に浸け込む怪異事件は心のゆらぎから発するものなのに、原因を何の解決もせずに強硬手段で止めるだけじゃ……」

「犬童、いいか。俺たちはカウンセラーでも陰陽寮の教授でもないんだ。むしろ相手と敵対する側だ。確かに原因を解決すれば根本的解決にはなるだろうけど、誰もが真摯に話を受け取って、心の内をさらけ出してくれるわけじゃない。確実に止められる方を選ぶのが最良なんだ」

「でも、そうしたって後で後悔するばっかりです」

「それは誰の誰に対する後悔なんだ」

 桜はその問いに、押し黙る。

 沈黙。外を吹く強い風が、かたかたと老朽町家の窓を揺らすのと、クオーツ時計のうるさいくらいの時を刻む音が室内を支配する。

 萩原はまた、ふうぅ、と深く息を吐いて、桜の瞳を見つめた。白熱灯の光を受けた桜の大きめの黒目がちな瞳、その奥にあるものを萩原は目を凝らして、見つけようとする。

 先ほどの問いに対しての答えが、その奥に隠されている。萩原はそれを知っていた。

 そして、暫くしてから彼は視線を逸らした。

「……なんでお前はそう真っ直ぐなんだよ」

 半ば呆れるように、ふてくされるように。萩原はやたらと沈み込む廃品再生のソファに背を預ける。

 桜はてっきりまた小言でも言われるのかと思って身構えていたのだが、少し予想外なその反応がなんとなく可愛らしく思えて、真剣だった表情が不意にゆるみ、思わずくすりと笑ってしまう。

「すっごい不機嫌そうですけど」

「六月の件を思い出したんだよ」萩原がぶすりとしたまま口にする。「どうも真っ直ぐな奴は苦手だ。真っ直ぐな奴は感情のままにぶつかって、壁をぶち破っていっちまうんだから……おかげでこっちが格好つかなくなる」

「感情の……ままに、真っ直ぐ」

 桜は萩原の言葉を繰り返す。

 感情のままに、真っ直ぐ。あの時、立木と言う男に対して、そして堀池に対しても、自分が彼らと向き合った時足りなかったものはそれだったんじゃないか。

 烏丸御池で立木と対峙したときも、桜は結局取り繕ったまま、反魂香がなんなのかも明かさずに、危険性を説いただけだった。自分の感情を出さなければ、相手もその心の内をさらけ出さなかったというのに。

 それならば、今度こそ。

「やめてくれよ犬童。お前にこれ以上真っ直ぐになられたら、困るのは俺なんだから」

 萩原はソファに尻を沈み込ませながら、面白くなさそうに格子天井を仰いでぼやいた。

 桜は萩原に「わかってますって」と声をかける。

 だが内心では、彼をまた振り回してしまいそうだと、心中で先に彼に謝罪をしていた。

 おそらく自分はまた立木を追うだろう。一般人でありながら式避けの符や式神の依代を持ち歩いていた用心深い男にまたコンタクトをかけるとなれば、なにかのトラブルを起こして萩原に迷惑をかけるのは必至なのだ。

 萩原が桜の町家を後にしたのはそれから数十分程してからのことだった。

 帰り際に玄関前で、萩原は思い出したように「ああ」と独りごち、足を止めて桜の方を向く。

「一つ言い忘れたけど。反魂香をばらまいた元締めのアホの方は京都支庁の祓鬼隊が見当を付けはじめた。だから、こっちには絶対に関わらないでくれ」

 はい、と桜は応え、萩原の言葉の意図ににやりと広角を釣り上げる。

「……つまり、それ以外は関わっても良いってことですよね」

 萩原はといえば肯定も否定もせず、後頭部を掻きながら続けた。

「これからしばらくは元締めの方を優先するから、所持者の方は後回しになりそうだ……ただ、大事にしたら今度こそ後はないぞ」

 萩原の脅すような言葉に、桜は「わかってます」と返す。

 背の低い建物の並ぶ西陣の町並みの上で、巨大な月が白く照っている。桜に見送られながら萩原はバス通りの方に歩き出す。すぐに彼は路地を曲がって、桜の視界から白いワイシャツの背中が見えなくなる。

