五月雨の戯れ

澤田慎梧

五月雨の戯れ

 あの人を、深く深くに埋めてしまうの。


 誰にも見付けられないように。


 きれいさっぱり忘れさられるように。


 わたしの心の中に降るこの雨が、早くやむように――。


   ***


 同じゼミの女の子、「皐月原さつきばらめぐむ」には、二つの噂が付きまとっていた。


 一つ目の噂は、男にまつわるもの。

 彼女は二年前に、高校時代から付き合っていた年上の彼氏に手ひどく振られたらしい。なんでも、彼氏がヤクザ者の愛人とデキてしまって、駆け落ちしてしまったんだとか。


 二つ目の噂は……やはり男、しかも同じ彼氏にまつわるものだ。

 なんでも、彼女は自分を捨てた彼氏を浮気相手の女共々殺してしまって、どこかの山奥に埋めてしまったんだとか。


 二つ目の噂は、誰かが流した無責任な風評だ。ナンセンス過ぎて、彼女もその周りの人間も、殆ど気にしていない。

 ――けれども一つ目の噂は、どうやら本当らしいのだ。


 そのせいなのか、皐月原さんは笑顔が素敵な女の子なのに、その笑みにはどこか陰があった。

 特に雨の日には、どこか遠くの方をぼんやりと見つめて、物憂げな表情を浮かべていることが多かった。彼氏が彼女の前から消えたのも、雨の日だったのだとか。


 ――いつしか僕は、そんな彼女の佇まいに心を奪われている自分に気付いた。

 我ながら厄介な相手を好きになってしまったと、呆れるばかりだ。でも、それが恋というものなのだから、仕方がないだろう。


 同じゼミというだけで、僕と彼女の間に接点は少ない。

 だから、僕は彼女との距離をいつまで経っても詰められずにいた……のだけれども、転機は意外な形でやってきた。


   ***


 あれは、六月に入ってしばらくのこと。少し早い梅雨が来て、世界が灰色の湿度に包まれているかのような、陰鬱な日々が続く中のことだった。

 友人たちが揃って不在で、僕は学食で一人寂しく「かけうどん」をすすっていた。すると――。


秋月あきづきくん。ここ、いいかな?」


 突然かけられた声に振り向くと、そこにはなんと皐月原さんが立っていた。

 小さなサンドイッチが乗ったお皿を手に、可愛らしく首を傾げている。長く艶やかな黒髪が、サラリと揺れた。


「……いい、けど」

「ありがと~。よいしょっと」


 心底「助かった」というような笑顔を浮かべながら、彼女が僕の横の席に座る。

 見れば、昼時の学食は盛況そのもので、ほぼ満席だ。空いている席は数えるほどしかない。


(なんだ、ただ単に顔見知りの隣を選んだだけか)


 がっかりしながら、うどんをすする作業を再開する。けれども、傍らの皐月原さんは、何故か僕の方をじぃっと見つめていて、サンドイッチに手を伸ばす気配がない。

 ……なんだろうか?


「食べないの?」

「……うん。お腹は空いてるんだけどね。ちょっと気がかりなことがあって」


 どこか寂しげな表情で俯く皐月原さん。

 その鈴の音のような声は、学食の雑音に消されそうなほどに儚げだ。見るからに何か思い悩んでいる様子だった。


 「気がかりなことがある」と、彼女は言った。

 わざわざ口にしたということは、僕に相談に乗ってほしい、という意味なのではないだろうか?

