ザマスターオブザヘルメス4 結露の飛翔

@jealoussica16

第1話



 ガルペスはコーランを片手に、今日も食堂に入った。こんな所で毎日、自分は何をしているのだろうと思った。すでに時は来ている。何者でもない自分に、ガルペスはやきもきしていた。幼いときから、自分は何か大きなことを成し遂げることはわかっていた。だがそれが一体何なのか。何で成果を上げるのか。どの分野で伸し上がっていくのか。とにかく最終的に、コントロールできる世界のサイズだけが、最初からわかっていた。ガルペスは辺りを見回した。そしてこの手の中にある『聖典』に、目を落とした。おそらく、これしかあるまい。この宗教の復刻こそが今、人々に望まれているのだ。すでに異教にされてから、数十年の時が経っている。モスクは破壊され、代わりに同じ場所に聖堂が建てられている。モスクを巧みにつくり替えたところもある。これは破壊されるよりもある意味、屈辱だった。みんな今はおとなしく、新しい宗教が支配する政治に口を閉ざしている。だが彼らの心の奥では、反逆の時を待っている。俺にはわかる。しかし必ずその革命が成功するという機運がない限り、彼らは参加してはこないだろう。生きることが大事だ。命を危険にさらしてまで、この生活を覆そうとはしない。だがもう時は来ている。

 ガルペスは自分が政治組織のリーダーになることで、生まれてから抱き続けてきたコントロールできる世界のサイズと、同等の自分を表現しようとした。手段は何でもよかった。この時運に叶うものであれば。この生まれた場所、環境、状況を、最大限に生かす以外に方法などなかった。

 ガルペスは幼いときからずっと、娼婦の母一人に育てられた。家と仕事場が一緒なその部屋で、彼は成長した。客が来るとき、彼は退出を余儀なくされた。外で一人、待つことになった。風雨に晒され、冷たく冷え切った身体のままに、一晩中放置されることもあった。だが母を恨むことはしなかった。母は懸命に仕事をし、ガルペスを育てたのだった。ガルペスは偶然、道路に落ちていた『聖典』を拾った。それが彼の隠された本能に火をつけるきっかけとなった。自分が何になるのか。その輪郭がおぼろげに見えた瞬間でもあった。家に持ち帰った『聖典』を母に見せた。母はにっこりと笑った。ガルペスは確信した。やはり政治、宗教を、利用する以外にない。

 ガルペスはその日から『聖典』を読みふけった。学校にも隠れてもぐりこんで、授業を盗み聞いた。『聖典』は授業の中で使用されることはなく、聖書というものが、教科に組み込まれていた。

 ガルペスの母はその後まもなく、肺病を患って死んだ。彼女はガルペスが物心ついたときから、病を患い、彼女のオーラはずっと黒ずんでいた。目だけが愛に溢れていた。身体から発するエネルギーは、時間の経過と共に、輝きを削ぎ取り、くすませていった。正直、どうしてこんなエネルギーの低下した女を、抱こうとする男がいるのか。そう思った。ガルペスはそんな母をずっと見てきた。女の身体にはまったく興味を抱くことはなくなった。若い女の身体は確かにくすんではいないかもしれない。しかし一度皮を剥げば、皆あのくすんだ肉の塊に過ぎないと思った。母は特別じゃない。あれが普通なのだと思った。あれが普通でなければ、何もかもが辻褄が合わない。そう思った。若い女たちも、近い将来には多かれ少なかれ母のような肉体になり、あのようなオーラを発するようになる。ガルペスは女に近づこうともしなかった。彼は密かに『聖典』を起点とした繋がりを作ろうと動いていった。地下に異教徒たちは避難し、そこでこっそりと教えを伝承していた。やはりいるところにはいるのだ。ガルペスは彼らとの交流を図った。もちろん彼らは口にはしなかったが、再び日の目を浴びて、人々の生活に、普通にそれらが溶け込んでいくことを望んでいるようだった。殺されることのない、つまりは政治的に形成が逆転すれば、彼らは皆、革命に参加するだろうと思った。

 ガルペスはそのときのリーダーとしての自分を、思い描くようになった。

 ガルペスはまだ、『聖典』の中身を少しかじった程度だったが、自分の意見を言えば皆がしゃべるのをやめ、真剣な眼差しで彼の言葉を聞いたものだ。初め、自分にそんな才能があるとは知らなかった。中身よりも大事なことがあることを知った。衣装がすべてであることを知ったのだ。政治も宗教もすべては衣装だった。そのやり方も、広め方も、革命さえもが、すべてはただの衣装だった。そのことがわかったとき、ガルペスは自分の思い描くことは、すべて現実になると確信した。この『聖典』だって衣装だった。書かれている言葉も衣装。本当とか嘘とか、そんなものを超越した幻想に、この世は満ちている。自分の人生の目的を達成するため、あらゆる衣装を総動員して手を加え、配置を変え、都合のいいように作り替えてしまえばよかった。

 ガルペスはあらためて世界を見回した。地下に潜む異教徒たちを見た。彼らもまた自分が政治的リーダーになるための、駒の一つにすぎなかった。ガルペスは自身に満ちた声で彼らに諭した。次に来る時代について、熱く語った。彼はすべてを見通すことのできる予言者になりきり、物事をすべて断定的に言い切った。自分が何をしたいかが、重要なのではない。彼らが何をしたいのか。何を望んでいるのか。求めているのか。それが大事なことのすべてだった。それを集約し、適切な言語にまとめ、予言者の衣装を纏えば、それがリーダーとなるのだ。リーダーになるという自分の望みは、この社会の集合が何を望んでいるのかを体現することで可能になる。やはり衣装だった。中身まで自分で作り出すことはない。そんな中身にはむしろ、何の興味もなかった。ガルペスはまずは、この心の地下に住む人々をまとめ、コントロールすることから、すべてを始めようと思った。ここでリーダーとなるのだ。それから地上へと出て勢力を徐々に拡大していく。ガルペスは世の中のすべてのものが、右に左に行くことを悟った。右に行けば次には左に行く。左に行けば、次は右にいく。エネルギーはそのように転換する。その繰り返しだった。ならば、左にいけば、右にいる人間たちは粛清され、地下へと放り込まれる。いずれ、彼らと共に、世のエネルギーは、逆へと転換される。その流れを読み、そこにリーダーとして君臨すれば、たくさんの数の人間を、動員することができれば、極左王国が確立できる。それが俺の望むリーダーとしての人生だった。そしてガルペスは、同時に結末をも予期した。そうなったときには、再び粛清された側の反逆が始まる。だがと彼は思う。俺が生きているときにそれが起こらなければいいのではないか。そのくらいに勢力を拡大し、俺の人生の最中においては、革命の芽をすべて摘みとっておけば、俺の人生は絶頂で終えることができる。あとのことは知らなかった。これは俺の人生なのだ。俺がやりたいようにやって、それでいいのだ。彼はこの時見えた一つの絵を、巧みに封印した。見て見ぬふりをした。彼の最期の瞬間だった。詳しい状況はわからなかったが、彼は胸に剣か槍のようなものを、背後から突かれて、絶命していた。



 ふとこうして地上を闊歩しているだけでも、ガルペスは強い感謝の念が湧いてきた。

 母のことがあったからかもしれない。母は大地を踏みしめ、空を仰ぎみたことなど、ほとんどなかったに違いない。自分の出生について、母に訊いたことはなかった。父親の存在もまた分からなかった。母は何も話してはくれなかった。今となっては、そんな母も、許すことができた。母だって、本当の彼女の良さを、表現していた人生ではなかった。母だけじゃなかった。辺りを見回してもそうだった。本当に、自らのエネルギーを全開にして、輝ききっている人間など、誰もいなかった。この自分もまたそうだった。そんな人間たちがする残虐非道な行為もまた、彼らの本来の人格が起こしていることではないとすると、正当化はできないものの、深い同情の余地はあった。

 この大地は、人間の捻じ曲がった行為とは関係なく、いつでも、俺たちを迎え入れてくれていた。俺たちがそのことに気づけば。ガルペスは、この人生をすでに総括し始めていた。

 ガルペスは自分が殺される運命にあることを初めて受け入れていた。そこからしか、何も人生は動いてはいかない。ガルペスはやきもきし始めていた。自分の拡大する意識と、この目の前の現実が、まったくフィットしていなかったからだ。流れてはいかないのだ。ガルペスが無理やりに動く以外に、この強固に聳え立つ現実は何も動きはしない。意識の動きと、目に見える情況とが、うまく連動しない。そう思っていたときだった。

 一人の老人と出会った。小さな集会で、ガルペスが弁舌をふるっていた時だった。胡坐をかいた老人は急に立ち上がった。「つまらん」と一言放った。多少なりとも、自分の弁舌に人々の心を動かす実感を得ていたガルペスは、ショックを受けた。だが老人は続けた。「つまらんが、いい喉をしている。もっと言えば、その舌だ。これは才能だ。それを生かせ。意識するんだ。そうすればどんなにつまらん演説でも、たちまちに姿形を変える。蛇のような、その舌。自分で見たことはあるかね?なければ、構わない。見ないほうがいい。見ないからこそ、魔力は保てる。誰にも、見せるな。もっとも口を開けたくらいでは誰の目にも見えん。いいか。あんた、口を開けてみろ。ほら、みんなにも見せてやれ。ガルペスは言われたようにする。すると、聴衆はどよめいた。「わかったか。お前には見えるところに舌がないのだ。お主の舌は喉のずいぶんと奥深くにある。舌は食道の方に向かって、逆に伸びている。知っていたか?」

 そんなことを言われても、知るはずもない。

「お前の、最大の武器だ。だが意識しないことには、物事は動かん。そうだろ?」

「はい、たしかに」

「意識すれば、わずかに、動き始める。意識し続けることだ。そして、その舌が繰り出す波動。つまりは今のところ、それは現実的には言語だ。言語になってなくてもいい。音だ。空気を震わせさえすれば、効果はある。弁舌を繰り返せ。ただ、今はそれだけで構わん。いずれは別の進化を遂げる」

「いずれとは?」

「わしには、お前の未来が見える」

「ほんとに?なら一つ質問があります。いいですか?」

「よかろう。一つだけだ。だからよく考えろ。絞り込め。二度目はないぞ」

 ガルペスは、頷きもせずに即答した。

「僕はいつ殺されるのでしょうか」

「時間を訊きよったな」

「駄目ですか?」

「誰がそんなことを言った?」

「お願いします」

「わからん」

「そんな。無駄遣いじゃないですか」

「ここ」と老人はガルペスの心臓を指差した。

「肺だ。そこを、剣で一突きされる。貫通している情況が、目に浮かぶ」

「やっぱり」

「見た目からすると、そんなに歳をとっている感じではない。長い命ではないな」

 ガルペスは覚悟していたことだった。母よりも長生きはできないかもしれない。

「今すぐ、というわけではない。まだ、時間の猶予はたっぷりとある。あるはずだ。お前がやりたいことは、すべて出来るようにはなっている。そんな生涯だ。そう考えれば、短いも長いもない。そうだろ?」

「あなたは?」

「年寄りに、そんなことを訊いては、駄目だ」

「すみません」

「この舌は進化するのでしょうか」

「二つ目の質問か。しかし、よかろう。さっきの質問には、完全に答えたとは言えない。これには答えよう」

「急激な進化をする。なぜなら、今、お前は意識したからだ。舌はお前と一つになり始めた。それまで分離していた二つが、歩み寄り始めたからだ。進化とは、融合の言い替えだ。この世に生きる人間の多くは、生きれば生きるほど、この二つは遠ざかっていく。だからこうして、争いの世となっていく。闘うことで、自らを証明することになっていく」

「でも、この舌と自分が一つになっていければ、そんな殺され方など、される必要があるのでしょうか」ガルペスは訊いた。「そんな望まれない無残な死など」

「そう思うのか?」

「はい」

「今のところは」

「どういうことですか?」

「さっきも言ったはずだ。まだたったの今、意識が生まれただけだ。お前は、数分前と、ほとんど進化していない。いずれわかる。何度も言ったはずだ。けっしてお前の目的においては、短い人生ではなかったと、言えるはずだ」

「本望なんですか?その死は」

「それ以上でも以下ない」

「母は病死でした」

 ガルペスは訊かれてもいないことを、突然、口走っていた。

「お前の母とお主は、死に方も死ぬ意味も、まったく違う。忘れろ。お母さんのことは。ある意味、君をここまで来させるために、頑張った人生だとも言える。わしに引き継がせるために奮闘した。ある意味、わしは、お前の母と、遠い昔に、約束をしていたのかもしれない。たしかに、息子さんには、言うべきことは伝えたよと。わしは、今、そう彼女に報告することができる」

「何者なんですか?」

「名もない、通りすがりの老人だよ。そろそろ、お暇することにするよ。あとは、やるだけだ。突っ走るだけだ。その喉、その舌の存在を意識するかしないか。それが分かれ目だった。今抱えている問題は、すべてこの世界と一つに重なり合い、ものすごいスピードで、残りの人生を駆け抜けるよ。それではな」

 ガルペスは老人が地上へと出ていく姿を眺めていた。彼はその後、弁舌の集会の開催を加速させ、舌が空気を震わせていることを強く意識しながら、言葉をこの世界に撒いていった。その震えは、時間が経っても消えず、次第に放った言葉動同士の波動が結びつき、同じ周波数の中で拡大していく様子が、なぜか見てとれた。

 解き放ったエネルギーの点たちが、引き合い、結びつくことで、そこには大きな波が発生し、『聖典』とのあいだに強力なパイプが生まれていくようであった。

 『聖典』を読む、あるいは目にした瞬間。人々がこの自分の存在に意識が繋がっていくことを確信する。

 ガルペスはこの舌に感謝した。



 政治団体のリーダーとして伸し上がり、『聖典』の解釈を巡って、枝分れしていくこの精神世界の勢力図において、重要なキャスティングボードを握る組織へと、ガルペスは自らを編集していった。

 ある地点まで来たとき、このまま無条件に集まってくる人の群れを拡大していくことに、自分の意識の中でストップが入った。二つの大きな組織の流れがいつの時代でも台頭し、そのどちらかの系統に、広く見たときには、確実に所属することになる。それ以外は、あまりに小さな勢力として、乱立をせざるをえないだろう。

 ガルペスは、その二大勢力のどちらかに、成っていくことに危惧を感じた。そのリーダーは、次第に自由な判断で物事を動かすことができなくなっていくことだろう。ただの組織の傾向を、表現するためだけのマスコットに、成り果てていくことだろう。それが俺のやりたいことであるのならば、それはそれでよかった。たとえ人形でも、その地位にいなければできないことがたくさんある。しかし自分が、この人生で達成したいことはそれではなかった。

 ふとこのとき、このままの流れにのって、組織をどんどんと大きくしていったらどうかという誘惑が、心の中から聞こえた。もしそうすれば、俺はあのような最期を迎えることがなくなるのかもしれないと考えた。初めは見て見ぬふりをしていたあの光景を、ガルペスは次第に、頻繁に眼の前で目撃するようになっていった。

 いつの日か、ガルペスはその事実を受け入れ、それはもうそうなるのだと開き直っていた。そのときまでを、いかに悔いなく生きていくことかに、専心していた。だが誘惑は、増えていった。このまま組織を大きくしていけば、二つの大きな流れの中のどちらかを演じきれば、この最期は回避されるような気がしたのだ。ガルペスは小回りのきくサイズの小さな精鋭たちが集う、第三の勢力を生み出そうと、方針を固める。必要以上に、大きくなることを注意深く監視し、集まってくる人間を、慎重に精査し、組織に取り込み、漏れた人間たちは、そのまま切り捨てるのではなく、その他、もろもろの乱立していく小さな組織に分けて、必要なときに応援を受けるような、都合のいい存在にしていった。もちろん、チンピラのようなそんな彼らは裏切ることも、無慈悲な暴力を振うことも、日常茶飯事だ。それはそれで構わなかった。完全にそこで、繋がりを切ってしまえばよかった。事はガルペスの思い通りに運んでいった。

 第三の勢力は『聖典』を巡る戦いにおいて、対立する二大勢力の、どちらにも付くことのできる位置に、存在することになった。

 どちらからも、一目置かれ、甘い誘いを受け、それでもガルペスは、完全にどちらかに肩入れすることを避け、その場、そのときにおける情勢によって、案件によって、支持勢力を変えていった。

 ガルペスたちにポリシーがあったわけではなく、あくまで流動的な情況に合わせた、戦略の一環にすぎなかった。そういった、危うい綱渡りのような経営を、彼は続けていった。彼以外にそんな才覚を持ち合わせた人間はいなかった。ガルペスはそんな自分に酔いしれていた。きっとこの駆け引きを、俺はやりたかったのだろう。そう自覚していくにつれて、ガルペスはそこにポリシーが芽生えていった。やはりあのような最期を迎えても、全然構わないと思った。こんなに楽しく充実した人生になったのだ。

 ところが、そんな生活が十年を超えたくらいの頃だった。完全に飽きてきたのだった。

 すべては思い通りに事は進む。ガルペスは先の見えない中で、四苦八苦している人々たちを、逆に羨ましく思うようになっていった。なんと悦びと可能性に満ち溢れた人生なのだろうと思った。ガルペスは何かを決意し、現実のものとするために行動していくということは、可能性を食いつぶしていく行為以外の、何ものでもないことを知っていった。何もしないときこそ、無限の可能性が目の前に広がっている。何かを思いつき動いていくにつれて、だんだんと逃れることのできない現実が、そこに凝固していく。好きなように作り、作り替えていくことが、これまではずっと楽しかった。母のことが大いに影響していた。母は自分の考えた人生になど、まるでならなかった。ただ、夢を見ることでしか、悲惨な現実に耐えることができなかった。ガルペスはそんな母をみながら、またこうして多くの盲目な住人たちの姿を見ているうちに、自分はそんな人生ではなく、自由に思い通りの生活をしたいと思うようになった。そしてそれが現実になっていく度に、彼は人生の充実を謳歌していった。

 第三の勢力に対する方針も、正解だった。自分がもっとも力を発揮する道を、あらかじめ知っているようだった。すべては成る通りに成っていく。シナリオ通りに進んでいく。ガルペスは次第にないものねだるするようになっていった。自ら、あえて苦しむ人生を、欲し始めたのだった。苦しめば苦しむほど、事を成すのが難しければ難しいほど、一つでも、一瞬でも突破したときには、多大な歓喜に満たされる。その感触を味わいたい!どうしたら味わえるだろう。どうしたら。ガルペスはその考えに執りつかれていってしまった。政治的な駆け引きなど、まるで興味がなくなってしまった。残るものは何もなかった。何のポリシーもない、抜け殻のようになってしまった。たとえ生涯かけても、叶わぬ思いであったとしても、そのために命をかけ続ける人生の方が、心底羨ましくなっていった。むしろこっちじゃないだろうか。こっちが俺の本当にやりたい人生なんじゃないだろうか。これまでのは、ただの前哨戦にすぎなかったのではないか。逆に本当の想いを、目覚めさせるためだけの、引き金にすぎなかったのではないだろうか。反動にすぎなかったのではないか。なるほどと思った。

 あの唯一、理解がまったくできなかった、最期の光景。それは今の道をこのまま突き進んでいった先には起こらない。急激に変化させて新しい道を模索していき、その道と心中するようになって・・・、その先で起こる・・・。全体図が見えたような気がした。だとしたら、あれは歓喜の死なのか。退屈しきったこの身体に、最初で最後に体験する、恍惚の場面なのだろうか。

 ガルペスは次第に目がさめていった。

 何を考えているのだろう。正気じゃなかった。

 いくら何でも自ら、うまくいかない人生を望むとは、気が狂いすぎている。

 けれどもやりたいことをやるのが、人生だとしたら。いやいやと、ガルペスは首を横に振るった。いいのだ。このままでいいのだ。俺には俺の役割がある。すでに俺一人の人生ではなくなっている。仲間もいる。家族もいる。しかし俺がいなくなったとき、この共同体はどうなるのだろう。蒼ざめてしまった。

 すべては俺の才覚が、今の地位を築いて、不安定の中に見せかけの安定を、作りだしている。表現している。これは見せかけだ。支えているのは、俺の感性ひとつだった。俺が消えれば、すべては水の泡となってしまう。なので身内から、俺を倒す人間が出てくる可能性はない。二大勢力のどちらの側にとっても、俺を消して、利益になることは何もなかった。彼らも俺のところを都合よく使っていた。互いの都合が、複雑に絡み合った世界にあって、この綱渡りそのものを、俺は最大の生きがいとしていた・・・、しかしそれは結局、思い違いだったのだろうか。

 ガルペスは混乱していく自分に対して、動揺していくことが日に日に増えていった。

 情緒は安定せず、かといってそのことで政治的に誤った指示や判断を、とることもなかった。彼は次第に周囲の家族や親族、組織の部下の幹部たちに、感情をぶちまけ、当り散らすようになっていった。子供たちも震え上がり、妻は家を長期に渡って出ていくことになった。信頼できる部下たちが、身辺の世話をした。達成するのに、最も困難なこととは何か。ガルペスはそのことばかりを考えるようになっていった。答えは見つからない。そうして一年があっという間に過ぎていってしまった。この舌に言語を発することで、震わせ、その周波数を自由にコントロールすることで、話す内容に関係なく、思い通りに人々の意識を誘導していった。そのコントロールできる範囲は、大きく広げることができるようになった。サイズもまた、自在に揃えることができるようになった。この力をすべて、捨て去れということか。これを身につけてから、自由で思い通りな人生は始まった。これを放棄しろということか。放棄した上で、何かとてつもない目標を、追えということか。放っておいては、二極化していくこの世界において、二つの巨大勢力に結実していく、世の流れに逆らって、一つに統一していく・・・王だろうか。まるごと、一国をつくってしまえということか。それも・・・、この舌を震わせることなく。何の手持ちもない中で。無謀というよりは、絶望だった。

 ガルペスは下腹あたりに、何故か、細かい快感が生まれてくる予兆の疼きが、感じられてきてしまった。



 何をもって伸し上がっていくのか、国を統一していくのか。

 教育だと悩んだ末に、ふとそう思った。母のことをまた思う。もし母のような若い子がいたとして、その女の子が自分の足で立つことができるとしたら、そのきっかけとなるのは間違いなく知識だ。この政治組織や宗教関連の団体に、入ってくる若者にしてもそうだった。

 自分でモノが考えられ、人からの刷り込みを、最小限に生きていくためには、知識を超えた本能を呼び覚ます必要もあった。知識はその方法を、自分で確立するための素材だった。俺にはたまたま舌があった。そう。たまたまだった。けれどもあの名もなき老人と出会い、彼が指摘してくれたからであった。あの老人こそ、ある意味、教育者であった。この舌は、スイッチのようなものだった。そしてエネルギーを増幅させるための、装置でもあった。ガルペスは政治団体の代表の座をひっそりと降り、後任の男を指名する。男は戸惑った。だがガルペスは男の肩を叩き、あとはすべてを任せたと言った。

「どうしたんですか。何なのですか、急に。俺はどうしたら」

「大丈夫、自分を信じて。君はとても優秀だから」

「そんな・・・。困ります」

「いつまでも俺を頼るのか?俺が突然殺されたとしたら。そのときはどうするつもりなんだ?そうだろ?組織を預かるものは、常に最悪な情況を想定してないとおかなければならない。その情況に対応するためのアイデアを、そうだな、最低は50個は用意しておかなければならない」

「あなたもそうだったんですか?」

「50個の話?」

「ええ」

「一個くらいしか、なかったかな」ガルペスは笑った。

「とりあえず退任は認めてくれ」

「何か裏がありそうですね。雲隠れのような。何か思惑があるんですね。何か表だって居ることに、不都合が生じて来ているんですね。あなたはずっと、先のことをいつも読みながら動いていた。教えてくれませんか?」

「先のこのことね。確かに。もう、だいぶん近づいてきてはいる」

「やっぱり」

「俺の最期のときだよ」

「何の最後ですか?」

「人生さ」

「どういうことでしょう」

「もうすぐ、俺は、死ぬんだよ」

「まさか」

「もう、本当に、長くはない。すぐそこだ。だから、現実になる前に、今、君に引き継がせた」

「病気なのですか?」

「どうしてそう思う?」

「それしか思い浮かばないから」

「体そのものは健康だ。ますますエネルギーは漲ってきている」

「そう見えます。では何が原因で」

「答えは一つだ。殺されるんだよ」

「誰に」

「そこまではわからない」

「なるほど。それで僕に任せて、雲隠れを。じゃあ、僕が身代わりなんですね。構いません。そういうことなら、喜んで、リーダーを引き受けます!」

「そういうことじゃないんだよ。そういうことで、喜んでもらっては困るんだよ。これは、雲隠れでもないし。どのみち、俺の死因は決定的だし、何をしても逃れることはできないんだよ」

「そんな、馬鹿な・・・」

「俺が嘘を言ってるように見えるか?適当なことを言ってるように見えるか?俺は先のことまで、リアルに見えるんだぞ。じゃなかったら、こうしてやってこられるわけがない。そうだろ?」

「そのとおりです」

「何をしたって、逃れられない最期の運命。ならば、逆手にとるしかない」

 部下の男は呆然としてしまっていた。何と答えていいのかわからず、俯いて、足の先をいじり始めるしかなかった。

 ガルペスは構わず続けた。

「お前もよく覚えておくといい。じゃあ、そういうわけで、あとは任せた。この調子で俺がやっていたことを思い出してなぞっていけば、この調子で続く。君が別の方向にもっていきたいのなら、それも好きにやって構わない。実体すべてを丸ごとあげる」

「そんな、無責任な」

「すまんな。本当にそうだ。ここで投げ出すんだからな」

「もう一度、考えなおしてもらえませんか」

「何度も考え直したよ。でも結局、俺の最期は変わらない。もう少し、長く生きているのなら、考え直した。しかし本当に、迫ってきているんだ。感じるんだ。悔いを残したくはない。君たちにとっても、今、引き継がせるのが一番いい。本当に、俺が突然殺されれば、組織は即、自壊へと追い込まれる。まだわずかな時間があるうちに、君の体制へと変えてしまっておきたい。みんなのためでもある」

「どうしても回避できないんですね?」

「ああ。何度、試みようとしたかわからない。疑ったり、見て見ぬふりもしようとしたよ。まだその現実が、遠くにあるときには、ある程度は可能だから。けれどももう確定的に、なってしまったよ。あとは現実が凝固していくだけだ。誰も止められやしない」

「僕は何も言えません。何も見えてないから」

「だから俺が殺されても、その様子を公にはすぐにするな。隠すんだ。できるだけ隠し通すんだ」

「僕が代表になるんです。僕が狙われて殺されるんじゃないんですか?」

 部下の男は必至で抵抗を示した。

「代表を狙った、殺人ではないんだ。あくまで俺個人なんだ。どこに行こうとも、その矢は確実に、ここに突き刺さるんだ。ここだよ。この、左の肺の所だ。ここを、背中から、突き刺されて、貫通させられる」

 ガルペスはそうして表舞台から去った。国中に噂が飛び交った。重病説から失脚説まで・・・。ガルペスは逃亡犯のように、洞窟の中へと引きこもった。そこでは雇った男たちによる、穴の拡張作業が始まった。広いドーム状に広がった、かなり大きな空間をつくり、そこでガルペスは寝泊りした。そこを教育の場の拠点にしようと思った。学校を開こうと決意したのだ。陽の光が届かないその場所には、無数の蝋燭が立てられ、とても学校というよりは、黒魔術でも始まりそうな雰囲気だった。ガルペスは教師として、残りの短い生涯を生きる決意をしていた。最期の日までに、自分は何ができるだろうか。逆算をすればするほど、胸は苦しくなっていった。こんなに短いあいだに、一体どんなことができるだろう。中身すら決めていない。ガルペスは生涯で初めて、中身を埋めていく行為に、意識が向いていた。今日まで自分は外堀を埋め続ける生き方だった。その反動がこうして、自分を表舞台から消して、暗い洞窟の中での盲目な教育者として、再生させようとしているのだ。

 幼き自分が今母を目の前にして、何ができるのだろう。母のような存在の人間に、何ができるのだろう。母の中にも、俺にとっての舌のような存在が、あったのではないか。もしあったとして、それを指摘し、自覚を持って、その武器を使い、人生を自在に組み替えていくことが、彼女にはできるのであろうか。ここまで、限定的ではあるが自由になっていった俺が、最後にたどりついたのは、その方法をすべて体系化し、後世に残していくことだった。

 自分以外の人間に、教える手法を見い出し、実践していくことだった。

 ガルペスは蝋燭の立つ暗闇に長いこといた。意識はずいぶんと混濁していった。

 夢うつつの中、そこで彼は、衝撃的な行動をとってしまった。自らの舌にナイフを当て、勢いよく、その舌を根本から切断してしまったのだ。その手は自分の手のようには思えなかった。口の中には熱い液体が満ちていった。喉の奥へと侵入していった。ガルペスは咳き込み、岩の壁に液体をぶちまけた。それでも血は続々と体内から流出し続けた。身体全体が、ひとつのポンプと化したかのように、どんどんと上方へと吸い上げられていった。切り取られた舌は、右手の中にあった。それだけは鮮明に感触としてあった。舌はたとえ身体から切り離され、遠くへといってしまおうとも、その居場所はすぐにでもわかるような気がした。エネルギーの繋がりは断つことができない。そのことが身に染みてわかった。血は止まらない。左手を地面につける。そこは血の溜まりとなっていた。血の池となり、血の海となり、その中に俺はいつのまにか、溺れてしまうのだろう。予測していた最期の姿ではなかった。殺される現実もなかった。自害だったのだ。痛みはまったく、感じられない。意識は遠くへといってしまっている。洞窟の中でただ一人きりだ。ここは教育の場でも何でもなく、自らの死に場所だった。ドーム型の岩の空間は自らの墓場だったのだ。どうして舌を切り離すといった凶行に、走ってしまったのだろう。発生している痛みは、どこにいってしまったのだろう。一体、誰が、引き受けているのだろう。

 頭の中は異様に冷え切っていた。いよいよ別れの時が近づいていることを知ったガルペスは、右手の中に眠る真紅の舌を、優しく包み込むように抱きしめていた。



「醒めましたか」

 男の穏やかな声と共に、ガルペスの視界はだんだんとはっきりとしてきた。

 代表の座を譲った男が、横になっているガルペスの横で正座をしていた。

 その他の部下たちもまた、背後に整列しているようだった。ガルペスは起き上がろうとする。しかし代表の男に静止され、強制的に横にさせられる。今、どんな情況なのかわからなかった。ガルペスは男たちに訊こうと声を出そうとする。しかし自分の周りの空気を、震わせる波動をまったく出してなかった。ガルペスは何度となく声を出そうとする。しかし自分では出ている感覚なのに、現実にはどこからも声は聞こえてこない。

 ガルペスは、口の中が、いつもと違うような気がしてきた。初めは喉が渇いたのだろうと思った。水を要求する仕草を繰り返した。喉に何かが詰まっているような気がしたのだ。洗い流すように水を喉に滑らせる。次第に詰まりは解消していった。するといつもよりも、口内に空洞が大きく広がっているように感じられた。ガルペスは舌で口蓋に触れることで、中の状態を把握しようとした。そこですべてがわかった。記憶が蘇ってきた。自分がなぜ、今ここでこうしているのか。すべてがわかってしまった。布の上に横たえている自分の側に、広がった血の痕跡はなかった。右手に意識がすぐに向いた。自ら切り取ってしまった肉片はそこにはなかった。誰かが片付けたのだろうか。自分で放り出してしまったのか、わからない。どこにもその姿はない。ガルペスは声を失っていた。しかしだんだんと喉を水分で潤わせていくうちに、音のようなものは出すことができた。呻き声のような汚い波動を生み出していた。すぐにガルペスは声を出すことを拒絶した。

「頭領」と代表の男は言った。「今はゆっくりとお休みください」

 いったい彼らは、この俺のことをどんなふうに認識しているのだろう。何が起こったのかはわかっているはずだ。自分の武器であったはずの舌を、自ら切り捨ててしまうという凶行に、彼らの心はどう折り合いをつけているのだろうか。この自分でさえ戸惑い、自分の存在意義を、無意味に放棄したことに対して、どんな気持ちを抱けばいいのかわからないでいる。

「とにかく今は、安静を」男たちは繰り返し言う。

 確かにそうかもしれなかった。誰にとっても衝撃的な事件が起きてしまったのだ。

 今はみな無理やりにでも、ざわめく心を封印する方向に持っていかざるをえない。

 ガルペスは頷き、男たちを遠ざけるように指示を出そうとする。

 彼らは不思議と、自分の意志を察したかのように、速やかに退出していった。暗闇が広がった。いや、広がるはずだった。しかし洞窟の中は異様に明るかった。天上から太陽の光が差し込んできていた。木漏れ日のように降り注いでいた。あんな穴などはなかったはずだ。ずいぶんと大きな穴だ。これでは外からは丸見えではないか。そんな場所に寝かされている自分を、見られているかと思うと、恥ずかしくなってくる。いい見世物だった。いい笑いものだった。いったい自分は、この場所で何をしようとしていたのか。ここを、どんな場所にしようとしていたのか。昨日までの人生がまるで他人事のように思えてくる。夢であったかのように現実味がまるでない。こうも変わってしまうのだろうか。舌の存在だけで。そう思えば思うほど、舌が自分のアイデンティティと、ほとんど同化していたのだ。俺そのものになっていた。それをすべてひっくり返すため、放棄するために、強行に及んだかのようだった。これまでの人生を全て肯定していく、その象徴が舌であり、全否定する何かが、こうしてその舌を奪う形で、表舞台に姿を現した。

 闇に沈み続けた時代にピリオドを打った。そして舌は地底の闇へと沈みこんでいった。

 そうだ。舌は沈みこんでいったのだ。どこにもないわけだ。誰かが処理したわけでなはなかった。ふと、ガルペスは、またいつか舌はこの光の世界へと戻ってくるのではないかと夢想し始めた。大きな闇と光の波は交互に、その役割を交代しながら、力を発揮したり、蓄えたり、協力したり、覆したりを繰り返している。まるで現実世界の二つの大きな政治的組織を見ているようだった。時間の経過と共に、すべては二つに分岐していくこの世界にあっては、そのサイズは、大小混合されているものの、その一番大きく目立つ場所が、ガルペスの生きていた世界にも存在していた。そしてその間の溝に生息するかのごとく、第三の勢力としての自分がいた。しかしこの第三の勢力は、二つに分岐する世界を、ますます助長する役割として君臨していた。その溝を逆手にとり、利益をあげようとする、そんな存在だった。光と闇の交代劇。光と闇の共存劇を、よりわかりやすく、より目立たせるように、演出を施す、そんな劇作家のような存在だった。そしてこの俺もまた、そんな役割を全肯定する自分と、全否定する自分へと、知らないあいだに分岐してしまったのだ。放っておけば、分岐の流れは始まったままに、永遠に止まることなどない。そして、二大勢力が、配置を転換する、“とき”が、やって来る。俺にももれなくやってきた。誰かに襲われるかのごとく、自ら凶行を生んでしまったのだ。俺の脳裏にずっと刻み込まれていた、“最期のとき”とは、このことだったのだろうか。実際に胸を突かれるわけではなく、単なる起こるであろう事の、象徴的なシーンだったのだろうか。それでも、あの感覚は、ひどく生々しかった。ガルペスはいよいよ、第三の人生が始まったことを自覚していた。舌に目覚める前の時代。舌に目覚め、その力を最大限に使った時代。舌の存在を覆してしまった、これからの時代。ガルペスは一体何を信じ、何を手にし、これから生きていけばいいのか、わからなかった。何を頼りに進んでいけば、いいのだろう。あの、元部下の男たちは、本当に、今の俺をどう思っているのだろう。何の力の持ち合わせもない俺を、いったいどう感じているのだろう。しかしガルペスは、その後何日も、こうして寝ているだけの生活の中で、男たちの自分に対する接し方を見ているうちに、彼らはすでに、この自分をリーダーとして見ていないことに気づいていった。ならば、そこに横たわっている男は、ただの精神を病んだ、使い道のない、ゴミ同然の存在であるはずだった。

 元リーダーという、僅かながらの過去の幻影が、彼らの僅かながらの同情を誘い、今の情況にかろうじて、繋ぎとめているのだろうと思った。次第に、過去の幻影は薄まっていき、このお荷物は、破棄同然の存在へと、成り果てていくことだろう。しかし彼らからは、そんな気配が微塵も感じられなかった。彼らは俺が誰であろうと関係なく、ただ弱った、憐れむべきひとりの人間として、この自分の身の周りの世話を、続けているように見えた。看病し続け、余計な気を使わせないようにと、そんな配慮を続けているようだった。彼らに捨てられるとか、裏切られるとか、そんな発想をした自分を、ひどく恥じた。

 いったい俺はこれまで、彼らの何を見てきたのだろう。一人一人の顔をよく見てみた。ほとんど何も知らなかった。これまで彼らを道具としてしか見てこなかった自分が、思い知らされた。舌は自分と世界の役割を、強制的に決め、その実現のために、現実のすべてを作り替えた、そんな存在だった。その舌を消したことで、目の前には別の現実が広がってきていた。ガルペスはその晩ずっと泣いた。舌を切り取ったことで発生した、あの血の海のことを思い出していた。あの血の、何億倍もの人間の血が、容赦なく流され続けていた。そのことに対する、畏敬の念が、俺にはあっただろうか。その血に対する深い意味を、考えたことはかつてあっただろうか。

 ただ、自分で切り取ったときも、痛みは何故か起こらなかった。痛みは別の次元へと抜け出してしまっていた。神経が麻痺し、生きる防衛本能が働いていたのだ。それでも別の世界へと、痛みは瞬間的に移動した。ガルペスはそう思った。

 身代わりのように、その痛みはそれを引き受けた何者かがいる。一人の人間ではないのかもしれない。そうだ。今、この世に生きる人間全体の意識の中に、その痛みは放り込まれてしまったのかもしれなかった。大きな後悔と共に、ふと、この場所をどうしなければならないのかが分かったような気がした。罪滅ぼしをするかのように、ここに新しい『聖典』のようなものを、書き記しておく必要性を感じていた。この世界の成り立ちと、姿形を変えて、繰り返される光と闇の攻防。そのあいだに生息する、第三の存在。第三の存在が、二つの割れ目をさらに増長させていき、いずれは二つの大きな勢力が手を結び、それ以上、力をつけていくことを危惧して潰しにかかる。一瞬の同盟もまた、第三勢力の消滅と共に、再び戦闘モードへと入っていく。潰し合い、疲弊し合い、お互い、消耗戦へと流れていってしまう。そして別の第三の勢力が、再び生まれる土壌を作る。

 俺のこれからの人生の中で、この左胸が刺される現実は、本当に去ってしまったのかもしれないと、ガルペスは思うようになった。

 この口内から流された血が、起こるはずだった最期のときの代替えとして、身代わりとして、行われたデモンストレーションであることを、ガルペスは次第に確信するようになっていった。



 退位したガルペスは、死去が報告するまでの何十年、その行方は世間には知れることはなかった。その空白の期間、彼がどこで何をしていたのかの報告は、一切なかった。すでに死んでいるという噂は、絶えず飛び交っていた。だがガルペスはどこかに引きこもり、書物を記しているのではないかとも言われ続けた。しかし結局、彼の死後、数世紀が経っても、そのような本はどこからも出現することはなかった。退位したガルペスと、行動を共にしていたという人間の報告もなかった。家族だけの密葬が、執り行われたらしいのだが、それも実のところはわからなかった。私は、歴史上の不鮮明になっている事象で、しかも、人の目を引きそうな記事を書くことを、雑誌の編集部からは要求されていた。こんなことは本業でも何でもなかったので、適当にどこかから、コピー&ペーストして、その断片を組み合わせればいいと思っていた。今はフリーライターを気取り、この日本での生活に、再び馴染むことから始めなければならなかった。まだ日本を離れて、二年の放浪生活だったが、あまりに劇的な人生の変化だったために、それ以前の日本での体感が、まったく失われてしまっていたのだ。馴染みのない土地柄になっていた。知人に悩みを打ち明けると、いきなり出版社を紹介され、ライターの真似事をやることになってしまった。ガルペスのことに、意識のチャンネルは合ったままになってしまい、ガルペスのことが全く頭から離れなくなってしまった。次第にガルペスのことを深く知る以外に、彼から逃れることができないような気がしてきた。しかし彼の資料は驚くほど少なかった。困り果てていたときに、私はそのタイミングで夢を見た。ガルペスの“その後”が、映像となって現れたかのようだった。しかしそこにストーリー性はなく、その場面が一体いつのことなのかもわからなかった。彼は洞窟の中にいた。おそらく彼が自らの舌を切り落とした場所と、同じだった。彼はその洞窟でずっと暮らしていたのだ。天井には大きな穴があり、木漏れ日が確かに降り注いできている。ガルペスが言葉を発する様子がないところを見ると、やはり舌は切り取ってしまった後のようだった。あの天井は一体、何によって穴があけられたのか。そう思った瞬間、爆撃されたんです、という声が聞こえた。彼の部下たちが、答えたかのようだった。しかし頭領はその穴を塞ぐよう、指示を出すことはありませんでした。この木漏れ日を生かそうと彼は言ったのです。広報を担当する男のような口調で、私の耳元には彼の声が流れ続けた。頭領は政治の舞台には二度と復帰はしませんでした。彼はほとんど、表の世界では死んだことになっていました。頭領は、その事実に対しては何もしゃべりませんでした。いえ、そもそも、彼は全く言葉を発することができなくなっていました。頭領は当初、自分が、聖書や『聖典』を書き換え、再編集することで、あらたな聖典のようなものを残そうとしていました。ところが声さえでない自分に、一体、どんな言葉を生みだすことができるのだろうと、彼は私たちにそう目で訴えてきました。私たちはすぐに納得しました。そして頭領がどんな思惑を新たに抱き始めたのだろうと考えました。私たちは言葉を発しなくなってからというもの、頭領の指示を待つだけの人間ではなくなっていたのです。それぞれが頭領の頭の中の動きを想像することで、彼の意志や感情を推し量ろうと皆していました。彼が舌を失ったことで、彼を取り巻く、すべての人間たちの意識が一変したのです。そうして、私たちもまた言葉を交わし合うということが、めっきり減っていったのです。ついには誰も、何も語らなくなりました。洞窟内に響き渡るのは、私たちが動く足音だけになっていました。静けさが続きます。するとその木漏れ日に対する印象が、一気に変わりました。天から差し込む恩寵のような輝きが、そこにはありました。頭領が穴を塞ぐのを拒否した意味が、ありありと分かりだしたんです。そして聖典を記す必要性が、どこにもないことも。私たちはみな、悟りました。この場所さえあればいい。この場所を変わらず守っていきさえすれば、それでいい。さらにこのような場所を、秘めやかに増やしていけたら、それでいい。私たちは頭領の身の周りの世話を交代でしながら、それぞれが散らばって、国中の地下にこのような場所を作ることにしたのです。頭領もすべてを理解してくれました。彼の指示ではまったくなかったのですが、彼の思考と私たちは、ほとんど一心同体化していました。頭領が亡くなったときも、私たちはまったく動揺することはありませんでした。頭領はほとんど何の前触れもなく、ある日突然、息を引き取っていました。彼を、そのとき、訪問した人間によると自ら両手を握り、仰向けになって、布団も何の乱れもなくかけられていて、眠るように横たわっていたということです。私たちは葬儀も執り行いませんでした。頭領を囲み、埋めるべき場所へと、彼を運んでいきました。頭領は名もなき草原の、土の中へと埋められました。私たちはすぐに、自分たちの仕事へと戻りました。私たちは秘密裡に、この仕事を続けていたため、結婚して家族をもったときも、彼らには何も伝えませんでした。実際に、頭領を知り、彼と関わった人間だけが、この任務を遂行することを、皆暗黙に了解していました。そして、私たちもまた、自分の死期を確実に把握していたために、ほとんどが一日の狂いもなく、頭領が眠る草原へと、自ら足を運び、そして横たわり、深い眠りへと誘われていきました。私たちはほぼ月の周期に合わせて、頭領の墓に行っていたので、そこで死んでいる仲間を発見すると、すぐに穴を掘り、彼らを埋めて、合掌しました。静寂で穏やかな世界が、そこにはあるだけでした。そのようにして、私の生涯もまた幕を閉じました。今も、地下には、このような窟内神殿が、無数に存在しています。それらはまだ、人々には発見されていません。いつの日か、そのときが来たときに、神殿は一気に日の目を見ることになるでしょう。その日のために、私たちは頭領の意志を継いでいったのです。