「ありがとう、萩原さん」

 犬童桜が犬童桜という陰陽師たる理由を知る祓鬼士を見送って、桜は暫く月を眺めた後に、再び町家の中に引っ込んだのだった。

 

                  * 


「こんにちわ、堀池さん」

「う」

 八月初週、休日の昼下がりの烏丸四条。宛もなく商業ビルの服屋をうろついていたところに、突如服ラックの奥から現れた、白い肌に水色のワンピース姿の少女然とした女性――犬童桜を目の当たりにして、堀池智は思わず表情を凍らせてしまう。

 面倒くさい相手に合ってしまった――いや、彼女のことなので、なにかの方法を使ってここに来ることをあらかじめ知り、待ち伏せしていたのだろうが――。とにかく、出会いたくない相手に遭遇してしまったことに、智は動揺を隠せずいた。そして動揺を隠さないまま、彼女のことが目に入らず、挨拶も店内放送で聞こえなかったふりをして、彼女の脇を通り過ぎようとした。

 だが彼女も、ぐい、と力強く智の鞄の紐を掴む。

 前に進もうとした智の脚も鞄の紐を握られた時点で自動的に止まってしまう。

 智は止まる寸前のぜんまい仕掛けのようにぎこちなく、掴まれた鞄の紐の方を見る。

「こんにちわ、堀池さん」

 鞄の紐を掴んで離さないまま、智を見上げて屈託なく――しかし明らかに圧力を孕んだ――笑みを浮かべる桜の顔が、そこにはあった。

 その笑顔に、智はもう逃げられないと悟ったのであった。

「こ、こんにちわ。犬童さん。偶然ですね」

「ええ。式盤であなたがどの辺りに行くのか、前もって調べましたから」

 にっこりと笑みを浮かべたまま、桜は鞄の紐を引っ張って歩き出す。

「少しお話があるので、一緒に来てくれますか?」

「……はい」

 智は出来れば遠慮したい、と言いたかったが、言っても聞いてくれなさそうなのを受け入れ、重々しく頷いたあと、彼女に引っ張られるままの鞄の紐に従って歩き出す。

「この後のご予定とかはあります?」

 下に向かうエスカレーターに乗ると、彼女が振り返って尋ねてくる。

「五時からバイトがあるだけです。それだけ」

「バイト先は三条河原町の書店でしたよね」

「……ええ」

 話したことはなかったはずなのだが、何故知っているのだろう。智はそう訊こうと思ったが、何を言い出されるのかわからなくなって、やめた。

 桜が鞄の紐を握ったまま智を連れて商業ビルを出ると、智の歩幅に合わせたかなり無理をした速度で烏丸四条の街中をしばらく歩いてゆく。彼女の位置の低い後頭部が目の前で揺れて、ずんずん道を進んでいくのを追いかけながら、智は暑気に手で頬を仰いでいた。

 一体どこに連れてく気なんだ。と疑問に思って桜に聞いてみようとした智だったが、目の前の交差点の歩行者信号が赤になったので、立ち止まる。

 そして立ち止まってみて、智はその交差点に見覚えがあるということに気がついた。京都に来てから三年、よく通る場所ならどの交差点にも見覚えはあったが、ここだけは特に鮮烈な記憶が染み付いていた。

「ああ、ここだったか」

「どうかしたんですか?」桜が不思議そうに質問する。

「ここ、二ヶ月くらい前にフェラーリが市バスに突っ込む事故あったんですよ」

 智は首を傾げて交差点の中央を視線で指し、相対する桜も智の言葉に反応して、そこに目をやる。交差点の真ん中ではディーゼルエンジンをがなり立てて、話に出たのと同じ松葉色の市バスがせわしなく京都駅の方に向けて走り去っていくところだった。

