犬童桜と立木隆 -2

 立木との連絡を取った後、その日のすべての講義が終わった後も、智は家に帰る201系統の市バスにはすぐに乗らず、大学の喫煙所でぐずぐずと何本も煙草を吸い続け、ガラス張りの部屋の中に留まっていた。

 普段は一本か二本吸えばおしまいなのだが、こうやって何分もぐずぐず意味もなく煙草に火を付けて、公衆喫煙所で粘っていたくなるときが、智にはあった。

 そういうときというのは決まって、自分の悩みというよりは、バイト先での他人同士の恋愛関係をそれとなく相談されたときとか、数少ない友人から智には不相応な重さの相談を臨まれた後とか、そんな、人の大きくて重たい感情をぶつけられ、対応に困ったときが多かった。

 今日の場合は、反魂香を必死になって欲する立木と、犬童桜と名乗る陰陽師に原因があるのだろう。

「余計な波乱は持ち込んでほしくないんだがなあ」

 ぼやきと共に煙を吐き、灰を落とす。二十歳になった時に格好つけで吸い始めた煙草だが、今やすっかり智の日常の一片に組み込まれていた。智は半分ほどまで短くなった四本目の煙草を再び口元に持っていき、咥える。

 ところで、立木は一体なぜ、反魂香に手を出したのだろう。

 そんな疑問がふと、智の中で形を持ち始める。今まではスーツ男の幽霊の恐怖や犬童桜の出現、立木への罪悪感とかのせいでずっと忘れていたが、ある意味この場でぐずつく理由の根本にも行き着くだろう疑問だ。

 立木も結局電話ではその理由すらも話してくれなかった。ただただ、彼の必死そうな声がその理由を察してくれと暗に語っていた。それだけだ。

 ならば、と考えてみる。彼が反魂香を必死に欲する理由。

「誰かを蘇らせたい……とか」

 真っ先に思い浮かび、そしてそれ以外に無いだろう答えだ。

 どんな力もない一般人でも人を蘇らせられる道具を一回だけ使うとすれば、それは余程蘇らせたい相手や、もう一度会いたいと願うが相手がいる場合に限る。落語の中ならばかつて侍と愛しあい将来を契りながら死に別れた太夫であったり、同じ様に死に別れたの町人の妻だったり。

「立木には、そんな相手が居るのか……」

 その相手は誰なのだろう。

 死んでしまった家族、或いは死に別れた恋人か。立木に恋人が居たなんて話は聞いたことがなかったが、彼が話さないだけでひょっとしたらそんな女性も居たのかも知れない。

 思えば、智も立木の交友関係や人間関係のことはよく知らなかった。

 大学一回生の頃の基礎演習と、一・二回生の頃に講義が重なるから仲良くなって、よくお互いの家にも訪ね合ったりしあう仲ではあるが、智も、そして立木も、お互いにそれ以上の交友関係の領域に踏み込むことは無かった。会話の中でお互いの家族や、バイト先の人間の話や、立木の所属する文芸サークルの人間の話をしたことはあった。だが、お互いがお互い、どういう立ち位置に居て、誰にどんな感情を抱いているかなどは何も話さなかった。

 それがよくある友達との距離なのは頭では解っていたが、いざこうやって立木と向き合う機会になって何も知らないというのは、歯がゆかった。

 溜息に似た煙を吐き出すと、智はすっかりちびてしまった煙草を吸い殻入れに放り込む。そしてもう一本、とパッケージを取り出すと、残りの煙草は三本ほど。完全に尽きかけていた。

「……流石にもう潮時かな」

 時間も良い頃だ。パッケージを鞄にしまいこみ、智は他の喫煙者を避けて喫煙所を出ようとする。

 開けた扉に貼られた張り紙には、夏休み中に喫煙所を撤去すると言う文言が没個性的な書体で書かれている。

 こうやってだらだらと煙草を吸いながらぶつけられた重たい感情を処理できるのも今日が最後かもしれない。そう思うと一抹の寂しさと、このガラス張りの煙たい箱への強烈な未練のようなものが生まれてきた。