 ――いや。僕は彼女に片思いしているけれども、彼女から見た僕は「ただの同じゼミに所属している男」だ。特段親しい訳じゃない。そんな相手に相談などするだろうか。


 その「気がかりなこと」について尋ねようか尋ねまいか悩みながら、視線をうどんと皐月原さんとの間で行ったり来たりさせる。

 途中、白いワンピースから除く無防備な鎖骨が目に入ってドギマギしてしまったけれど、何とか平静を保つ。

 ……考えてみれば、これは彼女との距離を縮めるチャンスなのだ。彼女の話を聞いてみるのが吉だろう。もちろん、下心はオブラートに包んで。


「何か……あったの?」

「うん。あった……というか、これからある、というか。友達にも相談しにくいことでね。かなり気が重いの」


 白魚しらうおのような指でサンドイッチをツンツンとつっつきながら、憂い混じりの苦笑いを浮かべる彼女。

 「そのサンドイッチになりたい」等という、倒錯的な欲求が浮かんだけれども、それを必死に横へ追いやり、会話を繋ぐ。


「友達には相談しにくい……仲の良い人には、あまり聞かせたくない話?」

「というか、女友達には頼れない話、かな? 私、男友達なんていないから、相談出来る人もいなくて……」


 言いながら、チラリと僕に視線を送る皐月原さん。

 「おっと、僕は男友達にもカウントされていなかったのか」と少しガッカリしたけれども、努めて表情には出さない。

 少し持って回った言い方だけど、どうやら彼女が僕に相談したがっているというのは、気のせいではないようだ。

 だから僕は、彼女が求めているであろう、その言葉を口にした。


「――それは、僕が聞いてもいい話かな?」

「っ!? う、うん! ……その、結構重い話だけど、聞いてくれる?」

「僕で良ければ」


 「重い話」という言葉に、実は少し腰が引けていたけれども、それをおくびにも出さず僕は頷いて見せた。

 偉いぞ、僕。

 ――しかし、彼女の言う「重い話」は、僕の想像を超えてヘビーだった。


「うん……実はね。私、――で」


   ***


 翌日。僕は皐月原さんに付き添って、大学から遠く離れた、とある警察署を訪れていた。

 鉛のように重たい空からは、今日もしとしとと雨が降り続けている。


「……大丈夫?」

「うん、平気。ありがとう、秋月くん。きっと、一人だったらここまで来れなかったわ。――行きましょう」


 梅雨空よりもなお曇った表情を見せる皐月原さん。でも、彼女は気丈に頷いて見せて、警察署への一歩を踏み出した。

 中に待っているのは、何を隠そう

 僕も汗がにじみ始めた手をしっかりと握りしめ、皐月原さんの後を追う。


 そのまま、あれやこれやと受付を済ませ通されたのは、警察署の奥にある、手術室を思わせる薄暗い部屋だった。

 独特の――とても不快な匂いが漂っている。

 部屋の中央には、手術台にも似た横長の台が鎮座していて、白い布がかけられていた。布は少し膨らんでいて、その下に何かが隠されていることは明白だった。


「――では、皐月原さん。よろしいですね?」

「はい……お願いします」


 刑事さん(初めて見た)が皐月原さんに確認してから、台の上の布を取り払う。

 そこに現れたのは――。


「――っ」


 皐月原さんが息をのむ。僕も目の前のものに釘付けになり、呼吸が止まる。

 そこに現れたのは……だった。薄汚れた茶色に変色した、全身骨格が横になっていたのだ。


「こちらが遺留品になります。ご確認をお願いします」


 刑事さんが、部屋の奥からガラガラとワゴンを押してくる。

 その上には、ボロボロになったジーンズやアロハシャツ、ライターや財布等が置かれていた。古い型の携帯電話らしきものもある。

 皐月原さんは骸骨からそちらへ目を移し、ひとしきり眺めると――静かに口を開いた。


「はい、彼のもので間違いないと思います」


   ***


 ――簡単に経緯を説明しよう。


 数日前、警察から彼女に「元彼の遺体が見付かった」という連絡が入った。

 遺体は白骨化していたものの、歯の治療痕などからすぐに身元が特定されたそうだ。

 警察はすぐに遺族へ連絡を取り最終確認をしてもらおうとしたが、彼には既に家族と呼べる人はいなかった。そこで、元恋人である皐月原さんに白羽の矢が立ったらしい。


 ……彼女にとっては迷惑な話だったことだろう。

 実際、皐月原さんは思い悩んだ。自分を捨てた男の遺体をあらためるだなんて、よく考えなくても嫌すぎる。