「俺ちょうどその場に居て……バイクで京都駅の方に行く途中だったんですが、いや、あれはすごかった。突然赤信号でフェラーリが走り出して、バスにドーン! だったんで。呆気にとられましたよ、本当に。誰も死ななかったのが幸いでしたけど」

 お互い垂直に立てた両手のひらを衝突させ、「ドーン!」と事故を無邪気に再現する智に、桜は口元に笑みを作って、首を一度縦に振る。

「はい、知っています」

「覚えてたんですか?」

「陰陽師界隈でもかなり大騒ぎになった事件でしたから、そうそう忘れられませんよ」

 桜は顎に人差し指を置いて語りだす。

「そうなんですか……」智は答えづらそうに、言葉を濁す。

「六月の一連の狗神いぬがみ事件の発端ですから。陰陽局の混乱は私みたいな法師陰陽師にすら伝わるぐらいでしたもん」

 へえ、と智は関心有りげに返す。

 こちらの世界では地方ニュースでその日の夕方から来朝にかけて話題になっていた程度で、一ヶ月もすればいちいち覚えていないような事故だったが、陰陽師の世界では相当大騒ぎになるような事件の始まりになるような事件に、智は偶然にも遭遇していたということになるのだ。

 いや待て、ということは。と智はふと考え出す。桜の言う陰陽師界の大事件の内容がどんなものかは解らないが、もし、それに巻き込まれていたら智自身の命も危うかったのかもしれなかったということだ。

 しかもあの時智が乗っていたのはフェラーリでもバスでもなく、身を守るもののない400ccのバイクだ。

 本当に自分があのフェラーリと同じ目に合わなくてよかった。

 智はそう自分の意外な幸運に感謝しながら、青に変わった信号を渡り始めた。

 桜が智の鞄の紐を引いてしばらく歩き続け、最終的に彼女が連れてきたのは、四条烏丸の外縁、人通りの少ない小路の片隅にある洋食屋だった。

「お邪魔します、マスター」

「ああ、桜ちゃん」

 店内に入るや否や、桜は勝手知ったる店と言った感じで、店主と思しき身嗜みの行き届いたスマートな中年男性に声をかける。彼女の言葉を渋い声で返した店主は、智と桜を窓際の狭い二人がけ席に通す。

「君は……」

「堀池さん。今回の事件の参考人さんよ」

 参考人、というワードに引っかかりを覚えたが、何も言う気にはなれず、智は「ああ、よろしくお願いします」と間抜けな返事をマスターに返す。

「どうも、僕は新田にった。この店の店主で、陰陽の術も多少心得ている者です」

 少し気取った様子で新田と名乗った店主はお冷を二人に差し出すと、メニューを置いて、厨房の奥に引っ込んでゆく。

「ここの店主も陰陽師なんですか」

「はい。だからそういうことの絡む話題には向いているんですよ。このお店は」

「はあ……どこにでも陰陽師っているもんなんですね」

「京都と東京だけですよ。どこにでも陰陽師がいる街なんていうのは」

 桜が智にメニューを差し出す。桜はもう予め決まっていると言いたげで、智は少しだけ居心地の悪さを感じながら、メニューをめくる。繁華街にありがちなお洒落なものや凝ったものではなく、正統派の街の洋食屋と言った感じだった。

 とりあえず智は目に止まったハヤシライスを、と決めると、メニューを閉じる。

 桜はそれを見て新田を呼び、慣れた口調で「オムライスのランチセット、オムライスは大きめで」と頼んだので、それに続いて、たどたどしく智はハヤシライスのランチセットを頼む。