 気付けば私は、夢の中で聞いた声をメモ書きしていた。






















 第5部 第11編  ルシフェラーゼの起こり





















 ケイロは初めての個展のための、まとまった量の創作を終え、気分転換のために、久々に幼馴染に電話をしてみた。

 ケイロが画家としてデビューすることは、彼も知っていた。

 しかし、電話はなかなかつながらなかった。何度も留守電にメッセージを入れたが、結局、返信は来なかった。三ヶ月後のことだった。彼の母親から、息子は《メンテナンス》のため、しばらく家を留守にしていたと伝えられた。

 《メンテナンス》とは、かの有名な、今最も就業者数の多い職業で、高給と手厚い社会保障が約束されていて、長年にわたって携わっていける仕事として、社会的に評価されている仕事だった。

 あとで本人に訊いたのだが、《メンテナンス》とは、メインにして唯一の仕事らしく、そのスキルは数万種類にも及び、それを身につけるための強化訓練を、ほとんど毎日、就業外の時間を使って行っているらしかった。長期の合宿を開催することも多々あり、それがケイロと繫がらなかった理由でもあった。


「休みも返上で?」

「そうだけど、でも、別に楽しいからな。家族も了承してるし。うちの子供にとっては、むしろ、憧れの仕事をしている存在として、映っているらしい。両親も喜んでくれてね。誇り高いよ」

 イグドシアルとは、五年ぶりの再会だった。

 彼は意気軒昂、希望に燃えているように、ケイロには見えた。


「お前はあれだよな。吃驚だよ。画家だって?そっちの方だったんだな。大学はどこだっけ。たしか」

「卒業はしたよ」

「一生、保障されてるんだってな」

「そういうことにはなるけど、でも逆に考えたら、自分の生涯を完全に手渡してしまっているようなものだな」

「俺も似たようなものだ」

「そうなの?」

「ああ、最低の生活ラインは、どんなことがあっても、保障されてる。あとは自分次第。スキル次第で、難易度の別れた仕事が割り振られて、報酬が決定する」

 そのときだった。

 イグドシアルの右胸が突然緑色に光った。

 ライトが照らされたのかと思い、光源の在り処を、ケイロは無意識に探していた。

 ふと我に返り、イグドシアルに視線を戻したとき、彼は胸を抱えこむように蹲っていた。

「どうした、苦しいのか?」

 ケイロは救急搬送を呼ぼうとした。

 しかし、イグドシアルが電話を持つケイロの手を、強く掴んだ。

「駄目だ」とイグドシアルは一言吐いた。

「今は、駄目だ」

 その意味がわからず、それでもケイロは、イグドシアルの手を振りきり、救急搬送への接続を試みた。

 蹲るほどの異変を発生したとは思えない程の力で、ケイロは吹き飛ばされた。

 そして、イグドシアルは、ほとんど這いつくばりながら、その場から去ろうともがき始めていた。

 わけがわからず、ケイロは一瞬、茫然と立ち尽くしていた。

 しかし、すぐに通信を繋いだ。場所を告げ、救急搬送車が来るのを待つ。そのあいだ、移動したイグドシアルを追った。イグドシアルの移動は、ケイロが今まで見たことのない経路を辿った。じょじょに移動していくのではない、ランプの点滅のように、次に光ったときには、イグドシアルの体は数メートル先へと移動していた。

 点滅を繰り返し、すでに彼は数十メートルは離れてしまっていた。

 移動は加速していき、姿は完全に見えなくなる。

 救急搬送車が到着する。

 現場には、ケイロただ一人しかいない。ケイロを乗せていこうとする。ケイロは違うんだと首を横に振る。

「失礼しました。あの、この付近で、胸の痛みに襲われた方がいるという通報を、受けたもので。ご存知じゃないですか?」

 ケイロは再び、首と横に振り、今ここを通りかかったばかりでと、答えた。

 救急搬送車はすぐに別の場所へと去っていった。

 その移動の仕方も、さっきのイグドシアルのものと、大差のないように見えた。


 その後、イグドシアルとの電話は、繫がらなくなった。


 あの胸の点滅と蹲りは何だったのか。ケイロは自分で調べてみた。《バックオーダ》を

呼び出して、起動させ、質問を投げかけ、《フルホルバイン》状態にして、回答を待った。

 『ルシフェラーゼ』という現象であることが、ケイロの脳内には伝えられた。『ルシフェラーゼ』の説明を、さらに要求した。

 ルシフェラーゼとは、血流の一瞬の逆流現象であり、より精密には、血流と並走するエネルギーの回路が一時的に、ほんの短い間、ディスオーダーを起こして、それが直接、血流を反転させる現象を起こすのだという。原因は過度のストレスと、血流の間接的な意図的操作の乱用による、あるいは血流の操作を受けた者の側に、長い時間居たことによる影響の蓄積。

 ケイロは、イグドシアルのメンテナンス業の詳細を調べようとした。だが、バックオーダに問い合わせてみても、反応は鈍かった。普段の倍以上の時間がかかっている。しかも、フルホルバイン状態には、なかなかもっていくことができない。かなりの妨害がなされている。嫌な予感がした。このまま無理やりに、フルホルバイン状態へもっていくのは危険だと本能的に感じた。イグドシアルのように、突然、胸が光り痛みに襲われる気がした。

 そうかとケイロは思った。

 あれは病気でも事故でも何でもない。妨害が入ったのだ。あのとき、何の話をしていた?むしろ、俺は、彼に何を訊きたがっていたのだろう。その意図を何かが感知して、彼をダウンさせた。俺との繫がりを絶った。そして、いまだに、バックオーダからの回答がない。

 問い合わせは、まるでなかったかのように無視され、空中にゴミとして、捨てられたかのような結果になっている。



 ケイロは、自室の壁に描いてしまった絵の搬送を頼んだ水原と、その搬送当日に、顔を合わせた。もう一人の男と二人でやってきた。

 水原は、その男一人に搬送作業を任せ、ケイロと二人外に出て、散歩しながら作業が終わるのを待つことになった。ケイロは水原に、イグドシアルのことを話した。水原はただ頷き、情報だけを正確に、胸に刷り込んでいるようであった。

 水原は最後にまた大きく頷いた。

 ケイロの肩をぽんと叩いた。

「いやいや。そういうことじゃないからさ。別に疲れてなんていないからな。俺も引き続き、イグドシアルとの通信を試みてみる」

「なあ、ケイロ。この件は、俺に任せていいぞ。すぐにでも、答えは出せる。明日にでもな」

 あっさりと引き受けてくれたことに、逆に拍子抜けしてしまった。二人は部屋に戻った。

 男の姿はなく、壁に描かれた重厚な模様たちもまた、消えてなくなっていた。










 予告編ディレクターのアスカは、映画「アトランズタイム」の仕事の評判を受け、あっというまに、依頼の殺到する人気ディレクターへと駆け上がっていた。

 ほとんど休日もないままに働き続けていたが、同職の先輩女性ディレクターに、半ば強制的に食事会へと連れていかれた。

 そこで出会った男と、別にどうこうなりたいわけではなかったが、一目見て、意識がそこに釘付けになってしまった。初対面なはずであった。

「ちょっと、どこを、見てるのよ。どこを」と先輩ディレクターは、アスカの胸の中をすぐに見抜いた。

「あからさまじゃないの。手助けは欲しい?」

 アスカは両目を上下させて再び、先輩ディレクターに焦点を戻した。

 アキラという名前に、その時すぐに気づくべきだった。意識にブロックがかかった。

 何かがあった。ブロックがかかっているのを自覚する。その日、アスカは気分がすぐれないからと言って、食事会を抜け出した。その夜、そこに参加した誰からのメールも、来ることはなかった。

 翌日、先輩ディレクターに会うことはなかった。メールをしてみた。やはり、あの男のことが気になる。と同時に、思い出すことを拒絶する意志も、働き始めている。

 これまで、順調にいっていた仕事が、滞り始めていた。

 アスカは意を決して、あの男に関する記憶のすべてを、受け止める覚悟を持とうとする。

 すると、そのタイミングで、先輩ディレクターからメールの返信が来る。

「泊まっちゃった」

 誰かと訊くまでもなかった。

「どういう関係になるんですか?これから」

「悪いわね。抜けがけしたみたいで」

 電話に切り替わった。

「アキラって名前だった。仕事は?」

 今流行のメンテナンス・プログラマーらしい。

「あの人、どこかで見たことない?」

 アスカはそう言うやいなや、突然、大学の時の自分が蘇ってきた。


 大学二年か四年か、正確には思い出せない。台湾に行ったときのことだ。私は仕事で・・・、アルバイトで・・・。そう、あの時だ。アキラ。VIP待遇でギャンブルをしに来た、あの男をカジノに案内した。数ヶ月後、変わり果てた彼の姿を、ТV画面で見た。台湾のホテルでの監禁事件として一瞬、脚光を浴びた。

 しかし、あの事件は、その後どんな展開を辿っていったのか。あとを追うメディアはなかった。アスカもまたほとんどの視聴者と同様、忘れてしまった。あの時、この自分は同級生に誘われ、ある施術院を訪ねた。その男に全裸で治療を受けた。台湾でのアルバイトが原因で、気の流れは急速に滞り、その緩和のために・・・、確か、そう、ミシヌマ。そういう名前の男だった。

 高額な施術だった。とにかく、身体はあまりに正直で、深くリラックスすることができた。ミシヌマが施術院を畳むまで、通い続けた。ミシヌマが断ち切ってくれなければ、どこまでも、彼の元を訪ね続け、料金を払い続け、快楽へと、溺れていってしまったはずだ。

 私にはそんな側面があった・・・。あの男、アキラを通じて、ずっと封印してきた意識の流れが復活していた。


 今度、四人で会いたい。

 アキラさんに、他の男を連れてきてもらってくれませんかね。ダブルデートを、セッティングしてもらえないですかね。

 アスカは、先輩ディレクターにそう願い出ていた。



 一か月前、プログラマーの元には、新しい仕事が舞い込んできた。ある邸宅の、設計に関する依頼だった。話によれば、その邸宅の全体の設計は、すでに存在していた。住宅メーカーの男性と、一度打ち合わせをすることになった。

「全体の設計図は、すでにあるのに、これ以上、何をするんですか?」

 プログラマーは、そう言いたいのを抑え、担当の男の言葉を最後まで聞いた。

「この大きな邸宅を、実際に地上に建てることはありません。すでに、人々の生活拠点は地上ではなく、中空へと完全に移行しています。この流れは加速しています。今後、長い目で見たとき、人間が再び、地上に活動拠点を移す可能性は、ないとはいえないです。しかし、ただしばらくの間は・・・。この一つの邸宅を、ばらばらに、分割したいのです」

「分割ですか?」

「はい」

「遠く離れた場所に」

「同時に存在させる」

「ええ」

「別の建物として、存在させればいいじゃないかと」

「そう思いますよね」

「しかし、施工主は、そうは望まれていません。あくまで、全体で一つという」

「気持ちはわかりますけど。それなら、何も、分断させる必要はないでしょう」

「私もそう思います。けれど、その邸宅っていうのは、ほんとに大きくてですね。それほど大きな構造物を、今、宙に浮かせて固定させるというのは、けっこうなリスクを発生させてしまうんです」

「大型モールは、すでに、存在していますが」

「ここだけの話・・・」

 住宅メーカーの男は小声で言った。

「あれは、もう、先がないのです。危ない。いつ壊れてもいい状態だ」

「そうなの?」

 つい、最近も訪れたその施設に、プログラマーは意識を集中させていた。

「非常に、危険な状況です。我々の業界では、もう常識です。あの側には、あらたな建築物は、創造しないと」

「破裂するんですか?」

「気流が、今、すごく不安定になっているのは、ご存知ですか?」

「聞いたことはありますね」

「もちろん、地上よりは安全です。みな、そのつもりで、中空に移動してきているのですからね。ところが、地上よりはマシというだけで、けっこう、危ない状態になってきている。我々は、ですね、今後、その不安定さが、増していくことを予測しています。それに対応した建造物を作ることを、一番の柱にしています。業界では、もうその争いというか、水面下では、安全性の戦いになってきています。そこで、まあ、安全性といっても、どういった観点で、安全かという、そこに企業の特色が出るわけで。我々としては、その分断した住宅というのが、一つの主力の商品になろうとしているんです。その先駆けで、今度の建築があるんです。中空での安全性を保障する、最小の部屋に特化した商品。ただし、それでいながら、大邸宅に、事実上は住むことのできる代物」

 プログラマーは、しばらく沈黙した。


 目をつぶり、その邸宅のイメージに想いを馳せてみる。

 何となく浮かんできてはいた。

「事実上、遠い地点に散らばっている、個々の部屋だ。しかし、その中に居る人、そこに住んでいる人にとっては、一つの繋がりというか、ばらばらの感覚はないわけですね。ドアを開けて、廊下を少し歩けば、もう別の部屋に辿りついている。感覚としては、そんな感じです。けれど、見た目の方は、そうはいかないですよね?」

「それは、そうでしょう。でも、細工で、何とかなりますよ。外から見た邸宅全体のイメージ画像を、いつも認識できるように、訪れる人に投影すればいいわけですからね」

「何でも、知覚の問題なんだな」

「わかっておられるでしょう」

 プログラマーは、自分に依頼される仕事の中身を先読みし、そのプログラム設計をすでに描き始めていた。

 結局は、人間の知覚に訴えかける、いわば、錯覚を利用した仕掛けをプログラムするのが基本だった。

 実際には、部屋から部屋へと十五分移動していても、感覚的には廊下をちょっと行った先という具合に。

 そして、その十五分の誤差を、そのあと移動した先の部屋で過ごす、時間の流れにフィードバックさせ、徐々にその誤差を埋めていく。わずかずつ時間をずらすことによって、実際に流れている時間との違いに気づかないよう、誤差は修正されていく。

「もちろん、可能です」

 プログラマーは、自身を持って答えた。


「そう言ってもらえるものと、思ってましたよ。是非、一緒にやりましょう。これを、主力商品にしたいんです」

 二人は固い握手を交わした。

 契約書はすでに用意されていた。

 プログラマーはそれらの書類をすべて受け取った。

 あとで目を通しておくと、メーカーの男に言った。

 男は帰っていった。

 この、中空に移動中の人類の新しい都市もまた、盤石とはほど遠い世界であるようだった。

 結局、地上と同様、荒れ狂う地殻変動の波に、あっというまに襲われてしまうのかもしれなかった。

 地上が壊滅状態になる、そのときだけの仮の住まいのようなものだった。

 その過渡期。

 壊滅を免れるために、大邸宅を最小単位の部屋ごとに分けて、空間に散らばらせておくという、この技法。しかし、それはあくまで、プログラム上のことであった。

 人間の意識の上での現実であった。物理的には巨大な一つの邸宅のままだった。

 しかしと、プログラマーは心の中で呟いた。たとえ、始まりはそうであったとしても、いずれ、時間が経っていくにつれ、物理的構造物の方も、その姿は似てくるのだろう。



 ケイロは、自身のミュージアムに所蔵するための、絵画づくりの他に、鳳凰口昌彦の会社の本社ビルロビーに飾る、絵画の構想。さらにはカイラーサナータに無償で提供するための絵画のアイデアに、意識は移っていた。

 水原からの連絡で、そのような絵画漬けの日常は、断ち切られた。

「今から、そっちに行く」

 有無も言わさず、一方的に待ち合わせ時間を指定された。

「わるいね。忙しいところ。しかし、すぐにでも知っておきたいことだろうと思って」

「イグドシアルのことですね」

「今、この瞬間にしか、君のいる街とは、通路を合わせられないから。《タイムパス》といってね。今回を外せば、次は三週間後だ。通信だけなら、いつでも可能なのだが。今回は直接会いたかった」

「今回はって、何日か前にも」

「いや、あれは違う。あれは、意識をとばしただけで、この肉体そのものは、あっちにいた。信じてくれないかもしれないけど。あのとき握手をしていれば、簡単に証明された。色んなことを、そろそろ知っておいても、いい頃だと思ってな」

「というと?」

「イグドシアルのことを、君自身が訊ねてきたんだ。時は来たと感じた。イグドシアルのことだけに答えられるほど、俺は器用でもないしな」

「大事なことなんですか?」

「考えようだよ。そもそも、事の始まりからの話だ。今知っても、ずっと先に知っても、事実に変わりはない」

「見方は変わりますよ」

「今でいいな」

「構いません」

「異変は、続々と起こるぞ」

「知ってしまったら、なおさら」

「理解がはやい」

 ケイロは大きく息を吐いた。


「そもそも、この世界が、そう、君が認識し、人々が認識しているこの街、文明が、もしも、そっくりとそのまま、コピーだったとしたら、どう思うかな?つまりは、そっくりと、同じ世界が、丸ごと全体、オリジナルのコピーだったとしたら。まだ驚くのは早いぞ。そして、この俺は、そのオリジナルの大陸の方で、生きている。さっきも言っただろう?行き来するのは、この身体を通じては、ひどく限定されている。互いの地の波動が、最も接近した時にしか、タイムパスは現れない。そのタイミングに乗らなければ、こうして俺は、ここには居ない。

 帰る時も、また同様。タイムパスが出現する前後は、ほとんど同じ街だといっていい。見分けは、ほとんどつかない。しかし、周波数が最も遠くなる時に向けて、街を形づくる様々なもの、システムは少しずつ姿を変えて、そのズレは、誰が見ても、決定的となる。あるものがなくなり、ないものが現れる」

「時間は、そんなにないんでしょ?要点を絞ってください」

「そう焦るな。大丈夫だから。ちゃんと、思い描いた時間内には、収まるから。そう意図して、俺は来たんだから。ちゃんと、帳尻は合う。後半にむかって加速していく」

「だといいですけど」

「ミュージアムのプロジェクトの根幹にも、関わってくる」

「ええ」

「ミュージアムも、また、この現在の現状の世界においては、未来からの訪問者だ。次なる世界からの訪問者。君もまた、この世界に生きながら、次の世界にもまた、行き始めている」

「あなたは?あなたは、もうそっちに?」

「意識だけはな」

「肉体も、そっちだったじゃないですか?」

「違うよ。コピーを提供したオリジナルの世界の方だよ。新しい次なる世界じゃない。君も俺も、これまでの世界の中だ。何故、コピーの世界をつくったのか。誰が、作ったのか。目的は何なのか。君がそもそも知りたがっていたことだ。この街の構造を解き明かし、それを逆手にとって、プログラムをし直す」

「誰が、ですか?僕はそんなことは・・・」

「君だよ。だから、イグドシアルのことが突然気になったんだよ。彼はプログラマーだろ?彼なら、君の解明したことを、現実化させる手段になりえる。そして、この街の構造を伝えに来たのが、この俺だ。そういう流れになっている。いや、なったんだ。タイムパスと同じで。一直線に。星は並んだ。交通手段の中心になっている、D・I車。至るところに刻み込まれた、羽の風貌にみえる舌の紋章たち。その舌の持ち主であり、この世界を建設、創始したとされる賢帝、マスターオブザヘルメスの伝承、伝説。一日に、二度現れる、吸い込まれてしまえば、二度と戻ってこれぬ、『底なる神殿』。死んでいった人間を、速やかに回収し、処置する業務を担う、『使徒』という名の組織。人々の意識に上がった疑問に対し、速やかに答える、バックオーダのシステム。このすべての構造を、破綻から守るため、日々、綻んでいく兆候を見せた部分を、修正するために働く、メンテナンスプログラマーの存在。コピーというのは、オリジナルに比べて、その構造は非常に脆弱だ。何故これほどまでに多くの人員を育成して、業務に携えないといけないのか。そして、彼らを支え続ける技術や資金は、当然、オリジナルの世界から供給されている。そこまでの犠牲を払いながら、なぜコピー商品に投資せざるをえないのか。勘のいいケイロ君なら、もう答えは、出ているかもしれないね」



 四人での二回目の食事会は、先輩ディレクターの手際の良さで、一週間後に開催された。

 単価の高い、有名な串カツ店で、四人は一つのテーブルを囲んだ。

 アスカの正面には、アキラという男がいた。何度見ても〝あの男〟だった。あれだけワイドショーで顔が露出していたのに、誰も気づかないのだろうか。確かに、メディアで見た、色んな事件の犯人の顔を、私だって覚えているわけではなかった。アスカはあのことを、そしてあのアキラであることを、いつどのタイミングで切り出せばよいか。意識すればするほど、言動や表情は、不自然になっていくのを自覚する。

 半分は上の空のままに、アキラが語る職業名だけが、耳の内側に鳴り響いた。

 アスカは自分の職業を、特に説明することはなかった。先輩ディレクターが、ほぼ話してしまっていた。プログラマーは、どんなことをしているのか。アスカが訊くまでもなく、アキラと、その横の男が、勝手に滔々と説明していた。誇らしげに。ほとんどがメンテナンス業務であり、トラブルは多様で、難易度も様々であり、すべてに対応できる体制を常にとっている。そのため、日々、養成のために、アキラたちが後輩に指導する場面も、少なくはないのだという。自らのスキルアップに加えて、日々のメンテナンス業務、そして、後輩の育成と、目まぐるしい日々を生きているようだった。

「毎年、採用人数は、増えているんですってね?」アスカは訊いた。「うちの大学にも直接、新卒の求人が来てましたよ」

 アキラは大きく頷き、アスカの両目を、自分の両目で包み込むように、しっかりと捕らえた。

「新卒採用も、確かに数年前とは桁が変わってきています。けれど、それでは到底、追いつかない。日々、他業種からの引き抜きと、転職者の求人を加速させています。僕らも、今日はかなり、強引に有休をとったんですよ。あ、いえ、気になさらないで」

「仕事は楽しいですか?」

 アスカはもう一人の男に、今度は訊いた。

「僕は好きですよ、なあ、アキラ」

「給料もかなり高いと聞いています」

 先輩ディレクターは言った。

「けれど、ここ数年ですよね。やたらに、あ、いえ、たくさん人数が増えたのは」

「そうです。しかしその前から、ある程度、予想されていたことですよ。僕らはその高騰を見越して、この世界を選びましたからね」と真面目な顔つきで、アキラの隣の男は答えた。

 男は席を立った。

 手洗いに行ったのか、電話をかけに行ったのかわからない席の外し方をした。先輩ディレクターもまた、同じタイミングで、彼を追うように姿を消した。

 アキラと共に残された二人の間には、沈黙が下りた。

「一度、どこかでお会いしませんでしたか」

 アスカは、このタイミングしかないと、躊躇なく思い切り訊ねてみた。

 アキラは、不可思議な表情を浮かべたが、思い当たることがあったのか。すぐに、表情を崩し、そのあとで、強張らせた。

「台湾で」とアスカが口にした瞬間、「あなたも、あのときの・・・。ホテルの確か・・・人で・・・、台湾、の・・・」

「やっぱり!」

 アスカは、勢いよく言った。

「みんなには、言わないで」

「隠してるの?」

「余計な詮索はされたくない。あのときの、マスコミからの・・・、うんざりだった」

「ごめんなさい。思い出させてしまって。でも、ずっと引っかかっていたの。この前会ったときから、ずっと。あのときの人なんじゃないかって。でも、もういいんです。これで、すっきりしましたから」

「あなたは、あそこで、一体何を?あっ、そうだ!あなたのことを、話せばよかったんだ。警察に。そうだった。僕が、監禁されているのではないってことを、あなたに証明してもらえばよかった。全然思い出さなかった。あなた、あのカジノで、働いていたんですよね。僕、カジノの客でしたよね?そのカジノを実は僕はハメようとしていて。逆に彼らに見破られてしまって・・・。それで、ハメ返されて・・・。あなたもアイツラの一味だったの?足はもう洗ったの?過去はもみ消したの?そうか。そうに違いない!平然と違う仕事をしてるんだ!おかしな行動をとったら、バラすからな!君の同僚に!会社に!まさに、俺は、あのときのあの記憶を、誰にも信じてもらえていない!話せよ!何を知ってる?」

「やめてよ。こんなところで」

「それは、俺のセリフだよ!」

「店を変える?」

「抜け出すか」

 アスカは、先輩ディレクターにメールをし、アキラは勘定を払って、二人は店を出た。

「このまま、散歩しない?」

 アスカは、正直に、自分が大学の春休みにやっていたアルバイトのことを、話した。

「他には、何も知らないんだな」

「あのあと、私も大変だったの。体調を大きく崩しちゃって。その、メンテナンスをしてたの。あなたは、どうして今の仕事に?」

「ききたいか?」

 アスカは、頷いた。

「身分を偽れるからだよ」

「えっ?」

「身分を、な」

「あなた、アキラって、同じ・・・。顔だって・・、同じ・・・」

「過去だよ。不問なんだよ。履歴書も不必要。警察から釈放され、いや、警察病院だったか。退院するときに紹介された。そういう流れだ。条件がどうだとか、そんなことは一切考慮にいれていない。俺はな、実は、この仕事に誇りなど全く持ってはいない。日々、不信感を募らせている。だって、そうだろ。おかしいだろ?何故、これほどまでに、プログラマーを急募してる?しかも、その勢いは、弱まるどころか加速している。まるで、戦時中の、軍人を集めているみたいじゃないか。それも、どんどんと戦況は悪化していき、総力戦も辞さない、状況になっている。どう思う?どう考える?おかしいと思わない方がおかしい。異変が起きてるとは思わないか?そうだろ?

 いいか。メンテナンスだぞ。何のメンテナンスか。表向きはコンピュータシステムということになっている。俺らプログラマーも、そう信じて疑ってはいない。けれど、システムって、何のだ?銀行業務や企業の顧客管理システム、機械の作業だったり、この世のあらゆる情報がは管理されているが、その日常生活、社会システム、そこにおけるプログラムだと、思い込まされている。確かに、日々、複雑化していくという論理は、不思議でも何でもない。しかしな」

 まどろみのない口調は、ここで突然、途絶える。

「どうしたの?」

「また、今度で、いいか?」

「駄目よ」

 次はないかもしれないじゃない!と、アスカは心の中で思った。

「この物理世界。つまりは、この足で踏みしめている大地。見上げると存在する空。この包みこまれている街、文明社会。その世界が、丸ごと作りもので、そう、道に咲いている花や、呼吸を可能としている大気、重力。このすべてが、作りものだったとしたら、偽物だったとしたら。そう、つまりは、コピー商品だ。本体から移し変えられただけの、張りぼての世界だったとしたら。そう考えたら、すべての辻褄は合う。このプログラマー増殖物語にも、俺は納得の旗を揚げる。脆くも崩れ始めている綻びを、プログラミングしなおすこと。リ・プログラミングすることで、穴を塞いでいる。リ・プログラミングは、短時間はでなかなか、大規模には実行することができない。数と量によって、補修を繰り返していく以外に、短期的にできることは何もない。そうしている間に、規模の大きな、持続力のある、補正補強手段を開発しなければならない。もちろん、それもまた、メンテナンスのプログラミングだ。スキルアップという名で、我々には提示されている」



「そう、終わりに向かっているんだよ。本体が、本体の地球がね。我々は、ヴァルボワ大陸の人間だ。ヴァルボワ大陸を、そっくりとコピーして」

「ちょっと、待って」ケイロは、話の進行を慌てて遮った。

「その、もし、あなたの話が本当なら、このコピーの大陸が、これほどのメンテナンス作業を、急加速させている理由がわからない。こっちのほうが、危ういんじゃないの?本末転倒になっている」

「かもわからないし、そうではないのかもしれない。僕にもわからない。正直ね。メンテナンスの技術を、急加速で高めて、複合的に組み合わせて編んでいくことで、逆に、構造を、人為的に強化していくことが可能なのかもしれない。メンテナンス業務の行く末を、見守らないことにはわからない」

「本体は?本体の寿命は?そもそも、終わりって、何?何が、起こるの?」

「あのな」

 水原は、初めて、眉間にわずかに皺をよせた。

「このコピー大陸と、同じだよ。構造に亀裂が次第に入っていき、そして、その亀裂の連鎖から、様々な現象が起き、自壊していくのだよ。火災や不慮の事故の連鎖。論理的なまともな判断を、人々が失っていくという、日常的なことも含めてね」

「秩序が崩壊するってことですよね。でも、延命を図ってコピーしたものも、結局、元は、同じプログラムなわけでしょ?」

「コピーの方の、全体的な構造は、平均的には、確かに劣化版なのだが、その本体の崩壊のコアになっている部分には、そのような負の要素を除去して、修正を加えることをしている。部分的な狭い範囲において。なのでどれだけ、構造は脆くなっていたとしても、本体よりは、長く生き延びると踏んでいる。確かに君の言うように、いずれはまた、同じ運命を辿ることはわかっている。また、コピーの繰り返しだ。しかし、そのどこかの時点で、新しい発見がなされることもある。別の突破口が、図らずも、開く可能性はある」

「どっちにしても、延命だな」

「しかし」

 水原の表情が、極端に瑞々しく蘇った。

「僕らは、修正ではない、創造の道を探っている。もうすでに、プロジェクトとしてはだいぶん前に発動し、それに必要な人材は、集まってきている。それぞれが、圧倒的な異端の能力を獲得する、そんな時代へと突入している。それが、形になってきているのが今だ」

「ミュージアムも、その流れの中でのことなんだな。俺もその一員なんだな」

「もちろん。しかし、最初から言っている。俺と君とは、違う世界に今はいる」

「そもそも、俺はなぜ、こっちの側なんだ?」

 ケイロは質問を投げかけた。

「それは、生まれがそっちだからだよ」と水原は答える。

「生まれた場所で決まってしまっている。タイムパスに気づき、タイムパスのバイオリズムを正確にとらえて、それを利用しなければ。こうして移動することは不可能だ。そして、それもまた、時間の制限がある。もし何も手を打たなければ、生まれたときの状態と、大陸の結びつき、そこで、長い間生きたことによる両者の融合を、解除することは、なかなか難しくなる」

「固定されてるんだな。なら、プログラミングを変えればいい」

「イグドシアル」

「彼は、どんなふうに考えているんだろうか」

「おそらく、自分の仕事に、疑問を感じてきているんだろうな」

「というと?」

「まずは、この尋常ならざる多忙さに、嫌気がさしてきている。いいかげんにしてくれと、彼の心は、ざわめき始めている。不満が爆発するのは目にみえている」

「何がそれを抑えているんだ?」

「今は、まだ、スキルの向上に、義務と責任と好奇心、ありったけのご都合主義をすべて投入して、彼自身を支えている。辛うじて。危うい橋を渡っている」

「この世界、そのものだな」

「そうだ」

「しかし、結局、どこにいても崩壊するとなると、どこからでも脱出をはかる以外に、道はない」

「君は、君の世界で、その未来のタイムパスを創造するべきだ」

「あなたとは違って。でもあなたとの連携は、決裂させることなく」

「この二つの世界は、本当によく似ているよな。この世界では、『底なる神殿』と呼ばれているようだ。我々の世界では、『ゼロ湖』と呼ばれている。ここのD・I車は、我々にとっての、GIAと、イメージは重なっている。我々の大陸では、『次元建築』というのが今流行っていてね。次元建築。それに対応したものは、こっちにはあるのかな。いずれ、登場するのか。次元建築。地震をはじめ、待機の不安定からくる豪雨や洪水や、そして、山の噴火。大地に纏わる不吉な兆候による、人々の不安を、いちはやくビジネスへとかえた建築業界の決め技だ。業界の利潤は、飛躍的に上がり、株価は沸騰。経済活動は、劇的に回復し、いいことだらけだ。そういえば、ココ。地震のほうは、どうなんだろう。あまりなさそうだね。噴火は?豪雨は?竜巻は?」


 ケイロにとっては、初めてきく言葉だった。

「大地がゆれたり、暴走を伴った強烈な雨だったり」

「経験ないな」

「そういった要素は、コピーによって、弱まったらしいな。次元建築は、ココでは流行らないな・・・」

「イグドシアルのことを答えてくださいよ。本当に時間は、大丈夫なんですか?」

「ルシフェラーゼだったな」

「そして、バックオーダが妨害されたこと。フルホルバインにしたにもかかわらず」

「それは《オーバークラフト社》の仕業だ」

「なんですか?それは」

「イグドシアルも勤める、会社の名前だ。メンテナンス業務を遂行する、大企業だ」

「彼らは、何を、考えてるんですか?」

「《ブロックダイアグラム》計画というものがある。つまりは、さっき少し話したように、だ。この構造体の弱さを逆手にとって、メンテナンスに全資材を投入して、劣化した部分を人工的に補強することで、亀裂が入るところの弱い基盤から脱却して、本体の強さを取り戻す。大陸全体を、サイボーグのような、強固な物理体に変える計画だ」

「なるほど」

「そのためにも、社員には、盲目的に、熱狂的に、仕事に全エネルギーを注がせる必要がある」

 ケイロは、イグドシアルの今の様子を想像してみた。




「あれが、ネオゼロ湖だよ」

 鳳凰口昌彦は、上空から見下ろしていた。

 地上に空いた、巨大な穴のような場所を指しながら言う。

「どうだった?仕事のほうは」

 鳳凰口は、隣りの席に座る水原に、訊く。

「今は、水面には、何も映っていない『ネオゼロ湖』。この場所の中心には、ステルスビルディングが立つことになるね。《ステルスビルディング》には、複数の建築物が綺麗に重なるように存在することになる。そのうちの一つが、《ケイロ・マリキ・ミュージアム》であり、《カイラーサナータ》であり、我が《グリフェニクス本社》であり。これから無数に、巨大ビルが、建っていくことになる」

「乱立するのか?」自信なさげな声で、水原は訊いた。

「そうじゃない。そこを、今日、ちゃんと、説明するために来たんだ」

「そういうことか」

「同じ場所に、ほとんど寸分狂いなく、重なりあって建つことになる。何故、重なるようになのか。それは、物理的次元において、建材が必要だからだ。そして、そんな巨大な建物を乱立させる、資源もなければ、そんな無駄なことは、これからはやめたほうがいい。共用にするんだよ。ある意味。入れ物はできるだけ一つにして」

「理解に苦しむね」と水原は言った。

「多重人格と一緒だ。人体は一つで、表に現れる人格は、その複数ある中の一つ」

「ということは、同時に、存在することはできるわけね。潜在的には、存在してる。それにしても」

 水原は言葉を詰まらせる。

「巨大カジノ施設も、候補に上がってるしな」

「有限じゃないんだな」

「そう。いくらでも」と鳳凰口は答えた。「ただし、一つの条件を除いては。それはもちろん、そのサイズに、価する施設であるのかどうか。その規模で行う、必然性のある業務なのかどうか。ただ、その二点において、自動的に精査される」

「よくわからん話だが、この前よりは、わかってきたような気がする」

「ケイロなんて、もっとわからないぞ」

「ほんとだよ」

「大丈夫さ。みんな初めはそうだ。俺だってそうだ。何ヶ月も前の、俺は、お前と一緒だ。時間の差があるだけだ。結局は、順番に、全員がちゃんと理解できるようになる。腑に落ちるようになる。そのタイミングが、違うだけだ。順番は優劣じゃない。人格によって、理解するポイントがそれぞれ、異なるだけだ。いずれは、みな、同じスタートラインに立つ」

 水原はエンジンを切ったまま、宙に浮かんでいたGIAを、再び起動させる。

「お前が、あの時、親父とつくった『ゼロ湖』。それが、すべての始まりだった。時間を経過したことで、今はこんなふうな変貌を、達成した。感謝してるよ、水原」

「景観は、どうなる?」

 鳳凰口は、水原が放った言葉の意味を、すぐに受け取ることができなかった。

「ケイカン?警察官?」

「違うよ。眺めだよ」

「ああ、その景観ね」

「装飾のことだよ。一体、どう、見えるんだ?物理的には、一つなわけだろ?」

「そうだよ。どこに設定するかだよ。固定させるかだ。この固定した長さ、次第。例えば、五分以上、カイラーサナータを見続けることもあれば、数秒単位で、グリフェニックス、ミュージアムと、コロコロと変化させることだって、可能だ。常に、その瞬間は、一つであるという現実は変わらない。まあ、しかし、今後のテクノロジー次第では、その常識も簡単に覆されるけどな。すべてを横に並べて、眺めることだって、できるようになる。ヴァーチャルの世界だ。表だった一つの瞬間を、擬似的に固定して、その残像を記憶として、残す手法だ。だから、コンピュータ画面を眺めるように、肉眼に少し改良を加えれば、簡単に達成できる」

「じゃあ、そろそろ、俺は行く」

 水原は、ケイロから投げかられた問いに対する返答を、直接会って伝えるため、ケイロの生きるヴァルボワ大陸につながる、タイムパスが、現れるのを待った。



「で、あなたも、スキルアップを?」

 アスカは、数分前の自分とは、すでに変わってきていることを自覚した。

 これまで封印してきた、あるけどないものとして、ずっと見ないようにしてきた自分が、今静かに、蠢き始めているのを感じた。

「アルバイトだったんだ」

 アキラは残念そうに、口元を意図的にひん曲げた。

「まあ、いい。俺だって、またあの時のことは思い出したくない。お互いさまだ。もういいだろ。これで終わりだ。これっきりだ。サヨナラだ」

 アキラは夜の街に消えようと、数分後に辿るであろうと予測するコースから、外れていこうとしていた。

 アスカはアキラの右腕を掴み、強い力で引っ張りこんだ。

「おい。何をするんだ!」

「まるで、わかってないのね、あなたは」

 アスカはそのまま、さらに腕を引っ張りこみ、手をつないでしまう。

「私の部屋を、あなたは開いてしまったのよ。開き逃げは、許されないわ。最後まで責任をもつのよ。あなただってそう。開いてしまったものは、もう遅い。閉じるためには、策を講じるか、何が出てくるのかを、探って待つか。いずれにしろ、今、私との縁は、つながった。スイッチは完全に入った」

 アキラの右腕は、振りほどこうとする意思を失っていた。

「何者なんだ、アンタ。普通の女には見えないな。ただの、予告編ディレクターをしてる、人間には思えない。何を考えている?その仕事もまた、いずれは何か、コトを起こす時の布石なのか?そんな気がする。そうならそうと、はっきりと言ってくれ!どうなんだ?」

 アスカは、即答することができなかった。

「どうして、そんなこと・・・。そんなつもりなんてない。何かの布石だなんて・・・。何、布石って?あなたの仕事が、そうなんじゃないの?人になすりつけないでよ。あなたの方でしょ。そのプログラマーを、踏み台にしようとしてるのは」

「踏み台だって!?」

 今度は、アキラが驚く番だった。

「そんな・・・。踏み台?誰が、そんなことを・・・。身分詐称だって、さっき言ったはずだぞ。仕事の時には、ハンドルネームを使用している。イグドシアルという。アキラなんて名前、これっぽっちも普段は使っていない。家を借りるのも、銀行の口座を作るのも、みな、イグドシアルだ。ホテルに泊まるときも。ほとんど、今日みたいなのは、例外だ。俺も甘かったよ。隙を見せてしまった。・・・つい」

 アキラは再び、右腕を振りほどこうと握力を強めた。

 しかし、振りほどくことはできなかった。

「なんて力だ!」

 アスカ自身が驚くほどだった。アスカは腕に力など入れてなかった。

 私の中の何かがとアスカは思った。アキラと言う男を捕らえ、逃がすまいとその包囲網を加速させている。

「お前、いったい・・・。本当に、何なんだよ!放せ、ほらっ」

 平然とした表情を浮かべるアスカに、アキラは次第に、何か思うところがあったような顔つきになる。

「どうやったら、振りほどける?」

 アスカは、首を二度、横に往復させる。

「話は、続きを待ってるみたいよ。私にわかるのは、それだけ」

「何が、聞きたい?」

「プログラマーの人たちは、今後、自主的にどういった行動をとるのかしら。あなたが見える範囲で。感じる範囲で」

「俺のほかに?」

「そう」

「ただ、盲目に言われるがままに、スキルアップに嬉々としている奴は、非常に多いよ」とアキラは言った。「逆に、自身の能力に限界を感じていて、このままのんびりと、最低ランクの仕事を続けていこうと、そう構えている奴も、同じくらいに多い。君が聞きたいのは、それ以外の人間だ。あんた、本当に、何を考えているんだ?何を企んでいるんだ?」

「いいから、答えなさい!今、答えられる範囲で。というか、今思いついたことじゃないと意味がないわ」

「俺が注目しているのはな、わずかながらも、会社の言うこととは別に、プログラミングそのものから、好き勝手に、自らの趣味で開発する奴がいるってことだ。本当に色んなことを考える奴がいるものだ。ある一つの巨大なもの、例えば建物でもいいが、プログラムでデータを分割して、それをこの物理世界に、再び、リ・プルグラミングするという技術を作ってる奴も見たことがある。そして、二次現実では、バラバラに、遠距離で存在させる。それを、再び、リ・プログラミングして、一つに見せかけるというバーチャルをプログラミングして・・・。つまりは、大地から中空に、拠点を持っていくための一つの手段だ。そして、中空での生活するにあたって、また元の大きな一つとして存在させたい願望だ。ややこしくてすまない。何故、そんなややこしいことをするのか。答えは簡単だ。『終わりの日』だ。この世界が終わる日。時空は混在し、この物理次元はどんな形にしろ、吹き飛んでしまう。現実的には嵐が巻き起こったり、積乱雲が異常増殖して、雨が止まらなくなったり、噴火や地震、地殻変動の連鎖、つまりは、天と地で、それは究極的に起こる。その間。中空。ここが最大の避難所だと踏んでいる奴らがいる。

 そして、一時的なシェルターとして、分割して、その被害を最小限に食い止めようとしてるわけだ。その地殻変動の嵐が去ったあとで、また地上に建物を戻したっていい。そのまま、中空に住み続けたっていい。中空にいても、その繰り返されたリ・プログラミングで、元の大きな一つという認識の中で生きていける。分割するものは、巨大なものほど、効果が絶大だ。建物にしろ、街そのものにしろ、国にしろ。歴史の大きな一塊にしろ」