 それでも、責任感の強い彼女は警察の依頼を引き受けて――でも、一人で遺体と対面する勇気も持てなかった。


 そんな時、うどんをすする僕の姿が目に入って、藁をも掴む思いで相談を持ち掛けたのだそうだ。

 ただ単に顔見知りだったから程度の理由なんだろうけど、それでも僕を選んでくれたことは嬉しかった。


 ちなみに、元彼の死因は他殺だった。――けれども、もちろん皐月原さんは犯人じゃない。

 頭蓋骨に銃弾を受けた痕があって、捜査の結果、元彼と駆け落ちした女性の恋人が射殺したことが突き止められていた。

 女性の恋人だったヤクザは、既に逮捕されているという。曰く「女には逃げられたので、男の方にケジメを付けさせた」だそうだ――。


「ごめんね、秋月くん。変なことに付き合わせちゃって」

「平気さ。そもそも、警察まで付いていくって言ったのは僕だし」


 警察署からの帰り道、僕と皐月原さんは降りしきる雨の中を、傘を片手に歩いていた。

 皐月原さんの差す傘は、レース風の模様があしらわれた黒。――もしかすると、喪を表しているのかもしれない。


「私ね、ずっとずぅっと、あいつのことを忘れようと必死だったの。心の奥の、深い深い場所にしまい込んで、忘れ去ってしまおうって」


 ポツリと、雨音よりもささやかな声で、皐月原さんが呟き始めた。

 僕は黙ってそれを聞く。


「でもね、あいつはどこかで生きてるんだって、心の本当に奥底の方では願ってもいたの。酷い捨てられ方したのにね、未練たらたらだったんだ。刑事さんの話だと、あいつは二年前にはもう死んでいたっていうのに。馬鹿みたいだね。

 ――あ~あ。私、この二年間なにしてたんだろ」


 そう自嘲気味に呟いて、皐月原さんが鈍色の空を見上げる。

 雨はまだ、しとしとと降り続いていた。まるで、皐月原さんの心を映すかのように。


 この二年間、彼女の心の中には雨が降り続いていたのだ。

 忘れたいと願っても断ち切れぬ彼への未練が、どこかで無事に生きているという淡い希望が。五月雨のように絶え間ない、やまない雨が。

 でも――。


「……皐月原さん、雨はいつかやむものだよ。あまりうまく言えないけど……きっと、皐月原さんにとって、それが今なんだよ」


 僕らが見上げていた空は、にわかにその明るさを増していた。

 雨もいつのまにか霧雨へと変わっていて、今にもやみそうな気配だ。


「秋月くんって――」


 彼女はそっと、空から僕へと視線を移して――


「結構、キザなんだね」


曇りのない、悪戯っぽい笑顔を僕に向けてくれた。


 彼女の心に降り続けた雨は、今やんだのかもしれない――。


   ***


 ――二年前。


「もっと、もっと深く掘らなくちゃ……」


 強い雨の降りしきる中、皐月原めぐむは、とある山中で一心不乱にスコップを振っていた。

 既に彼女自身がすっぽり収まるほどの穴を掘っていたが、それでも彼女の動きは止まらない。土と雨とで全身ぐしょぐしょだったが、それを意に介した様子もなく、穴を掘り続けている。


 彼女の掘り進む穴の傍らには、もう一人女性がいた。露出の激しい恰好をした、水商売風の女だ。

 けれども、彼女は微動だにしない。泥だらけになるのも構わずに、土の上に横たわっている。ウェーブのかかった金髪は、既に泥にまみれていた。


 ――もし、めぐむ以外に女性の姿を見た者があったなら、きっと悲鳴を上げていたことだろう。

 女性の顔は苦悶に満ちた表情のまま固まっており、明らかに絶命していた。


「もっともっと、深く掘らないと……。誰にも見付からないように。あいつの目に、二度とこの女が映らないように――!」


 鬼気迫る表情のまま、穴を掘り進めるめぐむ。

 やがて、女の細腕で掘ったとは思えぬほどの大穴を作り上げると、そこへ女性の死体を投げ入れ、丁寧に丁寧に埋め戻していった。


 彼女の努力の甲斐あってか、女性の死体は二年経った今になっても、誰にも発見されていない。

 どうやら、数日間に渡って降り続いたやまない雨によって土砂が押し寄せて、穴の痕跡を消してしまったようだった――。



(了)

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五月雨の戯れ 澤田慎梧 @sumigoro

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