 わざわざ常連であることを隠そうとしない桜に、智は少しだけ苛立ちを覚える。

 厨房の奥の新田が受け答えをすると、先程まで緩んでいた桜の頬がくいと締まって、本題に臨む表情になる。

 それは智が訪れるのを恐れていた時が始まったという証左だ。

「立木さんの話ですけど」

「やめてください、それは。もう関わらないようにしたんです」

 桜の言葉に、智は視線を落として、手を扇ぐように横に降る。

「関わらないように、ですか」

「本人に言われましたから。もう関わるなって。犬童さんも聞いたでしょう」

「はい」

 智が盗み見た犬童桜の表情は、少々苛立たしげにも見えた。

 無理もない。いざ話を切り出して、即座に関わりたくないと切り捨てられたら、そんな反応になるのは当然だ。

 だが、智にだってそう至った理由ぐらいある。むしろ理由があるからこそ、立木に関わる全てを考えることをやめるに至り、桜を避けたのだ。

 結局全てはその理由に収束されるわけだ。

「……それに、他人の重い感情が絡むような話に土足で踏み入るのは嫌なんですよ。俺は。他人が重い感情を抱えているような物事に平気で首突っ込んで、偉そうに説教したりそれを取り上げる資格はあるのかって考えたら、そんな資格なんか無いわけで」

 店内放送の軽やかなボサノヴァの音色と裏腹の、重苦しい声を智は喉から絞り出す。

「立木の反魂香への相当な執着は犬童さんだって知ってるでしょう。あいつがあそこまで拘ってるってことは、相当面倒くさい事情……例えば、誰かを蘇らせたいとか、もう一度会いたいとか……そういうのを抱えてるってことだと思うんですよ。そういうのに部外者が訳知り顔で首突っ込むのはそれこそ良くないんじゃないかと思うんですよね」

 言ってる内に、随分ナイーブな理由だと智は心中で自嘲する。結局立木の為すことを止めることに対して、智が責任を負えないのが怖いのだ。

 只でさえ智は普段の朴訥とした立木という男を知っていて、彼が他人を傷つけることを厭わないと考える程に狂気に陥った、その元凶である反魂香を取り上げた時、彼がどうなるかを想像するのが怖く、そして桜に、智にどう振る舞うかを考えるのもまた怖いのだ。

 言い終えると、智はうつむきがちに頬杖をついて、テーブルに視線を落とす。

「ってわけで、俺は関われないです。立木の家とかも教えられません」

 ボサノヴァと、厨房から聞こえる新田の料理の音が再び店内を包む。智はボサノヴァの気だるい女性歌手の声に心を預けて、早く料理が運ばれてくるのを待つ。

「堀池さん。一つ、お話させてください」

 沈黙を破ったのは、やはり桜の側だ。

「堀池さんや立木さんは陰陽の術は万能だと思ってるんでしょうけど、陰陽の術でも人を黄泉帰らせることは基本的には不可能なんです」

 智が頬杖を離し、顔を上げる。桜は大きな目を細めて、さらに訥々と語りだす。

「陰陽の世界では何らかの理由で現世に保存された霊を式神にすることは多々ありますが、冥府に落ちた死者の霊を完全に黄泉帰らせられたのは、安倍晴明あべのせいめい泰山府君祭たいざんふくんのまつりを執り行った事例だけです。稀代の術者がとても高位の術で執り行って、たった一度だけ成功した。しかもそれすら創作の可能性すらある話なんです」

 桜は続ける。興奮で言葉尻が強くなり、徐々に語り口も早くなってゆく。

「ですから、反魂香というものも死者を完全に黄泉帰らせる力なんてありませんし、そんな用途に使用することはありません」

「……完全じゃなくても、霊だけでも呼び出せることはあるんでしょう?」

 反魂香を焚いた時に、智はあの古臭いスーツを着込んだ男の霊と遭っている。

 智は誰も望んでいなかったから彼が出てきたが、もし反魂香の落語の通りの効果があるならば、望んだ相手の霊だって呼び出せるのかもしれない。

「形骸化した思念霊や浮遊霊の類だけです」智の問いを、桜はコンクリートを思わせる硬く冷たい声色で、バッサリと切って捨てる。「死の数瞬前を切り取った、ビデオのような思念を延々再生するような霊や、自分が何者かも忘れているような物を呼び出すだけ。それも副次的な用途でしかない……お話にあるような狙った霊を呼び出し対話するような使い方なんて、フィクションの中の話ですよ」