 アキラは、喉の渇きから、唾を何度も飲み込もうとする。

 だが、唾液は、それ以上は分泌されなかった。近くにあった自動販売機で、ミネラルウォータを買うことにした。



 ケイロは、夢か現実かわからぬ、混在したままの夜を過ごした。

 明け方、夢の中で、フルマラソンを走っていた。途中まで一位を独占していたが、次第に、進行方向を示す表示が、道に存在しなくなる。多くの観衆と思しき人々は、たくさんいるのだが、誰にきいても答えが返ってくることはなかった。

 そもそも彼らは、フルマラソンなどに注意を払ってなかった。道に雪崩れ込み、ケイロは走ることさえ、ままならなくなった。完全に、人ごみの中で身動きがとれなくなってしまった。一体、進行方向はどっちなのだろうと、ケイロは心の中で叫ぶ。もういい!ギブアップだ。出口だ。出口を探そう。この状況から脱け出したい。

 ケイロはまだ明けぬ暗闇の中で、覚醒する。

 しばらく、状況が理解できなかった。夢を見ていたことさえわからなかった。


 とにかく一瞬で、脱出出来たのだと思い、ほっとしていた。しばらくしてからやっと自分が布団の中に居て、もう一度、眠りにつく必要性を感じたのだった。

 そして眠りにつく。今度は、目覚まし時計のアラーム音が、強烈に鳴り始めた。

 ケイロは、夢の中で、時計をとめようと何度もボタンを押した。叩くように、何度も何度も、強烈にボタンを押した。しかし、鳴り止むことはなかった。騒音は耳の中で、増していくようだった。終わらない。時計はイカれてしまっていた。電池が消耗し尽くすまで、この騒音と付き合わなくてはならないのか。しばらくして、ケイロは目を醒ます。アラームは鳴っていた。手を伸ばし、ボタンを押す。鳴り止んだ。時計は、壊れてなどいなかった。夢と現実は混在し、ケイロは、自分がどっちに今いるのかが、わからなくなった。曖昧な境界線すら確認することができなかった。水原と会った日の夜のことだった。

「そのタイムパスを、俺だって、通ることができるだろ。連れてってくれ!水原。今から。お前と一緒に。そして、ここでもそっちでもない、第三の空間を案内してほしい。いずれ、お前も俺も、そこにいる、第三の世界に。

 ミュージアムは、そこにあるんだろ?第三の世界に。ココじゃない、この街ではない、俺は見たことがない、そんな建物。建設予定地に行ってみたこともある。しかし、シートはかかったままだ。しかも、特別、巨大なものとも思えなかった。シートには、おかしなイラストが描いてあって、俺を馬鹿にしているのかとも思った」

「妙な動物だろ?」

「お前がデザインしたのか?」

「お前って、いつからそんなふうに、呼ぶようになった?しゃべり方も」

「この街に立つわけじゃない。そんな空間は、どこにもない。カイラーサナータという新しく建築される寺院にも、招待されて行ったよ。しかし、その後でまた、いくら訪問しようとしても、全然見つからなかった。場所そのものが、うまくとらえられない。まるで時空を浮遊して、俺の追跡からは、巧みに逸らして、移動しているように思えてくる。だが、そんなはずはない。確かに、カイラーサナータ寺院は存在する。存在するが、そこに俺はいない。しかし、あの時は、どういうわけか居た。アクセスできていた。招待されたんだ。招待状が来たんだ」


 ケイロは、アラームの止まった静けさの漂う朝、なかなか起き上がれずにいた。

 次第に、ケイロ・マリキ・ミュージアムの実体が感じられるようになってきた。壁という壁、骨格という骨格が、すべて絵画によって組み合わさられているかのようであった。鉄筋や、組まれた木の表面に、一瞬、彫刻を施したかのような、そんな建物に見えなくもなかった。手で触れるまでもなく、それは塗料を刷り込んだ物体であった。ミュージアムという名の箱の中に、描いたキャンパスを運び込み、並べるのではない、絵画そのものを組み合わせて繋ぎ合わせることによって、地上から空へと積上げていくという・・。ケイロ・マリキ・ミュージアム。

 鉄筋とは比べものにならないほどの強度を誇っているように感じた。

 絵と絵が。塗料と塗料が。思いと思いとが。異なるエネルギーと異なるエネルギーとが、共鳴し合い、共振し合い、それでいて、反発し合い、退け合いながら、否定し合いながら、それでも受け入れて、まだ見ぬ世界のために、目指す方向を統一している・・・そんな建物のようであった。



「アキラは、どのタイプなの?」

「アキラ?」

「イグドシアルって、呼べってこと?嫌よ、そんなの」

「もう、いいよ。好きにしろよ」

「やった!で、どっち?どのタイプ?いろんなプログラマーの話をしたでしょ。あなたは、どれなのかしら?」

 アスカは、アキラ、アキラと連呼し続けていた。

 アキラは、特に不快な様子も示さなくなった。

「どのタイプでもないね。どれにも当てはまらない。今、この瞬間は。君と会っている、今この瞬間の俺は。明日になればわからない。今日だって。家に帰ってからは、わからない。どっちにだって転がるさ。転がれる。今が分岐点なんだ。君は?君はどうなんだ?どっちに行く?何をしていくことになるんだ?」

「あなた次第じゃないかしら」とアスカは答える。

「あなたのとる行動によって決めることにするわ。対応していく。あなたが、プログラミングを変えて事を起こそうとするのであれば、私もできることは手伝うし。私にしかできない役目もあるだろうから。そのための。そのための」

「何だよ?」

「そのための・・、予告編ディレクターなのかもしれないじゃない!」



 同僚の男が胸の痛みを突然訴えて、うずくまってしまったのを目の当たりにした。

 アキラは緊急搬送に電話しようとしたが、今度もまた、同じ部屋にいた上司に止められる。彼は代わりに内線に繋いだ。意識を失った男を、抱えるように、三人の男を運んでいってしまった。アキラの周りの人間は、バタバタと倒れていった。彼らは何事もなかったかのように、戻ってくるものから、配置変えされたということで、二度と帰ってこないものもいた。当然、アキラも、次は自分の番だと覚悟した。だが、兆候はなかった。治療をしているところを、実際に見たわけでもなければ、そもそも、どこに運ばれているのかも知らなかった。企業の内部に、情報を遮断としておこうとする意図だけを、感じた。

 とりあえず、死んではいないのだろう。

「人員の補充は・・・」

 アキラが、上司に訊くまでなく、代わりの男がやってきて、これまでと変わらぬ業務体制が、続いていく。

 とりあえずは、プログラマーの人員不足に、悩まされている様子はない。


「いつ倒れてしまうのか。心配なんですよ」

 アキラは上司に訴える。

「ルシフェラーゼっていう、現象らしいですね。調べましたよ。しかし、それ以上に、情報をとることはできなかった。会社がブロックをかけているようです。従業員のことですよ?いいんですか?誰もが不審に思いますよ」

 上司からの反応はなかった。

「フルホルバイン状態にしているのに、投げかけた問いには、いつになっても、便りは返ってこないんです。噂になってますよ。オーバークラフト社の隠蔽体質をね。今じゃ、あらゆるプログラムの過密な修復作業によって、プログラマーにかかる心的負担は、多大なものになっていると。身体の比較的弱い人間から、バタバタと倒れ始めていると。そんな状況になることを見越しての、大量採用、大量育成だったのかと」

「誰が、そんなことを?」

 上司は初めて口を開いた。しかし、表情はないままだった。

「みんな、言ってますよ」アキラは嘘をついた。

「もう先は、ないなって」

 わずかに動揺の色が見えたと、アキラは思った。

 小刻みに、首のあたりが揺れているのが、見えた。

「何の先だよ、言ってみろよ」

 低く威圧的な声を、この男から初めて聞いた。

 いい兆候じゃないかと、アキラは思った。

「会社の未来の話。まったく、プログラマーの人員も確保できていない、未来の話。修復するべきポイントに、我々の文明が追いついていかない、そんな現実。その乖離は、徐々に、始まっている。あるいは、このルシフェラーゼ。ひょっとすると、人体の疲弊によって起こるものでなくて、その乖離を、ただ表現している現象なのかもしれない。復旧させるのに、医療行為は実は、必要ないんじゃないですか?もうピンピンしている。死ぬことはないし、病院に搬送する必要もなし。配置転換は、きっと、この話を蒸し返されたくないからかもしれない。我々の企業は、とても素晴らしいと思いますよ。社会的意義というか、貢献度は、まさに今現在において、ナンバーワンなんじゃないですか?ほとんど、我々の会社に、この仕事に、未来の人間の運命は、圧し掛かっているとさえ言える。最後の砦に、なってしまっている。驚くべきことです。そこに自分も立ち会っている。予想もしてなかったことです」

 上司の男は、また黙ってしまった。

「ルシフェラーゼの後、この現象が、多くのプログラマーを襲いつくした後で、我々が直面する真の現実は、姿を現すのでしょうね。そんな気がする。僕は別に、会社に文句を言ってるわけじゃないんですよ。反抗しようともしていない。ただ、隠してもらいたくないだけです。どうして公表しないんですか?うちの社員にだけでも。

 我々は、亀裂修復の最前線で、仕事をしている。今後ますます拡大して、頻繁に起こっていく綻びに向き合って、立ち向かっていかなければならない立場なんですよ。まさに、戦士です。何も知らされてないという、事程、惨めなことはない。それに、もう少なくないプログラマーが勘付いてもいる。ということは、会社に対して、業務に対して、不審がりながら、仕事をすることになるわけですよ。どう思いますか?あなたは、上層部に進言できる立場にいる」

 上司の男は、明らかに、体全体を震わせていた。

「もう、新しい段階に進む日は、近いんですよ。明日にでも、決壊してしまうかもしれない。これだけ信号や合図が、出ているんです。会社は何を考えているんですか?政府とどう連携をとって、対処しようとしているんですか?対処だなんて、なんと響きのよくない言葉だろう。おそい!遅すぎる対応だ!どう先回りするんですか!もうすでに、プログラマーは、全員すべてを知って、同じ気持ちで亀裂極まる世界を、丸ごと受け止めなければ・・・。

 僕は、本気ですよ。まだ、答えない気ですか!本当に、次の瞬間にだって、始まってしまいますよ。このままで、いいんですか?同じ任務のまま、ただ対応するかのごとく、修復するだけで・・・」

 この男に何を言っても、無駄だと思った。新しいリ・プログラミングしかなかった。

 来たる状況に対して、広い範囲で、リ・プロミングするのは不可能だった。小さな範囲になるかもしれない。それでも、シェルターくらいの役目は、果たせる。

 業務とは関係なく、自ら、自由に開発作業を繰り返しているプログラマーと、タッグを組むため、アキラは社内からの選定を急ぐことにした。



 見士沼祭祀が有名になり、その存在を世に知られ始めた時期でもあった。アキラのもとにも、ルシフェラーゼがやってきた。うずくまる姿をたくさん見ていたため、胸に痛みが走るとばかり思い込んでいた。だが違った。むしろ違和感は背中にあった。背中にも、特に痛みは感じなかった。ただ曲げずにはいられなかった。

 アキラは、他の被害者たちとは、一線を画しているつもりであった。もうだいぶ前から、そうなった時の心の準備をしている。気は確かに、静かな状況を観察するつもりでいた。

落雷のような光の亀裂が数箇所で、空から地面へと切り裂いているのがわかる。今、目の前にあった、プランタの植物が、あっという間に消えた。たしかに、さっきまであったはずの車が、いきなり目の前に存在する。その光景も、一瞬確認しただけだ。すぐに目を伏せるほどに、背中の曲がりに合わせて、頭もまた、角度を鋭角にしていく。何故だか、自分をとりまく空間が、狭く、ひどく圧縮していくように感じる。

 その範囲は、周りには留まらず、拡大し、街全体が、大陸全体が、ほんのわずかずつ、小さくなっていくような感覚が続いた。その圧縮は加速していった。いや、加速しているのだ。すでに前から。

 見士沼祭祀という、施術師の劇的な治療の様子が、映像で報じられたとき、アキラは懐疑の目で見ていたが、実際にこの目で施術を見ていると、やはりこれだけ多くの人間を魅了したのと同様、自分もまた一度受けてみたいと、はやる気持ちを抑えられなくなっていった。しかし、見士沼の施術は、まったく予約がとれなかった。予約待ちに登録しても、折り返されるはずの電話が、いまだに来ていない状態だ。知り合いに訊いても、みな、状況は同じだった。見士沼祭祀を熱望する気持ちは、オーバークラフト社の増えていく業務への不審感と共に、日に日に高まっていった。見士沼は、今では、どのタレントも凌ぐ注目度があり、露出度を誇っていた。

 知り合いで、親友の戸川が出ている広告さえ、霞むほどの勢いであった。戸川もまた、退院から復帰した当初は、仕事は激減したものの、ここに来てだいぶん、盛り返してきていた。彼に匹敵するほどの人気を誇るモデルは、やはり他にはいなかった。唯一にして、最大のライバルは、別の世界から突然やってきたのだ。戸川が言っていたが、見士沼の元には、メディアの出演依頼から、戸川の牙城である宣伝広告の世界にまで、彼に纏わる旋風が、巻き起こり始めているのだという。彼を求める大衆。彼のイメージを利用したいと思う企業、ビジネス機関が、有象無象押しよせているらしかった。俺の仕事が全部、その男にとってかわってしまう可能性すらあると、戸川は言った。

「もっとも、この見士沼が、そういったオファーを全部、受けたらの話だけどな」

「そんなことに、なるわけがないな」とアキラは答えた。「本業に専念するはずだ」

「通常の人間ならな」

「違うのか?」

「まともな奴ならな」

「だから、そうじゃないのか?」

「俺は」と戸川は言った。「その見士沼のこと、少し知ってるんだ。顔見知りなんだ。実は。ずいぶん前のことだけどな。そう、あいつの家は新興宗教団体なんだ。けっこう古くから続く。親父から、あいつに代替わりした。あいつが継ぐはずだった。いや、継いだ。たしかに継いだんだ。ほんの一時だったが。だが、あいつは、その教団を抜け出た。噂では自らが解散を命じたということだ。今考えると、すべては、それ以前から考えられていたことで、予定通りのことだったのかもしれない。まさに、解散を宣言するためだけに、代表になったかのような、そんなふうだった。とにかくあいつは、その後は行方知れずになった。突然の解散が決まった教団も、またそのあとどうなったのか。形式上は消滅した。しかし、長年続いていた強固な組織だ。続いていると考えるのが普通だ。名前を変え、誰もが、アクセスできる状態で存在しているのか。まだ、目に見えない環境で、活動を維持しているのか。実体はわからない。とにかく、見士沼祭祀とは、完全に訣別している。

 いや、そんな話は、どうでもよかった。見士沼と、どんな知り合いかって、そういう話だった。俺がまだ、事務所に所属する前の話だ。上京してきて、当てもなく、就職活動を始めた時のことだ。面接にいった建築会社が、見士沼の教団の新設の建物を、担当したんだ。まさに代替わりする、その記念のために造る、新しい施設の仕事。結局、新築ではなくて、城のような豪邸を改築することで、契約は交わされた。その関係で、直接、しゃべったことはないが、何度か、いや、一度だっただろうか。同じ場所に居合わせたことがある」

 戸川は耳元で話をしているかのようだった。アキラは、ルシフェラーゼ現象の真っ只中にいた。空間が圧迫され、常に小さくなっている感覚が、途絶えることはなかった。

 ルシフェラーゼが止まれば、この体感もまた、消失するのだろうか。

 戸川と見士沼。二人の男の、巨大化・・・巨人化。

 それが、まさに、この圧縮し圧迫されていく皮膚感覚に、何故か重なっているかのように思えてきた。



 アキラは見士沼祭祀のことが気がかりになり始めた。今後の、戸川に対する心配もさることながら、見士沼を、こんなにも喧伝している彼の背後にいる組織、勢力、人物は、一体誰なのか。ルシフェラーゼはなくなっていた。一時的に引いたのだろうか。視界は元に戻り、取り巻く空間の圧迫感、圧縮し小さくなっていくような体感と、加速していく恐怖。その抜け殻だけを残して、アキラは再び、元の正常な状態へと戻った。

 見士沼と戸川に加え、ケイロというアーティストの存在にも、意識が向いた。

 彼は、生涯ミュージアムというコンセプトの、最初で、唯一のアーティストとして、今後、製作した、すべての作品を展示、公開、体感するための建物を独占所有し、活動を始めていくということだった。

 最初の展覧会が決まり、今はあの派手な会見からは、実に静かな存在となっていたが、いずれ、戸川、見士沼に匹敵するくらいに、旋風が起こる可能性だってあった。

 そして、この三つ巴を認識したとき、アキラの脳裏には、彼らとはぴたりと重なるわけではなかったが、その三つの異なる考え、価値観、方向性を持つ集合体が、浮き上がって見えてくるように思えてきた。

 色素のわずかに薄い、カメラで映した映像のようなホログラフが、重なり合い、視界を制圧してきた。

 さらに、その三つを分離し、それぞれに、より深く、意識をフォーカスしていくことは、可能にも思えた。

 こんな現象は、初めて起こったことだった。

 複数の世界が、今この瞬間に、視界が定めた光景に、重なるように写っている。

 これが、ルシフェラーゼによる作用なのかそうでないのか、アキラにはわからなかった。



「今後は別の大陸にいる人間同士、交じり合うことになるからな」

 鳳凰口昌彦は、水原に言った。

「今後は、場所によって、安定感に、おもいきり差が出くることになる。もちろん、一つの大陸においても、弱体化していく基盤の地もあれば、びくともしない場所も存在することになる。大きな目でみても、小さな目でみても、そこらじゅうで、『差』というものが発生する。局地的な差異から、大局的な差異まで。大陸全体にかかわることは、当然、大局的な差異だ。人間の移動が、顕著になる。そして、これまで、別々に交わることのなかった人間たちが、出会い、同じ地で、共存していくことになる」

 水原は、鳳凰口の宮で、しばらくの間、滞在することになった。

「一時的に、地球全体においては、人間が生存できる場所というのは、極端な減少を見せることになるだろう。退避する場所を求めた、移動が始まる。正確な情報を得たものから。そして、俺のように、こうして、宙空のさらに上に、すでに、待機している人間までいる」

 鳳凰口はそのようにして、この来るべき時を通過しようとしていた。

 この自分もまた、自分の考えとやり方で、この時を向かえねばならない。

 水原はそう思った。



 再び、ルシフェラーゼがやってくる。今度は強烈だった。アキラは蹲った。とっさに、アスカに電話をかけていた。

「仕事の依頼をしたい。予告編をつくってもらいたいんだ!それと、これは、俺の仕事だけど」

 朦朧とする意識の中、言葉だけは、しっかりと発音しようと、アキラは心がける。

「優秀なプログラマーを、集めなければ」

 空間は、今度も、確実に縮小している。圧迫感が凄まじかった。一度目とは、比較にならなかった。

 アキラの自室には、数十人のプログラマーが、集まっていた。

「もう、制作に入っていいのね」

 携帯電話からは、アスカの声が聞こえてくる。

 自室でこの自分を取り囲んでいるプログラマーたちは、幻想だった。

 しかし、かなりの実感があった。過去の記憶、そのもののようだった。プログラマーたちの好奇心に、アキラは火をつけようと鼓舞し始めていた。アキラは、コンペを開催すると言い放ち、採用する一つの作品には、実用化を約束していた。君たちは、ただ、好き勝手にやりたいようにやってほしい。目的に合わせた制作には、飽き飽きしてるだろ?一斉に歓声が上がる。

 アキラは、採用不採用問わず、すべてのプログラムから、使えるものはすべて使う心づもりでいた。

 時間の流れ方は、バラバラになっている。

 次々と、飛び始め、その映像の中で、アスカの声が、遠くからずっと鳴り響いている。

 視界に入る亀裂も、また、天地を斜めに切り裂く複数の存在が確認される。空間の狭まりは強くなっていく。さまざまな感覚がバラバラに暴走し、同時に混在していて、気が狂いそうになる。それでいながら、妙なこの静けさ。逆に、心は落ち着いていくように感じる。

 次第に、アスカの声は聞こえなくなっていく。

 目の前には、巨大な山のような風体の物体が、立ち聳えている。草木に覆われ、どう見ても、山のようだったが、明らかに、人の手がはじめに加えられていると思った。植物がその人工物を覆うようにして、年月と共に生えそろっている。マウント・イー、とアキラは混濁する意識の中で呟いた。名前が突然蘇ってくるようだ。マウント・イーを覆う植物たちは、別世界との出入り口の存在を隠すように、目立たなくするように、マウント・イーの制作者の意図を、巧みに、汲み取っているかのようだった。

 アスカとの通信は途絶えていたが、彼女には作ってほしい予告編の内容は、詳細に伝えきったと思った。彼女とはもう、会うことはないのかもしれない。意図は完全に伝えきっていた。

 ふと、この圧縮していく空間は、自分を取り巻く、地理的なことなのではないかと思った。

 その範囲を、枠の外から、確認できたらと思う。混濁していく状況が、役に立つ。渾沌の海に飲み込まれていく自分を、どこか見ている自分をも、感じてしまう。そう思ったときだ。自分が二つに分岐したのだ。すると、圧縮していく世界に、そのまま無抵抗に一体化していく自分と、それを静かに眺めている、距離を置いた自分とに別れていた。

 そして、もう一方の自分は、逆に、横に、縦にと、膨張し始めていた。

 まるで、圧縮と膨張を双方に伸ばしていくことで、バランスを保っていくかのようだ。

 拡張していく方の意識の中では、雲の遥か上の、宙に浮いた宮殿のような建物を、目にしている。

 だが、再び、意識は地上へと戻っている。

 苦しい。体感するこの周囲の空間が、本当に狭まってきていた。

 部屋の中の四方の壁が、じりじりと、この身に迫ってきているようだった。

 それに連動するように、この先、経験するようなシーンが、次々と蘇ってきて、その圧迫をさらに、助長するように、アキラを襲ってきている。



 アキラからの電話の後で、アスカは、自分の体が火照りだしたのを感じていた。

 顔は赤く茹で上がり、脇から腰にかけて、汗ばんでいる自分に気づいてしまった。

 熱の出始めた風邪の症状かと、一瞬思った。しかしタイミングがタイミングだった。

 アスカ自身も暑くてたまらなくなっていった。と同時に、症状に対して冷静になっていく自分もいた。二つに分かれ始めているのだった。熱気に包まれていく自分。包まれていけばいくほど、それとは反対に、熱気の外枠からは外れ、その外側から、熱そのものになっていく自分をも見ているようだった。

 高温は、留まることを知らず、どこかの時点で、蒸発を始めてしまうのではないかと思った。

 この自分が、蒸発する・・・。

 一気にではなく、徐々にではなく、段階を踏んで。そう。時間的な猶予があった。それも、また、生殺しのようだと、アスカは自分を嘲笑った。


 蒸発が進めば、この身体は縮小していく。縮小していけばいくほど、さらに熱は上昇していき、高温へと状態を変化させていく。すぐに、冷まさないといけない。すでに、蒸発と、縮小のループの中に、何故か巻き込まれてしまっている。そうなのだ。いつのまにか、いつもとは違った世界に巻き込まれてしまっている。アキラからの電話が、その合図であったのは、疑いようがなかった。しかし、それは、ただのスイッチだった。

 アスカは、熱くなればなるほどに、意識は分裂し、もう一方では、どんどんと熱は奪われていくかのごとく、冷え切り、熱気の集中した地帯が、鮮明に浮かび上がってくるようだった。

 ほんの少しだけ、上に行こうした。

 それはまるで、地上の、まさに、地図を眺めているかのようであった。サーモグラフィか何かを見ているような。その熱は、私の中から内部から発火したものではないようだった。

 それも、そんなに広い範囲にはなかった。

 熱の塊に狙われ、捕らわれ、あるいはたまたま、合体してしまったかのようでさえあった。

 別に、あわてることはないさ、とアスカは思った。

 ちょっとだけ、ズラせばいいのだと。

 冷たい塊の方のアスカは、熱に自由を奪われた、もう一方のアスカのほうに、意識を向けた。

 一瞬、同化させたと同時に、ほんの少し、熱の枠の外へと意識を移動させた。

 その瞬間、二人のアスカは消えた。

 高温状態も冷却状態もまた、消えてなくなった。取り残されたような自分がいた。

 嵐が去っていったような目の前の風景が、蘇ってきた。アスカは一瞬、わからなくなった。今が、アキラから電話が来た前なのか。それとも後なのか。けれど、すぐに我に返った。

 連絡が来たことはすでに知っているのだから、後だということにした。



 ルシフェラーゼは、不規則にアキラの身体を襲った。その度に体感する空間感覚と、思い出す記憶の時間的順序は、めちゃくちゃになった。その間、ずっと胸の辺りが黄緑色に光っていた。

 十度目のルシフェラーゼくらいだろうか。

 アキラは、ルシフェラーゼに捕らわれ、コントロールされることから脱却した。

 ルシフェラーゼの外に出て、ルシフェラーゼをこの目で、確認することができた。

 ルシフェラーゼそのものではなく、ルシフェラーゼに狙われ、捕らわれた自分を、ただ眺めることができていた。そして、アキラは、さらに、その捕らわれたままの男を、ルシフェラーゼから、逸らすことまでできてしまう。

 しかし、取り除く前に、もう少し、この状況を観察してみようと思った。さっさと取り除いてみたとしても、これまでと、何ら変わらぬ現実にかえるだけだった。この大陸のほころびは、加速していき、遠くない未来には、オーバークラフト社でも到底手には負えない、世界がやってくる。

 ルシフェラーゼからくる、一時的な不快、苦痛から、元に戻っても、得るものは結局、何もなかった。

 アキラは、ここで、反射的にバックオーダを要求した。

 発動しているのかしていないのか分からなかったが、すぐにフルホルバイン状態へともっていった。

 ルシフェラーゼの検索をかけた。一体、何を意味していて、本当は何が起こっているのか。答えは、あっという間に返ってきた。町の様子が、縮小版の立体ホログラムで地面に映し出された。黄緑色をしたルシフェラーゼが、数箇所、点滅していた。そして、その一つが消え、さらには別の場所に発生し、一時的にものすごい数が点滅することもあった。

 一つのルシフェラーゼも、存在しない静寂な時もあった。まるでルシフェラーゼはいまだ、安定的な固着した状態を、つくれていないかのようであった。そして今後は、目指してきた、固着状態を達成しはじめ、近隣に存在するルシフェラーゼ同士が、ぶつかりあい、融合、合体を繰り返しながら、拡大していくことを、バックオーダはアキラに速やかに伝えていた。



 アスカはバレた時に即座に解雇されるに価する、機密行動をとり始めていた。

 あの熱の発火は、タダ事ではなかった。職があるないの次元では、もはやなくなっていた。アキラの声色からも読み取れた。

 夜になり、警備員の巡回が終了した直後を狙って、会社に舞い戻った。あのコンピューターでない限り、予告編は精密に作ることはできなかった。昼間、仕事の合間にできるような、片手間に出来るような仕事ではなかった。アスカは自身初の、まったく本編の存在しない作品の予告編を、つくろうとしていた。それはアスカにとって、ほとんど自ら物を生み出すような行為だった。アキラが考えていること、感じていること、その感覚を通して、アスカは来たるこの世界の状況を、解読しようとしていた。

 知り合ってほとんど間もないアキラだったが、他人の誰よりも、理解できるような気がしていた。アスカは初めて、映画の脚本がどのように原案を創造してくるのか。その追体験をしているかのようだった。

 とにかく急がねば。そして完成させて、コマーシャルに流して、アキラの元に向かわねば。間に合わないかもしれない。ぎりぎり間に合うかもしれない。焦ってはいけなかった。悠長に構えていてもいけなかった。心を落ち着け、気を研ぎ澄せば、必ず、時と場は一体となるはずだ。すべてがあるべきタイミングで動いていく。

 その波に、私は乗る必要があった。その空間に、私は乗る必要があった。

 そうすれば・・・。

 予告編の制作は、その夜では終わらなかった。次の夜、アスカは、立ち入り禁止になっていた、過去の予告編作品が収納された金庫室へと、手をかける。


 バックオーダに、アキラは次々と問いをとばしていた。今、この時しかないと思った。

 ルシフェラーゼに自分がつかまれ、取り囲まれ、自由を奪われている時にしか、ルシフェラーゼに対する情報を掴み取ることはできない。

 ルシフェラーゼから、解放され、ルシフェラーゼが消えてしまえば、ルシフェラーゼに対する情報の要求はブロックされてしまう。

 点滅を繰り返し、次第にその増殖していくルシフェラーゼが、衝突を繰り返し、合体融合し、小さなルシフェラーゼから逃れた人間を、再び別のルシフェラーゼが襲い、逃れてはまた現れ、巨大化していくルシフェラーゼに、都市はどんどんと侵食され、大陸全体が沈没していくかのように、自由に行き来できる領域が減っていくのだ。

 遠くない未来、ルシフェラーゼは、ほとんど一つになり、この大陸全体を、完全に覆い尽くすことになる。

 ほとんど、大陸とは呼べない、大陸など存在しない、その一瞬が来る。

 この世界が終わるタイミングだった。ルシフェラーゼが増殖していった時から、オーバークラフト社の修復業務は、効力を失っていく。崩壊していくプログラムは、野放しになっていく。才能あるプログラマーを集め、そのアイデアを組み合わせることで、何とか、リ・プログラムを達成したかった。しかしこの大陸をこれ以上、維持し、一新することは、不可能だった。脱出するための構造に、モデルチェンジする必要があった。それだけのために、今ある情報の知的資産を全て、投入する必要があった。

 すべてそれだけのために、投入するのだ。

 住民にはその事実を伝える。アスカにはそのことをすでに要求した。

 この映像の中に、同じような予告編がつくられていなかっただろうかと、アスカは突然閃いた。そして、ちょうど社員にさえ、公開を禁じられたフイルムがあることを思い出した。本当の理由は聞かされてなかった。お蔵入りになった低俗な作品で、クリエイターたちに良い影響を与えないというのが表向きの理由だった。過去にも、同じような内容の作品を、私と同じような状況で、制作した人がいたんじゃないかと感じた。私は決して、映画監督ではない。すでに、完成した作品から重要なシーンを抽出して、見る人たちを劇場へと誘導するのが仕事だった。

 来たる最悪な結末から、脱出への道を誘う、そんな役目を私が果たすのだ。これまでの仕事と、何ら変わりはない。規模が異なり、生死に関わるものへと、ただ変化しているだけだった。


 ケイロは、水原に言われたことを、思い出していた。

 お前は、オレのように、だいぶん前に避難する必要はない。

 むしろ、決して、抜け出してはいけないのだ。君は美術家なのだ。なったのだ。

 美術家が、体験するべき世界から、脱出してどうするのだ?それで、一体、あのミュージアムを埋めつくす画業が、達成できると思うのか?君は、その渦中で、そう、誰よりも渦中のど真ん中を、通過しなくてはならない宿命なのだ!

 それが、その後のミュージアムの最下層部を埋める、最初の仕事になるのだから!

 水原の言葉が、ここにきて心に響いていた。



 クリスタル・G・ガーデンの仕事を終えたプログラマーは、本業のメンテナンスの仕事へと、速やかに戻った。

 メンテナンス業務の増加具合には、本当に驚いた。一週間の休みを、かなり強引にとっての〝副業〟であったが、慎重に、仕事に復帰した時はいつも以上に、従順に〝こなす〟姿勢を、示さなければならなかった。

 住宅メーカーの男は、このヴァルボワ大陸ではない別のところで、しかも少し異なった文明圏での〝人間〟ということだった。姿かたちも、変わらぬ人間そのものであった。宙空建築という技術が確立された、やはり、この自分とは異なる世界の存在ではあった。そのメーカーに、ほとんどタダ同然で、趣味の一部を提供してしまっていた。いくら趣味とはいえ、これを高く評価し、その実用性に驚嘆する反応を示してくれるほど、開発者として喜ばしいことはなかった。その部分を、プログラマーは、絶えず揺さぶらり続けられていた。

 クリスタル・G・ガーデンは、グリフェニクス社が展開する、新しい住宅地計画の要を担う、分割式の共存マンションだった。グリフェニクス社は、住宅整備事業を中心として、他に、エネルギー事業の、グリフェニクス・ア・エネーション。その重要な拠点として、グリフェニクス・ザ・ライン・エクストリームを、大陸の数十箇所に設置。その中で、さらに中心的存在を担う、グリフェニクス・スーパーエスカレーション。住宅と共に、自動車の開発、実用化の部門もあり、近い将来、世の中に登場させる予定だという。他にマスター・オブ・ザ・グリフェニクスという名の、決算のためのカード事業も展開され、その有料会員制度、グリフェニクス・エンブレムもまた運営中であった。

 そろそろ、本業へと腰を据えようとした、その日、プログラマーのもとに、不審な電話が一本かかってきた。イグドシアルとその男は名乗った。極秘に仕事を頼みたいと言ってきた。当然、今もこれからも、受付けることはないし、会社の業務以外に、プログラムに関する作業を、してはいけないことになっている。丁寧にそう伝えた。時期さえ考慮してもらえれば、交渉の余地はあるという雰囲気を、匂わせながらの返信にはなった。だが、イグドシアルの申し出は、意外なものだった。彼は、メーカーや、政府や、大陸の外の人間ではなく、自社の、しかも、彼もまたメンテナンス・プログラマーだったのだ。彼の名を検索すると、確かにオーバークラフト社の社員として登録されている。彼は自分の高くはないスキルを披瀝し、けれども、緊急にやらなければならない業務が発生している。この大陸全体のことだ。手を打たねばもう時期、崩壊してしまうのだ。オーバークラフト社の、修復事業の、異常な増殖は、ご存知だろう?何も感じないとは言わせない。ただ、それだけを言われて、電話を切られた。そのあと、自分のコンピュータに、彼からの依頼のプログラミングの、設計図のファイルが送られてきた。他にも、君のように会社とは無関係で、しかも、創造的なプログラミングを、趣味のようにやっている、そんな人物を紹介してほしいと。

 プログラマーは、イグドシアルが話した、大陸全体だとか文明全体だとかいう視点に、意識が引っかかった。そんなことなど、これまで考えたことすらなかった。イグドシアルからの情報は引きも切らず、流れこんできた。この大陸の成り立ち、コピーによる本体の大陸からの逃避地の創造。本体よりは、延命する可能性はあるものの、それでも、早い未来には、亀裂を招く結果となってしまうこと。オーバークラフト社は、政府の全面的なバックアップによる総力戦にもかかわらず、すでに、コントロールは、不能に陥っている。そして、僕は、リ・プログラミングにしか、もう道は残っていないことを確信した。それさえもほとんど可能性がない。そして、この自分は、一人で、プログラムをいじることが、残念ながらできないと。そう訴えていた。

 プログラマーは、その日一日、考えた。それ以上の猶予はなかった。会社に再び、有給の申請をするのも不可能だった。けれども、イグドシアルは、とにかくこれまで、独自に開発したプログラムや断片的なアイデアを、そっくりと送ってほしい。ただ、それだけでいいと言ってきた。そんなことなら、お安い御用だとばかりに、プログラマーは、即刻、返信してしまおうかと思った。しかし、とりあえずは、イグドシアルという人物について、より詳しく知る必要があった。バックオーダを呼び出し、フルホルバイン状態にした。



 予告編を、深夜制作している途中に、まさか大学で一緒だった西川美佐利からメールがくるとは思わなかった。卒業以来だった。結婚したので、式の招待状を送付していいだろうかと訊いてきた。当然行くと、即答した。しかし今はそれどころではなかった。そもそも式など、そのときに執り行なえる状況にあるのだろうか。アスカは何としても、ルシフェラーゼが完全にこの街を飲み込んでしまうまでに、人々に、その事実を伝えなければならなかった。意識の片隅にでも、何とか放りこんでおけば、何かが変わるはずだと思った。一人でも、多くの人の意識に。リ・プログラミングは、アキラをはじめ、プログラマーにすべてを任せるしかなかった。私の仕事はこれだった。

 美佐利からの返信は止まらなかった。夫の名前は津永学という。アスカも知っているかな?津永さんは見士沼祭祀っていう、治療院の院長のところで働いている人なの。アスカは気をとられないよう、何とか、コンピュータ画面にだけ集中しようとしたが、目の前には、見士沼祭祀によるこの肉体への感触が、全身に蘇ってきて、気持ちよさのあまりに、そのまま目を閉じて、眠りたくなってきてしまう。今、その名前を出してほしくはなかった。見士沼さん、アスカも、覚えているわよね?一緒に何度も通ったじゃないの。ねえ、アスカ。見士沼さんの治療院が、試験的なオープンを終了したあと、そう、あなたとの友達の縁も、何故か、遠ざかってしまった。津永さんとはちょうど、そのとき知り合ったの。アスカ、ごめんね。乗り換えたわけじゃないの。ただ、アスカだって、卒業してから、仕事が忙しかったでしょ?何をしてるのかわからないけれど、きっとアスカなら、もうみんなにも、認められた実績を、積み重ねているんでしょうね。私にはわかるわ。その忙しいピークが今なのよと、アスカは心の中で憤慨する。コンピュータ画面に向かって、無理やりに、集中力を取り戻そうとする。立ち入り禁止になっていた、過去のビデオ保管室には、似たような映画が製作されていた。部分的に。アスカは、今、自分が欲するエネルギーを感じるテープを脈絡なく、十本以上、棚から引き抜いた。SFからスプラッター、恋愛ものからミステリーから、本当に無茶苦茶だった。そして、モニター画面に、同時に四本流し、その箇所がやってくるのを待った。すべてのビデオから、必要なシーンを抜き取り、コンピュータの中で並列的にならべてみた。まるで、アスカには、順序が逆に思えてきた。今こうして、自分によって予告編が制作されることを前提として、必要なシーンが複数の監督のもとに撮影がなされていたかのように。違った目的で違った状況のもとに。そしてこうして、長い年月をかけて、バラバラに残しておいたかのように・・・。さらには、私は予定通りに、今このとき、回収を果たしている。回収したのだと、アスカは確信した。

 並列にならんだデータを眺めながら、ふと、プログラマーたちのことを思った。彼らは、どうやって、組んでいくのだろう。今、この瞬間、アスカはアキラのことを考え、彼と深く同化しているように感じてきた。彼もまた、優秀なプログラマーが製作した、プログラムの断片を、今こうして、並べて眺めているのではないか。連絡したい衝動を、必死で抑えこんだ。確認してしまえば、そうではない事実が露呈してしまいそうだった。今、何も確認しないからこそ、同時に作業が重なり合っているのだと、そう信じた。

 数分の間、美佐利からのメールのことは、忘れていた。あなた、結婚の予定は?と訊かれていた。これ以上、返信するのは面倒だった。今度二人で、ゆっくりと食事をしようと伝え、今残業をしていて、もう一踏ん張りしなければならいことも、伝えた。

 11もの、まとまったシーンを、さらに切り分け、順番を決めていき、最後には、さらに削って、タイトにしていった。再び、順番をわずかに、ズラし、引き伸ばし、また切り刻んでいく。テロップをいれ、本物の映画さながらに、ストーリーのナレーションと公開日の告知を、挿入していく。

 アスカはアキラに言われたとおりの内容から、キャッチコピーを考え、そのストーリーラインを想起させる映像を、出現させ、転調させ、展開させていった。

 美佐利は、男とのツーショット写真を送ってきたので、アイフォンの電源を切った。



 アキラの方針は固まった。クリスタル・G・ガーデンという住宅にかけたプログラムを土台として、そこに、別のアイデアを編みこむことにした。もともとの、「時限建築」を可能にさせた一次プログラムがあった。大地にたてた建物を、そっくりと地面から浮かして、移動させて、宙に暫定的に固定させた。元には、『宙空百年構想』があった。そんな建築物が、この世にあるとは思えなかったが、そのプログラムは確かに、存在し、クリスタル・G・ガーデンは存在し、実際に、自分も足を踏み入れ、体感したのだとそのプログラマーの男は言っていた。自分が開発した、二次プログラムをかけた後の、Gガーデンに。

 しかし、そのプログラマーは、それが現実だろうが、まだ実用化前であろうが、自分のプログラミングが評価され、採用されることの方が重要のようであった。

 時限建築が、実際に運用され、宙空がそれによって、網目状に張り巡らされている現実も、またある意味、存在しているのだろうと、アキラは考えた。そして、あるいは、この時限建築は、このルシフェラーゼによる、危機を通過した、そこにある世界なのではないかとも思った。一次プログラムは、すでにアキラの知らない世界では、普通に存在している。そこにある意図とは、どう考えても、不安定になっていく地球上の大地を、懸念してのことだった。そして、二次プログラムは、そうして宙空に移動させて、さらには細かく分割した建物を人間の感覚上、再び、一つの城へと戻すことだった。元々の大きな邸宅を再現するための、幻覚作用だった。アキラはここに、逆のプログラミングを、つまりは、より分割していく方向の暗号を、かけていこうと思った。さらに細かく、さらに細かくと。この大陸がすべて、ルシフェラーゼに飲み込まれてしまう前に、物理的な影響を、決して受けない、小さな小さな単位にまで、分解してしまうのだ。そして、アキラは、このルシフェラーゼ現象をも、逆手にとることにした。ルシフェラーゼの土壌の加速に伴い、そこに引っ掛け、分割分解プログラムもまた、加速させていくのだ。つまりは、ルシフェラーゼと完全に連動させるのだ。双方が比例して、そのレベルを上げていく。結局は、起こってしまうことに対して、対抗していくような在り方では、最終的に破綻、敗北からは逃れることはできない。そうではないのだ。逆手にとるのだと、アキラは思った。味方につけることが、最大の武器なのだ。その在り方を固定させ、安定させ、指揮をとることが、この自分に課せられた、暫定的な在り方でもあった。少なくとも、今この時における、存在意味であった。

 そして、ルシフェラーゼが、この世界をすべて呑み尽くした後、ルシフェラーゼの影響力が、完全に消えてしまったことで、掛けていたプログラムもまた、解消する。

 分断を引き起こした亀裂は、修復し、次々と接合を開始し、自発的に復旧、復活を果たしていく。実に理に適っている。アキラは確信を持った。選抜したプログラマーの何人かに、そのビジョンを打ち明けた。彼らはその奥にある、世界の今の本当の姿に対して、気を留める者もいたが、それよりも新しく重ね編みこむプログラムのことに、本能的に耽溺していった。彼らは、自分が極秘に開発していたプログラムに、改変を加え、アキラのビジョンと合うものを、次々と提供し、プログラマー同士、持ち寄った技術の調整に、多くの時間をさいていった。

 彼らは、ほとんど衝突することなく、気持ちよいテンポで、次々とアイデアを躊躇なく投入していった。

 副作用を最大限に抑え、さらなる中和を図り、より性能の良い、「一つ」のプログラムへと、仕上げていった。そして、解読した、ルシフェラーゼのプログラムの記述と、完全なる融合を果たしていった。




 ルシフェラーゼ!