 あともう少し粘ろうか。その感情を振り払いながら歩きだすと、智はふと木の上に止まる雀と目が合った。なんとなく目が離せなくなってしまったせいで、しばらくその雀とにらめっこしていたが、先に雀のほうが興味を失ったのか、そっぽを向いたと思うとばささ、と翼を鳴らして群青色の夜の差し迫った空の彼方へと飛び去っていったのだった。

 大学の構内を一歩出ると智は今度はきょろきょろと周囲を気にしながら、足早に歩きだす。今まさにつまみ食いを行おうとする子供か、盗みに入った後に急に周囲の人間全てが怖くなった不慣れな泥棒のような、警戒心をむき出しにした様子で智はバス停までの道を行く。

 犬童桜がまだ大学の周辺に居るんじゃないか、という不安感が智の中にあった。

 わざわざここまで警戒する必要など無いんじゃないかという気分にもなったが、もし出会ってアパートまで着いてこられて、明日になって反魂香を渡す邪魔をされても困る。

 幸いにして彼女は智の前に現れることはなく、智はその足で201系統のバスに乗り込んで、何事もなく、誰にも合わず、自分の部屋へと帰宅できたのだった。

 

                  *

 

 翌日、四講目の芸術史の今期最後の授業を終えた後、大学新館を出た智は、地下鉄の今出川駅へと歩を進めた。

 頭上ではちん、ちん、と雀が呑気に鳴いていて、大学のメインストリートや駅に至る道には、智と同じ様に最後の講義を終えて呑気に友人と夏休みの計画を立てる学生もいれば、レポートが仕上がってないのか、酷くなにかに焦っているような学生の姿もある。その学生たちの中を、肩にかけた鞄の肩紐をいつもより強く握って、智は周囲に気を払うように歩く。

 あの高校に入りたての少女のような陰陽師を見つけてしまわないように祈り、智は周囲をきょろきょろ見回しながら地下に降りる。

 人混みにわざと紛れ込むように改札を抜けて、ちょうどやってきた竹田行きの地下鉄烏丸線の銀色の電車に乗り込んで、席についた智は、祈りが天に通じたことに感謝しながら、止めていた息を大きく吐き出すのだった。

「これで良し……と」

 ドアが閉まり、電車が走り出す。今出川を問題なく離れられればもう安心だ。

 智は鞄のファスナーをそっと開けて、その中身を確認する。

 教科書とルーズリーフバインダー、それに乱雑に突っ込んだ財布なんかと共に、くだんの香の入った缶が確かにそこにあった。自己の存在を誇示するかのように、缶は地下鉄の青白い蛍光灯の灯りを鈍く反射する。

 朝から何度も鞄の中を確認し続けた智は、ようやく最後の一回となるだろう確認を終え、鞄のファスナーを締め、もう一度、はあ、と息を大きく吐く。

 まるで麻薬か爆弾でも運んでる気分だった。

 いや、犬童桜の言葉を信じれば、実際似たような物を運んでいるのかも知れない。

 どちらにせよ、缶にのしかかった立木の必死さや桜の忠告の分だけ、いつもは感じない妙な重みと緊張感が鞄にかかってるように思えた。

 電車は丸太町駅を過ぎて、烏丸御池からすまおいけの駅に着く。智は電車を降りると、待ち合わせを指定された南改札へと足早に向かった。

「……ん?」

 智が違和感を覚えたのは、ホームから駅の構内に出る階段を登りきって、南改札に続く通路を歩いている最中だ。智が進むにつれて、人の姿が減っているのだ。

 平日の夕方、それも寂れている方の改札とは言え京都の中心街の駅のそれなのに、南改札に近づくにつれて、不気味なほどに人が減って、がらんとした人気のない駅の構内が広がる。

「何が起こってるんだ……?」

 一抹の不気味さを覚えながら改札へ続く階段を登りきると、無人の空間でリュックサックをおろして壁際に佇む立木の姿が改札の外にあった。

 智はひらひらと手を振り、立木もそれに気づいたらしく、控えめに手を挙げる。改札をくぐって立木の側にやって来ると、立木の量販品のぼんやりした服装が少しよれていることに気がついた。立木だとわかっていなければ、昼間中ずっと清水あたりを散策でもしていた観光客のようにさえ見える。

