是 ~松平清康物語~

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是 ~松平清康物語~

第一章 永正十七年 神無月

第1話 煩悶

 竹千代は小川の畔に座り込んでいた。


 すでに半刻ほどであろうか、水面の上を軽やかに踊っている赤蜻蛉を眺めているうちに、映っている自分の影が対岸まで届くようになっていた。

 最初気になってたのは赤蜻蛉であったが、次第に視線は影に移っていた。悶々とした気持ちを落ち着かせるために、ただぼーっと眺めていたのである。


 夕日があたっている背中は少しだけ陽の温かみを感じている。

 齢は十となる。まだ少年と言っても良いくらいだが、多少は学問も修めており物事の分別はついている。

 そんな竹千代だが、館の中で居心地が悪い時があるのである。そういうときは良くここにいる。

 父と祖父が口論している場面に遭遇した時に往々にしてそういう気分になるのである。

 諍いの要因いろいろあるが、祖父が父をなじる場面では特に気分は良くない。


 父、信忠は只管に優しい。勿論私だけに向けたものでは無く、母や兄弟達にも分け隔てなく接してくれている。先日は一緒に相撲を取ってくれた。当然体格差で大人にかなうわけもないのだが、わざとらしく負けてくれたりもした。またある時は、剣術の稽古もつけてくれる。武士の習いである弓馬も父から教わるのである。


 竹千代にとって父は常にそばにおり手本となるべき人物であり、頼りがいがある大人なのだ。

 しかしながら、周りの目はそうではないようである。

 父は無能なのだそうだ。


 常に家族のそばにいるのも、領内の裁量案件に口を出さず家臣団との評定に顔を出さないようにしているかららしい。

 私が生まれる三年ほど前の話らしいが、岩津で駿河の今川家との戦があった。岩津松平は三河松平の惣領という立場であり、その当時は安祥松平より上の立場であった。岩津は所謂宗家という立場であった。

 その岩津がとうとう今川軍に包囲される事態にまで陥った。齢は十六であったが、父は総大将として出陣した。

 包囲されるまで、今川軍を放置していたのもどうかとも思うが、安祥からはほど近い場所であり、岩津が落ちれば安祥も落ちていただろう。

 今川の総大将は伊勢新九郎盛時という聡明な武将であったそうだ。

 詳しくないが相手の武将は既に老境の域に達しており、立身出世の鬼のような人物であったらしい。

 父は家督相続したばかりの十六である。ようするに経験の差が違うのである。

 ほとんど初陣と言っても良いくらいである。父は負けた。這うようにして帰ってきたそうである。いろいろな要因はあるだろうが、総大将の経験の差が大きく違うのである。負けて当然であろうとおもう。

 その後、祖父の道閲が急遽代わりに出陣した。からくも撃退に成功し、事なきを得たが最初から祖父が出張っていれば良かったのでは無いかとも思う。これを井田野合戦という。

 こうした一件から、信忠は無能という評判が領内で広まったそうである。

 たった一回の敗戦から父は家臣含め領民からも蔑ろにされ続けていた。すでに十二年も前の話であるのに、いまだに挽回する機会もなく評価が定着されてしまっているのである。

 竹千代は父の事が好きであるために、世間の評判を聞くといつも何か板挟みにあっている気がするのである。

 というのも嫡男である竹千代に対しては将来有望だとか、自分からしたら妙としか思えない期待を寄せられていることは、幼少のころから直接的、間接的問わず耳にしてきた。

 父は祖父や家臣から蔑ろにされていても、常に同じように優しく家族に接してきているため尚の事もどかしいのである。

 背中に当たっていた陽の温かみが無くなり、首筋にあたる風が寒くって来た。

 父と祖父の諍いもさすがに終わっているであろうか。屋形にもどることにした。

 竹千代がいた場所は、館の東側にある名前も良く分からない小川であった。

 館からは徒歩で四半刻もないほどである。

 戻る道中も、先ほどから逡巡している父と祖父、家臣達との関係を考えていた。

 結論が出るわけでもないのだが、もどかしさは募るばかりである。

 ふと、竹千代は明日明眼寺に行くことになっていることを思い出した。

 明眼寺は竹千代が読み書きを教わった寺である。既に基本的な読み書きは修めたのだが、続いて書物の習いを和尚に師事しているのである。

 答えが出るわけでもないが、和尚にもやもやを吐露してみようかという考えが浮かんできた。

 そうすると、ぼんやりと曇っていた心も少しばかりか晴れてきたような気がしてきた。

 そうこうしているうちに館の前に到着した。陽は館の向こうに落ち、その陰をくっきりと浮かび上がらせていた。

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