 あなたの身にも、すでに起こっている。

 意識の深いところでは、今・・・。

 発症のときを・・。

 そう。このとき。


壮大なバラードの音楽が流れ、黄緑色に、胸を点滅させ、蹲り、倒れていく人たちの、映像が続く。

 これは、現実である。


ナレーションに、時おり、巨大なテロップが入り込み、大きな効果音と共に、予告編映像がスタートする。


 あなたの隣人を、襲う、連鎖の波。

 そう。これは、

 個人の、局地的な現象ではない・・・。

 狭まりゆく、空間。


 その中心にある、輝くルシフェラーゼの印。

 高温になり、吸い込む力が

 加速度的に増していく。

 

 小さなルシフェラーゼは、しかし、何事もなかったかのように、


 蒸発。蒸発。蒸発。



 だが


 明らかに、空間そのものは

 その分だけ、消えてしまっている・・・。

 


 最初は、気がつかなかった。

 気づかれない程度の、ことだった。

 しかし

 明らかに、空間そのものは

 その分だけ、消えてしまっている・・・。

 そして

 発症した人も、また・・・。


 次第に、ルシフェラーゼは、蒸発する作用以上に

 大きく成長していくものが・・・出てくる。


 高温になり

 蒸発を繰り返し、

 質量は減り、

 小さく・・・。

 だが、それ以上の膨張。


 ルシフェラーゼと

 さらなる、ルシフェラーゼとの衝突。

 合体。

 融合。

 次第に、誰の目にも。

 


 人間の胸に

 光っていたはずの黄緑色の塊。

 今や

 人間の外に

 抜け出てしまったかのよう


 合体と、衝突を繰り返すルシフェラーゼの巨大化。

 空間の喪失の加速。


 ルシフェラーゼに吸い込まれていく。

 飲み込まれていく、この世界。


 獲物を捕獲するように、

 それらは 人間の生存地帯を奪い。


 来たる 

 X DAY



 フィクションの世界では

 決して。


 どうか、胸に刻みし、


 これは、現実。


 現実にやってくる


 現実。




45秒のスポットライトの予告編映像は、終了する。





 すべての手配を終えたときだった。

 ルシフェラーゼは、もう自分の身体では起こらなかった。

 ドーム型に光った土地が隆起して、突然、現れた山のようでさえあった。

 以前、見たことのある、「マウント・イー」という映画を思い出した。夜の闇に、蛍光色の山が聳え立っていた。まさにそれだった。

 ルシフェラーゼの輪郭は、次第に、小さくなっていった。また違う方向にも、ルシフェラーゼは、音もなく現れた。どんどんと、小さくなっては、また別の方向に。

 近い所にある同士のルシフェラーゼが、重なり合うのがわかった。ルシフェラーゼ同士が、互いに近づきあったように見えた。ルシフェラーゼが、引き合う瞬間を、アキラは見た。ルシフェラーゼは、融合したときよりも、さらに大きくなったように見えた。

 孤然と現れたルシフェラーゼは、高温による自らの蒸発に、耐えられず、消えた。


 合体を果たしたルシフェラーゼは、蒸発することなく、一時的に、温度を低下させたのか、それ以上に、膨張した。

 そして、次第に、音が聞こえるようになった。キューッという、排水溝に水が流れていくときのような。はじめ、自宅のキッチンが聞こえたように感じたが、その音は、ルシフェラーゼの巨大化した輪郭から、明らかに聞こえてきていた。

 アキラは、一つの大きなルシフェラーゼに焦点を決め、注意深く近づいていこうと思った。


 家を出て、まさに、ビルとビルの合間から見える、奇怪な蛍光色との距離を、詰めていった。音は大きくなっていった。そして、ギューッという、呻き声にも似た吸引の流れが、アキラの体にも、感じられるようになっていった。吸い込んでいるのだと思った。

 人間の体内から出て、解放されたルシフェラーゼは、自らの周りを、己の滋養のため、取り込むかのように、凋流を発生させている。


 アキラは、すでに、その強力な磁力の片鱗に、取り込まれてしまっていた。

 慌てて、ルシフェラーゼから遠ざかろうとするが、自分の意志とは裏腹に、体が勝手に、ルシフェラーゼへと近づいていく。

 少しずつ少しずつ、ほんの僅かではあったが、確実に近づいていっている。

 反抗する力を振り絞れば振り絞るほど、思いとは裏腹に、逆へ逆へと、体の自由は奪われていく。

 なんてことだと思った。時は遅いのか。

 わずかずつでも、進んでいく事態の変化に、後悔するにはもう、遅い状況であった。


 このじわりと進む現実ほど、アキラにとって、恐ろしいものはなかった。

 だが、アキラは、プログラマーたちの、結果的に団結した形となった、最終リ・プログラミングを信じた。必ずや、ルシフェラーゼの進行に連動して、確実に、発動するはずだと思った。そして、この自分の身体が、ルシフェラーゼに取り込まれていくにつれて、プログラムもまた、書き換えられていくことを思うにつれて、アキラの精神状態は次第に落ち着きを取り戻していった。

 空気の流れが止まっているように思えた。

 自分以外のこの空間が、まるで動いていないかのように。自分もまた止まっている。


 動いているのは、ルシフェラーゼだけのようだ。そして、その動きは、ほんのわずか。

 アキラに再び、意識と身体の乖離現象が、起こり始めた。

 ルシフェラーゼの音は、すでに、アキラを完全に取り囲み、もう山というよりは、山脈の一部かと思うほどに、背丈も、横幅も、拡張している。

 街全体のルシフェラーゼが、今どのような状況なのか。把握することはできなかった。

 音だけが、大陸全体におけるルシフェラーゼの浸食を伝えてくる、唯一の通り道になっている。

 ルシフェラーゼは、その中心に向かって、周りの物質を、次々と吸い込んでいき、近づけば近づくほどに、その凋流は強くなっていく。

 なので、実際、どんどんと、取り込まれる速度は、加速しているはずだった。なのに。

 アキラの意識の中では、時間が経つのは、どんどんと緩慢になっていった。

 事態の緊迫感が、増すはずの領域に入り込めば入り込むほど、過ぎ行く時間は、緩慢になっていき、ひどく眠気に包み込まれるようになった。意識を失いかけているんじゃないかと思った。しかし不思議と、脳の中はいつもよりも、鮮明に感じられる。その遅い速度は、普段なら、やり過ごしているはずの微細な記憶の粒子の信号を、捕らえてしまっていた。



 『底なる神殿』に異変があったことを、ニュースは速報ですぐに伝えていた。

 ケイロもまた、家からすぐに飛び出し、底なる神殿に向かって歩き出していた。

 ニュースを聞いた多くの人が、今、その事実を肉眼で確かめるため、外に出てきているはずであった。霧が立ちこめ、その白い闇の向こうには、本当に底が感じられない世界の果てがあった。

 確かにここに、自ら、身を投げていった人たちがたくさんいる。事故として処理され、公式の発表だけでも、数百にも上っている。行方不明者のほとんどが、この底なる神殿と、何らかの関係がありそうだ。自殺の名所としてのレッテルを貼られ、弱さの捌け口として、この白い闇を、心の叫び受け止めるための神殿だという、そんな認知が、あっというまに広まっていった。公には、忌み嫌う人々が多い中、逆にそんな彼らもまた、そのような場所の必要性を自ら認めていた。しかし、世間の手前、自ら訪れようとはしなかっただけだ。存在している事実そのものが、安堵の念をもたらしていた。

 その底なる神殿にかかった深い霧が、完全に晴れてしまい、そこにはまさに自然がつくった造形美かと思しき山肌が、姿をあらわし始めていることを、報道は伝えていた。

 そして、実際、ケイロの目の前には、場違いな本物の山が屹立していた。

 後に「マウント・イー」と呼ばれることになるものだった。底なる神殿という名称も概念も、あっという間に吹き飛んでしまうことになる。マウント・イーは、その輪郭と、都市の景色に滑らかな符合を、見いだすことができなかった。繋ぎ目を探ろうとすると、意識がぼおっと薄らいでいき、今にも昏睡状態へと引き込まれていくようだった。

 境目が繋ぎ目になっていない。徒歩で来たケイロは、それ以上近づくことができなかった。マウント・イーは、地中に浮いているように見えた。D・I車をレンタルし、マウント・イーと目線をそろえて、もしくは、上回る位置から、見下ろしたかった。

 ケイロは、地上を含めた宙空、天空と、そのすべての空間で、今、隆起や沈降が起こり始めていることを察知した。

 その最大の物理現象が、これなのではないか。これまでの整合性は、今、崩れ始め、まったく辻褄の合わない現象が頻発する。その始まりなのではないかと、直観した。

 これまで、何もなかったはずの底の深い空間は、一夜にして、巨大な隆起物が支配している場所へと変わってしまっている。まるで、これまで、暫定的に何もないことを維持していた場所が、ついに耐え切れず、真空をうめるかのごとく、その周りにある物質を手当たり次第、かき集めているようでもあった。



 見士沼、戸川、そして、ケイロの、まだ起こっていない三つ巴を想像しているうちに、アキラは、その背後に存在し、彼らをバックアップしている大きな空気の塊を、感じるようになっていった。

 もやもやとして、黒く赤く、ときに黄色やオレンジ色に閃光し、蒼く、こげ茶色に渦を巻く、それらの勢力は、互いを遠い場所から牽制し合っているように見えた。

 すでに、背後の勢力もまた、しっかりと支持をする人物を決めて、その人物との回路を結び、強固な支援を約束して、その人物からも、了承と嘆願を受けているような、信頼感が浮かび上がってきた。ケイロの後ろには、金融系の巨大資本を有し、個人の文化と芸術活動を強力に支援する組織が・・・。と、側の後ろには、豪華絢爛な美と華麗さによって、国家のあらゆる外装を、塗り固めようとする、王家の血筋を引く、そんな系統が・・・。さらには、見士沼の後ろには、化学技術と超常技術を組み合わせたテクノロジーを基盤とした研究施設を運営する集団が・・・。

 それらの勢力は、常に後ろにいるもの同士の在り方、世の中への出方、働きかけ方を、絶えず伺い、その緊張感は増してきているようだった。

 アキラにはこの三者の思惑までは、見えてこなかった。立場も目的も、極めて異なる勢力であることだけはわかった。ここまで、陰影をくっきりとさせているのだ。そして、その個性は、ケイロ、戸川、見士沼の思想、志向、性格とも少なからず連動しているように思われた。勢力が、バックアップを決めたことで、彼らにその性質が、色濃く現れたのか。それとも、元々の、生まれ持った彼らの性質が、こうした、勢力を引きつけているのか。

 どちらにしても、この陰影を初めとした、それぞれの境界線は、明確で異様に際立っていた。



 あの賭博場。カジノを経営していた奴ら・・・。この顕著な三つの勢力が、その中のどれかが、もしかして、関与していたのではないだろうか。思い出したくもないことが蘇ってきた。

 あのときからなのだ。確実にズレていた。いまだ、アキラは、自分を取り戻せてなかった。アキラは、この増殖し、合体と融合を繰り返して、大陸における、空間を奪っていくルシフェラーゼに、この身の再生も重ね始めていた。

 あの三つの勢力は、確実に関わっている。

 どれであるのかを、今、追求する気にはなれなかった。

 そして、突き止めたとして、今さら何の抵抗もできない状態であった。

 ある特定の、個人の裏に隠れ、この世界への影響力を発揮しようとしている。そうなのだ。彼らは、今、表舞台へと出ようとしているのだ。

 すでに、アキラの視覚は、通常の景色を映してはいない。

 三つの勢力が蠢き、時に対立し、手を組み、闘いに発展して、そのたびに、勢力図が変わっていく。空間は多大に震わせ、亀裂が入り、組み変わり、激しく蠢き、躍動している。

 その空間同士の裂け目や、重なりの形状に合わせて、光は、乱反射を繰り返している。

 見たことのない巨大な建造物が、街に乱立していたかと思うと、たったの一つの建物が聳え立ち、街の覇者であるかのごとく、睥睨している。

 巨大な輪郭同士が、半透明に重なり合い、再び離れて、横に並存し、また重なり合い、すべてが消えていく。

 アキラの皮膚と、呼吸器は、高温になっていく周囲からの圧迫感を、的確にとらえていた。

 ルシフェラーゼによって吸い込まれ、絡めとられた空間は、二度と復活することはなかった。

 バックオーダをかけても、返答はすでになかった。何の反応もない中、フルホルバイン状態へともっていった。何故か、手ごたえがあった。自分の身体全体が、この切迫してくるルシフェラーゼのコアと、ぴったりと重なり合ったかのようだった。

 その瞬間、オーバークラフト社は消えた。ここに消滅した。オーバークラフト社が、これまで掛けてきた修復プログラムもすべて効力をなくし、ブロック・ダイヤグラム計画も、白紙撤回された。すると、バックオーダから、予想外に今、返答がやってきた。タイムパスが発動したという情報だった。タイムパス。今、本大陸との回路は、繋がりました。本大陸?バックオーダは、正常に機能し始めた。このコピー大陸は、本大陸との回路の復活に、成功しました。コピー大陸とは、本大陸をそっくりトレースし、時空を少しズラし、照射した、仮りの避難都市大陸で、あります。

 この大陸が、本大陸の消滅よりも長く、存続させるという計画によって、制作されました。大陸が安定するまで、人の大量の移住には、リスクが伴います。まずは、少ない人たちからの、移送によって、実験は開始されました。囚人や、社会的落伍者、心身の欠損した者から、そっと、コピー大陸への移送が始まりました。本人たちは、気づいていません・・・。

 この俺も、また、そうなのか・・・。

 あのカジノでの一件だ。あそこで仕掛けられた・・・。

 その通りですと、バックオーダーは答えた。本大陸と、ほとんど見分けがつきません。

 透明のガラス越しのように、コピー大陸にないものも、また、その特殊なレンズを通して、それまでと変わらぬ世界の見え方が、維持されていました。

 しかし、結果は、ほぼ、同時期での崩壊。それでもわずかに、コピー大陸の方が長く存続します。本大陸はまもなく、完全なる崩壊へと向かいます。タイムパスはつながりました。

 本大陸と、コピー大陸をさまたげる、薄い透明なベールの壁は、消滅しました。

 タイムパスもまた、まもなく消滅します。言われていることが、アキラには全然わからなかった。

 あの三つの勢力のことを・・・。あれは何だ?実在するのか?

 また一瞬、高温状態は、わずかに緩んだ。また一つ、ルシフェラーゼは蒸発し、消滅したのだろう。リ・プログラミングは、この大陸にも、コピー大陸にも、適応することはない。

 プログラミングをかけて、分割した微細粒子は、新しい何もない場所に、息を吹き返していく。

 時間はさらに、緩慢になっていった。



 D・I車に乗って、ケイロは、かつての《底なる神殿》の跡地へと向かった。

 そこには、マウント・イーがやはり聳え立っていた。D・I車は、マウント・イーの、さらに重空を目指して、走行を続けていた。昨夜見たときよりも、マウント・イーの色合いが、植物の緑黄色に近づいたように思えた。昼だから、かもしれない。蛍光色を発していた真夜中の姿とは、一変している。青々と草木が生い茂り、あの人工的なドームのような風体からは、一転、自然な造形美を露呈させている。表面はかなりの凸凹で、やはり、真夜中に見た整合性の高い円錐形からは、生身な崩れ方をしている。

 ちょうど、真上に差し掛かったときだった。

 D・I車がわずかに、震えたことをケイロは感知した。一瞬、エンジンが止まったように感じた。上空には風が出始めていた。

 マウント・イーの淵を渦巻くように、旋回していた。マウント・イーが、周囲の世界との齟齬を、表現しているようだった。それまで、何もなかった空間を、侵食するように出現したのだ。

 風はさらに強くなった。

 D・I車は、マウント・イーの上空に、立ち止まっていることができなかった。

 マウント・イーが定めた、自らの領域から、異物をはじき出そうとしているようであった。

 D・I車は、その波にさらわれ、マウント・イーからは、次第に、遠ざかっていった。

 計器は狂ってなかった。

 マウント・イーをモチーフにして、あらゆる変奏をほどこした、連作にしようと思った。

 ケイロは、ここを詳細に観察するため、D・I車で上空を飛び続けた。

 マウント・イーの火口のような場所が、そのときパックリと、闇の中に、空洞を広げているように見えた。それは、光の届かない単なる山の内部の暗部を、外にさらけ出しているだけのようには、とても見えなかった。

 ケイロは注意深く、火口付近にまで、D・I車の高度を下げていった。

 火口付近では、強風が吹いているのではないかと思ったのだ。外に噴き出す風なのだろうか。中へと吸い込む流れが、発生しているのだろうか。少しずつ、慎重に距離を詰めていった。

 何も起こらない。

 穴の中の黒の陰影は、一様ではなかった。わずかに濃淡ができていた。

 そして。さらには、その闇が薄まった場所には、光の小さな粒子が点在していた。


 そう思った瞬間、思えば思うほど点は増えていき、光にも色の異なる波長が感じられた。まだ、肉眼では色彩にはなっていない。この奥には何かがある。ただの空洞が広がっているわけじゃない。その奥があった。山の奥。山を越えて、突き抜けて・・・。いや、違うと、ケイロは感じた。これは山じゃない。入り口だ。出入口だ。ここは、ゲートなのだ。ただ見ているだけでは、何の意味もなさない、通過口なのだ。


 ケイロは、元々、ここが『底なる神殿』であったことを思い出した。

 何ら、本質は変わっていないのだと思った。初めから、ここにはゲートがあったのだ。今もこれからもただ在り続けているのだ。かけられた衣装が、その都度違うだけで、いつもここには同じものがあった。


 そう確信したとき、ケイロの左手は、ギアを下降へと促していた。

 D・I車は、滑らかに、しかし、圧倒的な意志を持って、車体の性能以上の動きを宙空に表現していた。一足先にと、ケイロはD・I車に呟いた。

 やってくる大陸の崩壊もまた、ただの衣装にすぎないのだ。

 そこには、初めからそれはあったし、これからもあり続ける。

 俺はそれを、今、しっかりと見据え、捉え、体感し、一つになり、その状態をできるだけ長く、できれば死ぬまで、キープしていきたいと心底思い始めているのだ。


 それは、結局、最初から在り、最後まで在り続けているのだ。

 D・I車は、マウント・イーの中へと、何物とも接触することなく、進入していった。


















































ザ・マスター・オブ・ザ・ヘルメス 最終章。 




































 時は満ちたのだろうか。




































 波。 また、波。 もう一度、波。 そして、静寂。



































マスター・オブ・ザ・ヘルメス帝は

七日目になって休まれる。



































その後・・・。




































第5部 第12編  群像の、フル ホルバイン






















 賢帝は、カイラーサナータへと呼ばれた。

 彼は、戦利品と共に訪れる。

 途中、鏡のゼロ湖の付近を通った。霧が出ていて、水面もまた縁取り以外ははっきりとしてなかった。

 銀河系の、ある複数の天体が、一直線に並ぶ、グラウンドクロスが訪れようとしている今、このタイミングで呼ばれる意味もまた、賢帝はぼんやりと思い浮かべていた。


 ついに、来たのだろうか。

 高ぶる心も、慰める声も、期待の震えも、なかった。

 ただ一つの紋章が、霧の中で大きく蠢いているだけだった。

 霧はいよいよ濃くなり、雪原のなか遭難しかけているような、そんな状態へと変わっていった。

 足取りがすでに、カイラーサナータへの道筋を記憶している。

 賢帝は、身体から強張りを完全に取り除くことに、意識を集中した。羽の紋章。羽のように見える印。舌が二枚、胴の上部に重なり、雄大に左右へ広がっている。胴の下部には馬の胴体のように引き締まった筋肉の四本の足が、地面を力強く捉えている。

 宙に飛び立っていくのか。

 地を颯爽と駆け抜けていくのか。そのどちらとも、今は言えない。

 賢帝はカイラーサナータの前にいる。


 次の瞬間、内と外を隔てる壁として機能していた、繊細な彫刻の施された、両扉は、目の前にはなく、すでに背後に存在している。振り返らなくてもわかった。扉はすでに後ろだ。天井は高すぎて見えない。ここが、壁を隔てた内部なのか。または外にいて、空を仰ぎ見ているのか、一瞬わからなくなる。ここにも、動物をかたどった羽の紋章の刻印がある。柱という柱に、大小さまざまに刻み込まれている。

 カイラーサナータそのものもまた、この動物の風貌をかたどっているのが伝わってくる。

 

 賢帝は誰に何を言われなくとも、持参した戦利品を、輪郭のない祭壇に置き始めた。

 心を込め、丁寧に。羽ばたいていく両翼をつけるかのごとく。

 賢帝の心は、静かに、そして、戦利品たちの輪郭もまた、はじめから何もなかったかのごとく、消えていった。

 そのとき、賢帝の身体の輪郭も、また、消えていった。

 

 カイラーサナータと同化した感覚が起こった瞬間、その輪郭もまた、溶け、すべての存在が溶け、融合し、再び今度は、別のものとして蘇る状態へと、進んでいくようであった。

 古い時代、新しい過去にも、別の誰かであった時、自分が生んでしまったものをこうして、天へと捧げに来たような気がする。

 あの時は、誰で、何を持ってきたのだろうか。何を手放したのだろうか。


 すべての記憶が蘇ったとき、賢帝の生もまた終わる。




 激原徹と立花フレイヤは、別居婚を続けていた。

 数ヶ月に一度、このときは、ちょうど、二ヶ月半のあいだが空いてしまっていた。

 激原の自室マンションで、セックスをしてから、近所のお好み焼き店に二人は来ていた。

 二人はほとんど会話もない中、お互いを見つめていた。

 食事を終え、ビールを飲みながら、激原は自分の近況を語り始めた。

 科学者で、水原の恋人の陰西カスミと、最近はほとんどタッグになって仕事をしていること。彼女がこれまで、開発してきた新しい建築技術を見るのが、毎日の生きがいであったこと。これまで陽の当たらなかった彼女の仕事だったが、ここまでよくめげずに続け、革新的な工法を、次々と編み出してきたということ。

 感心はすぐに、激原自身の創造性に、火をつけていた。

 この複数の工法を見たとき、瞬時に、その組み合わせた先にある、地図のようなものが見えたのだった。ぼんやりと、焦点のぼやけたその先に、ホログラフの設計図が光り輝いて浮き出てきたのだった。

 激原はすぐに、その光景を脳裏に焼きつけ、消え行く残像を頼りに白紙に写し取った。

 目の前の、陰西カスミに見せた。彼女もまた、興奮していた。その後自宅に帰ってからも、激原はうまく眠りにつくことができなかった。布団に入っても、天井には、また新たな設計図が浮き上がっていた。

 ほんの数時間前の古い設計が、今度は引き金となり、さらには広大で、強靭な工法に支えられた地図までが、提示されていた。陰西カスミに、すぐにファックスを送った。彼女もまた、眠れない夜を過ごしていたらしかった。その新たなるビジョンから、逆に、今度は、工法を逆算した、新しい技法が、生まれてくるのだった。

 そうして、二人は、次々と、創造と逆算を繰り返していった。

「一息ついたんだよ」激原は、フレイヤに言う。

「連鎖は、止まらないかと思った」

 フレイヤは無表情だった。ほんのわずかだけ頷き、良かったねと、小さな声で呟いた。

「君と、結婚したおかげかもしれないよ」激原は言葉を続けた。

「まだ飲む?」

 フレイヤは頷いた。激原はビールを追加した。

「私は、何もしてないわ」

「そういうのって、見えないエネルギーで、影響してるんだよ」

「信じられないわね」フレイヤは言った。「そんなのは、信じないわ」

 フレイヤはそう言うと、再び沈黙の領域へと戻っていった。

「それにしても」

 フレイヤはすでに、ビールを飲み終えていた。

「おいしいわ。あのあとだからかな。食べるご飯も。お酒も。生きてるって感じ。ここのところ、すっごく忙しかったし。仕事をたくさん、時間の中に詰め込んで詰め込んで、それで、そのあと、あなたと会って、ああいうことをして、今。至福。私。幸せ」

 激原も頷いた。

 彼女のその表情に、仕事の話も吹っ飛んでしまった。

 自分もまた彼女と同じで、仕事に初めて、自分の色が出せたことに満足していた。

 しかし身体は疲れていた。そのせいでなおさら、深く愛し合えたのかもしれなかった。

 このまま、この状態のままの生活が、続いていくことを、激原は望んだ。

「長谷川セレーネがいなくなって、できた穴に、私は吸い込まれていっている。因果なものよ。私が、彼女を消したがっていた。彼女を、引退へと追い込んだ張本人で、望みどおりに、そうなったけれど・・・」

「けれど?」

「セレーネをなぞっていくようで、少し嫌ね」

 フレイヤの話の語尾が、今の自分の気持ちのよい波長とは、外れていくような気がして、激原は慌てて、次に会う日のことに話を逸らした。

「今日はこのまま、帰るでしょ?」

「もちろん」

「次は、また、二ヶ月後くらい?」

「スケージュルを、確認してみないと。マネージャーに。それからでいい?ほとんど休みはとれなくなってきているから。半日とか、そのくらいしか。直前で、悪いけど」

「いいよ、それで」

 激原はこれまで溜まっていた精を一気に解き放ったことで、しばらく、そのことからは、離れていることができると思った。今は何も考えたくはなかった。陰西カスミとの盛り上がってきた仕事に関しても、今は何も考えたくはなかった。



 陰西カスミの元には、鳳凰口建設との盛り上がった打ち合わせに、水を差す、奇妙な訪問者が現れていた。その男は、インターホン越しに、自らを名乗ることはしなかった。陰西は研究所の自室にいた。

 激原という男との会話で、生まれそうになっている新工法を、いち早く小さな形にして、痕跡を留めておきたかった。インターホンは鳴り続けた。こんな夜中に、まともな訪問者なわけがない。陰西は、自分の影に呼ばれているような気がしてきた。何か言葉を発するべきなのか。逆に、インターホンを押し返してやった。

 その後、奇妙な呼び出し音は、なりを潜めた。陰西は記録を留めることに没頭し始めていた。そのタイミングで、再び、インターホンが鳴った。名を名乗る気はないようだ。お入りになりますかと、陰西は相手を試すかのように言ってみた。ふと、室内の空気が変わったのがわかった。ほんのわずか、いや、かなりの重みが、加わったように感じられた。

 陰西は身体を強張らせた。

「誰?」悪寒が一瞬襲ってきた。「誰なの?」

 空気が激しく震え、この部屋の空間が、そっくりと別の場所へと飛んでしまったかのような感触があった。全身を黒い衣で覆った、人間くらいの大きさの何かが、そこには立っていた。彫刻を覆っている布のようにも見えた。陰西はほとんど凍りついたように立ちすくんでいた。

 前にも一度、お伺いしましたと、その黒い塊は言った。わずかに焦点がぼけ、色素が薄いように感じる。どこか、別の場所で撮られた映像を照射しているような。

 陰西は天井を見上げ、光源を探した。

「誰なのよ!」

 滞っていた喉が、一気に開き出す。

「名前は、まだ、決まっておりません」

「はっ?」

「名前は、まだ。あなたのようには」

「私が、何?」

「カスミさん」

「どうして、このタイミングで」と陰西は思った。

 こんな、浮かれ気味の気分のよい夜に、なぜ。今夜をはかったかのように、こうして。

「そうです、カスミさん。今夜でなければなりませんでした。すべては同じ。ズレは許されないのです。特に、こうした刻には。開始のときを間違えては。すべては、少しずつ、横に逸れていき、できあがる全体は、まったく見るも無残な、中心を欠いたものになってしまいます。ならば、中心を先に定め、そこを軸に組み立てていけばと・・・、そうおっしゃいましたね、いま。そのとおりです。まさに、それがおこなわれている最中なのです。だからこそ、始まりの刻がズレてしまえば、身も蓋もなくなってしまう」

「私が、始まりの何なのよ!」

 陰西は、反射的に口ばしった。

「そうです。あなたです。あなたが始まりの鐘の音を、今回は、鳴らすことになりました」

「今回は?毎回異なるの?何度もあることなの?」

 カスミは質問してる自分が、そもそも何が言いたいのかわからなかった。

「しかし、今回は特に重要です」

「それを、伝えに?私の工法のことなのね」

「ですから、一度、あなたとは、そのことで話をしました。覚えていないんですね」

 カスミは答えられなかった。思い出そうと、頭の中を巡らせることもなかった。

 じっと、人型の塊を覆う衣そのものを見つめていた。皺は、少しも変化することはなかった。

「私のホシは」

「ほし?」

 カスミはすぐに、反応する癖がついてしまっていた。

「私の出身の星のことです。天体です。そこからやってきたという、その場所。そこは、あなたの生まれた場所です。元々。私はあなたなのです。私はあなたの過去。遥か昔の過去なのです。カスミさん。過去というのは、不思議なものですね。近い過去だと不可思議さはさほどないですが、ずっと極端に、過剰に、激しく引き離して、遠くに移動すれば、いったい、どっちが過去になるのか。そんな感覚は、どこかにすっとんでしまいます。未来と過去の区別はつかず、入れ替えようが、何をしようが、好きなように、そう、あなた好みに、捕らえ直してしまえる!私は、あなたの未来ということにもできそうだ!」

 あなたのおしゃべりに付き合ってる暇はないわと、カスミは言った。

「もう、だいぶん、時間は無駄にしてしまった」

「おっと、カスミさん!墓穴を掘りましたね、あなた!時間をだいぶん、浪費してしまった、って?じゃあ、時間を消費していなければ、僕はいつまでも、こうして喋っていていいのですか?」

 カスミはどうすることもできなかった。この空間の主導権は、完全に向こうにあった。

 逃げることも、攻撃することも、終わらすこともできなかった。

「時間は過ぎてなどいません。むしろ、あなたに、時間を与えているのです。これはささやかなプレゼントです。僕が話せば話すほど、あなたが僕に、時間を明け渡せば明け渡すほど、あなたには、時間が返ってくる。ほら、例えば、今。部屋の時計の針は、0時35分。ねっ?僕があなたとの会話を始めたのが、0時45分。10分も遡りしている。後戻りしている。すばらしいです。どうですか?もっと戻しましょうか?長い夜が、今日は、必要でしょう?カスミさん。僕は、あなたにいろいろと、贈り物をしに来ているんです。仲良くしましょう。何故って?それは、僕のほうがあなたに、恩義があるからです。これからあなたに、大きく助けられるからです。あなたは僕の過去になります。ですから、過去に働きかけて、よりよい未来を創造したい。それはさらに、あなたにフィードバックすることで、あなたの未来をも、輝かしいものにする。ねっ?どっちが先で後か、わからなくなってくるでしょう?さあ、まどろっこしいことはもうやめましょう。時間が増えれば増えるほど、人生は有意義になるとも、限りませんから。そろそろ、名前も、定まってきているでしょうから。今回、あなたと組む、その名前です」



「再就職、決まったんだってな」

 二人での旅行は叶わなかったが、アキラは戸川の高級マンションを訪れ、久々に飲み明かすことになった。

「それ、だいぶん前の話だよ、兼ちゃん。その仕事は、もう、なくなったんだよ」

 アキラは、何の屈託もなく答えた。

「やめたのか?」

「そうじゃない。なくなったんだ」

 アキラは、戸川が相手とはいえ、説明するのが面倒だった。

「つぶれたんだ。会社そのものが」

 今度は、戸川が答えなかった。

「時代の変わり目に、飲み込まれたんだ」

「どうするの?」

「もうどこにも、所属したりはしないよ。もう誰にも好きなようにさせない。もう、いいんだ。たくさんなんだ。そこはもういいんだ。卒業だよ。抜け出したい。同じことはもう繰り返したくない。何とかやっていくよ。一人で。自立したいんだ。もう本当にたくさんなんだ。これほど復讐心がめらめらと沸立ってる時も、ない。これからは、復讐に人生を捧げるんだ。復讐劇が始まるんだ。誰であっても、好き勝手にはさせない。俺は入れ物じゃないんだ。左に行かされれば、右へと振り向かされ、右に行けば、左へと蹴りかえされる。俺はビリヤードの玉じゃない。俺は自身のキューで玉を打つんだ、これからは」

「酔った?」

「一杯も飲んでないよ」

「けれど、アキラちゃん。復讐劇だなんて」

「どう思う?」

「最近のアキラちゃん」

 戸川はアキラの背後をちらちらと見た。

「いや、最近の俺たち。あのあと、ずいぶんいろいろあって。変わってしまったな」

「そうだな」

「戻れないな。もう旅行に行くこともないのかもね。一緒の飛行機でなんて」

「すべてが終われば」

 アキラの目の緊張が、僅かに緩んだ。

「すべてのケリがつけば。そうすれば、そのときは」

「思いつめるなよ。俺から言えるのはそれだけだよ」

「その逆だよ、兼ちゃん」

「わかってるよ。俺だって、言葉どおりには、受け取ってなんかいないさ。何を話せとも、言わないよ。起きたことを受け止めるだけだ。君が起こしたことを、受け止めるだけだよ」

「ありがとう。ところで、一つ訊きたいんだけど。見士沼祭祀は、どうなってる?」

「どういう意味?」

「前、言ってたじゃないか。お前の仕事のテリトリーを、食ってきてはいないの?」

「アキラちゃん。そのことだけは、勘弁してくれないかな。今は考えたくないんだ。俺はね、アイツとは戦いたくない。争いたくもない。同じ戦場に存在したくはない」

「戦場って」

「なっ、もう、やめよう」

「戦場って・・・」

「もう止めることは、不可能なんだ」

「おい、戸川」

「すでに、俺の後ろにも、アイツの後ろにも、強力な援軍がついている」

「お前・・・」

「いや、そうじゃないよ。決してそうじゃない。そういったヤツラの戦い、争いの駒として動くつもりはない。そうじゃないんだ。いろいろな渦がそれぞれに発生して、一つの場所で交わろうとしている。どっちが動かす、動かされるって話じゃないんだ。この俺と、見士沼。遅かれ早かれ、相まみえることになる。今じゃなくとも。いずれはね。明日かもしれない。しかし、運命は、もう、初めから、相対することになっている。アイツと最初に会ったときに、会話を交わしたときに、すでにわかった。お互いにわかった。そして、そのタイミングは、すぐそこだ。同じ場所に、それぞれが別の理由で、向かってしまっている。ふふふふ。両雄相まみえずだ。これまでだって、何度違った名前で、こういったことになっただろう。どっちかが勝ち、生き残り、どっちかが、無残にも散り去ってゆく。その時々で、勝者は変わった。しかし、はじめの対戦の時こそ、まるで察知できなかったもののね、連戦を繰り返しすことで、俺らは、出会った最初のインスピレーションで、その勝敗までをも、知ってしまえるようになった」

「お前・・・。結末まで」

「そう。そんなことは、実に、容易いことなんだよ、アキラちゃん。すでに始めに、始まりに、終わりはあるんだから。揺るぎない終わりが。辿り着き方は違う。そこまでの勝敗は、変えることもできる。しかし、結末だけは変えられない」

「でも、戸川。たとえ、その、すべてがわかってしまったとして・・・。もし、本当に、そんなことが可能だとして、それでも、そこに辿りつくまでの、闘いの変遷で、最後はどっちにでも転ぶ。たとえ、その、たとえだよ、勝つこと負けることが、決まっていたとしても、それでも、勝ち方、負け方は変わる。変えられる。そうじゃないか!お前の言ってることは間違ってる!」

「正解、不正解なんてないんだよ、アキラちゃん。勝ち方、負け方なんてものも、ないんだ。そもそも。勝者も敗者も、最後はないんだから。そんな顔をするなよ、アキラちゃん」

「けれど、両雄あいまみえずって・・・」

「そうだよ」

「なら」

「最後は、違う。最後は、一人には、限定されない」

「わからないよ」

「本当に、わからないのか?」

「戸川、その・・・」

「勝者も敗者もない、両雄、天下をとるってこともないんだ。そうなんだよ、アキラちゃん。そうだろ?潰しあうんだよ、お互いを。食いちぎり、食いつくすんだ。これまでの対戦は、そのためだった。その時々で、力を蓄えたい方に勝ちを譲り、また過剰なエネルギーを持った方が、負けという名前で、余剰を清算した。どちらかに繁栄が極端に傾くことなく、共に、全ての時代で存在していけるように、計算していた。そして、その余剰エネルギーはもう、それ以上の貯蓄は許さない。互いに満了だ。そして、最後の対面が起こる。互いが、互いを清算する時だ。ここに至るまでのすべてをね」

 予想外の結末に、アキラはただただ言葉を失っていた。



「朝帰りか」

 水原はコップに入った水を飲みながら、部屋の中を歩き続けていた。

 玄関のドアが開き、疲れきった表情で、妻のカスミが入ってきた。

「ごめんなさい」

「なんで、謝る?」

「好き勝手にやって、ごめんなさい」

「わかって結婚したんだ。別に気にしなくていい。君の思うように。これまでと同じ。それでいい」

「でも、一緒に暮らしている以上は、そうはいかないわ。あなたに迷惑をかける。あなたの生活のペースを、乱してる。今だって、あなたは何も言わないけれど、本当は、怒ってる」

「いいから、座れよ」

 水原は、違うコップをとり、水を注いで妻に渡す。

「どうする?これから寝るのか?それにしても、ひどい顔だな。研究に没頭するのもいいが、身体へのダメージは、蓄積していくぞ。もう若くはないんだ。これまでのようにはいかないぞ」

「そうね。でも今日は違うの。仕事じゃないの。一晩中、うなされてたの。つい、寝てしまって。それで、悪夢にうなされていた。だから、もう寝たくはない。これから、仕事をするの」

「ずっと、今までも、こんな生活だったのか?」

「違うわ。今日だけよ」

「今日だけって、これからも、続くんじゃないのか?まったく、羨ましいよ!」

「えっ?」

「あ、いや」

「今、羨ましいって」

「ちょっとさ。ほんの少しだけだよ」

 水原は話を逸らすかのように、マップを片付け、ジューサーを弄りはじめた。

 冷蔵庫を開け、果物を探し始めた。

 その間、カスミは急に、晴れやかな表情を取り戻した。一人納得したかのように頷き、水を飲み干した。

「衰弱していく私を見て、羨ましい・・・。あなたらしいわ」

「どういう意味だ?」

「全然、疲れてないんだわ、あなた。仕事だって楽で仕方がないのよ。それで充実感はある?かわいそう。あなたが可哀相よ。そう。昨晩のことなんて、たいして気にしちゃ駄目よ」

 カスミは自分に言い聞かせるように、再び深く頷いた。

「あれを抜かせば。そうよ。綺麗に抜き取れば、あなたと違って充実しすぎよ。私、幸せ。あなたと違って」

 茫然と、妻を眺める水原を横目に、カスミの血色はさらに、鮮やかになっていった。

 そして、彼女をとりまく空気は、清清しさを描き始めていった。

 彼女の存在感が、一気に広がった。

 澄んで空に突き抜けていく様子を、水原は目の当たりにしたのだった。

 可哀相と、その後も連呼された水原は、目の前の女を眺めながら、これまで一緒になった女の影をも、同時に感じずにはいられなかった。

 俺は、何をやっているのだろう。今度もまた・・・。その後が、続かなかった。

 最近は確かに、身体を持て余していた。それまでと、ほとんど同じ生活を送っていたものの、身体が異常になまっていることに気づいていった。

 この身を全て、人生に投入していない、できていない、そんなもどかしさが、募っていった。何かが疼き始めていた。

 陰西カスミと一緒になり、その思いがこうして、形を伴ってきていた。

 そんな俺を、カスミは可哀相と、一言で片付けた。

「激原は、元気なのか?」

 思わず、水原は彼の名を口にしてしまった。

「そうね。あなたよりは、遥かに。まるで、彼が人生の充実感を、急激に自分ものにするにつれて、あなたは逆に、干からびていくみたい。不思議。見比べてしまってるのかしら」

「そうか。あいつは、元気なんだな。倒れたりはしてないんだな」

「あなた、自分の目で、彼を確認しにいったら?いちいち私を経由しないでくれるかしら。知り合いなんでしょ?体調崩したところなんて、見たことがない」

「あいつは、しょっちゅう、入院してたんだよ。元々。見舞いにいったこともある」

「体、弱いの?」

「無理しすぎなんだ。許容量以上のエネルギーを、極端に投入する傾向があった。まるで、自らを破壊するかのように。破滅に向かっているかのような、そんな殺気があった。危ない奴だったんだよ。もし、自分に向かわなければ、そのエネルギーは、当然、まわりに撒き散らされていた」

「そんなふうには、とても見えなかったけど」

「倒れてもいないんだな」

「そうよ。私の知る限りでは」

「まるで違う奴の話をしているようだ」

「ただ、盲目に、力任せに、自分を痛めつけているようには、まったく。むしろ、その逆。知的よ。そう、彼は、とても知的だわ。私がつくった工法を、さらに組み合わせて、別の地図を提示してきたのよ。今あるものを、冷静に観察して、俯瞰した視点から、確実に、今の状態を把握して、まだ見ぬ次なる世界を、提示する。盲目に突っ走っていくだけの単細胞には、とても見えない」

 水原は、その後も激原の話を聞いたが、聞けば聞くほど、とても同じ人物とは思えなくなっていった。



 フレイヤは、夫の激原徹との食事の後、タクシーを呼ぶフリをして、実際は一人の別の男に、電話をしていた。十分後、屈強な赤い車がやってくる。フレイヤは周りを気にする様子もなく、ドアを引き、中へと入る。車は轟音と共に去っていく。グリフェニクス・G・ガーデンの広告出演を、長谷川セレーネから受け継ぎ、その撮影が行われた後で、激原と会っていた。本当は彼と朝まで一緒に居たかった。さすがに今日は疲れたなと、フレイヤは思った。セックスをして、疲労の色はさらに濃くなっていった。もちろんこっちの方は、心地よいまどろみではあった。しかし本当はそのあとで、外になんて行きたくはなかった。ずっとベッドの中に居たかった。御飯なら、いくらでも私がその後作ればよかった。私の気持ちなど、何一つわかっていない男だった。こうして何ヶ月かに一度、体を合わせていれば、それでいいのだと思っている。フレイヤの気持ちは分裂していた。夫の考えに同意している自分もまたいた。結婚し、その同意を確実に形にしたことで、その裏にある別の気持ちもまた、確定させてしまっていたのだ。

「君から呼び出されるとは、珍しいね。光栄だよ。俺にも、まだ、使い道があったんだな。で、どうする?どこに連れていけばいい?ホテルでいいのかな。それ以外にはないよな。うちは駄目だし、息子も大きい。レストランやカフェでは、顔が割れてしまってるから駄目。こうやって、ドライブを続けるには、今日はあまりに疲れていてね。少し休みたい」

 フレイヤは「任せるわ」と言って、ほんの束の間、眠りに堕ちた。

 目が醒めると、フレイヤはすでに両足を開いていた。今夜における、二度目の性交を終えていた。男は射精まで済ませていた。フレイヤから引き抜くところだった。

「だいぶ、溜まっていたみたいだね」

 男は、わかったふうなことを、言った。フレイヤは恥ずかしげに頷き、男の左腕に抱きついた。ほんの数時間前には、夫がこの中には居た。だんだんと体の感覚は、鈍くなっていった。もう少しだと、フライヤは思った。もう少しで、消せるのに。フレイヤは男の胸の中で、無言の呟きを繰り返した。男の性器に触れる。睾丸を弄び、陰茎へと移動する。脈打ってくるのを期待したが、男はすでに五十代も半ばであることを思い出す。期待は脆くも崩れ去り、これ以上、触れていては、男を不快にさせるだけだった。私、これから、仕事なのとフレイヤは言った。深夜のシーンが必要な、撮影なの。連れてって。現場まで。いや、近くまで。ちょっと待てよと、男は言う。「どういうことなんだよ。そんなタイトなスケージュルの合間に、これ?どういう神経してるんだよ」