「待たせたか?」

「いや、俺が早く来すぎただけかも。気になっちゃって」

「にしても、人がいないな。もう夕方っつーのに」

「俺がちょっと仕掛けしたんだ。暫くこの改札には誰もこないよ」

 立木は肩紐を強く握った鞄に目を落とす。

「その中か?」

「ああ。今渡す」

 智は鞄のファスナーを開けて、缶を取り出す。

「面倒事になってすまねえ」智が謝罪を口にする。

 立木はリュックサックのファスナーを開いた。

「いいよ。俺に香を返してくれたらそれだけで十分だ」そこまで言うと、立木は目を伏せて、ためらいがちに続ける。「……もともと、堀池に預けたのも陰陽師と接点がないから、目くらましになるかと思ったからだからさ。遅かれ早かれ陰陽師には気づかれてたって考えれば……」

「そう、だったのか?」

「すまん。そうでもしないと保管しきれないと思ったんだ」

 立木は智の持っていた缶を半ば奪い取るように強く持ち去ると、リュックサックの中に素早く仕舞って、素早くファスナーを閉める。

 その細縁眼鏡の下の目には必死さを訴えるような強い意志の炎――しかし、決して前向きには見えない、後ろ向きな昏い意志の炎――が灯っている気がした。

「なあ、立木」

「どうした?」

 お前、その反魂香で誰を蘇らせるつもりだ。智はそう接ごうとした口を噤む。訊いてしまえば、立木の細縁眼鏡の下の瞳の色が、どんな色に変わるか。何を言い出すか。そして智に何をぶつけてくるか。それを想像したら急に恐ろしくなった。

 反魂香で見えたスーツ男の幽霊の虚ろな死人の恐ろしさとはまた毛色の違う、明確な昏く強い意思を持って行動する人間の恐ろしさが、今の立木にはあった。

 そして智は接ごうとした言葉の代わりに、なんとか次の言葉を見つけようとして「いや……」と言葉を濁した後、少ししてからやっと見つけ出せた話題を口にする。

「陰陽師って本当にこの世に実在するんだな」

「……ええ、するんですよ」

 そう答えたのは、立木の声では無かった。

 立木の声と性別も音域も違う、少女然としたソプラノ。それが立木の居るのと正反対の方向から聞こえる。

 目の前の立木は細縁眼鏡の下の瞳を一度見開いた後、憎々しげに細める。

 智は慌てて後ろを向くと、黒のフリル付きのジャンパースカートに白いブラウス姿の背の低い少女――犬童桜が立って居た。

「どうして、ここに」智が驚愕の声を上げる。

「堀池さんには悪かったですが、昨日から式を使って跡を付けさせてもらいました。そちらのご友人は式眩ましの術符を持っているらしく、式では姿も声も感知できなかったので」

 桜は人型の和紙を一枚、智と立木に見えるように取り出す。

 彼女は陰陽師、尾行の方法だって幾らでも在るに違いなかったのだ。それを彼女自身の姿がないからと言って安心しきっていたのだ。智は自分の迂闊さを呪った。

「あなたが立木さんですね」桜はじっと立木を見つめると、彼の方に向かって手を伸ばす。「はじめまして、私は犬童桜。こんなナリでも陰陽師やってます」

 立木は挨拶を返す代わりに、身体を強張らせ、完全に敵意を剥き出しにした目で、突如の乱入者を睨んでいた。

 桜はその立木の様子に臆すること無く、言葉を続ける。

「今すぐ反魂香を廃棄させてください。そうすればあなたも陰陽局に処罰されることも無いはずです」

「断る」即答する立木。「陰陽局の処罰なんてどうでもいい。俺の邪魔をしないでくれ」

「反魂香はとても危険な代物です。陰陽の世界でも、一般人の世界でも、それは変わりありません。使い方によっては大きな被害さえ出ます。だからこそ廃棄させてください。何も起こらない前に」

「……そんな事、知るか!」

 立木はそうやって毒づくと、徐にズボンのポケットの手を入れる。

「――まさか」

 桜が顔をひきつらせるより早く、立木はポケットから引き抜いた何かを放り投げた。何かは地下鉄駅のタイルに着地するよりも前に、RPGで出てくる雑魚モンスターのような、刃の欠けた巨大な菜切り包丁のようなものを手にした土色の肌の、いかにも粗暴そうな鬼のようなものに化けていた。