「……じゃあ本来の用途っていうのは、何なんですか」

「死体の使役です」

 やはりばっさりと、硬質さと冷たさを持って桜は言い切る。

 ただ、先ほどと違いがあるとすれば、その冷たさの中に、冷温だが確かな怒りの感情が滲み出ている点だろう。

 そして智も桜の返答に、絶句する。

「死体の、使役」

 はい、と桜。

「陰陽の世界には数々の外法がありますが、反魂香はその外法の産物の筆頭。死体を蘇らせて屍鬼とし、それを陰陽の術で使役する。そういう、故人の意志を踏みにじって利用しつくすようなものです……そしておそらく、立木さんはそのことを知りません」

 冷たく、硬く、しかし煮えたぎる怒りを腹の中に抱えた桜は、黒目がちな目を智の顔に注ぐ。

「堀池さん。私は堀池さんの言った他人の重い感情というものに訳知り顔で首を突っ込んでいるように見えるかもしれません。ですけど、その重い感情や心のゆらぎが浸け込まれて、誰かが貶められるのを見て見ぬ振りが出来ないんです。賛同してくれなくてもいいですが、そこだけは理解してほしいんです」

 再び静かに、しかし熱を帯びた口調で桜が語りだす。

 対する智は言葉をつまらせた。

 いや。言葉を見つけることどころか、返答の相槌を打つことすらできなかった。

「……それに陰陽師や験者ではない立木さんが反魂香を使ったとして、屍鬼の使役ができずに暴走する可能性があります。ですから、あの香は絶対に破棄しないといけません」

 そして桜は、とん、とその小さな手でテーブルを叩いた。

「堀池さんの協力が得られなくとも、私は立木さんを止めます。立木さん自身のためにも、彼が黄泉帰らせようとしている故人のためにも」

 彼女の決意は、彼女の瞳の中にあるものが何よりも力強く物語っていた。

 智ははいとも、いいえとも、何も言いだせずに、沈みかけた表情で彼女の瞳を眺める。

 ボサノヴァの音色が、再び沈黙を埋める。そこに新田が料理を持ってやってきた。

「はい、オムライスのセットと……ハヤシライスのセット」

 新田が二人分の伝票を伝票入れに挿して去っていくと、桜と智は同時にスプーンを傾けて、料理を口にする。

 口にしたハヤシライスは今まで食べた何より美味いと大げさに言うほどではなかったが、少なくとも最近口にした学食や適当な自炊飯よりは何十倍も美味に感じた。ルーの嫌味にならないギリギリの甘みとコクが、舌に絡んで、やはり烏丸に店を出すほどの洋食屋の味だと思わせる。

「どうです? 美味しいですか?」

「はい」

 ここに来て智は、やっと彼女に返事らしい返事を返せた。

 ハヤシライスを平らげて、まだオムライスを味わっている桜にことわって智は先に会計を済ませようとする。

「……陰陽師の世界に幻滅しましたか?」

 レジスター越しの新田が静かにそう訊ねてくる。

「……はい、少し」

「僕もそうです。だからこうして引っ込んだ」

 智の差し出した千円札を受け取ると、新田はレジを打って、釣り銭とともにそう返す。

「だからこそ、僕は彼女が凄いと思うんですよ」

「……解る気がします」

 釣り銭を財布にしまうと、智は桜に「それじゃあ」と声をかけて、店を出る。数十分ぶりの外の風と蒸せかえる熱気に包まれながら、智は来た時よりも重い足取りで、来た道を戻ってゆくのだった。

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