「知ってるでしょ?私のこと」

「だけど」

「甘くみないでくれる?」

「それに、結婚だって」

「そうよ。悪いかしら?」

「それも、見せかけか?カモフラージュなのか?会見も見たぞ。別人だった。あんなにもおしとやかで、可憐な女を演じることもできるんだな。たいしたものだ。俺もすっかりと、騙されてしまった。いや、騙されるところだった。わかった。連れていくよ。それでいいんだな」

 また連絡すると、フレイヤは言った。

「いいかげんに、もう勘弁してほしいね。いくら腐れ縁とはいえ、俺にだって、断る権利くらいはある」

「あなた、何回、私が堕ろしたと思ってるの?」

 男は決まりのわるい表情へと変わった。

「生んだ子は、ちゃんと引き取った。おれ一人で育てている」

「どうかしら」

「会ってはいかないのか?」

「今さらどんな顔をして会えばいいのよ。こんな女が母親とわかった日には・・・。何も言わない方がいいのよ。私、親になんて向かない。なりたいとも思わない。あなたが望んだから。ただそれだけよ。私のものじゃない。いるんでしょ?奥さんだって」

 男はすでにシャツを着て、床に放ってあったズボンに、手をかけている。

「言うとおりにするのよ」

 フレイヤも、服を着て、二人は部屋を後にした。

 ほんの一時間の滞在だった。

「子供は、俺を縛っておくために、産んだのか?」

 フレイヤはアイフォーンをいじり、男の声に反応はしなかった。

「このまま、繰り返せるとは思うな。俺にだって、限界はくる。そう、俺にだって。別の男にも、いや、夫か。その旦那に対してもそうなのか?知ってるのか?君のこと。君の本性を。それで納得して、一緒になったのか?どこに住んでるんだ?同居は?そんな馬鹿な。そんなことはない。君のすべてを、受け止める男なんているわけがないじゃないか。この世に、存在するのだろうか。一体、何人の男が、同時に、君の欲求に振り回されれば、成り立つんだ?同じ時期、ほとんど同じ周期で、重なりあわなくちゃ、まるで意味をなさないんだろ?」

「もう、この辺でいいわ。ご苦労さま」フレイヤはシートベルトを外した。

「おいっ。話はまだすんでないぞ!いつだってそうだ。堂々巡りなんだよ!次に会う時はまた、いつものスタート地点だ。いいかげんに、俺を解放してくれ。気が狂いそうだ。君は何ともないんだろうか・・・。少しは、俺のことも」

「すべては、俺の子を、生んでくれ。堕ろさないでくれと言った、あなたに端緒があるんだからね」

「だとしても」男は下唇を噛み締めた。「だとしても、君だって同意したんだ」

 フレイヤは車から降りた。

 振り返ることなく、彼女は高層ビルの合間に姿を消した。



「世界最終戦争、がこれから勃発するよ」

 愛華友紀に向かい、鳳凰口昌彦は言った。

 愛華友紀の目は了承しているように、昌彦には見えた。まるで、開戦を告げるスイッチを、この自分が持っているかのように、昌彦は感じられた。

 すでに、地上から離れ、次元建築である宙空建築を極限にまで進化させた《王宮》へと、移転してきてから、三ヶ月が経っていた。

「街には、新しい文明都市がやっとできてきたのに」

 友紀は残念そうに、言葉を漏らした。

「肝心なことは、失われない」鳳凰口昌彦は言った。

「まさに、それだけが失われない。むしろ、それを鮮明にするために、勃発する出来事かもしれない。見士沼祭祀。あの男が、開戦の笛を鳴らす。彼には、その自覚はないのかもしれない。あるのかもしれない。彼は、彼の血が引き継いだ。そして、彼自身が、強い意志で、望んだ現実を自分のものにしようとするだろう。そんなことになろうとは、まるで、思いもしないかもしれない。しかし、それこそが、望みであるということを、後に彼は知ることになる」

「私たちの結婚式・・・」

「なつかしい。もう、一年も前のことだ・・・。彼も来ていた」

「よく覚えてる」

「そう、あの男だ」

「彼の望みは、一体、何なの?」

 カイラーサナータだよと、鳳凰口昌彦は即答する。

「聞いたことがないわ」

「グリフェニクスの本社が、この王宮の真下に、あるだろ?地上に。まさに、そこ。その場所にカイラーサナータ寺院も建てられている。すでにね。まだ、多くの人の目には、確認できていないことだろう。しかし、確かにもう、そこにはある。グリフェニクス本社も、すべての人の目に映っているとは限らない。けれど、カイラサナータ寺院よりは、目にできている人の割合は高い。その寺院で、彼は、人々の不具合の治療に当たることになる。医療行為ではないが、それよりもはるかに、精度の高い治癒を、訪れる人に提供することになる。彼は初め、その場所で、そう、まだカイラーサナータ寺院と呼ぶには、相応しくない、マンションの一室のような感覚で、小さな小さな空間で、一人の人間を相手に、ヒーリングを施していくことになる。はじめは、看板などは出さず、試験的に訪問者を募り、高い料金で治療をしていくことになるだろう。やがて、看板を出し、料金を下げ、多くの人をひきつけ、引き寄せていく流れを生み出していく。彼の名は、世に知られ、彼を利用しようと思う奴らも、彼をペテン師扱いするアンチな奴らも、周りを占拠していくことになるだろう。いずれにしても、彼の存在感を高めていくことに、この地上のエネルギーは、人々を介して寄与していくことになる。彼の知らない所で、気づかないところで、施術室は施術院となり、そのあと、加速的に、彼を取りまく空間は拡大していき、あっという間に、カイラーサナータ寺院にまで膨れ上がっていく。最初から、カイラーサナータのほうが、彼より先回りして、そこに立って、待ち構えているという具合に。しかし、架空の建造物では、全くない。事実、うちの鳳凰口建設が主力として関わっている。激原徹のね。優秀な科学者が、すでにブレーンとして加わっている。彼女を、強力にバックアップしている組織もまた、エネルギーを集中させてきている。本人には、そんな資質などまったくないにも関らず、見士沼はカリスマとして、地上に君臨することになってしまう。その瞬間だ。開戦を伝える鐘の音が、地上に鳴り響くのは」

 二人は王宮の外に出て、庭を散歩した。来た当初に比べて、植物の数は飛躍的に増加していた。蝶や虫もそれに伴い、生態系をつくりだしていた。雨はほとんど降らなかったが、植物は枯れることなく育っていた。

「誰にも止められやしないし、止める必要もない。激しく、その一瞬、最後の一点で、あらゆる対立が結集するのが、最も望ましいことだ。そうした時、僕らが想像する戦争では、まったくなくなる。戦争とは、その一点を指したもの。という世界観は、おそらくはないだろう?僕らには。戦争が一瞬で始まり、終わるだなんて、そんなことにはならない。そうだろ?一瞬で、吹き飛ばしてしまう以外には。そうなれば、一点だなんて言ってる、俺らそのものも、すでに存在してはいないだろうな。破滅していることだろう。でも、吹き飛びはしない。始まりと、終わりは、同じ出来事になる」

「でも、少しでも、ズレたら?」

 友紀は花に触りながら、夫の昌彦に訊いた。

「これまで、人類が重ねてきた戦争のすべてが、また片っ端から起こることになる」

「そうなったら?」

「そうなれば、寺院もまた、闇の中、瓦礫の中さ。地上に現れることはなくなる」

「それって、消滅してしまうってこと?」

「いや、違う。もうすでに存在はしている。すぐに消えることはない。そのまま見捨てられたまま、数千年も放置されるのなら別だけど、すぐに、消滅することにはならない。いずれ、次のチャンスに備えて、うずもれることになる。もちろん、人間が滅びてしまってしまわなければ」

「その可能性は?」

「僕は、どの可能性にも、手を貸すことはできないよ。僕も含め、地上のあらゆる人間の思惑が、蠢きあっている。ある意味、なるようにしかならない。見守ることしかできない。今となっては」

「わかった」愛華友紀は言った。「わかったわ。どんな現実が決定されても、受け入れることにする」

 鳳凰口はにこりとし、友紀の両肩を抱いた。

「そして、まだ、できることはあるさ」



 アキラは、もう一度、台湾に行く必要があると感じていた。もう一度、あのホテルに泊まり、占い街へ行き、占い師と通訳の二人の中年女性に会い、カジノに行って、アスカという女に案内されるべきだと思った。

 あの分岐点に行かなければ、この先、自分を取り戻すことは、二度とないのだと思った。

 アキラは、あのカジノで最初に出会ったギャンブルへの想いが、再燃していることにも気づいていた。あの日、あの時、自分のもとには、決して悪いことだけがやってきたわけではなかった。あのゲームをもう一度してみたい。あのゲームを自分のものにして、アレンジをし直して、別のゲームもまた、生み出してみたい。

 あの日、あの時もそう思ったのだ。しかし、光は消え、同時にやってきた巨大な闇に、あっというまに飲み込まれ、流されてしまった。その分岐点にたまたま、アスカという女もいた。この前、偶然、再会した彼女もまた、どこか、自分を見失っているように見えた。

 アキラはすぐにインターネットで航空券をとった。ウエストミンスターホテルの予約もとった。今晩の便が、空いていたのだ。アキラはほとんど近所に買い物にいくような格好で、一泊分の下着などをスーツケースに詰め込み、タクシーを呼んで、羽田空港へと直行した。今から台湾に行くことにしたと、アスカにはメールを送った。もう一度、すべてをやり直したい。始まりにあったヒントを、まだあそこにあるとは思えないけれど、それでも、その断片を拾いに行くのだと、アキラは言った。何もなくても今行かないと気持ちは治まりがつかない。少なくとも、あのときの記憶は、俺の中にはある。ヒントはすでに、俺の中に全部入っている。それを引き出すための刺激さえあれば。もう一度、同じ場、状況に、この身を置けば。帰ってきたらまた連絡する。御飯にでも行こう。この前はありがとう。無理なお願いをしてしまって。君のことだから、律儀にやってくれたのだと思う。ありがとう。また会える日を楽しみにしてる。それじゃあ。

 アキラは、松山空港行きの飛行機に乗り、すでに上空にいた。コントローラーのついた画面を開き、ピンホールゲームをした。白ワインを何度も頼んだ。酔いはあっという間に回ってしまった。あの時も、こうして一人で思い立ち、旅行に出かけてしまっていた。どうして兼ちゃんを、いつものように誘わなかったのだろう。あの時も気づけば、上空にいた。記憶はばっちりと、重なり合っていた。今とあの時の区別は、つきにくくなった。ふとあのあと、戸川が倒れ、昏睡状態が続いていたことを思い出した。もし彼を、台湾へと駆りだしていたら、その原因不明の病気は、発症したのだろうか。台北であっても、どこであっても。それに、俺もまた、あのような連中に巻き込まれることはなかったのだろうか。まるで図ったかのように、俺らは同時期、別の土地で、自分ではどうにもならない困難に陥ってしまっていた。俺が帰国した時には、戸川はまだ意識はなかった。リハビリ施設の病棟に入れられた俺は、じょじょに平静さと体力を取り戻していった。そのとき、戸川も目を醒ました。

 今が、戸川の倒れる、直前の時のようにも、感じられる。

 アキラは入国審査を通過し、地下鉄で目的地を目指した。階段を登り、地上に出ると、真夜中のウエストミンスターホテルが目の前に聳え立っている。こんなにも、超高層ビルであっただろうか。有に五十階を越えている気がする。13階建てのウエストミンスターホテルとは、印象が異なった。夜の帳に照らされた、ライトの組み合わせが、そう感じさせているのだろうか。建物の形も、まったく違うように思えてくる。しかしここが、ウエストミンスターホテルであることに、疑いはなかった。場所も確かにここだし、目を周りに向ければ、いくつもの見たことのある目印を、確認することができる。フレッシュフルーツのドリンクのパーラー。その斜め奥には、古い寺院もある。夜になっても、人の流れは絶えず、捧げた線香の煙で覆われている。綺麗にライトアップもされている。

 アキラは中に入り、チェックインカウンターへと直行する。すぐに異変に気づいた。天井がなかった。いや、違う。天井どころではない。ここは一体。壁もない。チェックインウカウンターの前にいる自分がいる。カウンターには、奥行きがある。裏には壁もある。横にも限りがある。しかし、カウンターが極小の島のように、薄闇に浮かんでいるだけのようである。何といったらいいか。壁は感じる。天井も感じる。その感覚を色濃くしようとしていけば、いつもの、この前も来たはずの、ウエストミンスターホテルのロビーが、再現できそうだ。

 でも、それでいいのか。アキラは、同じ場所に戻ってきたにもかかわらず、同じことは繰り返したくないと、強く思い始めていた。もうそこはいい。終わったことなのだ。すでに何かは大きく入れ替わってしまっている。その流れを遮断したくはなかった。もうすでに、ここは、ウエストミンスターホテルではないのかもしれなかった。

 アキラは目を閉じ、自分が知っていたこの場の記憶を、静かに消していった。



 シールドの都について、友紀に話ながら、鳳凰口はずっと彼女との出会いを回想していた。父親が死に、鳳凰口建設を離れ、一人放浪していたときのことだった。あれは、日本で一番大きな国立美術館の、王冠を狙っていたときのことだ。すでに、盗み取ることなど、容易になっていたので、昌彦は自分が無敵になったかのようで、厳重な警備にも、まったく恐れは感じなかった。美術館の中を、他の観覧者に紛れて、徘徊していた。これが普通の窃盗なら、カメラや警備員などのセキュリティに、神経を配らせるのだろう。だが、自分の場合は、王冠のある場所と周囲の状況。簡単な配置さえ押さえておけば、それで事足りた。脳裏に写真のように、何枚もその空間を焼きつけ、美術館全体の設計図を描き、身体の感覚に落とし込めれば、それでいい。美術館全体と、自分の体が同列になり、一つになったという感覚が起これば、あとは好きな時間に、好きなように変態を加えられる。

 その美術館の下見のあと、大通りを向かいに挟んだレストランへと、向かった。

 窓際の席から、美術館の外観を、ぼんやりと眺めていた。そのとき、ウエイターとして目の前にやってきたのが、当時大学に通う学生の友紀だった。あの時のことは忘れられない。彼女越しに見た夕陽。夕陽に照らされた美術館の姿。それまで見ていた美術館の外の枠は溶け去り、遥かに巨大な光を放つ建物に、圧倒された。その輝きを放つものが、建物なのか、何なのかはわからなかった。友紀とは特に、注文のやりとりをする以外に、話をした覚えはなかった。

「シールドの都とは、目に見えないエネルギーの壁だよ。カイラーサナータを中心とした、巨大都市を定め、その外枠にエネルギーを張る。誰にも入って来れないようにして、さらには、どんな破壊行為が、そのあたりで行われようとも、一切の影響を受けない」

 あの日を境にものを盗む生活はやめた。

 王冠もまた意識の中から消え去り、身体に取り込んだ美術館の情報もまた、自然と浄化していった。代わりに現れたのは、その強烈で巨大な光を放つ中心の建物と、そこに広がる、まだ見ぬ都市世界だった。その光景と、友紀とは、切っても切り離せない事象となった。友紀に、プロポーズをし、共に人生を歩む決意をし、そのときの光景を、この世の大地に焼きけるべく新婚生活を開始した。その圧倒的な光の塊を、グリフェニクスと名付け、シールドの都のシールドには、現実的には、グリフェニクスを名付けた、さまざまな事業、ビジネス展開へと姿形を変えていった。グリフェニクス・アネーション。グリフェニクス・ザ・ラインエクストリーム。グリフェニクス・G・ガーデン。スーパーエスカレーション。マスター・オブ・ザ・グリフェニクス。グリフェニクス・ザ・エンブレム。

 地上で拡がっていくビジネス展開は、水原を介して、行われた。

 鳳凰口昌彦は、地上とは距離を置き、宙空建築をさらに発展させた、天界をイメージした王宮に住まいを移した。



 ウエストミンスターホテルの幻影は、次第に消えていき、台湾に突然来ていることもまた深い眠りの中の出来事のような気がしてきた。あんなに都合よく、チケットが取れるものだろうか。機内の中でも、ほとんど酔っ払っていて、時間が経過していく感覚もなかった。ギャンブル場?カジノに来ているのだろうか。目的はほとんどそれだった。台湾でもなければ、占い街でも、アスカでもない、あのギャンブルとの再会が目的だった。何もかもを、すっとばし、直接繫がっていったのだろうか。カウンターには誰もいなかった。

 ギャンブル会場へと丁重に導いてくれる女性の姿もなかった。ここに一人、放置されてしまったかのような、寂しさが募ってくる。酔いはすっかりと醒めている。「人物」と「場」と「空間」による組み合わせにより、発生する《世界》。その《世界》が作り出した強さによる対戦ゲームのことが、蘇ってくる。俺は、そうだ。あの連中との勝負に負けたのかもしれなかった。これまで認めてこなかった敗北の色が、身体を染めていくかのようであった。あの連中に、いいように弄ばれていた。その理不尽さに、打ちのめされていた。しかし、これが、対戦による敗北。その、後始末のようなことだったとしたら。理不尽さの欠片もない、正当な報いだったとしたら。

 アキラの中に込み上げてくるものがあった。これは、偶然の事件事故なんかでは、全然ない。

 自ら望んだことだったのではないか。同じ土壌で対戦した、その結果の世界だった。結果の世界の中に捕らわれ、縛られていった。今も、その後遺症に、苛まれていると思いこんでいる。俺は、対戦相手のフィールドに、いつのまにか入ってしまい、そこで打ち負かされていたのだ。

 エネルギーは足りず、貧弱な装備さえせずに、闘いはすでに始まっていることにも、まるで、気づかず・・・。



 フレイヤの夜は、終わらなかった。かつて関係をもった男に、次々と連絡をし、一時間おきに、別の約束をとりつけた。すぐにオーケーする男もいれば、何度電話をかけても、反応がない男もいた。フレイヤはとりつかれたように、それでも滑らかに、次の男に焦点を切り替え、結局、最後は夜明け前までの予定をすべて、埋め尽くした。

 フレイヤは安堵の表情を浮かべ、次なる男がやってくるのを、待った。何気なく、息を大きく吐いた直後のことだ。突然、一人の女の姿が、目の前に浮かび上がってきた。まだ少女であるその風貌には、見覚えがあった。しかし、自分ではなかった。十五歳前後に見える。当時、近所に住んでいた幼馴染の中に、当てはまる顔を探した。小学、中学、高校と、次々記憶を呼び出してみるものの、そんな少女はどこにもいない。そうこうしているうちに、少女の幻影は消えていた。けれど、姿は見えなくなったものの、そこには誰かが居続けていた。フレイヤは、その場所に耳を済ませた。小さな粒子に焦点を絞り、そこにあるはずの何かに、意識を集中させていった。次第に、彼女が隣りの部屋でずっと過ごした仲間であることに気づいていった。たしかに私は、彼女の知り合いのようである。五年か六年のあいだ、隣りの部屋で過ごしている。同居しているような感じはしたが、私の家には、当時、そんな少女などいない。兄弟もいない。そもそも私は、家に友達を連れてくることもなかった。高くはない生活の水準を、誰にも見られたくはなかった。誰なのだろう。少しも自分の人生の中で関わった形跡がない。なのに知っている。よく知っている。ふと、名前をずっと、呼ばれていることにも気づかなかった。すでに、迎えの男は、横に立っていたのだ。路肩に車を止め、ハザードを出して、彼本人が外に出てきていた。呼んでも全然気づかないんだからと、男は不機嫌になり始めていた。

「そこ」っと、フレイヤは少女のいる場所を、指差した。「ぶつかるから、どいて」

「はっ?」

「彼女に、触れてる」

 男は、フレイヤが指差した場所を、何度も振り返った。

 フレイヤの目を、そのあいだに何度も見た。男はそれ以上、何も言わなかった。フレイヤもまた、何も言わなかった。このまま、さっさと車に乗り込むか、それとも、少女の影に、このまま寄り添っているか。そうだ。このまま横にいて、夜を明かしてもよかった。少女は誰であっても、確実に、私と関係のある人間だった。何かを伝えるために、現れているのかもしれなかった。そうだ。男に手当たり次第、電話したことで発動した、現象だった。複数の男、不特定多数の男。フレイヤのミゾのあたりが、ビクっと動いたのがわかった。この状況・・・。一緒だ。よくわからなかったが、いつかの光景と重なりあっている。これから進んでいこうとしている方向に、その少女がいるのかもしれなかった。フレイヤは、少女の幻影を振り切り、自ら、男の車の中へと乗り込んでいった。「あとは任せる。好きにして」

 フレイヤは、短いスタートをわざとずり上げ、白い太ももを男に見せつけた。男はギアを入れるとすぐに、左手をその上に置いてきた。男の手は生暖かかった。男は次第に我慢できなくなっていくかのように、付け根にまで移動していき、性器のあたりに触れるか触れないかの寸前で、こらえるように止まっていた。男は急ブレーキをかけて車をとめた。左手を太腿から離し、右手で直接下着の上から、指を動かした。唇を合わせてきた。フレイヤは、大きな溜息をあげた。男はスカートをさらに引き上げ、両手で二つの太ももを包み込むように、覆いかぶさり、下着を膝まで、素早くおろした。フレイヤはたまらなくなり、嬌声をあげた。男のズボンのベルトに手をかけ、すばやく外した。男の性器からは、薔薇の甘い香りがした。そそり立った性器に、唇を這わせながら、同時に周囲を意識した。すでにここは車内ではないように思えてきた。部屋だ。いつのまにか部屋にいる。布団の上だ。畳みの上に敷いた布団。彼が来るのを、心待ちにしていた。彼は贔屓にしている客の一人だ。フレイヤは、幸福を感じていた。贔屓の客がこれほどついていることに。隣りのあの女。アスカといったか。あの女は仕事そのものが苦痛で、しかも、腹の出っぱった年取ったオヤジにばかり好かれ、毎晩、気色の悪い陵辱を受けている。ここに、この宿に、売り飛ばされてきたのだ。両親に。売り飛ばされた女。しかも、いくら働いても金は、すべては宿の主人が取ることになる。未来の金は、すでに両親に渡っている。それに比べて、私は何と幸運なのだろう。人生経験のために、好奇心を満たすがために、自分の意志で、この仕事に飛び込み、しかも性行為が心から好きで、さらには自分のタイプの男ばかりが、私を好んで愛してくれている。私はすばらしい愛人を持った皇帝にでもなかったかのような気分だった。男はみな、丁寧な行為を繰り返し、暴力性の欠片もなかった。私は絶頂の声を夜に叫び、自分の価値を天へと伝えていた。隣の部屋の女からは、まったく声が聞こえてこなかった。喘ぐ声も。話し声さえも。すでに死んでいるのだ。しかし、同情も、共感もしなかった。むしろ、この女に向かって、笑ってやりたかった。復讐の心が、入り混じった想いもまた湧いてきていた。この女に見せつけてやるのだ!そう思えば思うほど、フレイヤは男に対して、さらに激しく、愛撫をするよう、無言の要求を出していた。



 だんだんと、アキラは、すべての存在を許せなくなっていった。これまでの世界に、何の抵抗もなく、戻っていくことなんてできそうになかった。すべてを破壊したい。終わらせたいと、戸川と再会する前から、ずっとそう思っていたことに気づいた。

 その時間の経過を、アキラは笑った。ずっと眠っていたようなものだった。何にも気づかない。この自分にさえ、気づかない俺は、ルシフェラーゼが起きたことで、少しずつ目覚めていった。

 戸川とあれだけ急接近した自分もまた、今の自分とは、同じだとは思えなかった。すべてが幻のような世界に、アキラは、今、一人佇んでいた。今が昼なのか、夜なのかもわからなかった。夏なのか冬なのかも。台湾なのか、日本なのかも。すでにどこでもなくなっている。頼りになったのは、この憎しみに塗れた、肉塊だけだった。

 何も残らないくらいに、滅茶苦茶に、破壊しつくしてしまいたかった。アキラは息苦しくなり、さらには自らの喉を封鎖して、そのまま窒息してしまいたかった。そうか。世界を壊すのは、この自分を殺せば、それですべてが事足りるのだ。今がチャンスだった。ここで、全生涯を閉じてしまうのだ。ここしかないと思った。誰に邪魔されることなく、これまで闇に隠れてきた本音の欠片。それと共に、終わりにすることができる。ここに流れが集まってきているのだ。

 ここが、俺の墓場になるのだ。声が聞こえてくる。あまりに小さな声が。誰かが何かを言っている。あまりに小さな声が。囁いている。その奥に、鳴き声が。幼い子供の泣き声が。女の囁く声。母親か。誰の、母子なのだろう。その存在に、アキラは、自らの首にかけたその手を、ほどいた。何かが俺を押し留めている。ここに来ていったい何を止める必要があるのだ?やはり世界の方を、破壊しつくさねば。アキラは目を閉じて、彼らの声を消そうとした。彼らの声の、さらに奥へと、自らを突き進ませていった。どこまでも堕ちていくようだった。声は消え、記憶はあの日へと、遡っていった。カジノを潰すために乗り込んだこの自分が、いったい何者なのかが、丸裸にされ、そして返り討ちにあった、あの日に。金持ちのギャンブルの余興に、生贄として、差し出されたあの日に。アキラは戻っていった。

 あの日、確かに自分は、この身体に爆発物を装着させられ、彼らの賭けの対象として、勝敗のついた瞬間、粉々に砕け散った。アキラは、自らの身体の、どこでもいいので、触れようとした。体のどの部分で、どの部分を触ろうとしたのか。輪郭は感じられるものの、実感がわかない。身体をうまく、確認することができない。あの日、あの時から・・・。俺は、この状態なんじゃないのか。本当は。体は、こうしてあるのだと、過去の記憶に、すがり付いているだけなんじゃないのか。本当は、本当は・・・。これが、実態なんじゃないのか。聞き覚えのある声が、今度は、はっきりと聞こえてくる。君が、うちのギャンブルシステムを崩壊させるために送りこまれた、刺客であることは、よく存じている」

 不思議と、安心感のある声のように、アキラには思えた。

「今はいったい。いったい、いつなのですか?俺が、一度目の台湾から、帰国する前の、そう、あの時。あの時なんじゃないのですか?」

 アキラは、幻の影が、無数に飛び交う空間の中で、声の主に向かって、質問を投げかけていた。

「そう思うのなら、そうなのだろう」と、声が返ってきたような気がした。

「君がそう思うのなら。君が決めることができるのだ。君がそうおもうのなら、そうなんじゃないか」

 声がどこから聞こえたのかはわからない。

 身体のどこで、どこに触れようとしているのか、わからなかった。

「どういうことなんだ?」

 アキラは、自らに問い返すような声を出した。そうしてくれと、アキラは答えていた。

 その瞬間だった。闇はひらけ、体の輪郭は現れ、一度見たことのあるカジノ場に、自分が包まれていることを知った。



 私はずっと、中心を失っているのだ。フレイヤは、男に抱かれ続ける日々の中で、たしかにそう思った。いまさら、遅かった。どれだけ時間が経過すれば、私はそのとき、本当に感じていていたことを、理解できるのだろう。すでにフレイヤは、仕事を超えて、男に溺れていた。

 隣りの部屋のアスカのへの敵意もまた、溶けてなくなっていた。男と一つになっている時以外で、何をしていたのかなんて、ほとんど記憶にはない。快楽から快楽、絶頂から絶頂へと移動していく以外に、人生からは実感が消えうせていた。その間を、できるだけ詰めるように、圧縮するように、私は知らず知らずのうちに、自分で感覚に修正をかけていったのだろう。

 身体の消耗が蓄積していく。その間は、じょじょにじょじょに開いていき、かなりの幅をつくるようになってからも、その現実を、誤魔化し続けるほどに、鈍感さには、磨きをかけていったように思う。しかし、そのまま狂ったまま、死んでしまうことはなかった。私は、死の直前、強烈に目覚めると共に、これまで溜め込んできた一つの世界を、まざまざと見せ付けられることになった。アスカ・・・。そこで、その女は、再び、私の人生に登場してくる。ごめん、フレイヤ。彼女は囁いていた。ごめん。私、今日で、最後なの。ここを出ていくの。契約は終わったの。私は最後までやりとおしたの。あなたは、こんな姿になってしまって・・・。見上げた先には、すっかりと大人の女性になり、しかも、質素な化粧を施した、まだ誰にも犯されていない、穢されていない、純血な少女のような香りを放つアスカがいたのだ。

「何をしにきたの」

 怒鳴ったつもりが、声はほとんど出てなかった。喉には、強烈な痛みが走り、振り上げた手は力なく、重力にしたがって落下していった。床に打ちつけた手は、砕け散ったかのような衝撃を受けた。これは、本当に、私の体なのか。腕の皺を見て驚いた。ほとんど、老婆だった。目の前のアスカとは偶然同じ日に、この宿に入った、同い年の女の子だった。

「フレイヤ、ごめん。いつか迎えにくるから。必ず」

 自分とこの体が、まるで連動していない事実に驚いた。

 しかし、確実に、この身体の中にはいる。

「いつかって?いつなのよ!」

 声は、空気を振るわせることすら叶わず、逆に、自らの身体に痛みだけをもたらした。 

 痛みだけのために、痛みだけが身体との同一性を証明するかのように、存在している。

「あなたが望んだとき」とアスカは答えた。「あなたが私を許してくれた日。私もまた、あなたを理解した日よ」

 フレイヤは、朝日が昇る前の車の中で、何度目かわからない精を、解き放っていた。



「君が、望んでいたことだ」

 その言葉が、あの日あの時に、引き戻していた。アキラは、今、自分が何を望んでいるのか。死んでしまいたいという思いは、変わらなかった。しかし今は自覚していた。そして意識的に、その想いと一体となっていた。すべての存在に向けて、復讐をするのだ。

「そのとおりだ」と声は同意を示した。「君は望んだ。その扉は開く。しっかりと見ていくんだ。これが、君の望んだことだ」

 何かが、この場から去っていったのが、わかった。

 静まりかえったカジノ場には、他に客の姿はなかった。ディーラーの姿もなかった。アキラ以外に人は誰もいなかった。壇上がつくられ、丸テーブルが、数十個設置されていて、そのそれぞれに、椅子が四脚置かれていた。司会がその前に立つのであろう、マイクもまた設置さている。プロジェクターが作動し始め、カジノ場の中心地に、立体画像が浮き出ていた。

 無音の映像は、場面が混在していて、一瞥では、はっきりとしなかった。アキラは近づき、見る角度を変え、そこにある情報を読み取ろうとした。超高層ビルに、地上車や、GIAが次々と、突撃する姿があった。そんな留まることを知らない、車に向けて、砲弾している場面も続いた。広告塔の戸川兼に、攻撃を始める者。戸川という偶像を、街から根絶させようとしているかのように。彼を、人前に、ひっぱりだしてこようとする挑発を繰り返すかのように。見士沼祭祀の施術印の跡地の中で、打ちまくる映像もまた重なった。すでに、彼の姿は、ないようであった。正面きって、応戦する人々の姿や、物陰から、不意打ちを狙うスナイパーのような人間まで、蠢いていた。グリフェニクス本社を囲む戦車の姿もあれば、その戦況を報道するために、ヘリコプターを飛ばしている新聞社やテレビ局の姿もある。そのヘリコプターからの映像もまた、挿入されていた。複数の視点が、同時に、ここに映像化されていることにアキラは戸惑いながらも、自らの立ち位置を、微妙に変え続けることによって、その多次元性を、生かそうとしていた。 

 あらゆる方向から照らされた光線が、結集する場所。誰かがこの会場に入ってきても、そこ以外に、集中することはできない構造になっている。

 音のない世界だったが、双方向からの攻撃の手は緩まなかった。アキラには、この渾沌とした戦場に、明確な構造を見い出すことができなかった。誰が何のために何をしているのか。どことどことの対局であって、誰が勝者になるのか。そんな激しい戦闘の中、なぜかその場所だけは、人も物も避けているかのように、ぽっかりと空間ができてしまっている。入れないのだろうか。入ろうとしないのか。その、小さくはない広さの空間が、そこにはあった。これは、跡地を巡る攻防なのだと、声が聞こえた。さっきの声とは、また少し違っていた。戦闘の映像とも相容れない音質だった。その空白地帯に焦点は絞られ、あらゆる角度からの映像が、折り重なっていったことで、逆に、アキラの中では、激しい轟音が聞こえてくるようであった。街中の音という音を、何故か、この空白地帯にあつめられてきているように感じた。

 ここは、跡地なのだと、声は連呼した。クリスタルガーデンの。ここをみな狙っているのです。

 はじめからずっと、空白を保っていたこの場所に、最初に異変を持ち込んだ人間がいた。

 何を思ったのか。男はそこに、邸宅を建てる計画をしてしまう。そして現実に、そこには建ってしまった・・・。ノーマークだった。まさか、そんな奴がいようとは。もうこの時代には、何も伝わっていないのだろうか。知らないではすまされない。知らなくても、感じないのだろうか。感じとれないのだろうか。無意識に避けるのが、普通じゃないか。ただ、一人の男が、望んで手に入れるような場所ではない。じゃあ、たまたまなのか。あっというまに豪邸は建ち、その男は移り住んだ。ただの名もない男だ。それ以上の詮索はいらない。そんな価値すらない男だ。すぐに男は、追放されることとなった。だが、その直後、その邸宅をさらに買おうと、乗り込んできた、今度は若い女の姿があった。これにも驚いた。今度は名のある、人々への影響力のある、モデルで女優の女だったのだ。だが、当然、彼女もまた、追放だった。一人の個人がどうして、その場所を望むのだ?今度もまた、偶然なのだろうか。彼らは二人とも、その上に建てた家を、欲しているように見えた。ならば、何も知らないと考えるのが、妥当だった。我々は、彼らの一個人の無目的な行動の背後にある、影を探ろうとした。我々と同じように、この場所の意味を熟知し、この場所の力に経緯を抱き、また畏怖の念を抱き、崇め、時には、この手の中で操り、最大の力を引き出すと共に、その土地そのものを望み、また同時に叶えてあげようと、協力をおしまない連中。我々の他にも、いるのだろうか。他にも、ここを狙っている連中が、いるのだろうか。個人宅を抹殺すると同時に、調査もまた、大規模なものとなっていった。














「あの夏は、あまりに寒かった」と、皇帝は、その夏を後にそのように評した。

 彼は王宮専属の占星術師に、この冬から春にかけて、そこがあなたの天寿であるということを言われていた。

 あの寒い夏と、何か関係があったのだろうか。皇帝は、死を宣告される三ヶ月前の春、告げられた命日の、ちょうど一年前に、自ら、この一年が特別な時であることに感づいていた。しかし、死の宣告には、衝撃を受けた。まだ、三十七の時しか自分は生きていないのだ。心身ともに、どこにも不具合はない。占星術師は、代々、皇帝の家と共に関係を歩んできていた。互いに能力を埋めあい、この地上での繁栄を築いてきた。でたらめな情報を受け取るわけがなかった。「ほんとなのか?」皇帝はまだ、最初の衝撃に見合う実感を、獲得してはいなかった。

「間違いありません。ホロスコープでは死とは出ていません。しかし、天変地異が、その時期、起こることは決まっています。あなたの生命力は、それを境に、急激に低下していきます。そこでも、死の相は出ていません。手相にも、死線の姿はない。しかし、それまでとは比べようもない程の、下降線を辿っていきます。皇帝さま。正直に申しまして、その後を生き延びても、みすぼらしく、醜い現実が待っているだけのように思います。私は最初から、あなたの運命を知っております。その時が、こうして近づいてくるにつれて、実際に何が起こるのか。見えてきています。タロットカードや、気候の変動。そして、あなたの家族、家系、先祖にまで遡り、また子孫たちの運命を鑑みて、すべての流れの中、今を読み解いた、結果であります。あなたは、今冬から春にかけて。まさに、その命は潰えます」

「死因は?」

「どうでしょうか」

「殺されるんじゃないよな」

「それはありません。可能性が芽生えたとしても、兵士総出で防ぎます」

「病死ということだな」

「そう、見えます。急逝の呼吸不全。あるいは、それに類似した」

「もういい」

 皇帝は、それ以上の話を拒んだ。「とりあえずわかった。細かいことはいい。あと一年はたっぷりとある。そうだよな?ならその帰還を、有意義なものにしたい。姉妹もいない私だ。直系の家族を絶やさないためにも、子供もまた、作らねばなるまい」

「もちろんです。その手配もすぐに」

「確実に、受精した事象を、たくさん揃えておかないといけない」

「はい」

「しかし、誰でもいいというわけではない」

「この女なら、問題ないという人間を、集めておきます。あとは皇帝が、その中から選んでくだされば。時間には限りがあります」

「そうだな」

 その日はそれで終わった。

 皇帝は一人、長い夜を一睡もせずに過ごした。眠れぬ夜を経験したのは、初めてのことだった。

 翌日、朝日はいつもよりも眩しく見えた。穏やかな初夏だった。しかしその夏の気温は、それ以上は上がらず、農作物は壊滅状態となった。嵐や豪雨に襲われることのない平静さとは裏腹に。皇帝はじょじょに、自分の運命に逆らい始めていた。心の予兆を感じていた。何とか、引き伸ばせないものか。寿命をいくらでも延ばせる妙薬は、ないのだろうか?他にも探せば何かはある。そうだ。それよりも、占星術師に訊いてみよう。運命を操作したいのだと。占星術師は黙り込んでしまった。しばらくの沈黙のあとで、彼は言った。

「いつか、遠くない未来に、そのようなことをおっしゃると思いました」

「あるのか?可能なのか?」

「とりあえず、ないと、申しておきましょう」

「どういうことなんだ?とりあえずとは」

「いえ、言い方を間違えました。ありません。そんな方法はありません。自然に逆らってはなりません。起こると決まっていることを、ないものにしてしまうことは、いけません」

「口ぶりが妙だな。動揺してるのか?」

 何度も、予行練習をしてきたじゃないかと、占星術師は胸の中で、小さく呟いた。

「とにかく、教えるんだ。それから、考える」

「いけません」

「お前に、指図される覚えはないぞ」

「けれども、私たちは、私たちの家同士は、運命共同体です、皇帝。それに、この『死』にも、大きな意味はあります。あなただけの人生ではありません。はやまらないでください。決して、はやまらないで。感情に任せてしまってはいけません。乗っ取られてしまってはいけません。冷静になって。私の言い方が、間違っていました。含みを持たせるような・・・。そんな・・・でも」

「何を、あたふたとしている?さっさと、延命への手段を、指し示すんだ!なあ、私の命なんだぞ。私の許可なしに、勝手な真似は許さない。もし、お前が、私に教えるのが嫌ならば、私を説得してからにしろ。私に運命を、受け取らせるだけのね。それからなら、応じよう。もし、深く納得できたのなら、私はそのときは、静かで安らかな最期の時を過ごそう。穏やかな世界に包まれながら、すべてを受け止めることにしよう」

 占星術師は頷き、了承するしかなかった。まだ一年はあると、彼はおもった。

「あと一年」と皇帝も言った。「どちらにしろ、すべての可能性を、これから進めていこうと思う。どれを選択するのかは、死の直前であっても、構わない。そうだろ?その延命の方法は、その状態であっても、発動はするんだろ?発動させるつもりで、準備をしていければ。お前の役目だ。お前は今から、それに向かって、動き出すんだ」

 占星術師は、すべての可能性を推し進めるため、まず最初に、出産にもっとも適した若い女性を集めてくることから始めようと思った。



 結局、あの夏は、本来の暑さがやってくることはなかった。 

 何かがおかしかったのだろうか。そして、そのあるべき熱は、時を経て、十数年の月日を経た冬に、その出所を見つけたかのようであった。正月に梅が咲き、昼間であっても、十度にも届かないはずの気温が、何と二十度近くまで上がってしまっていた。

 皇帝は、一日、死の宣告による恐怖に苛まれたが、すぐに気持ちを切り替えた。

 今日においては、そのような『情報』が果たして必要だろうか。まだ見ぬ未来の出来事に心奪われても、良いことなど何一つない。影響はされた。それは確かだ。その影響は、多大だった。しかし動揺をこれ以上、広げては駄目だった。皇帝は、占星術師に出した指示とは別に、自ら動きだした。延命の手段があるようなことを、あの男は匂わせていたが、もしそんなものはなく、あったとしても、極めて効力の弱いものであり、一年後の死が不可避であるとするなら、自分は納得して、すべてを受け入れることができるだろうか。問題の核心はそこだった。そこだけが重要なことだった。その瞬間が訪れたとき、この自分は笑って死ぬことができるだろうか。深く考えるまでもなく、そんなことは不可能だった。生涯すべてにわたる、理不尽さをすべて結集したかのような仕打ちだった。許されることではない。しかも、この皇帝である自分に。怒りは放っておいても、募るばかりだった。やり場のない憤りは、どこにその道を見いだすのだろう。そして皇帝はすぐに、行動へと移した。兵士の一人を呼んだ。今日から、隊長として活動することを、その男に命じた。連隊名は、『E』だった。E連隊だ。E連隊、隊長。それが、お前の新しい役割だ。いいな。これまでの長は、皇帝であった。皇帝自らが、全権を担い、千を越える兵士に細かな指示を出し、戦場に赴くときのみ、代理をたて、皇帝は王宮から戦況を読み、的確な戦略をねり、戦術を伝えた。

 何とか、延命したいという儚い願いは、一夜にして、その可能性はないものへと変更されたと自らに通告する。

 延命などない。きっかり一年後。自分の生は終わる。

 理不尽さが拭えないのなら、今後、六十年分の生をここに結集させ、散りばめればそれでいい。全生涯の中でやることを、今このときに把握し、それを前倒しにするかのように、一年に照射し、組み込んだらいい。

 ある種、皇帝は昨晩の胸のモヤモヤを晴らしていた。それというのも、自分のこの最期のときを、世界の道づれと共に、終わらせてしまえばいいという構想が、芽生えたからだった。兵士の中から、もう一人、連隊長を選んだ。その男にも同じように、Eという連隊を組織するよう指示を出した。自らの国の戦隊を二分し、彼らの交流を絶つ仕切りを、国土の中に引いたのだ。壁を建てたわけではない、シールドのエネルギーを用いて、互いの交流を避ける前提の線を、引いたのだ。彼らにはわからないだろう。無意識に、その境界線には近寄らないようになり、近付けば、反射的に意識を失い、自ら元の場所へと帰るようになる。

 一年後、隣国との大規模な激しい戦闘が予想される。その心づもりで、いてくれ。

 皇帝は、二人のE連隊長に言った。戦争だ。我が国を何としても守ってくれ。たとえ連隊が最終的に壊滅しようとも、その一瞬前に、敵の息を完全に止めろ。いいな。今ではないのですか。どうして一年後なのですか。両連隊長は、同じ質問を皇帝に投げかけた。

「皇帝というもの。つまりは、そういうものなのだ。先々の光景が、見えずして、務まりはしない。戦の兆候を正確に捉え、種が撒かれたそのときに、来たるべき、大変転時代に対する備えを、始めなければならないのだ」

「なるほど。ということは、戦闘が起こる一年後。まさに、そのときには、皇帝!さらに、一年後の光景が、すでに、見えているということですね!」

 そういうことだと、皇帝は答えた。

「始まる前に、勝利を得ている我々の姿が」

「そのとおりだ」

 二人の連隊長はすでに、これから戦場に向かうかのような士気の高まりを見せていた。

「細かい訓練の仕方など、私は、知らない。そこは、君たちが一年を通じて、厳しい戦力の向上を図ってほしいだけだ」

 二人の連隊長は、もちろんですと、すぐに仕事へと戻っていった。

 これは、まだほんの始まりだ。始まりにしかすぎないと、皇帝は思った。 

 E連隊同士を、そのときシールドを外して、対峙させるのだ。

 一国内に、あらゆる対立の芽を見つけ、助長させ、一年をかけて、丁寧に育てていこうと、皇帝は考えた。



 フレイヤは自らの体液で座席のシートが濡れてしまっていることに気づいた。下着を剥ぎとられた尻の辺りが、冷たかった。男は倒した助手席で、覆いかぶさるようにフレイヤと重なっていたのをやめ、運転席へと戻り、衣服を素早く身につけた。 

 今日の仕事は早いんだと、男は言って、下半部が外気に晒されたままのフレイヤを、気にかける様子もなく、さっさと車を発進させてしまった。

「ちょっと、待ちなさいよ!」フレイヤは、座席を起こそうと、レバーの在り処を探した。「私だって、これから予定があるの」

 尻の冷たさが増していった。フレイヤは住所を男に伝え、そこに行くよう指示を出した。

 しかしすでに陽は昇りかけていた。これ以上、男を相手にするには、まるでその気にはなれない清清しさが漂っていた。

「いろいろと君も急がしそうだね」と男は言った。「また、誘ってくれよな。俺からじゃ駄目なんだよな。いいよ。それで。夜中だって呼び出されれば、かけつける。君は最高だよ。何も特別なことをしてないように見えるが、それなのに、一体何がそうさせているのだろう。僕は忘れられるよ。自分という存在も、この人生という存在も、すべて。この重みを一瞬で、撒き散らしてくれる。そのあとの落ち込みもまた、激しいが、それでもやはり、その一瞬を思い出すことができる。何度も何度も、その一瞬を体験して、重ねていくことで、より強固な刻印を埋め込むことができる。だから、何度でも、僕を使ってほしい。君が満たされるために、使ってほしい。いいね。他の男に声をかけちゃ、駄目だよ。真っ先にこの僕を。悪くないだろ?そうだよな。だから、こうして」

 浮気相手が、ただの自分一人だと、男は思いこんでいた。

 フレイヤは微笑んだ。可愛らしいじゃないの。

「当たり前じゃない。あなたと、私。すっごく、合うと思うから。ぴったりよ」

「だろ?」

 男は、子供のようにはしゃいで、朝の街に消えていった。

 タクシー乗り場付近で、佇むフレイヤは、照らされた透明な光に、だんだんと細胞が解かされ、消えていくように感じた。あまりに小さな粒子へと変貌し、その粒さえも、大気の中に同化し、自分は、空へと舞い上がっていくようだった。身体の消耗が激しかったのだろうか。私は抵抗する力が残っていなかった。けれども、目立って疲れを感じることはなかった。他の女も、こうなのだろうか。みな、いくら行為を繰り返しても、何事もなかったかのように次の行為を要求するのだろうか。私がこうやって男を次々と変えるのも、理由はただの一つだった。男の耐久性は一度なのだ。どんなに精力の有り余った男でも、必ず二回目以降の威力は落ちる。それは宿命なのだ。それに反し、私は一度したら、二度目を欲する。さらに強力な快感を求める。そして、インターバルは短ければ短い方がいい。そうすると、必然的に男を次々と変えていく以外に道はない。朝日に照らされ、肉体を失ったかのようなこの私を得るために、この数時間を疾走してきたのかもしれない・・・。いつだって、男とのそれぞれの行為の中に、喜びはなかった。愛がないのだ。私が受け取る代償だった。

 けれども、こうした衝動は、これでしばらくは鳴りを潜めるだろう。性欲は満たされ、使い果たされ、次なる出撃を静かに待つ。夫とのセックスをしたのが、遥か昔のことのように感じられる。あの結婚発表の会見も、夢の中のようだった。誰かが私に成りすましておこなった、茶番のような気がした。

 このままここに、佇んでいると、迎えの男に発見されると思い、駅の中へと身を隠した。

 しばらく朝日が昇る様子を見ていた。始発はちょうど二分後に来る。バックから、眼鏡ケースを取り出し、真っ黒なレンズの入ったサングラスをかける。私は一体誰なのだろう。この性欲は、女のそれじゃないことにも、薄々気づいていた。なのに、行為後の消耗は、男のそれではない。性的な倒錯は、ここに極まっていた。もし男だったらと、フレイヤは思った。どんな性癖でどんな生活を送るのだろう。同じように、女を手当たり次第、たくさん集めて、次から次へと犯していくのだろうか。何かに追われるように。もう後がないかのように。明日がないかのように。尽きる命を、何とか引き継がせるために。とにかく、出会う女、若い女、新しい女に。女の中に、残された時間を発射する。時間を発射するのだと、フレイヤは思った。彼らのどれかは、確実に自分を引き継いでいく。どれとは言わない。全部だ。国中が、世界中が、自分だらけになる。それでいい。それくらいしなければ、耐えられない。次々に、私は、女の中へと残されたエネルギーを、投入する。精子は搾り取られ、薄まり、すでに液量も枯渇しているにもかかわらず、次々と女の中へと挿入し、残された命の欠片を、引き継がせる。そして私は思う。この暴走したまま、この状態のままに、生と死の境界線を越えていってやると。今でいい。一年後とは言わず。そのときは、今でいい。今ここで。ここがいいのだ!