 智も、桜も、それを目にして言葉を失った。智はその存在自体に。そして桜は、おそらく立木がそれを呼び出した事自体に。

「俺にはやらなきゃならないことがあるんだ! 邪魔なんかさせてたまるか!」

 そして、そいつが出てきたと同時に立木は改札に向かって脱兎のごとく走り出す。どこにそんな力があったんだと言うぐらいに力強くタイルを蹴立て、そして改札をひょいと飛び越えてしまう。

 桜もそれを負って走り出そうとしたが、その前をあの小鬼が立ちふさがる。立木に近づけさせない。そいつのそんな意志が見て取れた。彼女は諦めたように短冊をポケットから取り出す。

「地下街ですから相克の火気は厳禁。となると一番良さそうなのは木気……」

 桜が短冊を掲げて「急急如律令、木気を招く」と小さく唱えると、手の中の短冊から空気の焼ける匂いを伴って、一閃の電撃が飛び出した。雷撃は小鬼に向かって真っすぐ飛んでいった。が、既の所で後ろ飛びした小鬼にかわされてしまう。

 ばぢぃんっ、と電気の弾ける音がして、電撃の余波で天井の蛍光灯が大げさな音を立ててちらつく。

 智は蛍光灯が割れるのではないかと思ったが、桜はそんなことには構わずに「やっぱり射程が足りないかぁ……」などと言いながらすっかり炭化した一枚目の短冊を捨て、二枚目、三枚目の短冊を指に挟んでいた。

「立木!」

 智が階段の向こうに消える立木に向かって叫ぶ。

 声に気づいて振り向いた立木は智に向かって、怒鳴りつけるように叫んだ。

「堀池! お前は全部忘れろ! そいつに巻き込まれる前にどこかに行け! 俺に構うな!」

 絶叫ののち、立木の姿は改札機ときざはしの基部に隠れて完全に見えなくなった。

 立木の姿が見えなくなるかどうかの頃になって小鬼が走り出して距離を詰めると、細い腕に握られた巨大包丁を桜に向かって思い切り振りかざす。桜の目の前で、振り下ろすような斬撃が見舞われようとしていた。

 だが、遅い。桜は危機一髪小鬼の振り下ろす刃から逃がれると、再び「急急如律令!」と唱える。桜の指に挟まれた二枚目の短冊から飛んだ電撃は、革でできた鞭を叩きつけるような派手な音を立てて、小鬼に直撃する。

 焦げ臭い匂いが周囲に漂い、小鬼は見るからに深手を追っている様子だ。

「急急如律令!」

 三度目の電撃がようやく小鬼を捕らえて、またあの大きく弾けるような音を伴いながら、小鬼を改札の方へと吹き飛ばす。

 改札機に叩きつけられた小鬼は、無人の改札の荷物台に断末魔の鈍い打撃音を響かせたと思うと、次の瞬間にはその場から跡形もなく消え去っていた。

 代わりに黒焦げになった木でできた人形のようなものが一つ、荷物台のそばに落ちていたのを智は見た。きっとこれがあの小鬼の正体なのだろう。

 桜はそんなものを一瞥もせずに、IC乗車券を叩きつけるようにして改札をくぐり抜け、立木を追って駅の構内へと消えてゆく。

 二人が去って暫くしてから、無人の改札に、人の息遣いと雑踏の音が徐々に近づいてくるのが聞こえはじめる。

 智は改札の中心で、立ち尽くしていた。

 立木を追って改札をくぐることもできなければ、立木の言ったようにどこかに行くことも叶わず、ただ、まだ無人の改札に立ち続けることしかできなかったのだ。

 小鬼を放ち、桜を襲わせた立木。桜を憎らしく睨むあの表情。その全てが智の知る立木隆の姿とはかけ離れたものだ。

 何が立木をそうさせたのか。そう問えば、答えは一つしか無い。

「……立木、お前は一体何がしたいんだ。誰を黄泉帰らせたいんだ」

 改札に夕刻の京都中心街の喧騒が戻ってくる直前、智は走り去っていった友人の背中に向かってそうつぶやいた。

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