 フレイヤは、実際に声をあげていた。通勤客にじろりと見られ、避けられてしまった。しまいには駅員が現れ、どうしました?と言われた。警察官まで来てしまった。フレイヤは、サングラスを取り、微笑んだ。立花フレイヤに戻った瞬間だった。



 それからの皇帝の多忙さは、日に日に極まっていった。終わりに向かって失うものは何もなかった。朝起きて、身支度を済ませるとすぐに、その晩に抱く女の候補が準備された大広間へと行く。皇帝は、隣りにいる占星術師に合格、不合格を伝え、五十人以上はいた若い女性を、十人ほどに絞った。自室へと戻り、次なるE連隊の構想を練る。占星術師の家系にも、分岐の流れを意図的に作り出そうと思った。気づかれぬよう、対局の構造を埋め込みたかった。

 昼になり、残った十人からまた五名ほどを、はじいていく。再び、大広間に、はじかれたすべての女を集め、午後に一瞥することで、最終的に救い上げる女性たちを見極めた。

 だいたい、二人ほどを選んだ。最終的に、この七人の中から、さらに、夕方には一人、二人とはじいていき、夜もふけることには一人が残る。皇帝は初め、この流れで一晩に一人のペースで、未来の皇帝自身を、女の中に解き放った。だが、二週も続けば、しだいに終わりへと向かう心は、さらに勢いがついていく。皇帝はすでに嬉々として、この運命と共にする決意をしていた。追い越す勢いだった。すでに追い越していたのかもしれない。運命の鈍重な進みに、憤りさえ、覚えていたのかもしれなかった。しかし、皇帝は、運命が追いつくのを待っているほどの穏やかさは、持ち合わせてなかった。

 抱く女は、夜に加え、昼にも加えて、夕方にも、朝にも、まさに一ヶ月が過ぎる頃には、集められた女性すべてに対して、事を起こすようになっていった。占星術師はさすがに、これ以上は自殺行為ですと、皇帝に思いとどまるように言った。

「自殺行為だと?何を言ってる?お前は。お前が私に死を宣告したんだぞ。私が自ら死を宣告したわけじゃない。とうてい受け入れることなど、不可能だ。だから、先を越して、自らが宣告するよう、取り計らっているんじゃないか!それに、ケチをつけるだと?いいかげんにしろよ!お前は外す。別の奴を連れてこい」

 困りますと、占星術師は言った。

「みな、それぞれ専属が決まっております。生まれの近い者同士が、二つの家系において、そうです。運命は共にしているのです。どちらかが、亡くなってしまう以外には、替えることは許されません。そして、実際には、占星術師が亡くなってしまった場合でも、残されたあなた方のほうは、以後、占星術師不在ということが、現実には続いています。逆もまた、そうです。残された占星術師は、以後、誰の専属にもなりえません」

「過去の話は、どうだっていい」

「そのくらいに、密接な関係なのです。私にはわかります。あなたの苦悩が」

「苦悩?」

「あなたの心は、のた打ち回っています。止め処なく。自暴自棄になられております。最初のうちは致し方ないと思い、見過ごしてきましたが、いよいよ限界です」

「限界だと?お前のな。お前の忍耐力のことだ。お前自身の問題だ。お前はじっと見守っていることのできない人間なのだ。正体を現したな。それもまたいいだろう。いかに、この私に、不適合な男であるかが、証明されているようで喜ばしいよ!この差、このズレこそが、むしろ、残り一年という寿命という表現となって。そうだ、きっとそうなんだ。お前と私。共に歩める時間。歩まなくてはいけない時間。それなんじゃないのか?どうだ?

 何も言い返せないだろう?当たりなんだよ。一体いつまで、占星術師など、私に必要なのだろう。目障りで仕方がない。本当に面倒くさい。何故お前になど、指示されなくてはならないのだ?いったい何様なのだ?一国の主にでもなったつもりか?この気取り屋め!お前の寿命が、あと一年なんだよ!すりかえて、なすりつけるのもいいかげんにしてほしい!そして、お前の命など、その一年さえ、ない!」

 皇帝は袖に潜ませた短剣を握り、素早く占星術師の首に突き刺した。男の首からは勢いよく、斜め上に向かって血がしぶき、その勢いは止まらなかった。皇帝は刺さったままの短剣を、さらに奥へと押し込み、手前へと勢いよく引いた。占星術師は悲鳴を上げることなく、口と目を最大にひらいた状態で、固まっていた。

「私は、すべての先を、越してゆく。私を遮るものなど、何もない。お前はでしゃばりすぎた。これまでと同じだと思うな。今からが始まりだ。全生涯が、終わりに向かっていると知った、そのときが、真の始まりだ。私には必要のないもの。それを、切って落としていく必要がある。お前がその始まりだ!」

 隣りの広間には、その夜に抱くことになっている女性が、集まっていた。

 皇帝は部屋に入り、女たちを呼び出し、床に転がっている塊を指差して、すぐに片づけるよう命じた。

 女たちは絶句したまま、女同士、互いに目を見ることなく俯きながら、それぞれが手分けをして、塊の周りに位置をとった。運びだすことしか、考えられなかったのだろう。小柄な男だったのが幸いした。彼女たちは、男を宙に浮かせ、滴り落ちる血で、服や足元を汚しながら部屋を出ていった。運ぶ作業に必要のなかった女たちは、自らの脱いだ上着で、床に付着した血をふき取り、最後に、器に汲んできた水で床に流し、痕跡を消しとった。



 アスカという隣人が去った後、フレイヤは迫り来る死の瞬間に向けての静けさが、部屋を取り巻いているのがわかった。すでに、客を取り続けていた部屋は、フレイヤの身体と同化していた。八年という、実に長いようで短い月日が、そのまま人生の晩年になってしまっていた。

 フレイヤは、アスカと同じ時に娼婦となった、そんな同い年の女では、なくなってしまっていた。アスカという女は去っていった。初めから、いなかったかのように。宿の主人によれば、アスカはこの世界から足を洗い、貯めたお金で、しばらくは第三の人生についてゆっくりと考えながら、暮らしていくということだった。

「貯めたお金?」

「そうだよ。彼女は、両親が私にした借金の返済だけではない、自分のお金を持つことを望んだ。私がその管理をしていた。彼女に頼まれてね。彼女の手に、すぐに渡ることのなかったお金は、八年のあいだ積み重なり、けっこうな額となっていた。もちろん私は、彼女に宿に残るよう、この仕事を続けるよう迫った。だが彼女は、きっぱりと断った。八年も続けていれば、普通は違う仕事などできなくなる。体は、重ねた記憶を忘れないし、実入りも、他の仕事とは比べものにならないくらいに高い。破格だ。しかし彼女は違った。あんな娘は、今まで見たことがない」

「私に貯金などない」

「ああ、そうだ。皆、そうだ。あの娘は特別だった」

「男に貢いだこともあった。騙し取られたこともあった。若いときは、体に磨きをかけるために、薬を処方したこともあった。でも、今じゃ・・・。治る見込みもない病気のために、お金は、どんどんと・・・。けれど、私には、それ以外に使い道など・・・。ねえ、私をさ」

 フレイヤは、淡や血の混さりあった喉の不快感を、無理やり打ち消すように、快活な声を出そうとした。出したつもりだった。

「高級娼婦に、してちょうだい!皇帝とか、兵士の偉い人とか、役人の上役。社会の重要な地位についてる人とか。そういう人の相手がしたい。お願いできるかしら。もちろん、この宿は、そういう客とは縁がないことくらいはわかっている。どこか紹介してくれないかな。あなたの顔は潰さないから。精一杯頑張るから。お願い。最後のお願いよ。私、もう長くはないの。一ヶ月もつかどうか、わからないこの命に、なんとか、慰めを与えたいの。アスカもいってしまった。私、ほんとに一人ぼっちなの。人生に、最後、何らかの痕跡を残したい。私が存在していたっていう、証拠を残したい。協力して。あなただって、罪深い人間じゃないの。こうやって、次々と、若い子を廃人にして、最後は捨ててしまう。どれだけ数が増えていったとしても、何も感じないとは、言わせないわ」

 フレイヤは、自分が何を言っているのか。しばらくわかってなかった。その意味を理解すると、その皺だらけの顔を赤面させて、俯いた。

「いいの。何とかできる。灯りを徹底的に弱くすれば。八年で身についた技術が、私にはある。体を全盛期のように見せることは、できる。意識を集中すれば、私、体を変容させることくらいは、今でも・・・。ずっと、そうしてきたの。ずっと、客の前では、変容させてきたんだもの。その代償は大きかったけれど。結果、このありさまだけど。そう。一度だけでいい。一度だけ、高級娼婦にならせて。私、アスカとは違って、ここを出ていく女じゃない。今さらそのことに気づいた。たとえもっと前に、体を病む前に、人生に意味をもたせようと考えたとしても、私は、これが天職。ならば、もっと慾を叶えたい。私のグレードを、最高レベルにまで引き上げたい。そう願ったと思う。その願いを叶えさせてあげたい。化粧で顔も誤魔化せると思う。声だって一時間くらいは、艶を持たせることは可能だと思う。このまま死なせたくはない。このまま何もせず、闇と見つめあいながら終わりたくはない。私でいたいの。最期まで。いえ、最期だけは。華々しく」

 その痛々しい姿のフレイヤを、主人は見てられなかった。彼女の精気はすべて、アスカが持っていってしまったかのように何故か感じられた。

 翌日、フレイヤの外出が決まった。二度と宿には戻ることはないことを、フレイヤも主人もわかっていた。歩くことさえ、主人の支えなしには叶わない。主人は馬車を呼び、彼女を乗せ、代金を支払い、城に行ってくれと御者に伝えた。話はすでについている。皇帝は、今、若い女を街中から集めている。そして、その勢いは、人々に異変を感じさせるほどにまでなってきている。うちの宿からも、女を出してくれと言われた」

 御者はただ頷き、それ以上は訊かなかった。

 主人は、フレイヤの手をとり、そして目を見つめ、これまでの感謝を伝えた。髪の毛を触って、ありがとうと呟いた。フレイヤは、化粧に埋もれた醜い顔で微笑み、深い皺を、主人に見せつけた。

 もういいからと、主人は無言で訴えた。それ以上は顔を崩すんじゃない。表情を消して、俯き、まだ唯一、若さを勘違いさせることのできる首筋を、強調するよう訴えた。

 フレイヤは、最後に主人が見せた優しさを、胸に受け止めた。

 あの男も悪い人間ではなかった。おかしな客を当てがわれることなく、配慮のいきとどいた、仕事場だったのかもしれなかった。馬車の上下に揺れる振動に、全身が、痛みで応える始末だった。

「あと、どれくらいで、着くのかしら」

 早くもフレイヤは根を上げそうになった。

「それほどかかりやしません。二十分、いえ、三十分ほどで」

 フレイヤはうな垂れた。とても耐えられそうになかった。

「大丈夫ですか?体調が、お悪いように見受けられますが」

「いえ、おかまいなく。昨晩も、仕事でほとんど寝ていないだけですから」

「お察しします」と御者は言った。「ところで、お城にも出張なさるのですね」

「初めてのことです」

 フレイヤは話をする力も残ってなかった。だが、そうすることで、体の痛みは紛れたので続けることにした。

「お城では、何が起こっているのでしょう。あなたのような人だけではなく、もっとずっと、お若い女の方も先日乗せていったばかりなのです。これでは、女の方が、どんどんと、街からは消えていなくなってしまいます」

「消える?」

「あ、いえ、そうですね。消えてはいないのでしょうね。帰りは、城の人間が、送り届けるのでしょうから。一夜明ければ、元へと戻る」

「皇帝は、女の方が、お好きなんですね」

「どうなのでしょう」

「数人の女性では、飽き足らず」

「手当たり次第ですね。百姓の家の両親も、城に連れていかれるのを、泣いて、拒んでいました」

「相当、お金も用意してもらえるんでしょ?」

「初めはそうでした。しかし、数が数です。今は」

 フレイヤはそっと笑みをこぼした。ますますいけるじゃないか。

 全身に眠り続けるエネルギーが漲ってくるのがわかった。理由はわからなかったが、すでに皇帝は、女をそれほど厳密に選んではいない。私もまた入っていける。

「ところで、お客さん」

 御者は声のトーンを変え、フレイヤに訊いた。

「私のこと、覚えてませんか?」

 その言葉にはフレイヤは不意をつかれた。

「えっ・・・」

「私ですよ、お嬢様」

 聞き覚えのある声ではなかった。

「フレイヤさまでしょう?懐かしい。私にはわかります。フレイヤさま。十数年も前のことです。私は、あなたの家に出入りしていた商人でした。その後、あなたが、家を出てしまわれたことを、噂で耳にしました。フレイヤさま、あなたの家はあれから数年後、巨額の不渡りを出して、倒産してしまいました。それからの私は、あなたの家の方とは、何の関わりも持つことなく、時は過ぎていってしました。しかし、私はずっと、あなたの家のことが気になっていたのです。しかし、お母様もお父様も、あなたのお兄様も、消息はまったくつかめなくなってしまいました。もちろん、あなたもさまも。まさか、このようなところで。フレイヤさま。私は、あなたの仕事を大変尊敬しているのです。しかもこうして、あなたは、お城にも出入りできる、お城に推薦なされる方へと、成長なさった。私はあなたの家の方が、一人でも生きていらっしゃることに、嬉しさを、隠しきれないんです。成功なさったのですね、フレイヤさま」

 御者は一度も振り替えることなく、言葉をつないでいた。フレイヤは、自分のことを知っていることに、驚きを隠せなかった。あの家に居た時に、出入りしている商人の数は、相当なものだった。この男が誰であるのか。今もあの時もわからない。確かめようもない。

「フレイヤさま」男は続ける。「ひとつ、お話があるのです。皇帝さまのことで。あなたがこれから相手なさる皇帝さまについて。彼の気が狂ってしまわれたという噂が、少しばかり、ささやかれているのです。しかし、そのようなことは、公には口にできません。連れていかれ、抹殺されます。フレイヤさま。私だって、あなたが聞き手でなければ、このようなことは決して話しません。いいですか。よく聞いてください。私は、この噂。事実であると認識しているのです。フレイヤさま。あなたさまの家のこと。あなたさまが、一人、家を出てしまわれたこと。今思えば、あなたさまの家の変調を、先取りしていたかのように思うのです。あなたさまは来たるべき、あなたさまの家の運命を、どこか知っていたように思うのです。確実に、とらえることができていた。そう、あなたさまは、一族の意見を無視して、勝手に飛び出してしまわれた。どういった理由なのかは、わかりません。今も、問う気はありません。あなたさま個人の理由に対して、私が理解できることなど、何もないのですから。あなたさまは、あなたさまの周辺で起こる事情に対して、敏感に反応してしまわれるのです。そんな特質を、持ち合わせた方なのです。あなたさまが城に呼ばれた。皇帝に呼ばれた。あるいは、城へと、自発的に向かわれた。皇帝のもとに向かわれた。どちらであっても、現実は一緒です。その事実が、最大の意味を表しています。あなたさまが何かの覚悟を持って、いえ、そんなものは何もないとおっしゃられるかもしれませんが、それでも、あなたさまの行くところ、そして、あなたさまが去るところ、そこでは、大変重要な何かが、必ず起こるのです。起こってしまうのです。あなたさまの家も、また、多大な影響を、周辺や時代に及ぼしたのです。ただの不渡りによる一商人、一家族が消えただけの、話ではないのです。連鎖が連鎖を呼び、このしがない私でさえもが、職を変えざるを得なくなってしまうほどの、社会の成り立ちをも崩す、要因となったのですから。あなたさまは城に行き、そして去る。去ったあと、城には大変な事態が巻き起こる。あなたさまが飛び出してきたその遊郭にも、すでに何かしら、起こっているのかもしれません。いえ、いいんです。何も気になさらないで。あなたさまが考えることではない。ただの、老人の戯言です。でも、聞いてください。私の自己満足です。あなたさまが生きていたことへの高揚感が、こうして私をおしゃべりにさせているのです」



 皇帝がそのように若い女性を執拗に集め、行為に及んでいる事実をフレイヤに伝えた。

 また、他にも、城に出入りする兵士や承認、役人などの動きが、いつもとは違って、物々しくなっていることを、フレイヤに話した。人の出入りが激しくなるばかりでなく、出て来る人の様子が、殺気だっているということだった。熱狂してるといって、よかった。

 病的な高ぶりなのだという。女性もそうなのですか?フレイヤは訊いた。

「そうです。女性もまた、そうなのです。皇帝の異変を、性的に引き継いだとしか考えられません」

「性的に・・・」

「そうです。男たちは経済的に、政治的に、事務的に、軍事的に、引き継いだ。まさに、そういった感じだった。皇帝自身が撒き散らされているような。それも、まともな皇帝ではない。だから私は思ったのです。何かが起きているのだと。皇帝自身のことではないのかもしれない。何か、城や彼の家系に関する、深くて根深い、根本的な、有りようのようなものが。それが皇帝を通じて、解き放たれているのかもしれない。今は薄気味悪い話かもしれない。しかしそれは、予兆を発露している間にすぎない。あっというまに、手のつけられない、飲み込まれるしかない事態に、巻き込まれてしまう・・・。いえ、あなたさまに、どうしてほしいとか、そういった話ではないのです。けっして。あなたさまの行くところ、去るところに、そういった芽が撒かれ、発芽していくという、ただそれだけの話なのです」

 全身に縦横無尽に走る痛みのことを、フレイヤはすっかりと忘れてしまっていた。

 道が舗装されていたのだ。城への領域に、すでに入っていたのだ。しかし、それだけが理由のようには思えなかった。すっかりと、フレイヤは自分が病に侵され、先のない娼婦であるといった認識が消えていたのだ。何がそうさせたのかはわからなかったが、複数の偶然の重なりが、私にある種の力を与えているのだろうと、フレイヤは感じた。



「占星術師は気が狂ってしまった。短剣を、私に向けて迫ってきた。おいっ。こいつの、師を呼ぶんだ。この男個人に、問題があったのか。それとも、君たちに受けつがれてきているものの中に、毒牙の種子が潜んでいたのか。徹底的に調べるんだ!」

 皇帝はすでに遺体を処置したことを、城内の人間に伝える。

「それで、どのように調査をしろと」

「お前か?お前が、この男を育てあげた人間か?」

「そのとおりです」

「どう責任を取る?」

「申し訳ありませんでした。しかし、どうしても、信じられないのですよ。理解ができません。理由がわかりません。何故あなたを」

「私が聞きたいくらいだ」と皇帝は声を荒げた。「まだ居るのか?私に剣を向ける者が。まだ君らの家の中にいるんじゃないのか?たまたま私が選ばれた。たまたまこの代を選んだ。私のどこに弱点を感じたのだろう。とにかく、城内の機密事に、しなくてはなるまい」

「おっしゃるとおりです。それでは、皇帝さま。隣りの広間には、すでに、今晩の女性が集まっていますが、どういたしましょう。状況が状況ですので、彼女たちは家に帰しましょうか」

「ちょっと待て。それはどうだろう。それこそが、城の異変を周囲に、吐露してしまうきっかけを与えてしまうのではないか」

「たしかに」

「いつも通りを、貫こう」

「わかりました。それにしても・・・。どういたしましょう。新しい専属の・・・」

「断る!」皇帝は毅然と答えた。「二度と信用はできん。今すぐにでも、君たち一族を城から追放したいくらいだ」

「ご勘弁を。少しお時間を。必ず解明いたしますので。責任はそのあとで。覚悟はできております。しかし、遺体の方は残しておいてもらいたかった」

「すでに、城外へと出した。女たちに手伝わせてな。ちょうど、新しい女を連れてきた馬車が居合わせた。女と入れ替わりに、運ばせた」

「大丈夫なんですか?そいつは誰なのですか?」

「余計な詮索は、無駄なエネルギーだ。気の狂った占星術師を生み出した原因。その構造を、明確にすることに、全力を尽くせ!占星術の家だろう?あの男の中に潜んだ何かを、発火させる要因が、天体同士の配置、太陽の活動の変化、そういったものの中から生まれた可能性はないのか。すぐにわかるだろう?まがいものじゃなければな」

「そのことも考慮して。突き止めさせていただきます」

「私には、もう君らは必要ない!これっきりにしよう。私には一切、関わらないでくれ!」

 わかりましたと長老は答え、足早に皇帝の部屋から出ていった。

 皇帝は机の角を蹴り、ランプを床に叩きつけ、万年筆で壁をえぐるように深く突き刺し、この震え始めた手の置き場が、なかなか定まらないことに、いらだちを露にした。

 まだ、人体の中に、刃物を突き刺した感覚から、離れることができなかった。こんな調子で、女を抱けるのだろうか。言われたように、今晩は回避するべきだったか。皇帝は広間に顔を出し、女を品定めし、今日のやる順番を決めた。いっぺんに、やってしまいたいくらいだった。それがいい。すぐに服を脱げと、皇帝は全員に通達した。「今から始める。ここでな。さあ早く。下着も取れ。両手をついて尻をこっちに向けろ。早く」

 この頃にはすでに、女を丁寧に吟味することをやめていた。集められた女に、年齢のいった女が交じっていたとしても、皇帝は気づかないか、目に止まっても気にせず、事を始めしてまったことであろう。

 五人の女の左端にいたフレイヤもまた、処女同然の女たちに混じって、退廃的な性のまどろみを発散していたにもかかわらず、同じように下着をとり、尻を皇帝へと向けた。皇帝は、手の震えから、服を脱ぐのにも難儀した。裸の女たちは手伝った。皇帝は何度も、女たちの頬に張り手を加え、彼女たちはその度に床に倒れこんだ。フレイヤは、皇帝にはなるべく近づかず、彼の様子を見ていた。あまり側に近づいてしまえば、自分が何者であるのかを察知されてしまう。私はいったい誰なのだろう。誰になろうとしているのだろう。この漲る偽りのエネルギーはどこから湧いてきているのだろう。燃え尽きる蝋燭の炎の最後の輝きなのだろうか。今晩、この城が私の墓場となる。ここが、最後の運命の十字路ということになる。さて・・・。

 皇帝を見ていたフレイヤの左腕を、引っ張る誰かがいた。裸になっている女の一人だった。

「フレイヤ」とその女は呟いた。「しっ。黙ってて。あなたの後をつけてきたの。やっぱりそう。でも、びっくり。どうしたの?この回復具合は。けれど何か、本当のフレイヤとは違って見える」

 その女は、アスカだったのだ。つい何週間か前に、宿を出ていったあの女だった。

「皇帝の相手に、とりあえずはなってみようって。城に近づいていったの。あなたが馬車に乗って、城の中に消えていくのを、偶然見ちゃった。すぐに、追いかけて潜入した。一人若い女が増えても、どうってことはないみたい」

「どうして」

「ねえ、フレイヤ。私たちって、やっぱり、何度も再会する運命なのよ。城に入場する時まで、同じだった。まさかね。でもどうしたのよ。その回復は。本当にもう、平気なの?病気はよくなっているの?いい薬を見つけたの?仙人のような医者に、手当てをしてもらったの?信じられないわ」

「そんなに変わった?」

 フレイヤはそこまで言われるとは、思わなかった。化粧による誤魔化しだって?相当な暗がりだから、この効果であって、それさえもが、皇帝が狂っていなければ、一目瞭然なはずだった。それなのに、アスカは、自分とほとんど同じくらいの美貌を見ているかのような、そんな自然な対応だった。

「どう見えているのかは、わからないけれど」とフレイヤは言った。「おそらく、私は、今夜を越えることができない。ここで終わり。最後の仕事よ。ここを選んだの。あなたに見えているのは、私の最後の炎」

「どうして、ここだったの?ここを選んだの?」

 フレイヤは今にわかるわよと、アスカの目を覗きこみ、あなたに最後に見せたいものがあるからと言った。



 フレイヤは馬車を降りる時、四人の女が、黒い布でぐるぐる巻きにした横長の塊を、運んでいる光景と遭遇していた。彼女たちは、馬車へと向かっていた。今まさに、降りたばかりの馬車の御者に、一人の女性が話しかけていた。御者は何度か頷き、女たちは黒い荷物を、本来人を乗せるはずの場所に入れ込んだ。女たちは乗らずに、馬車は走りだした。女たちは城へと引き返してくる最中だった。そのときフレイヤは、地面に液体の付着した小刀が転がっていることに気がついた。拾い上げてみるまでもなく、血がべっとりとついているのがわかった。とっさにフレイヤは拾い上げ、女たちに気づかれないよう、服のポケットにしまった。模様だと思っていた、女たちの服にもまた、血が所々に付着していた。女によって、その付着の具合は異なっていた。おそらく、あの荷物とは人間なのだろう。小刀が刺さった場所のあたりを持った女の胸は、誰よりも血で赤黒く染まっていた。あるいは、彼女が刺したのだろうか。城の中で、何かが起きたのは確かであった。御者の言うとおりだった。女たちも、その何かに深く関わっている。一体誰なのだろう。フレイヤに声をかける女はいなかった。フレイヤがそこに居ることに気づく者は、誰もいなかった。彼女たちは周りが見えてなかった。ただ蒼ざめた顔で、手早く、作業を終わらせようとしていた。フレイヤは彼女たちの後を追った。周りから見たら、五人の女が固まって、移動していたことだろう。今考えると、その私の後ろに、アスカはいたことになる。私を追って。六人の女が城の中へと入っていった。フレイヤは入城の審査を受けることなく、誰に案内されることもなく、その日に抱かれる女の中に、入り込んでしまっていた。アスカもまたそうだったのだ。

 服を脱ぐあいだ、小刀は髪の中に隠した。うなじを見せるために、長い毛を束にして上でとめていたのだ。そこにそっと摺りこませた。血液はついたままだった。フレイヤはアスカが両手を床につき、尻を皇帝に突き出したところを見た。フレイヤはとっさに皇帝の背後へと移動し、彼の首の付け根あたりを目がけて、右横から勢いよく突き刺した。左右に揺すぶり、皇帝を動かしているメインスイッチを探しだすかのように、身体の中をさぐった。この男を動かしている核のようなものを、機能不全にする必要性を感じた。この男の命をとるのではない。メインスイッチを破壊するのだ。二度と生まれてきてはならない。生まれてこないように。祈りをこめて。フレイヤは衝動的に、一連の行動をとったが、それは小刀の獲得から、城の内部の御者からの囁きを含め、すべてが流れる河のごとく、あっけなく事は進んでいった。なんとしても、この男の性器を、アスカの中へと侵入させてはならなかった。何があろうと、この子だけは守らなければならないのだ。私はアスカへの憤り、わだかまりが、砕け散るのがわかった。私は彼女が宿を出ていくときにごめんねと言った表情が忘れられなかった。許して。いつか、迎えにくるからと。私は嬉しくてたまらなかった。彼女と離れ離れになることが、耐えられなかったのだ。彼女を憎しみさえすれば、自分の本当の気持ちに目をやらずにすむ。そしてまた、彼女に、この醜い自分を見られたことに対する、多大なショックも受けていたのだ。こんな私は見せられない。それなのに、アスカは、何の許可も取らずに、ドアをノックもせず、入ってきてしまったのだ。フレイヤは、アスカに何の恨みも抱いていないことを伝えたかった。悲鳴はあまりに遠い夢の世界から、わずかに聞こえてきただけだった。両肩を押さえられ、引きずられるように、部屋から出されていく感触はあった。アスカのように思える女性の影が、迫ってきているのもわかった。アスカは、声を張り上げていた。何を言ってるのかは、わからなかった。意識はどんどんと、鮮明になっていった。今から生まれでようとしているかのようだった。死ぬとは、意識が次第に薄れて、うなされるものだとばかり思っていた。状況が鮮明に戻ってきた。アスカもまた、男たちに取り押さえられ、他の女たちもまた、その場にとどめられていた。血に染まった裸の皇帝は、布団に寝かされ、溢れ出る血を防ごうと、家臣たちが、布で必死に覆い、包んでいた。医師のような男がやってきて、脈を確認している。これが私の最期であったのだ。フレイヤは、自分の身体を離れたところから見ているようであった。身体は確かに、アスカの驚きを見事に体現していた。むしろ、アスカよりも綺麗で張りがあり、若返っているようだった。これなら、誰に疑われるはずもなかった。ところが、次の瞬間、身体は黒ずみ始めた。収縮し、干からびていくかのように、腐臭さえ放っているように。老化が急速に始まったかのようだった。そして、そう思う間もなく、フレイヤの身体は、ぐったりと力を失い、口元はだらしなく開いていった。目は静かに閉じていった。よく知っている自分の姿そのものになっていった。フレイヤの身体を取り押さえていた男たちは、その変貌に汚物を触っていたかのごとく、放り出すように、その手を離し、その場に放置して、皇帝の元へと移動してしまった。アスカは生気を失ったフレイヤの身体に近寄り、見下ろしていた。許してと、今度は、フレイヤがアスカの耳元に向けて囁いていた。私を許して、アスカ。今までごめん。素直になれなくて。またいつか、一緒に過ごしたい。今度は、あんな場所ではなく、もっと・・・。

 あの宿に、アスカが入ることを事前に知っていて、それで自分もまた、あのタイミングで娼婦になり、入居すること決めたのかもしれないなと、フレイヤは今はそんなふうに思うのだった。



 フレイヤは、始発の電車に乗るのを回避した。改札に入ることなく、コンコードをそのまま直進し、反対側に突き出た。尋常ではない光に、フレイヤは包まれていた。自分の身体の輪郭が、白く輝いているのが見えた。

 フレイヤは、自分の身体が、その白い影に、後ろから付いていっているように感じた。白い影は、どこに向かおうとしているのだろう。直進していた。光は、明るい闇のようであった。視界にはなかなか、駅の反対側の街並みが、現れてはこなかった。

 ここが、何駅であるのかもわかっていなかった。駅名の表示板を確認するのも忘れた。突然、目の前に、背の高い人物がやってきたのかと思った。薄れゆく白い闇は人ではなく、高層ビルであった。フレイヤの行く手を、遮るように登場した。ビルだけが、はっきりと浮き上がっているだけだった。周りには、あいかわらず、太陽を直接見たときの光景が、拡がっている。

 フレイヤは、近づいているつもりはなかったが、建物は、ほぼ正面に来ていた。

 大聖堂のような彫刻が、壁には彫られている。半透明な、ガラス張りだと思われた壁は、材質もまた、屈強だが、古びた存在感のある木のような、温かみがあった。

 フレイヤは扉の取っ手に手を触れ、そして押した。男と別れてからは、さらに夢見は、深く静けさに満ちていった。フレイヤは直進した。

 正面に佇む、祭壇に向かっているようであった。牧師の姿はなく、婚約者の姿もなく、聖書もなく、列席者もいない結婚式のようであった。そのすべては、この自分そのものだった。フレイヤは、一人きりの世界で、安らいでいた。夢が夢を呼び、別のまた大きな夢とつながり、その荒れ狂う夢の連なりの中で、フレイヤは、その中心地へと移され、安らいでいた。そして重なった夢は消え、フレイヤは自身の輪郭さえ失っていた。


 フレイヤは今、自分が何をしに、この場にいるのかわからなくなっていた。

 どれだけ、時間は過ぎたことだろう。ほんの少しだけ、光は弱まってきていた。それにつれて、周りの状況も、うっすらと蘇ってくる。音もわずかだが戻ってきている。やはり、大聖堂の中なのだろうか。列席者で埋まった座席の一部が、見え始めていた。視界は、断片的に蘇ってくる。牧師のような老人もいる。祭壇もある。羽根のついた万年筆もある。紙が置かれている。婚約者はいない。祭壇に向かい、立って歩いている人間は、私だけではなかった。

「今から、神殿娼婦の承認式を執り行ないます」と老人が低く太い声で宣言した。

 神殿なのかとフレイヤは思う。祭壇へと近づく女性の列の中に、フレイヤもいた。若い女ばかりであった。

「承認のあと、彼女たちは、五年の、訓練期間へと入ります。神殿娼婦として生まれ変わるのです」

 調印をするための壇上に、フレイヤはあと、三人というところまで来ていた。

 何を書けばよいのか。名前を書けばいいのか。

 フレイヤは、躊躇う気持ちが湧いてきていた。私はいまだ夢の中だった。

 この方向で正しいのだろうか。

 あそこでどうして電車に乗ってしまわなかったのだろう。

 光に導かれるように、その魅力に抗うことはできなかった。

 フレイヤの番になった。

 羽根のついた万年筆を取り、下に置かれた紙を見る。そこには、文字が書かれていることを期待した。だが、液晶の画面になっていた。動画が流れていた。

 フレイヤは、戸惑いを隠せなかった。画面にタッチをしたらいいのか。後ろに並んだ女たちにも迷惑をかけてしまう。流れをとめてはいけない。フレイヤはわからずに、画面へとペンを触れさせた。映像は次々と変転していった。何かの場面なのだろう。戦争映画なのか。ライフルを持った兵士が、うつ伏になって乱れ打っている様子が映されている。彼らは狭くはない、空白の地帯に向かって、銃弾を解き放っていた。また、別の方角からは、その空白の地帯の様子を、窺っている隊の姿もあった。撮っている映像のカメラワークは、映画の作品のようでさえあった。中立で、しかも、様々な角度からの映像が、短い時間でチェンジしていった。この空白地帯を巡る攻防であることはすぐにわかった。この場所を挟んだ勢力同士の、境界線なのだろうか。それとも、この場所そのものを獲得するための、戦闘なのだろうか。不思議なことに、各連隊の戦闘員は、その地帯に踏み込むことはなかった。踏みこみたくはない、踏みこめないために、銃弾を打ち込むしかないといった、この地を獲得したいために侵攻した、軍隊のようにも、見えた。

 誰も立ち入ることを許さない。けれども、我がものにするために。

 だが入れない。

 フレイヤはすぐに、この映像の空白地帯がココだとわかった。

 この神殿は、ここに建てられていたのだ。狙う人間たちは多かった。しかし彼らを退け、今ここを手にいれた。そして神殿娼婦が教育され・・・。そう思ったときだ。

 画面は消え、フレイヤの手の中にあった万年筆は消えた。


 誰にエスコートされたわけでもなかったが、段差のその裏へと、移動していった。

 奥行きがあり、通路はさらに先へと移動していった。通路は先へと繫がっていたのだ。

 フレイヤの細胞は、次第にこの光の闇に慣れていった。ずっとこの状態で、ここまで、自分は生きていたのではないかと思った。私の夢は終わりそうになった。長い夜は、明けない朝と共に、光の折り重なったさらなる夢へと、深化していた。その極まりと共に、ここは、現実に建てられた神殿なのではないかと、フレイヤは思い始めた。

 映像は、神殿の建てられた土地を巡る、過去の現実であって、映画ではなく、現実の記録物なのかもしれなかった。そう思えば思うほど、ここは本当に、私の住む時代の街に建てられた、ある種の、人々の奥底に眠る心の拠り所としての精神的支柱。大神殿なのだと、確信するようになった。

 カイラーサナータとして知られることになる、この建造物は、夫の会社が、施工に関わっていたことを、後に知るのだった。



 その係争は些細なことからだった。

 クレジットカード、〝マスターオブザグリフェニクス〟の広告に過剰に反応した、《メラニ製薬会社》の怒りの抗議から始まった。メラニ株式会社の『首のコリ』を解消するための、貼るシートへの営業妨害だとする声明を、同社の広報部が打ち出したのだ。マスターオブザグリフェニクスは、入会後、首の右斜め横の部分に、入会を証明する刻印をレーザーで照射するのだという。その部分には、刻印後、何も覆ってはいけないことが条件付けられていた。マフラーや、ネックレスをつけたり、装飾品に関してはオーケーだったが、医療用具等、身体の奥に、直接影響を及ぼすものは禁止された。

 メラニ製薬の本部は、このことに、烈火のごとく怒り始めた。そのシートを張る部分と、寸分狂いもない、同じ場所だったのだ。右斜め後ろであり、グリフェニクス社からは、左につけてもいいだろうという返答を得たことに、同社の憤りは、さらに強烈なものとなってしまったのだ。

 メラニ製薬が行った臨床試験では、ついに化学的な根拠を示すことはできなかったが、左につけた時の効果は、右の半分以下まで落ち込んでしまっていた。後ろや前につけても、結果は同じ。三千人もの実験を行ったが、ほぼ全員、右の斜め後ろに張るときに、シートの効果は絶大に飛躍した。よって、説明書には、その張る位置の適切な指示を、大きくカラーで掲載するほどだった。まさに、この場所に張らないと、駄目だった。別の場所に張るのなら、商品価値は、限りなくゼロになってしまっていた。グリフェニクス社も、また、ホームページで、刻印は右斜め後ろではないと、駄目なことを訴えた。裁判での闘争は、必須の事態にまで発展しそうであった。この、両者の商品の広告に出ていたのが、戸川兼と、見士沼祭祀だった。戸川は、グリフェニクス社の。見士沼は、メラニ製薬の。見士沼にとっては、初めての広告だった。彼は他の広告には出るつもりはなかった。当初は、メラニ製薬のオファーも断り続けていた。公の場に出ていくのは苦手だった。顔が世間にさらされるのも、好ましいことではなかった。名前すら出てほしくなかった。活動そのものも、シークレットにしたかった。しかし、ミシヌマエージェントの津永学の強い意向で、祭祀は、そのシートを試すことになった。その威力に、たまらず悲鳴を上げた。

「どうしました?ミシヌマさん」

 津永は、見士沼祭祀が拒絶反応を示したのかと、勘違いした。

「俺の施術よりも、効果があるんじゃないのか?」

「そんなばかな」津永は冗談だと思い、笑った。

「首の近辺に関しては」

「ほんとですか?」

「ああ。おそろしく痛みは消えるな。痛みだけじゃない。痛くなるであろう、潜在的な因子にまで、浸透するようだ。これは、すごいな。製薬会社の開発?」

「そうですね」

「どういった事業をしているんだろ。研究施設は?」

 見士沼祭祀の突っ込んだ質問に答えるだけの、知識と情報の持ち合わせは、津永学にはなかった。

「もちろん、調査しておきます」

「頼むよ」

「それで、広告に出演するという話ですが」

「それとは、話は別だよ」

「コンセプトが同じだと思いました。あなたと。この商品とは。人々が抱えもった不具合を浄化する。しかもまだ、起きていないことにまで。その全体性。時間の全体性です。過去も、今も、未来も、ピンポイントですが、その部分における時間の主体性を、治癒する。あなたが考えていることと、この商品の世界観は、ある意味、一緒です。もちろん出演すれば、相乗効果が期待できます」

 見士沼祭祀は反論するのをやめた。二度頷き、津永の額あたりをじっと見た。

「確かに、このシートにおいては、な」

「と申しますと」

「この会社のコンセプトと、一致しているとは限らない。ただの商品だ。部分にすぎない。実体を把握することなく手を組むことなど、ありえないよ」

「あなただって」津永の方が今度は反論した。

「あなたの施術だって、あなたのすべてではないでしょ?あなたの中の、ごく部分的な、コンセプトにすぎないはずですよ」

 見士沼は目を見開き、津永の額を貫通させる光線を出したかのようだった。

「これが、あなたのすべてだったとしたら、僕はこうしてあなたの手となり足となり、働こうとは思いせんでしたけどね」

「詳しく言えよ。この際。はっきりと」

「ですから」

 津永は一瞬、思慮深い働きが頭の中で起こったことを、祭祀は見逃さなかった。

「お互い、部分的なところで、つながりあえばいいんですよ。そうでしょ?もし全面的に一致などしていたら、それこそ、同じ組織になって、同じ目的を目指しますよ。同一人物になってしまう」

「わかった。ちょっと、考えさせてくれ」祭祀は言った。

「時間をかけたって、同じことですよ。もうすでに、先方には、オーケーと言っておきましたから。いいですよ、ゆっくりと考えてもらって。結論はきっと同じでしょうから。そうだ。今ついでだから言ってしまいますけどね。これも、僕の役目だと思ってますから。あなたは少し、決断が弱いところがあります。慎重というか、物事が、偶然に発生していったり、自然に嵌っていったりと、そういった感じを、常に求めてしまっている。いいですよ、それは、それで。実際、そうなっていくんですから。けれど、あなた以外の人が、あなたの思惑を正確に受け取り、対応するわけでは、決してないことは、お忘れなく。明確な方針と、共に歩んでいく仲間ですよと、早い段階で伝え合わなくてはいけない時もある。それをお忘れなく。利害に関わる組織や、人間は、特にそれを求めていますから。僕の出番です。先手を打っていく、僕の仕事です。今回もまたそうです」

 津永は自信ありげに、リラックスした表情を見せた。



 メラニ製薬株式会社は、法的措置の準備に加えて、CMを発表した。《王の帰還》と名づけられた九十秒に渡る広告を制作し、王冠の転落、堕落からの回帰を表現した。

 見士沼はツタンカーメンのミイラのように棺桶に横たわり、目を閉じている。

 ファラオが死に、第二の太陽が失われたままだった。長く眠らされた、その陰謀を打ち砕き・・・。メラニ製薬。ネック・シールドシート。長くて薄い、色彩豊かな模様の長い布を、腰に巻き、胸のあたりには、厚い布を巻き、型から腕、お腹と、褐色の肌をさらしたエキゾチックな女性が四人、棺に近づいていく。その一人が王の首、右斜め裏を目がけてシートを貼る。数秒後、王は眼を薄っすらと開け、眼球を動かすことなく、虚空の上空を見つめている。王はゆっくりと上半身を起こし始める。女性は背中に手を回し、王が起き上がるのを手伝う。今、眠りは解かれた。ネック・シールドシート。メラニ製薬。という内容だった。

 明らかに、マスターオブザグリフェニクスに対する挑発だった。


 ケイロはこのCMを何回も見た。映像の中で見落としているところはないか。わかりやすい表向きのメッセージの裏に、ケイロは何かを読み解こうとしていた。

 メラニ製薬は、グリフェニクス社と闘争がしたいのだろうか。単にネックシールドシートを売りたいがための戦略には思えなかった。マスターオブザグリフェニクスの入会が、人々から意識を奪い、堕落していくというメッセージが、何故必要だったのか。そこまでの徹底抗戦を見せる、メラニ製薬の目的とはいったい何なのか。そこに使われた見士沼祭祀の存在。彼はただ利用されているだけなのだろうか。それとも、彼もまた、メラニ製薬と思惑が一致し、グリフェニクス社を総攻撃しようとしているのだろうか。マスターオブザグリフェニクスもまた、その三日後、対抗措置としての、公開広告に踏み切ることを決定した。首に照射する刻印のシーンを、人前で実演するということだった。そして、そのモデル、刻印を受ける人物が戸川兼であった。

 イベント広場、ゼロスペースでの公開が決まった。メディアだけではなく、一般視聴も可能で、当日は大混乱になりそうだった。警官による警備もまた、一段と厳重になり、一つ間違えれば、大事故に発展してしまいそうであった。

 ケイロも当日、イベント開始の三時間前に、ゼロスペースへと行った。すでに、報道陣はカメラを携え、絶好のポジション取りをしていた。警官の姿もあり、聴衆も数十人集まっていた。ケイロもまた、その中に混じり、この三時間、どうやって時間を潰そうか悩んでいた。手帳を取り出し、やはり、絵画の構想に費やすことにした。ケイロは、その事件が起こる前の様子。自分の心境。広場の空気。空の変化。気象の変遷。近くのざわめき。ざわめきの奥にある、別の実感。記録係として、ここに使わされた、ある種のメディアの特派員のような気になっていた。いつからか。ケイロはそういった画家になるべく、自分が選ばれたのではないかと思うようになっていた。

 二時間前には、すでに、その場を気軽に移動できない、込み具合となり、人々のざわめき、話し声などで広場は埋め尽くされ、また空模様は、来た時の晴天からは、一転、厚い雲が重なり始め、刻々と地上に迫ってくるかのように圧迫していた。

 次元のあらゆる方向から、この広場の、どこか一点に向かって、時間を圧縮してきているかのような感じがした。まるで、公開処刑のようだと、ケイロは何気なく思った。だが、その言葉は、誰かに聞き入れられたかのように、現実の姿となってケイロの前に現れる。

 戸川は血だらけで、レスキュー隊に運ばれていった。首から吹き出る血が、とまらなかった。彼がスペースゼロから退いていった道筋が、そのままスペースゼロの地面に表現された。ケイロにも、群集にも、何が起こったのかわからなかった。いったい、いつ、公開広告が始まっていたのか。その最中に、戸川に異変が起き、何故、血が流れているのだろう。誰かに襲撃されたのか。メラニ製薬に雇われた人間に?救急搬送車が、何故かこの群集にも関わらず、広場のど真ん中に止まっていた。トレーラーの、前後左右の壁が、花びらを開かせるように、徐々に作動していく。搬送車の中に担ぎ込まれた戸川は、再び群集の前に、その姿をさらけ出された。

「隊長、首に、何か貼られております。見てください。そして、その場所から血が・・・。剥がしましょうか」

「ちょっと待て」

 声は、マイクを通して拡張されたように、広場全体に響き渡っていた。

 隊長たちは、止血のために動いていた。しかし、血の流れを止めることはできない。穴を塞ごうと、縫合に踏み切っても、逆に血流を止めることはできなかった。

 隊員の一人が独断で、首に張られたシートをとった。その瞬間だった。

 流れ出ていたはずの血は止まった。搬送車の中を、広場の地面を汚していたはずの血は、一瞬で消えてなくなった。すべてが演出だったのだ。

 ケイロもまた、安堵した。時間の感覚が狂ってしまったのだと思ったが、そうではなかった。

 搬送車は、いつのまにか消え、戸川は自ら、首の右斜め後ろあたりを指差した。空は一気に暗転していった。厚い雲間がさらに凝縮しあい、黒々となり、あっというまに、夜空のような風体をさらした。一つの星が輝き始め、青い光が戸川の首をめがけて、最短距離で刺し貫いていった。

 これほどまっすぐな線を、ケイロは初めて見たような気がした。何故か、そこに、距離感がないように思えた。戸川の姿も群集と同様、闇の中へと消えていった。そして、戸川の両目は青く輝き、両目の間の、やや上の額もまた、同様に青く輝いていた。

 両目は消え、一つの目が、その後も、青く光続けた。次の瞬間、そこは元の広場に戻っていた。分厚い雲はなかった。青空が広がり、搬送車もなく、流れた血もなく、戸川もまたいなかった。サイレンは消え、歓声は消え、誰もその場を動こうとはしなかった。



 水原は、グリフェニクス本社を訪れ、奥の間から宙へと通じる、構想エレベータを伝い、屋上に用意されたGIAで、鳳凰口のいる王宮を目指した。GIAは、王宮にしか着かないよう、自動設定されていたため、水原は何もせず、ただぼおっと眼下を見ながら、束の間の安息を得ていた。鳳凰口にあらかじめ連絡し、彼と会うルートを確保してもらった。本社の、最上階の社長室へと向かうかのごとく、中空へと直結した、王宮の彼の自宅へと移動していった。

 門はなく、玄関へと通じる小道もなかった。前に来たときよりも、植物は伸び放題で、その種類も増大していた。手入れはされていないようだったが、不思議と雑駁さはなく、植物はそれぞれが生き生きとしていて、花が咲き誇っているものもあった。来るたびに、印象の異なる場所だなと水原は思った。そんな度を越えた、無造作な庭に、縦に割り込んで本館を目指した。鳳凰口は玄関のところで待っていた。

「まあ、入れよ」

「いや、外でいいさ」

 水原は、一刻も早く、本題に入りたかった。

 鳳凰口昌彦の口調は、以前よりもゆっくりで、少し見ない間に、とても同世代には思えないくらいの毅然とした様子で立っているように、水原には思えた。

「あの製薬会社は、いったい何なんだ?」

「その話か」

「なんの話だと思った?」

「もちろん、その話も、知っている。あたふたするな、水原」

「はやいところ、手を打たねば」

「冷静になれよ、水原。お前が動揺して、どうする?奥さんと、のんびりでもしろよ。ケイロ・マリキ・ミュージアムの仕事も、一段落ついたんだろ?あとは、お前が余計なことをしなければいいんだ。任せてしまえ。放っておけばいい」

「お前のように、か?」水原は言った。「俺には、無理だ。なあ、これから、どうなるんだろう。マスターの会員たちは、退会してはいかないだろうか?あらたに入会する、人間だって。ほとんどいなくなるのかもしれない。他のグリフェニクスの事業にも」

「だから、あらたに対抗措置としての広告を、打ったんだろ?水原。それなのに、まだ飽きたらないのか?何を、しようとしてるんだ?言ってみろ」

 水原は沈黙した。

「手をうったら、放っておく。手を打った分だけ、あとは関わらずにいる。それがセオリーだ」

「お前のように、な」

「世界全体を創造しようとしたときは、なおさらだ。それに見あう放り投げが、必要だ。それに比例した、地上からの乖離が、ある程度は必要だ。俺は、ものすごい量の彫り物をしたんだ」

「いったい、いつの話だ?鳳凰口」

「お前の言うとおり、あの彫像物たちは、無駄じゃなかったよ。すべては、今に繫がっていた。だから、しばらくは、彫刻刀を握ることはしない。しばらくは、な。手放した、創造の世界が、根付いて育ってくるまではな。マスター・オブ・ザ・ヘルメスだよ、水原。そういった名前の世界を、俺は作った」

 水原はいらいらと、落ち着きをなくしていった。

 こんな状況のときには、花の咲き誇った静かな世界は、実に似つかわしくなかった。

「来るぞ、報復が」

 水原は、鳳凰口に言った。

「矢継ぎ早に砲撃を加えて、息の根をとめなければ。そのためには、メラニ製薬が、一体なんなのか。何を目指して、どんな技術を持っているのか。何者なんだ?メラニ製薬を、支配、コントロールしているのは?それを訊きに、今日はきた。それだけを答えてくれ。それだけでいい。それだけで。あとは、俺が何とかする。お前は見ているだけでいい」

 鳳凰口は、水原の言葉にじっと聞き入っていた。

「報復を恐れているのなら、そんなことをしなければよかったんだ」

「もう、自分じゃ、どうしようもできないんだ。自分じゃなくなってきているみたいだ。誰が、誰の糸をひいて、何をしようとしているのか。すべては、ぐちゃぐちゃだ。渾沌としていて、誰の輪郭も、はっきりとしない。俺も、俺の周りも。誰が誰で、どっちの側であるのか。大変なことになっている。いや、なるんだ。俺は、その、はしりになる。最初に、世界に影響を受けた、人種の一人に」

「何か、忘れてないか?」

 益々、静かな声になっていく鳳凰口に、水原は会話を遮られた。

「何だよ」

「一番肝心なことを」

「お前しか、輪郭のはっきりと見える人間が、いなかったんだ。頼って来てるんだよ!助けてくれよ。いつかの状況とは、逆転してしまった。いつのまにか、お前は、急成長を遂げてしまった。スタートは誰よりも遅かった、お前がな。到達したのは、誰よりも早かった」

「感心してる場合か?」

「メラニ製薬の情報をくれ」

「何も心配するなって」

「はやく!」

「それだけに拘るな。それだけに」

「なに?」

「そこだけを見るな。けれど、見るなら徹底的に見ろ」

「支離滅裂だぞ」

「よく聞くんだ。今は、頭で理解できなくていい。水原。記憶しておくんだ。あとから、意味が浮かんでくる。いいか。繰り返すぞ。そこだけを見るな。拘るな。けれど、見るなら、徹底的に見ろ。そこだけを。それ以外のことはすべて、忘れるくらいに」

 水原は、その言葉に、心を一瞬停止させられた。

 鳳凰口は、そんな水原を置き去りにして、王宮へと引き返していった。

 一人取り残された水原は、庭を出て、GIAに乗り、地上へと戻っていくしかなかった。



 水原は、王宮からの帰還後、鳳凰口に言われたように、確かに休息が必要なのかもしれないと思い、妻の帰りを待った。しかしそれから、彼女は一週間以上も家には帰ってこなかった。激原の存在に刺激を受け、思いついた新しい工法の開発のために、研究所に缶詰になっていた。

 水原は結婚してからは一度も、彼女の仕事場に足を踏み入れたことはなかった。研究所に連絡しても、携帯に連絡しても繫がることはなかった。激原徹に連絡しても、つながることはなかった。二人が、共に密室で過ごしているとは思わなかったが、良からぬ想像でもしなければ、とても、やってなどいられなかった。この今においても、メラニ製薬からのグリフェニクス攻撃が、活発になっているに違いないのだ。シンボルマークのグリフェニクスに銃弾が打ち込まれ、血に染まった不気味な鳥獣に変化し、次々と、世の中に出まわっているロゴにまで変化が・・・。

 そのとき、水原の携帯電話が鳴った。妻からの返信だと思った。

 だが電話は、ミシヌマエージェントの、津永学という男からだった。すぐに、彼の事務所に来てほしいということだった。グリフェニクス本社に、火が放たれたということだった。火炎の銃弾が打ち込まれ、それも複数・・・「メラニ社か?」 

 水原の不安は、現実となった。「まだわかりません」津永の声は冷静だった。

「そうだ。君がいた。何とかしてくれ。だから、言わんこっちゃないんだ。これじゃ、後追いだ。手遅れだ。どうして先手を打ってくれなかった?うんっ?いや、違う。違うぞ。君は見士沼の・・・。そうじゃないか!敵だ。おいっ。ああ・・・っ。君は、メラニ側じゃないか。何故だ。何故、俺に?宣戦布告など?いいだろう。受けて立つよ。くそっ。こんなことなら、鳳凰口に、もっと、念を入れて頼んでおくんだった。何が、見守ってろだ?いい身分だよ!自分だけ、まるで影響のない場所に、さっさと避難しちまって。でも、自分の会社なんだぞ。自分のブランドなんだぞ。どうして、俺が一人、あたふたしてる?他人の会社じゃないか。なあっ?津永さん。聞いてる?」

 支離滅裂になっていく水原との通話にも、津永は、何故か、切ることなく、粘り強く無言を貫いていた。しかし、水原には、彼がそこにいることが伝わってきた。

「君は、何にどれだけ、関わっている?」

 水原は大量の言葉を吐き出したことで、少し落ち着きを取り戻していた。

「僕のほうが」津永が口を開いた。「僕のほうが、あなたに、それを聞きたかった。水原さん。水原デザイン事務所の代表。そして、ケイロ・マリキミュージアムのプロデュースの中心的存在の。さらには、グリフェニクス社と提携をして、運営の一部を担っている。いや、僕もね、グリフェニクスの経営の一部に関わっているんですよ。あなたとは、また、違った形で。なので、僕が、グリフェニクス本社に、何か攻撃を加えるわけがありません」

「そうなのか。じゃあ仲間じゃないか」

「仲間ではありませんけどね」津永は冷たい声を放った。

「じゃあ、一緒に対策を立てるということか。今度の件も含めた、全体像の」

「いい言葉ですね」

「何が」

「全体像」

「バカにしてるのか?」

「僕はね。ミシヌマエージェンシーの人間ですよ。見士沼祭祀の活動を全面的にサポートするために、存在してるんです」

「やっぱり、敵じゃないか」

 激原は再び興奮してきた。

「ですから、そういう話をするために、連絡をしたんじゃないんですよ。何度も言ってるじゃないですか。僕はグリフェニクスの一部にも関わっているって」

「どんな仕事だ?」

「それは言いませんよ。あなたには関係ないし、守秘義務だってありますから」

「それが、すでに守秘を、破ってるんじゃないのか?」

「そうなのかもしれませんね、確かに」

「なぜ、俺には・・・。そもそも、全然見えないぞ。目的は、何なんだ?俺に接触してきた目的だ」

 少し間を置いて、津永はさらにゆったりとした口調で、話始めた。

「回避したいんです。メラニ製薬とグリフェニクス社がぶつかるのを。いえ、正確に言って、彼らの闘争は別に勝手にやってくれたらと思いますが、そこに、うちの見士沼祭祀を巻き込んでもらいたくない。戸川兼さんとの対立構造を、持ち込まないでほしい。本来は、全然、関係のないことなんですよ。いつのまにか、戸川兼、対、見士沼祭祀、という構図が生み出されてしまっている」

「そうなのか?」

「どう見たって、そうでしょ。すでに、彼らの周りの人間たちは、そのような認識です。あなたも」

 全身の力が抜け落ちていった。

 鳳凰口の元へ行ったり、妻の仕事場に電話したりと、心は荒れ狂ってきていた。そして根源では、まさにそれを恐れていたことに水原は気づいていった。

「マスターオブザグリフェニクスと、ネックシールドシートの対立から、それを販売するグリフェニクス社とメラニ製薬との対立に発展して、いつのまにか、戸川と見士沼祭祀の対立構造へと発展する。そして、その熱が、完全に熟しきったときには、会社同士の対立は消え、商品同士もまた、共に姿を消し、残るのは二人。個人の喧嘩じゃないですからね。彼を支援する組織がバックにつきます。いつのまにか、得体の知れない何かに、摩り替わってしまっている。必ずそうなります。彼らがそれぞれを支援しているという構造に、変化し、戸川と見士沼はあくまで、その裏の対決を象徴するためだけのシンボルへと変わっていく。実体はですね、事の始まりとはまるで異なったものになる。水原さん、僕はそのことを、めちゃくちゃ危惧しているんです。あなただから相談できているんです。協力してくれませんか。お願いします」

 水原は、何も把握できていなかった。

 しかし、自分の心の置き場所としては、最適なタイミングで差し出された、チャンスだと思った。



 水原が帰った後の王宮は、一段と陽気さが戻ってきたように感じた。そろそろ、水原との関係を、一時的に断つ必要性があるなと鳳凰口は感じていた。いつのまにか、思慮深さの欠片もなくなってしまったなと、鳳凰口昌彦は水原のことを思った。離婚し、再婚したことが何か影響しているのだろうか。陰西カスミのことを思った。陰西と一緒になったことで、彼の中からは、決定的に何かが削げ落ちてしまったようにも感じた。十年も陰西と付き合ってきたからこそわかる、鳳凰口の感覚だった。

 水原永輝とは、ビジネスにおけるパートナー関係で、実質、グリフェニクスの手であり足であった。グリフェニクスがとりあえずの広がりを達成した今、昌彦は、本来の仕事に取り組む時期であると察していた。鳳凰口の家系において、脈々と続く、因果の最終ラインでもあった。見士沼家とここで大きく接点を持つべきタイミングであった。鳳凰口家と見士沼家が、ここで華麗なる合体を果たすことが、グリフィンとフェニックスの二つの生き物を融合させた、このブランドの象徴そのものだった。

 刻印は、先に準備され、地上に真の現実が表現されるのを待つばかりであった。ところが、その融合を妨害するかのような、今回の騒動であった。見士沼祭祀がモデルを務めたメラニ製薬は、戸川兼と、グリフェニクスに対して攻撃を開始したのだった。見士沼と鳳凰口家を隔てる衝立の役目を、メラニ製薬が果たそうとしていた。

 鳳凰口は、このメラニ製薬の挑発に乗るつもりはなかった。水原に言ったとおり、ただ黙認し、観照していることに決めていた。しかし、静かに手は打っておくべきであった。見士沼祭祀と直接会って、グリフェニクスと提携すればいい。メラニ製薬は、存在理由がなくなる。一度結びついてしまえば、二つの家の強力なエネルギーのグリッドが、発生して、他は何も寄せつけなくなる。自然に彼らは退散し、消滅していく。確実に一度、見士沼と会い、合意に達する必要があった。その密会に至るのは、一瞬で可能だが、それも様々な妨害のエネルギーを、細かく読み解き、隙が生まれて、その隙が一直線に、空間に配置された時を狙って、実行しなければならなかった。

 その一瞬を、見逃さないために、それまでは何もする必要がないということだった。

 「人」と「場」と「空間」の、繰り返されるリズムの変転が、この王宮と見士沼のいる地点で、ぴたりと、その波長を一致させるとき、かつて「国」を生み出し、物質的な栄華を誇った鳳凰口家と、精神世界を司り、自在に心のありようを組み替えていくことで、影の王者へと伸し上がった見士沼家。この二つの家は、地上で、同じ王国を作ることに、合意する。

 時間は、繰り返す。見士沼祭祀もまた、このタイミングで、自らの仕事を定める。雑音もまた、周囲に渦巻くことにはなったが、それも来たるべき日の、祝祭の合唱の一部でもあった。

 栄華を極める、太陽の国。その頂点で、二つの家の関係は、解消する。

 不和による決裂ではない。やるべき仕事を終えたからだ。その後、国は、順調に強まっていく太陽のエネルギーを、享受していくことになる。

 二つの家による後ろ盾は、すっかりと、なくなってしまっているのだが。 

 いや、なくなっているからこそ、余計で、不必要なエネルギーが、かからない。

 二つの家は、再び太陽がエネルギーを上昇させていく時に、出会うことになる。

 そういった約束を交わし、束の間の闇の時代へと、その二つは分かれていく。別々の道を歩み始めていく。




 グリフェニクス本社の出火の報道を聞き、ケイロは新聞記者なさながら、すぐに現場へと赴いた。ケイロは日常に発生するあらゆる事件、事故、災害。意識が、反応したものに、行動で示していった。現場へ行き、カメラを携えてはいないものの、その眼で、空間をとらえ、脳裏に一瞬で焼きつけた。カメラのレンズのように、限定的なその場を撮るのではなく、ケイロは、グリフェニクス本社全体を、三次元にとらえて、さらには、この街並み全体。文明都市の構造、空の様子。地球全体、地球の外側、天体の配置、地球に降り注ぐエネルギーの様子。すべてをとらえる機会へと、利用したのだった。

 グリフェニクス本社に、今は焦点を絞り、中心に据えているだけで、結局、ケイロは常に同じ空間を撮影し続けていることに、次第に気づいていった。そしてケイロは、自宅に帰るとすぐに、キャンバスへと向かい、あっという間に、鉛筆でラフスケッチを書き上げていった。今では、そんな色の付いていない下書きのキャンバスだけが、転がった状態だった。

 絵として完成させる時間もエネルギーも、今はなかった。何度も事件現場に行き、こうしたスケッチを繰り返すことで、ケイロはだんだんと、自分がこの現在の空間をとらえるだけではなく、別の側面へと、次第に意識が広がっていくのがわかった。

 過去の街が浮かび上がってくるだけではなく、未来の片鱗までもが浮かびあがり、さらには事件であれば何が起こり、今に至り、どんな結末に集約していくのか。そのストーリーラインが見えることさえあった。ラフスケッチを繰りかえした、未完成のキャンバスを眺めていると、尚更、そういった多重の世界が浮き上がってきて、アトリエ全体が大海の中心であるような、波が起きて、渦のように、螺旋を描いていく様子が、ありありと見てとれたのだ。

 ケイロは自分が画家として、はやくも過渡期を迎えていたのだった。絵の描き方が、これまでとは、まるで異なることになった。まだ、その機会は、とらえられてはいない。必要な材料は、圧倒的に不足している。今はラフスケッチを、山のように増やしていく以外になかった。いずれ、この絵にも色を塗り、ラインを足していき、重厚な立体画像にしていかなければならないことを考えると、気は重くなった。だが、それも、新しい技法が生まれることで、歓喜の行為へと変わっていくであろう。激的に変わるのかもしれなかった。

 スケッチをすませ、すぐにメラニ製薬の場所を調べた。報復は必ず起こることだろう。

 すでに二社は戦争状態だった。互いの広告を潰しあうだけではない、会社そのものを狙いあう、とんでもない事態へと発展していきそうだった。

 しかしケイロは、メラニ製薬の住所をインターネットで見つけることはできなかった。

 こうした自分のように検索する人間を警戒して、情報の開示をブロックしたのだろうか。

 どこを探しても、メラニ製薬のホームページすらなく、当然、フェースブック、ツイッターの中にも見つけることができなかった。ウィキペディアには、会社の始まりから、今回のCMの件まで、事細く書かれていたが、会社の所在地の記載はまるでなかった。ケイロは水原永輝に連絡した。ミュージアムのスポンサーである、マリキ家に聞いてみたらどうだと、簡単にあしらわれた。仕方なく、そのマリキ家の人間に、電話をかけた。メラニ製薬の本社が狙われるその場所に、居合わせたいとケイロは言った。今度の絵で、とても重要な役割を果たすんです。しかし返ってきた答えは、芳しくはなかった。メラニ製薬の本社は存在しない。ちょっと待ってくださいと、ケイロは言った。じゃあ、研究所は?シートを開発した。工場でもいいです。シートの製造をしている。一番大きな工場。製造拠点です。

 マリキ家の幹部は、今はそれも存在していないと、言った。

「今は、って」

「今の話だろう?」

「当たり前じゃないですか」

「ならば、ない」

「ないって、どういうことですか?閉鎖したってことですか?」

「そこまで、わかるわけがないだろ。今なくて、過去にはあったということなら、閉鎖ということだろうが」

「いつ、閉鎖したんですか?こうした事態に発展することを、見越してですか?そうか。そもそも、メラニ製薬の先制攻撃でしたよね。もう、そのときには、営業所のすべては停止していた。ということは、今現在は、あらたに製造はされていないんだ。相当な在庫を持っているということか」

「何をごちゃごちゃと、言ってるんだ、君は」

「今後は、どうなるんですか?」

「何が?」

「メラニ製薬ですよ。今の、この状況では、グリフェニクス社は、彼らを攻撃することができない。別の報復を考えなければ」

 そのとき、ケイロの脳裏に、グリフェニクス本社の姿が蘇ってきた。

 放火されたということだったが、燃えた痕はどこにもなかった。何台か消防車とはすれ違ったが、燃えている姿はなかった。焼け焦げた痕も、外からはわからなかった。報道で言われているのと、状況はだいぶん違っている。一人熱くなっていた自分が、恥ずかしくなってくる。

「何か、勘違いしていたのかもしれません」

 ケイロは丁重に謝り、マリキ家との通信を断った。幹部はお大事にと言った。絵の制作のほうは頑張ってねと。

 部屋の壁に立てかけている描きたてのキャンバスを眺めているうちに、この光景が時間をさかのぼっていく動画のように、見えてきた。本社は確かに燃えていた。燃え盛っていた。報復は行われていた。ほとんど軍隊じゃないかと、ケイロは思った。戦車が巨大なビルを包囲している様子が見てとれる。一斉に攻撃し、窓ガラスが飛び散り、壁はずたずたに破壊され、崩れ落ちた。それでも、骨格は持ちこたえ、崩壊は何とかこらえているように見える。戦車は侵攻していき、地上部隊が戦車を降りて、また崩れていないビルの様子を窺っている。

 その時だった。ビルが大きな爆発をした。外からの攻撃が止んだときだった。

 建物が自ら内部爆発を起こしたようだった。そして爆発は、さらに三度、連続で起こった。地面は大きく震え、戦車は傾き、ひっくりかえった。地上部隊の人間は、戦車から遠ざかり身構えた。最後に、目をつぶされる程の光が一面に広がると同時に、数秒の沈黙の後で、ビルそのものが、吹っ飛んだと感じた。大きな衝撃が撒き散らされた。一瞬、更地にでもなったかのような、そんな光景が見えた。本社が建てられた、前の現実だったのかもしれない。ケイロには信じられなかった。

 その後、そこに現れた存在。それが何であるのか。

 画面からは、大きく逸脱し、はみ出していた。ケイロは、自分の意識の中では収まりきらない、強烈で、強大な拡張に、しばらくは自身が空白にならずには、とても身体が対応することができなかった。

 建設前の、更地の絵だった。



 アキラは何とか、カジノを斡旋していた組織とのコンタクトに、成功した。あのときと同じ、ウエストミンスターホテルで、『春鳥』が迎えに来るのを待っていた。けれども、占い街は結局見つからなかった。二ヶ月前に、地下街の改装のため、占いの店は一掃され、そこは食事処になるということだ。カジノの手がかりはなくなったが、ウエストミンスターホテルが見つかったことで道は開けた。コンシェルジュの一人が、カジノへのルートを持っていたのだ。アキラはその男に初めから目をつけていた。ホテルを見つけ、ロビーを通過していくときに、身体はその方向に行きたがっているのを、察知したからだ。アキラの心は、フロントで早く宿泊の手続きを取りたがっていた。それは後回しにした。アキラはその男に声をかけた。何の違和感も、滞りもなく、彼は小さな声で奥へどうぞとスタッフが出入りする裏口へと案内し、そこから、ボイラー室を通過した。長い廊下に出た。

 こちらを真っ直ぐに行かれまして、突き当りの両扉の前に、立っていただければ、自動で開きます。スタッフがそこで待っております。連絡はつけておきました。

「ここが、ご存知だということは、もう何度もプレイされている方ですね」

 そうだとアキラは答えた。

 コンシェルジュの男の頷き、アキラは男を残して、長い廊下を歩いていった。

 木目調で統一された空間には、蛍光灯は見当たらなかった。どこに光源があるのかわからない。その扉の存在は、目でまだ確認することができない。春鳥に案内されることもなかったなと、アキラは思った。まったくの、同じ工程を辿っていこうとしていたが、所々で、世界は大きく変わっていて、アキラは過ぎていった時間を、痛感させられた。

 扉の姿は見え、だんだんと近づいていくのがわかった。そこもまた木を繊細に彫った重厚な一つの作品のようだった。動物のような風体の型が施されていた。本当に、細かな凹凸がつけられ、遠くから見ても、はっきりとその浮き出た動物が、今にもこっちに向かって走ってきそうだった。

 しかし、近づけば近づくほど、動物は、突進から一転、空へと飛び立っていくような、そんな動きに変わったように思えた。自然に目に入るような、廊下の構造でもあった。これが計算されていないとは思えない。アキラの意識もまた、この動きに同調していた。

 扉を開けることなく、直前で、上へと舞い上がっていったかのようだった。実際、体の重みもまた、減っていた。ふとアキラは、自分がここに何をしに来たのか、目的を見失ってしまいそうになった。あの動物は、どこかで見たことがある。激しく突進し、華麗にはまっていく、その二重性が、アキラの中で、すぐにグリフェニクスのロゴと、共鳴しあった。今となっては、彫刻の姿を、正確に思い出すことはできない。けれども印象はそっくりだった。台湾に来る前日に、グリフェニクス社のことが報道で賑わっていた。火をつけられ、大火事の一歩手前であったと、テレビに映像が流れることはなく、新聞も何誌も見てみたが、写真は載ってなかった。文章から推測するに、ほとんど全焼であった。全面的に建て直すことになるだろうと書かれていた。場所もまた移され、短い工期での、完全な再建を目指すというようなことだった。

 そのニュースが印象に残っていたので、そのロゴとすぐに意識は開通した。

 何やらぶっそうなことにもなりそうな雰囲気だった。たかだか、企業同士の販売商品のことだったのに、法的措置をとることなく、法廷闘争に場を移すことなく、まさか武力に訴え出るとは思わなかった。機動隊が出てきて、噂では、軍隊まで出動する事態になっていた。

 アキラはそのタイミングで、台湾に脱出した格好となった。空港でも、そのニュースが常に流されていて、出動した機動隊と軍隊に、小さないざこざが生まれ、ちょっとした戦闘になったと伝えていた。機動隊同士、内部でこれまで対立してきたその鬱憤が、ここで爆発したということだった。他にも小さな衝突は、無数に起きていた。事態は知らぬ間に、大事へと、発展していった。これまでなら、起こるはずのない、当初の対立を超えた、別の根本的な半永続していた溝に、火は激しく燃え移っていったのだ。どういった経緯を辿って、決着をつけるのか。アキラは知りたかった。帰ってくる時には、決着のついた世界を知ることになりそうだと思った。

 結末から、今日のこの状況へと遡ることになりそうだと、感じていた。



 アキラは、カジノ場で座席についていた。グリフェニクスのロゴが、頭から離れなかった。

 まさか俺を嵌めた、あの時のカジノ場もまた、グリフェニクスが経営していたのだろうか。

 あの時は、ロゴが目に入ることもなかった。けれど、認識してなかっただけで、存在していたのかもしれなかった。まだ、グリフェニクス社は、今のように有名ではなかったし、ロゴももしかしたら、別なデザインだったのかもしれない。ルーレットの前に、アキラは座らされていた。ディーラーと目があう。アキラは目を逸らし、カジノ場全体を一瞬で、把握しようと意識を拡大する。一見しただけでは、目当てのゲームは見当たらない。名前も覚えてなかった。「人」と「場」と「空間」の三次元のカードとその組み合わせから、「世界」を生んで、勝敗を競うあのゲームだ。カードは立体的なホログラフが搭載し、映像が見えていた。リアルタイムに動いているように見えた。ランダムに混ざっていた。配られたカードの中に、三種類が混ざっていた。その時々により、三種類のカードに、ばらつきがかなりある。勝負は三番で、先に二つとった方が勝ちだ。「人」のカードの中から一つ。「場」のカードの中から一つ。「空間」のカードの中から一つ。三枚を準備して、台の上に並べた瞬間、「世界」が発生する。その「世界」を対戦相手の「世界」と突あわせる。勝者の世界が残り、敗者の世界は、一瞬で焼き散らされる。灰も残らず、その台の上で姿を消す。そして、その三枚のカードが、勝者の手策に現れ、手持ちのカードとして加えられる。勝負は第二ラウンドへと入る。ふとアキラは思い出す。「人」のカードが、例えば、手持ちのカードの中に存在してないことがあっただろうか。「人」でなくても、「場」や「空間」何でもいい。三種類が配られることのない対局はあっただろうか。思い出せない。そんな悩み方はなかったかのように思う。もしなかったとしたら、どうしただろうか。「場」のカードを「人」の代わりに提出することは、可能だったのだろうか。一枚も、「人」のカードがないのだ。それでも、何かを出さねばゲームにはならない。「場」のカード、「場」のカード、「空間」のカードといった、反則的な出し方をしなければ、成立しなくなる。一度も、カードの種類が足りなかったなんてことはなかった。対局のほとんどを、敗戦に費やし、結局、一つか二つしか勝てなかった。五十以上の敗戦のリベンジは叶わず、そのまま巨額の借金を背負い、払えず、カジノ側の要求に逆らえず、言われるがままに、別のカジノ場荒らしのための訓練へと入らされた。その後、あのゲームのことは忘れた。大量の敗北のことも、記憶の彼方へと葬りさられた。少しも思い出すことはなかった。台湾への、再訪を決めた時から、じょじょに思い出してきた。

 今、この席につき、だいぶん蘇ってきていた。そして、あの時、例えば、「人」のカードは大量にあるにもかかわらず、対局には一切出さず、「場」「場」「空間」。あるいは、「場」「空間」「空間」のような出し方をしていたらどうなっていただろう。ふと、そんなことをアキラは思った。なぜ、途中で、敗北が重なっていく中で、行き着く所まで「人」と「場」と「空間」の三種類の出し方に、こだわってしまったのだろう。明らかに、執着してしまっていた。ルールの説明を受けたときに、三つの種類のカードを出すことを告げられた。それは確かにそうだ。しかし、必ずそうしなければならないと、誰が言っただろうか。俺は勝ち目のない対戦を、延々と続けていたのではないだろうか。そう考えると、あんなにも大敗した理由も、あったというものだ。どうして、あの場で気がつかなかったのだろう。「場」「場」「場」でも、「空間」「空間」「空間」でも構わなかったはずだ。ただ、三種類のカードがあり、その中から、三枚のカードを提出して、その三枚が反応し融合することで、生み出すゲームだった。三枚であるのなら何だっていい。そうだ。きっとそうだ。三種類に、こだわりすぎたのだ。いつのまにか、束縛されていたのだ。しかし、それも含めた、あいつらのワナだったのかもしれない。しかし、もし見破り、勝利を重ねていたとしたら、いったい何が起こったのだろう。多額の金を得て、帰国についたのだろうか。こんな名もなき客に対して、カジノ場が、平然と大勝させるわけがない。どの道、大敗するように、何か仕掛けてきたのかもしれなかった。さらなる大きな事態に、発展してしまったのかもしれなかった。アキラは、大敗の無残な記憶に対する、自らの注意力の散漫さへの、怒りと、これはこれでよかったのだと、納得する気持ちの両方が、芽生えてきていることに気づいた。とりあえずは、命はある。やり直しはきいた。だが、自ら、「死臭漂う」不埒な場所に、こうして舞い戻ってきてもいた。自ら、向かったが、それもまた、向かうように、誰かに仕向けられた、陰謀なのではないかと疑った。どうして気づくのがいつも遅いのだろう。しかし、アキラは、仄かな希望を今持った。だんだんと、気づきはわずかな時間の差をもって、短縮してきている。この流れに乗っていけば、まったくの無意識のままに、目醒めたとき、知らない「場所」へと、連れていかれていることもなくなるはずだ。見知らぬ「人」に、囲まれ、笑いものにされ、なぶられ、知らない「空間」と共に、理不尽な「世界」へと放り込まれている・・・そんなことも、なくなるはずだと思った。あのゲームで、もう一度、リベンジを果たすのだ。見え始めている。

 どこからでも来ていいぞと、アキラは、これまでのどんな時よりも、静かに目を閉じていた。



 目を開けると、目の前には、ルーレットはなかった。透明なテーブルへと変わっていて、ディーラーの姿もなかった。部屋を仕切る壁はなくなり、白い背景はどこまでも、続いていた。相手が誰であろうが、構わなかった。すでに覚悟はできていた。あの時のカジノの連中は、グリフェニクス社とは、関係がないことを確信した。ここを仕切る、裏にいる組織は、そっくりと入れ替わったのだ。状況は変わり、環境は変わり、ルールも変わった。ゲームだけが、変わらずに残った。引き継がれた。手元には、すでに、十二個のキューブが、マージャンパイのように横に並んでいる。いつのまにか、配られていたのだ。アキラはまた、眠ってしまったなと一言呟いた。すると、キューブはすでに、十二個揃った状態だった。一つ一つ、左から順に、その場に浮き出てきていて、それをアキラは、自分で一つ一つ、そこに映る映像を確認しながら、キューブの順番を組み替えていた。

 知らぬままに、そんな行動をとっていたのだ。人系のキューブを左側に、場系のキューブを中央に、空間系のキューブを右側へと、配置しなおしていた。マージャンパイのように、映像の映った側を、自分の方へと向け、アキラは第一局に集中した。三つのキューブを選ぼうとしていた。一つ一つの映像に焦点を当て、集中するのは難しかった。全体を眺め、瞬間的に三つを選んだ。その三つを、前方の高台へと上げる前に、そこで初めて、三つの映像をしっかりと見た。すべて「人」だった。この三人は、三角関係だと感じた。女性が後に対面することになる、男を除いた全面対決に、突入することを意味している。そう感じた。バトルは長期化していく。男の存在感は、どんどんと薄れていく。二人の女は、次第に、思慮深さを発揮し、二人は微笑み合い、握手を交わし、そして抱き合った。一瞬で、そんな場面が、浮かび上がった。それでも、まだ、一つ一つに集中することができず、アキラは、この三キューブを第一局に上げることで、ゲームをスタートさせた。

 相手の三キューブも揃う。

 そして、アキラは勝利する。

 相手のキューブは、激しく砕け散った。音もなく。しかし、爆音を感じさせながら。

 すぐに、第二局へのための、キューブの選択を始める。

 今度は、左右真ん中から満遍なく、三つを手にとるアキラ。その瞬間、並んだ三つのキューブが爆発する光景がフラッシュする。一つは建物の高さが低めに抑えられた街並み。もう一つは、幅の細い、かなりの高さを誇るタワーのような建物。そして、一人の男の姿。選んでしまったものは仕方がない。アキラは高台へと並べる。あっという間に、吹き飛んでしまった。さっき見た映像、そのままであった。これで、勝負は並び、はやくも最終局が開始する。音のほとんど聞こえないカジノ場に、アキラは自分の呼吸音が響くのがわかった。この空間そのものが鼓動し、拡大し、縮小する様子が見てとれた。

 アキラは自分の身体を見失いかけていた。自分の肉体の輪郭、この目に見えるものとは、どこか違うように感じていた。

 今度は、場の集中した中央から、並んだ三つを引き抜いた。同じような大きな建物。小さな家。工事中の光景。映像の中で、建築機材は、確実に動いていた。

 三つを並べた瞬間、アキラは手ごたえを感じた。

 爆発し、蒸発する光景は、見えない。自信をもって、高台へと上げる。

 最終局を、静かに勝利で終えた。

 熱狂のまるでない、抑揚を失った世界がそこにはあった。

 あまりに静かで、対戦相手は、確かに気配は感じるものの、観客も多数見守っている気はするものの、こんなギャンブル会場は初めてだった。

 言葉をやり取りしている場と空間を、一つずつ選んだ時には、対極に出す前に、爆発する映像が見え、もう一度選びなおす。

 十局を終え、アキラは、休憩を取ることをカジノ場に伝えた。

 一分もしないうちに、テーブルは色みを取り戻し、ルーレットが現れ、ディーラーが居て、プレイヤーも何人か、椅子に座っていた。その様子を見ている観客。参加しようか迷っているような顔つきの若い男。ただ、自分の予測することだけを楽しみに見ている、初老の男。ハネムーンで立ち寄ったように見える若いカップル。そんな中、アキラの手元には、十数枚のチップがある。

 アキラは、一枚一枚、適当に色を選んだ。十数枚分のプレイが、終わるまで、ある種の休息をとる。同じ椅子に座ったままの自分で、二つの世界を行き来していた。

 兆候は、すでにあった。ウエストミンスターホテルを目指したが、存在しなく、その同じ場所に、別の建物が立っている内部が、いつのまにか、カイラーサナータへと変わっていた。

 ほとんど、同じ場所だったはずだ。今もまたそうだった。これは、まだ、ほんの始まりなのかもしれなかった。ルーレットをぼんやりと見つめながら、第一一局以降のことに、思いを巡らせた。そういえば、チップをかけていたわけでも、とられていたわけでもなかった。何を掛けていたのかわからなかった。人と場と空間を、満遍なく、配置させて、世界をつくることが、当たり前なこととして、認識していたことに、アキラは気づいた。

 自分の生きている都市に、ある意味、しがみついている現実が、アキラを襲ってきた。

 対局の「世界」は、当然、強力な方が勝つ。よりエネルギーを発散してる方が、残る。

 だとすると。

 必勝法が、見えたような気がした。

 十局すべてに勝利している理由が、あとから追いかけてくるようだった。

 休憩中にやってきた。

 悪くない。遅すぎもしなかった。二つの同じ要素を、そう、同じ要素でありながら、異なり、対照的な、時に対立的なものを、並べるのだ。そして、その対局を成立させるのに、最もふさわしい要素を選べばいいのだ。

 その三つ目のキューブは、「人」か「場」か「空間」か、いずれの決まりはない。

 二つの対局を成立させるのにふさわしいと感じる、第三の存在を、投入すればいいのだ。

 まさに、対局が本当に始まる、起こる状況を、つくるための。

 火がつき、燃え盛る状態を、生み出すことのできる、ある意味、観照者である第三の存在を。



 鳳凰口昌彦は、王宮にいる友紀に、しばらく家を空けると言い、GIAで地上へと降りていった。ちょっとの間だけ、離れ離れになるけど、と言った。友紀の目は、わずかに潤んでいた。あなたが帰ってくるまでに、もっと花を咲かせておくから。

 鳳凰口昌彦には、彼女がそう言っているように、見えた。

 鳳凰口は、グリフェニクス本社へと降り立った。屋上で、GIAを降りる。今はまだ、GIAを、この街中で乗り回すことはできない。道路なき中空を自在に飛び回ることはできなかった。

 ミシヌマエージェントの津永に、通信を繋ごうと思ったが、祭祀の居場所はすぐに感じとることができた。昌彦は、火が放たれたグリフェニクス本社一階を一回りした。焦げ痕もだいぶん修復されていた。

 見士沼祭祀は、ほとんどここに居るのだろう。昌彦は、今、この場所が、グリフェニクス本社として固定されている事実に、揺さぶりをかけた。本社と意識を一つにして、ここが、元の更地である時の状態を、想像した。そのあとでカイラーサナータ寺院へと変え、そこで司祭として暮らしている見士沼祭祀と、意識を同調させる。

 グリフェニクス社の内装は消え、一瞬の空白地帯のあとで、聖堂の内部のような天へと開いていく構造が、現れ始めていることを実感する。

 見士沼祭祀と、鳳凰口昌彦は、祭壇に通じる一本の道で、向かい合うように立っていた。

「ずいぶんと、世間を騒がせているな」

 鳳凰口が先に口を開いた。

「僕が、直接、やったことではないけど。すまん。燃やしてしまった」

「何の問題もないさ。本来、グリフェニクスのロゴに描かれた動物。火を纏うフェニックスの存在だ。それは、一つの側面を現している。火は友達だ」

「何も知らずに、軽がるしく、広告の仕事などを引き受けるんじゃなかった」

「フェニックスだけなら、火をまとったロゴが最も望ましい。けれどグリフィンもいる。火は消し止められ、青く静寂な時もまた、表現しないといけない。そうすると、火だけを書き加えることは、できない」

 鳳凰口と見士沼祭祀は、少しも動かず、互いの距離を、全く詰めようとはしなかった。

「メラニ製薬のこと」

 見士沼祭祀は、その言葉を何度も、繰り返した。

「あれは、いい商品だ。それは間違いない。共鳴して当然だ。うちのもメラニのやつも、別に両方共存したらいいんだ。関わりを持つから、おかしなことになる。距離を置いて、互いを理解すれば、それで事はおさまる。いいじゃないか。一度は対面して、ぶつかり合わなければ、その距離をとるってことも、できやしない」

「このまま、治まるのか?」

「ああ、メラニとうちの対局は、な」

「そこだよ」

 見士沼は言った。

「それ以外に、火種は飛び散ってしまった」

「みたいだな」

「関知せずか?」

「いいんだよ。放っておけば、見士沼。誰かにも同じようなことを言ったよ。どうして、みんな、わざわざ関わりあおうとする?そして、そのわりには、ただ、怯えているだけで、心はまるで、向き合ってなどいない。放っておけというのは、単に無視しろということじゃないぞ。冷静に距離をおいて、事後を、観察しろってことだ。あえて今は、関わりあわないことは必要だ。さもないと、意味のない対立構造に巻き込まれる。お前にとってもな。言いたいことはわかる。『世界』にとっては、意味のあることだ。そこにあった火種に、引火し、発情させ、混乱を巻き起こしていくのは。世界にとっては、必要なことだ。それは、元々、存在していたんだからな。巨大になってきているのに、表向きの事情で、それまでは抑圧されてきた。大いに地上に晒して、闘いあえばいい。全面対決でもすればいい。世界はそうやって浄化されていく」

「世界はって、その世界に僕らは生きてるんだぞ」

「祭祀。もう、わかっているだろう?」

 鳳凰口は指を口元に持っていき、顎を触る。

「カイラーサナータは、君のものだ。君が主だ。世界の中心になる。新しい世界の。だんだんとその認識を持つ人々は、増えてきている。カイラーサナータは、未来の寺院だ。そしてその存在が、最終的に、この地上に聳え立つ日。それは今の世界に燻った火種が、全部浄化したその時と、一致する。だから、放っておけといった。なるようにしかならないのではなく、そうなるしかないんだ。もうその流れは、止められないんだ。お前や俺みたいな人間が、そのエネルギーを妨害する言われはない。自滅するだけだ。抵抗したって、無駄だ。恐怖心が最後の抵抗を、お前にけしかける。誰のためにもならない」

「お前じゃなくても、はっきりとそう言われたかったね」

 見士沼祭祀の目は鋭く、それでいて穏やかだった。


「カイラーサナータは、お前のものだ。新しい世界の中心だ。新しい文明都市の、精神構造の、支柱そのものだ。どんな戦闘が巻き起ころうとも、お前は堂々としていろ。堂々と立っていろ。世界を睥睨し、それでいてど真ん中に地上との接点を持て。いいんだよ、それで。人々の心が乱れ狂ったときに、帰るべき場所が必要になる。そういうときが来る。カイラーサナータが、建たずして、人々は、どこに安らぎを求めればいい?どこに、その後の人生の指標を、定めればいい?どこに、自分が生まれてきた意味、行きぬく意味を、見いだせばいい?何を残そうとすれば、いい?どこから死の世界へ、帰っていけばいい?すべては、カイラーサナータを経由してだ。人生の節目で、時代の変わり目で、人が歩む道を見失わせないために、その存在が、必要なんだ。混乱と虚無の、最後の嵐が起こる、その流れに、カイラーサナータは干渉してはいけないんだ」

 鳳凰口は、続けて、見士沼家と鳳凰口家の真実を、彼に語って聞かせた。



 フレイヤは仕事に復帰していた。あの日以来、夫以外の男と、関係をもつことはなかった。フレイヤは自分専用の携帯電話を解約し、プライベートでは誰との連絡もとれない状況にした。夫とはあいかわらず別居状態であり、彼の自宅の合鍵はもっていて、何度も仕事帰りに寄ってみたが、中には誰の姿もなかった。

 夫はほとんど会社に寝泊りしているのだろう。毎日のように会っている、陰西カスミに、初めて嫉妬を感じた。次に、夫と会う時までは、男と関係を持つのはやめようと思った。あの日の朝、自分に起きた出来事は、今だに信じられなかった。あのあとも何度か、駅の側を通ってみたが、そんな建物はどこにもなく、二度とあのような現象も起こらなかった。感触だけを残して、フレイヤからは遠く離れた場所へと行ってしまっていた。フレイヤは時おり思い出した。その度に、湧き上がてくる性的な興奮が、発動し、その性欲は、胸から首、額へと移動していき、その後で、行方はわからなくなってしまった。どんな性体験よりも、遥かに超えていて、あれを知ってしまえば、もうそれまでの性的行動は、まったく馬鹿げた話になってしまった。

 だんだんと、苦しくなっていった。

 もう一度、もう一度と、今度は、あの体験を、あの場所を求め始めていた。いつも、心から離れなくなってしまっていた。あの時の感覚を蘇らせたい。ただ、それしか、望むことはない。男は不要になり、それでも、夫だけは側にいてほしいと思うようになった。近くにいてほしい。体に触れることのできる距離に、いてほしい。それさえ叶えば、あとはあの時の感覚だけが、蘇えるだけでいい。感覚だけが蘇り、それなのに、愛する人が側にいないのは哀しすぎる。

 そして、フレイヤは、その体験から、記憶を遡り始めた。

 あの前だ。

 男たちと会った、後だ。

 その間には、私でない、別の人間の記憶が挟まれていた。夢を見ていたのだろうか。

 最後の男と別れ、駅構内を一人歩いているときに見た・・・夢だったのだろうか。ずいぶんと、長い夢のように思えた。私は・・・。フレイヤ。あの女も、確かに、そういう名前だった。フレイヤの顔から、一気に血が引いたのがわかった。フレイヤという名前は、事務所がつけた名前だった。あの夢の中の女。フレイヤ。偶然なのだろうか。たまたま、自分の芸名が、夢に投影されてしまったのだろうか。私にはそうは思えないと、フレイヤは呟いた。むしろ、あっちのフレイヤが、本物で・・・。私の方が、彼女の投影である、そんな気がして、ならなかった。あっちのフレイヤが、私に名をつけた?事務所を通じて?芸能の、世界を通じて?すべてが図られたかのように,私に向かってくるエネルギーを感じた。そして、あのタイミングで、事実を伝えてきた。私はいったい、誰なのだろう。私そのものが、夢なのではないだろうか。あのフレイヤが本物なのだ。彼女は、皇帝と呼ばれた気の狂った男の首を、短剣で刺していた。その感触も、また、この私の手には残っているような気がした。その場面を、意識した時に蘇り、噴き出した血を、受けている私の皮膚をも感じてしまった。本当にあった、出来事のようであった。フレイヤは、別のよく知った女としゃべっていた。

 そのときの夢と、駅付近での超常現象が、常に並んで、フレイヤの身体を囲んでいた。

 そして、フレイヤは、映画の仕事を初めて、オファーされたのだった。時を同じくして、その映画の配給会社に勤める、一人の若い女性社員とも、出会うことになった。

 一連の出来事もまた、夢の中で起こったことのようであった。女は、アスカという名前で、しかも、オファーを受けた映画は、ローマ帝国であり、そこにはちゃんとした皇帝の姿もあった。フレイヤは、皇帝の愛人の一人、という端役だった。そして、まさかと思いながら、その女の結末を、台本の中で辿っていった。

 しかし、さすがに、首に刃物を差し込む場面は存在しなかった。



 アキラは、帰国後、ドクターゴルドのもとを訪れていた。

 アキラは、台湾のウエストミンスターホテルの別館のカジノ場で、「人」と「場」と「空間」から発生する「世界」大戦ゲーム、『マスターオブザヘルメス』を三百局以上こなし、大勝と共に、ホテルを去ることになった。勝ちっぱなしの自分を、タダで帰してくれるとは思わなかったが、アキラが自ら、終了したい旨を告げると、短いスカートに、短い袖の、白い革の服を着た、髪の長い若い女性がそばにやってきて、帰りのルートを案内するため、アキラを丁寧に導いていった。春鳥かと、一瞬思ったが違った。アジアとヨーロッパのハーフのような女性に見えた。彼女は何も、言葉を発することなく、アキラをエスコートしていった。完璧にゲームはマスターし、アキラは心にわだかまっていた最大のしこりに、リベンジを果すことができた。ゲームは、この自分を、本来の姿に戻してくれた。クリアした今も、ゲームの世界観は、色濃く、細胞に刻印されている。日本を出てくるときに見た、マスターオブザグリフェニクスの、首への刻印を、思い出していた。しかし、外からレーザーで埋め込まれる刻印とは、全然違った。刻印そのものと、一体化しているのだと、アキラは全身に力を漲らせた。その震えは、一時の、興奮状態をもたらすものではなく、いつでも、その感覚は続いていくように感じられた。穏やかでありながら、静かな喜びが、少しずつ、自分の外へ洩れ出ていくようでもあった。そして、ゲームの世界観を呼び出すと、その湧き出るエネルギーは、アキラの斜め前の、上空へとつながり、そこにキューブの数々が、ランダムに並んでいる様子が、見てとれるのだった。そのキューブに、さらに意識を集中させると、映像が浮かび上がり、読み取ることができた。そこから、三つのキューブを選びとり、卓上の高い地点に載せる。対戦相手は、特定の誰かではない。何かではない。すでに、マスターオブザヘルメスが、この体に搭載されていた、アキラは、自分以外の、この世界に、その三つのキューブを通じて、エネルギーを送りこむことができるようになったことを、密かに感じていた。



 マリキ、ホルス、マルドの、三者による会談が開かれていた。

「ついに来たな」とマルドは言った。「こちらと、そちらの、全面対決になるのは、わかっている。うちも一枚、ここにかませてもらうよ」

「これは、もう、主導権争いではないぞ」

 マリキは言う。「次の時代を、マリキとホルスの、どちらが実権を握るかの、闘いではない。それは、ご存知だろうね?」

 マリキは、マルドに訊いた。

 マルドは頷いた。

「だから、参戦を表明している」

「いいだろう」マリキは言った。

 ホルスは黙ったままだった。

 ホルスは、グリフェニクスを支持し、鳳凰口との連携を深め、豪華絢爛な統一美を実現するため、地上の王朝の創造を目指していた。ビジネスに進出し、グリフェニクスブランドを表明、拡大していくことで、その礎を築いてきた。この同じ地上に、マリキは参戦し、巨大ミュージアムを中心地に建てることで、そこからの影響力を保持しようとした。ホルス系とマリキ系の後ろ盾は、今は相反せず、共存してるように見える。カイラーサナータもまた、一枚噛んできている。カイラーサナータの後ろ盾は、見えない。ホルスはじっと、三者の関係を一歩引いた所から見ていた。マルドが、鳳凰口建設に近づき、激原徹や陰西カスミに働きかけていることは知っていた。他にも、あらゆる激しい精神を持ち、錯乱状態とのきわどい場所で生きている、若き男女の意識にも、侵入していることには気づいていた。

 マルドは、個人を対象に、そこに眠る狂気を通じて、影響力を持とうとしているようだった。マリキは、ミュージアム以外に、目立った行動をとってはいなかったが、元々、金融業には食い込んでいる。専門だった。そこで得る、膨大な資金が、ミュージアムへと流れ、そこのアーティストへと流れている。個人、自由が開花し、多くの才能が百花繚乱、咲き乱れる時代を、彼らはバックアップしていた。一見、創造的だ。我がホルスの創造性とは違った。統一、拡大、絢爛なる美。王国。そこに、奉仕する個の力。その結果。ホルス、マリキは、共々、創造の花を目指す、そこは一致していた。そうして、時代を交互に、牽引してきた。

 全体に、エネルギーを流すとき。個々に、エネルギーを流すとき。どちらかに、極限に突き進んだ結果の、そのひずみを、逆の側が取り戻していく。その繰り返しだった。

 そこに、マルドが参戦してくる。ホルスにはわかっていた。もう、マリキとホルス、そのどちらも、次の世界の主導権は、とれないということを。そこに、このマルドが食い込もうとしている。しかし、マルドが、地上に何を創造しようとしているのかが、わからない。マリキとは、常に、意思疎通が行われていた。わかりあった上での、互いの対立であり、長い目でみた場合の、結束でもあった。マリキもまた、次なる対立が、最後の清算であることを理解していた。思いは同じだった。自ら積み重ねてきた歴史と、力を、ここですべて、ないものにしたかったのだ。しかし、あまりに長い時間を、経てきていた。溜めたものは計り知れなかった。自ら、捨て去ることはできない。マリキと闘い、敗れることで、失う財産でもなかった。余力を残した戦いを、この両者はとり行い、勝者が、次の時代をとる。敗者は余力を残したまま、さらに次なる時代のために、力を再び、養生するため、表舞台から姿を消す。その連鎖は、続いていった。思いは一つだった。二つの勢力の問題も重なりあっていた。すでに、二つの勢力は、実態としては、一つになっていたのだ。抱え持った問題も、未来の方向性も、すべては一致していた。その流れは、さらに加速していき、すでに、暗黙の了解で、最後の闘いは、互いを消滅させるために行われることがわかっていた。自らを消すのに、自らが行えない状態であったのだ。同等の強力な力を持つ、別のエネルギーに頼るしかなかった。まったくの互角になるべく、二者はそうした微調整を続けていった。今日も、今現在も、続けていた。ほんのわずかでも、取り残してはいけない。さもないとそこからまた、新しい芽が出てきてしまう。痕跡すら、すべてを、吹き飛ばしてしまいたいのだ。ホルスの夢も、マリキの夢も、共にぶつけ合わせ、一瞬で、無きものにしてしまいたかったのだ。その微調整は、最後まで、困難を極めた。微細な部分での強弱が、多々出きてしまう。完全なる互角状態は、人工的にはつくれない。そういった時だったのだ。マルドが、この地上に割って入ってこようとしているのが、わかったのは。気づいたときには、人の意識に、繊細に進入していて、感度のよい、深い傷を負った男女の心の芯を、おさえているように見えた。そうやって、小さく小さく、自分の存在を極限にまで抑えて、地上を跋扈し始めている、彼らが、何を創造しようとしているのか。

 ホルスには、それがまったくもって見極められなかった。そこが不安であった。



 アキラはある男を訪ねるため、専門の自動車、D・Iをレンタルしている営業所へと向かった。D・I車の操作マニュアルの説明を受け、アキラはさっそく乗り込み、ドクターゴルドの住所を入力して、乗り込み口を閉めた。

 窓は、自動にスモークがかかり、そこには街の立体地図が浮かび上がった。何層にもわたって、アキラにはまるで、理解できない文字や数字、記号、幾何学模様が、ずらりと運転席を取り囲んだ。

 操縦は、通常、自動で行われ、運転手はみな、休息のために睡眠をとることがほとんどだった。

 アキラはずっとそのコンピュータ画像を、見続けていた。街を上空から映した図形の周りには、気象情報があらわれているのだろうか。気流や、雲の動き、さらには緯度や軽度などが、細かく表示され、天体の位置と思われる複数の球体もまた、浮かんでいた。ある種の、プラネタリウムの中にいるような感覚だった。ドクターゴルドの邸宅は、宙空にあった。宙空都市の存在を、アキラは帰国する飛行機の中で初めて知った。そのような建築物の広告が、座席の前のポケットに、パンフレットとして差し込まれていたのだ。宙空建築による、建造物がまず着工され、それがある一定の数量を超えたところで、街には基盤、土台が生まれ始め、街づくりが進み、それによって、またさらなる宙空建築物が、立ち並ぶのだった。

 地上から離れた、騒音のない、視界の良好な、そして天とより近いあなたの楽園に、住んでみませんかという広告だった。

「ドクターゴルドを、お願いします」

「私だよ」

 インターホン越しに、目当ての男は、すぐに出た。

 ドアはなかった。しかしセキュリティーは、強固なはずだった。

 ほんのわずか、気流が変化したのがわかった。アキラは、そこにあると思われる、透明な扉を通過し、中へと入った。

「お噂は、聞いております」

「どんな」

 出てきた男は、短い白髪の、体型の大きな男だった。

「データは、見てくれましたね?」

「雑談もなしに、いきなりか?」

「お仕事中、申し訳ありません」

「どうして、僕のことを」

「お噂は、聞いております」

「本当なのか?」

「科学の世界では有名です」

「表じゃない」

「ええ」アキラは微笑んだ。「すぐに、お願いできますか」

「覚悟は、できてるんだろうな」

「もちろんです」

「ひとつ、約束をしてほしい」

 アキラは頷くことなく、ゴルドの額の辺りを、ずっと見ていた。

「ひとつでいいんですね」

 少しの沈黙にも、アキラは耐えられそうになかった。何か試されているような気がした。

 沈黙につきあった。えっ?アキラは何も言葉を発していないゴルドが、重要なメッセージを送ってきているのが、何故かわかった。しばらく沈黙に耐えていると、彼はこう伝えてきたのだった。

 私は仕事でコレをしているのではない。あくまで、私は小さなサポートをすることしかできない。ほとんど、依頼してくる本人の力だ。そしてそのほんの少しのサポートを、する人間。それは私である必要はない。たまたま私であった。特別視しないでほしいのだ。

 いいな。それは、ほとんど、あなた自身の中で、起こった。私はほとんど、何の力にもなっていない。この施術が終われば、私のことは忘れる。覚えていたとしても・・・。まあ、いい。私は、今は、作家だ。他のことは、日常の生活の一部としてやっている。作家だけが、非日常を演出してくれる。その演出もいずれは、日常へと溶け込む。まさに、作家になる瞬間だ。完全に。さて、データは、たしかにもらった。君から、送ってもらったものを、再び、君に返すというのは、面白いものだね。私を経由するということに、そんなに意味があるのだろうかと。すまんね。特別なのは、私ではなかった。この場所なのだ。

 この空間の存在には、初めから気がついていた。だから、ここを住まいとした。ココを手にしてからというもの、私には、欲求は起こらなくなったのだよ。ほしいものはすべて、手にいれた。たった一つを、手にするだけで、他のことはすべて消え去った。

 私は知っていた。幼いときから。物心ついた時から。物心つく前の欲求を。知っていたのだ。そして、私は忘れずに、その欲求を保ち続けた。科学の道へと進み、システムのメンテナンスの仕事を、するようになり、軍事訓練を、プライベートでするようになり、作家にまで、手を伸ばそうとした、そのときも、いつだって、『その場所』のことは、忘れることはなかった。私は待ったのだ。ただ、そのとき、それが浮かび上がってくるのを。ただ、ひたすら。別のことをしながら。別のことに、日々を忙殺されながら。いつも、明確に、その場所を、意識の中で保っていたのだ。ただ、ひとつの欲求を。叶えてきた欲求、叶えられなかった欲求のすべてを合わせても、及びもつかない。その一つの想い。

 しかし、地上に、そのような場所はなかったよ。もう、ないのではないかと諦めかけていたよ。けれど、明確な、その輪郭は、いつも、この胸の中で燃え続けていた。そして。

 宙空建築だよ。

 そう。突破口は、すべてそこにあった。すぐに、ピンときた。ここにあるに違いないと。

 目の前の白髪の男は、声を出すことなく、一瞬で、情報の塊をアキラに送ってきていた。

「場所の提供者だと、そう思ってくれ」

 ドクターゴルドは言った。

「ここは、誰のものでもない」

 アキラは、自分とほとんど同化している『マスターオブザヘルメス』を確実に固定させ、安定させるために、この男を訪ねたのだった。

 台湾で掴んだこのゲームの世界観と必勝法を、データとしてゴルドに送り、自らの内から、そして外から、刻印を埋め込む作業へとアキラは入っていた。



 アキラは、ゴルド邸から、DI車で再び地上へと戻った。

 友人のケイロと、カフェ・グリフェニクスで、待ち合わせをした。

「絵の方は、順調?」

 席に運ばれてきたカップに、液体は入ってなかった。

 二つのカップを、アキラは眺めた。

「こないだの、あの胸の病気?あれ以来だけど、仕事もまだ、復帰してないんだろ?」

 イグドシアルと呼ばれたアキラは、一瞬、誰のことがわからなかった。

「オーバークラフト社に、まだ籍を置いてるんだよね?」

 その名前もしばらく、アキラの意識の中からは、欠落していた。

「台湾に行ってきたんだ。旅行で」

「回復したんだね」

「ああ。職もまた変えた。今度こそは、大丈夫だと思う。ドクターゴルドのことは知ってるか?」

「君の主治医?」

「病気は、もう完治した。ゴルドは科学者で、次の仕事のことで、力になってもらった」

「何の仕事?」

「ゲームプログラマー」

「一緒じゃないか。プログラマーなんだ、やっぱり」

「開発の方に、まわった」

「そういうことか」

「前のような、システムのメンテナンス業じゃないんだな」

 アキラは、オーバークラフト社が解散したことは、言わなかった。

「どんな仕事?」

「その名のとおり」

「ギャンブルじゃないよね」

「嫌なことを言うね」

「なんとなく。なんとなくだよ。そんなに吃驚しないでよ」

 アキラは、あの監禁事件の後に、画家のケイロとは知り合っていた。

「それより、画のほう・・・。まだ、ミュージアムは完成してないんだよね?個展も一度開いたきりで・・・。どうなってるのかなと思って。うまくいってるの?その画のことだけじゃなくて」

「正直、不安だよね」

「どういうこと?」

「僕は、画家に向いてるのかなと思って。他の画家は、どう思ってるのかはわからないけど。僕はね、その、現実に起こった出来事しか、描写できないんだ。つまりは、ジャーナリズムに近い。ただの記録員のように思えてくる。画家って、そうじゃないだろ?少なくとも、僕の考える画家は違う。物事が起きる前に、先に抽出してしまえるのが、芸術家だ。未来を予知する。警告を与える。心の準備を、人々に与える。とにかく先へと時間をズラせるのが、何かを創造する人間だ。でも、僕は違う」

「でもさ、未来をあらかじめ知るっていうのは、ある意味、起きた過去の出来事を把握できているからでも、あるわけでしょ?何も知らない所に、その延長戦上の世界は、ないと思うよ」

「それは、そうかもしれないけど」ケイロは同調するも、「しかしな、起きた過去を、描写するのは、ジャーナリストだ。そこから、未来を先どることなどできない。起きなかった過去を、その複数の過去を、読みとれてこその、未来だ。起きなかった過去を、描くのと、これから起きるかもしれない未来を書くのは、ほとんど同じことなんだよ」

 アキラは、目を細め、あごを少しだけ突き出すような仕草を、見せた。

「で、君は、そういうタイプではないと」

「ああ、そうだね」

「ほんとに?」

「今のところは」

「ほんとに、起きた過去を、記録してるだけ?」

「今のところはね」

「でも、そうではない画家になりたい。なる必要があると」

「どうだろう」

「あのさ、それ、ほんとにそうなのかな。ほんとうに、起きた現実を、君は描写しているのかな。そこに疑いはないのかな。君のその、自分が思う自分の才能の話も、どうなのかと思うね。たとえ、そういった人間が、本物の画家だったとしても、君がそれとは違うタイプだって、何故断定できるのだろう。ほんとうに、君が描いた絵は、現実に起きたことなのだろうか」

 アキラは、ルシフェラーゼが起こった自らの現実を、今振り返っていた。

 とても、ケイロと分かち合える世界ではなかった。その世界で、イグドシアルはある意味、死んでいた。彼が思う、今話している、信じているイグドシアルは、どこにもいなかった。彼は、俺がアキラという男であることも知らなかった。たとえ名前を知っていたとしても、何も知らない。

「そういうことだろ?」アキラはケイロに言った。

 ケイロは答えようがなく、戸惑った表情を見せた。

「それが、現実だと、どうして、確定できるのだろう?それこそが、勘違いなんじゃないのか?いいか。お前は、もう、画家なんだ。描くことしかないんだ。起きたことを、ただ、描きとめているだけだとして。本当に、それだけだとしても、だ。それを続ける以外には、ない。そうだろ?どれが夢で、どれが現実なのかは、わからないんだ。少なくとも、今の俺には。お前には。俺は、そこから脱却するんだ。そのために、ゴルドのところへ。台湾にも、行った。この身体の、奥深くに、それを、刻印するために。だから・・・。だから、ケイロ。それを言いたかったのかもしれない。いつか、現実を描けるようになるさ。夢じゃない本当の世界をな」



 ずっと、夢を見ていたのだと、アスカは思った。あのアキラとの面会が、日常のすべてを狂わせていた。妙な予告編を、衝動的に制作してしまったが、それはどこにも放映されずに、手元にあった。アキラの連絡先すら知らなかった。勝手に鍵を盗み出し、会社の資料室を漁ったことも、遠い昔の出来事のようであった。結婚が決まったという大学の同級の美左利に、メールを送った。その夜、すぐに会うことになった。美佐利は、映画配給会社で予告編ディレクターをしている私を、褒めちぎった。会社に対する反則を繰り返し、アキラのために制作した、映像のことが、頭に残ったままだった。

 見士沼祭祀をマネージメントとする事務所の、代表を務める男との、婚姻だった。

 見士沼祭祀が、今、これだけ騒がれていることに、美佐利は上機嫌だった。

「ねっ?あのとき、まだ無名だった彼に、丁寧にマッサージを受けたのは、私たちくらいなものよ。きっと。すごいわよねぇ。腕は確かだったし。きっとこうなると思ってたわ」

 そういえばそうだ。あの男とも知り合いだった。あの男には台湾でのアルバイトのことを何故か見抜かれていた。もうそういうことはやめてください。僕のエネルギーをこんなことのためには使いたくないと。もっと、大きなことのために使いたい。そのとおりになったじゃないかと、アスカは思った。

 もう私とは、何の関係もない男だった。美佐利とも卒業してからは疎遠で、今も特に盛り上がるための話題がなかった。沈黙を避けるように、美佐利はわざとらしく、一冊の雑誌をテーブルの上に出した。表紙の女性を指差して、私、この子のファッションに、影響を受けてるの、と言った。そんなこと知るかよと、アスカは興味が湧かなかったが、その表紙の女と、美佐利の服を、一応見比べてはみた。しかし、どこに共通点があるのかわからなかった。ファッションのことを、その後も訊かれたが、買うブランドはいつも、決まっていて、その店で全部そろえるのだと答えた。今度、買い物に一緒に行こうとまで言われ、アスカは生返事を繰り返した。雑誌の表紙には、激原フレイヤと、印刷されていた。すごい苗字だなと思い、タレントの剛力彩芽を思い出しながら、その見た目のかわいらしさとの対比に、暇つぶしの材料を見い出すこととなった。フレイヤね。ずいぶんと、メディアでは取り上げられているモデルだ。映画作品とはまったく関係のない彼女だったが、さすがにこの女は知っていた。そういえば、ずいぶんと前から気になっていたような気がする。「この子」

 アスカは話題を今日はじめて自ら振った。「この子のこと、何か、知ってない?」

 思いもよらぬ自分の言葉に、アスカ自身が、驚いた。

「あれ、好きなの?アスカ」

「何も知らないのよ。こういうこと。タレントのこととか」

「その仕事をしていて?」

「映画に、関係のないことは」

「そうなんだ。意外。ファッションにも、無頓着。世間の情報は、無知。アスカらしい。このフレイヤさん。元は立花って芸名だったみたい。立花フレイヤ。つい、この前、結婚して激原性に。どこかの建設会社の社長さんみたい。けっこう、話題になってたから。知ってるかなと思ったけど。記者会見もやってたし」

「それ!見たわよ、わたし」

 アスカは、反射的に答えた。

「うん。たしかに見た。しおらしい感じで、何か囲み取材のようなことを」

「それよ!」

「少し嘘っぽかったような。演技しているような」

「まさに、それね。立花時代の、彼女のプライベートは、すべて滅茶苦茶よ。次々と男を変えて、男と男を、ダブらせてばっかりで。本人も、誰も、正確に、リアルタイムでの関係性を描ける人は、誰もいないんじゃないかしら。結婚もしていたみたいだし。子供もいたって話よ」

「再婚なの?」

「知らないわよ。けれど、初婚ってことよ、どうも」

「連れ子なの?」

「だから知らないって!」

「で、激原建設?に嫁いで、家庭に入ったのかしら?」

「そういう様子は、ないわね。それはない。全然、変わらずに、出まくってるし」

「売れてるのね」

「私、好きよ。正直。あなたもそうでしょ?」

「やめてよね」

「いいわよ。隠さないで。あなたと付き合ってきて、自分から他の女性について、質問してきたのは、初めてなんだから。気づいた?」

「だから、そんなんじゃないって」アスカは否定した。

「いいってば。無理しなくて。それより、彼女の話をもっとしようよ。よく考えてみると、アスカと、共通の人の話をするのって、なかったものね」

「あるよ。見士沼祭祀とか」

「女性で」

「そうかな」

「だから、続けましょ。あなたと、女の子の話が、ずっとしたかったのかも。初めて気づいた」

「それなら、知ってるだけ、全部しゃべってよ」

「そうね。私の結婚の話なんて、全部、吹き飛んじゃったわね」

「また今度、ゆっくりと聞かせてもらうわ。焦らなくても、これからも、続いていくわけだし。そのフレイヤって子の方は、将来どうなるのかわからないでしょ?」

「わからない」

「ほら」

「その新しい、初婚と言われる、旦那との子供は、まだいないみたいね。仕事もこれまでどおり。他の男との噂は、全くない。表向きは。連れ子の報道は、消滅」

「思い出したわよ」

 アスカは、突然、表情を生き生きとさせて言った。

「そのフレイヤって子。会見で泣きながら、謝ってたじゃない。これまでの虚飾を許してくださいって。全部が、この世界で行き抜くために創作した、策略だったって。いつも、ゴシップの話題になることを目的とした、偽りの私だったって。はじめて、素直になれた。そんな男性が、今度の夫だって。そうよ。思い出した」

「何だか、あなたの方が詳しそう・・・。;乗ってきたわね、アスカ。楽しいわ、私。とっても。今夜は、朝まで付き合ってもいい。うちの旦那、出張で家にいないからさ。何なら、ウチに来ても構わないし。飲み明かしましょうよ。久し振りにパーッと」

 最初は、気が乗らない再会ではあったが、思わぬ展開に、アスカも同意していた。

 そして、本当に朝まで、二人はしゃべり続けたのだった。



 夜が明けたのにも気づかず、二人は話続けていた。

 津永学が美佐利を迎えに来たことで、アスカはようやく時刻を取り戻したのだった。

「よく、ここだって、わかったわね」

「お店のことは、前から、きいていたよ」と津永は答えた。「はじまして」

 アスカは、席を立ち、津永に向かって慌ててお辞儀をした。

「聞いてますよ。家内から。見士沼祭祀の施術も、受けたことがあるそうで」

「ええ。今では、予約をとることも難しそうですね」

「祭祀も、あなたのことは、よく話しておりました。すっかりと回復なさったそうで、何よりです」

 その言葉に、アスカは、台湾でのアルバイトを再び思い起こされ、アキラが今何をしているのか。ふと一瞬だけ、彼に意識が向いた。

「じゃあ、帰ろうか」

 津永は、美佐利の手をとった。

「アスカ、それじゃあ、また。連絡する」

「今度、ぜひ、うちにいらっしゃってください。ディナーでも」

 津永はそう言い、美佐利と共に、車に乗り込み、帰っていった。美佐利が結婚したことに、やっと、実感が持てた。一晩中、フレイヤのことを話したが、聞けば聞くほど、アスカはフレイヤのことを、知ってる実感が増していった。彼女と一緒に育っていったかのような、不思議な感覚にとらわれていった。どこかで、同じ境遇をすごし、そのあとで再びわかれていったかのような。それが今も続いている。

 誰に頼めば、彼女と、接点を持つことができるのだろう。接触できたとして、何を話すのだろう。どう、心の距離を詰めていくのか。向こうは、何のことだか、わからないかもしれない。こっちだって、一緒に過ごした記憶はない。ただ、感じるのだ。一度会う必要があることも。すぐに会いたい。美佐利と同じように、あの距離で、二人きりで目を合わせる必要がある。そのときにすべてがわかる。そういった状況にならない限りは、何も思い出すことはできない。

 アスカはアキラに電話をした。相変わらず、留守電に繫がると思いきや、彼は出た。

「今から、会えないかな。アスカだけど」

「今?」

 時計を見ると、八時を少し、回ったところだった。

「今は、無理だ」

「じゃあ、昼は?夜でもいい」

「今日は、駄目なんだ」

「いいじゃないの」

「手術したばっかりなんだ」

「えっ?」

「実は、ね」

「シジュツ?見士沼さんの?」

「シジュツじゃない、シュジュツだ」

「病気なの?」

「いや、いたって、健康だけど。ただ少し、改造しただけだ」

「整形って、こと?」

「外側のパーツの、交換じゃない」

「臓器とかを、取り換えたってこと?」

「いや、そういうことでもない」

「わからないわよ。もっと、詳しく教えて。いつだったら回復してるの?そうだったのね。で、それは、いつ、執刀してもらったの?まさに、昨夜ってこと?」

「メスで、体を、開閉したわけじゃない。レーザーだよ。台に横たわって、そのまま、レーザーを、身体の一点に浴びせる」

「麻酔は?」

「かけない」

「痛いの?」

「初めは少し。体の外に、出ていくまでは。自分がね。そのあとは、見てるだけさ」

「何を、見てるの?」

「だから、自分が、手術をされてる様子を」

「気持ち悪くないの?」

「これはね、その様子を見ていなければ、術後の効果は、まったくないものになるんだ」

「で、これは、結局、何を目的にしてるの?身体の強化なの?」

 音信はそこで途切れてしまった。電波が、突然、極端にわるくなってしまった。そのあと、アキラとの通信は、復活しなかった。アスカは、その日は休日だったため、レストランで朝食をとり、それから街の中の温泉施設へと行き、体を温め、汚れを落とし、当てもなく散歩をしながら、気づけば、駅の前に着ていた。電車に乗って、さらに、どこかに遊びに行こうと思った。しかし、何を思ったか。改札を通ろうとはしなかった。そのままコンコースを抜け、反対側に出てしまった。十時を回ったばかりの祭日の空気は、まだ荒らされてなかった。陽光はいつもよりも濃く、降り注いでいるようだった。ふとアスカは、今、自分が夢の中にいて、まさに醒めようとしているのではないかと思った。わけがわからなかった。

 夢が醒めようとしている?私は寝てたのか?美佐利と会ったあと?レストランで朝食をとって、そのまま寝てしまったのだろうか。温泉に入ったまま?美佐利に会う前?夢の中で彼女と会っていた?どこからだろうという思いが、抜けてはいかなかった。アスカは、過去に向かって、記憶を遡っていった。日常を遡り、時々訪れる、印象深い出来事を通過し、さらに遡っていった。まったく信じられないことだったが、夢に入った、その始まりが、見えなかった。その境目が、全くわからなかった。アスカは混乱していった。いつ醒めるのだろう。その醒める時が、何故か見えてきている。すでに、周りの光景は、すべてを消すほどの黄金の光で満ちている。この光の先だ。この光のすべてを、自分の眼球が吸収して、そして、その光を上回る視力を、取り戻した時だ。そのときに初めて、眠りから醒めるのかもしれなかった。

 その醒める地点に、私は今向かっている。

 突然、入りこんだ世界のように思われたが、しかし違う。

 出口に向かって歩いている。出口が今日に設定されていたのかもしれない。

 全然気づかなかった。もう時間はなかった。いつから夢を見ているのかも、わからなかった。出ればすべてが、わかるのかもしれなかった。アキラは知っていたのかもしれない。それを察知して、通信を絶ったのかもしれなかった。



 新しい身体に、アキラは慣れてきていた。

 手持ちのキューブは、次々と流入してきた。目の前に姿を呼び起こせば、すぐに現れた。

 一つ一つの、映像を細かくチェックするときには、確かにそうした。しかし、キューブに映る人、場、空間は、すべて見たことのある、そこに居たことのあるものだった。

 キューブの数は、まるで数えられず、どんどんと、自分の中へと溜まっていった。

 キューブは、無限に溜め込まれていき、アキラに選び出されるのを、静かに待っているようだった。中には、主張の特に強いものもあり、より立体感を際立たせて、注意を引こうとするキューブもあった。アキラは、その中から三つを選んで、卓上に乗せ上げることはなかった。その三つは、勝負に勝ち、世界を生みだす。敗れれば、三つは消滅する。アキラはことあるごとに、この三つを、断続的に選ぶはめになる。こうなることはわかっていた。自分がゲームプログラマーになったのは、自分でキューブをそうさせることで、勝者としての『世界』を、生み出したかったからだ。勝負は一度だった。何度も何度も繰り返すことで、雑多な『世界』を次々と生み出しても、仕方のないことだった。アキラはその一撃ですべてを手にする、いや、すべてを失う組み合わせに、意識の焦点を合わせていったのだ。

 その一手が、自分に纏わるすべてを、終わらせることができる。記憶のすべてを、消滅させることができる。すべての人、場、空間を、無きものにすることができる。二手目は、ない。あってはならないのだ。生み出す世界は、一つでいいのだ。

 手持ちのキューブの中から、選択するしかなかった。このキューブたちはすべて、自分がかつて生み出したものなのだ。生み出し続けたものなのだ。誰もがそうして、常に三つのキューブを選び、卓上に差し出し、勝負に挑んでいるのだ。これまで見えなかっただけだった。いつしか感じるようになり、見えるようになる。自分の身体を一体化させ、毎分、毎秒生み出し続けた、今も続けている世界が、再び、次なる世界のための一要素として、ただ舞い戻ってきている。それが、今はっきりとわかる。

 終わりのないトラップにひっかかり、拒絶も許されない対局に、引っ張り出され続ける。その光景が、アキラを襲い続けた。

 しかし、アキラは、混乱を起こさず、激しい感情に振り回されることなく、ただ多量のキューブの流入を見つめていた。強制的な流入と、無意識なままに、担ぎ出される対局は、もう二度と関わることのないゲームだった。その留めを差すべく一撃を、ずっと心の底から望んでいた。そのチャンスをずっと待っていた。今すべての条件は整ったのだ。

 アキラは、ゴルドに対する感謝を心の中で伝えていた。ゴルドはすべてを見抜いていた。そのことについては、何も言ってはこなかった。依頼の理由についても、その後、どうしたらいいのかということについても。ゴルドはただ、知っていた。ゴルドは通過した人間だった。ゴルドは、最強の一手を打ったのだ。だから、ゴルドになった。

 ゴルドに接触できた今、ここにはついに、それ以上生まれ出ることのない、最後の世界を、表明するタイミングが来ていた。まだ選んではいない、三つのキューブが、連鎖反応を起こす、起こしたその世界のことを、彼は今そう呼んでいた。

 そう呼びかけていた。



 三つのキューブが、すでに浮かび上がっている。選んだわけでもないのに、この卓上には並んでいる。これでいいのだと、アキラは見つめた。三つのキューブはすべて、「場」のように見えた。そう見えただけかもしれない。「場」と「人」と「空間」それぞれから、抽出したものかもしれない。しかし、三つはみな、同じ印象だった。アキラは、その一つに焦点を絞り、キューブが映し出す映像の中に入っていくかのように、それ以外の視線が消えていくのを、静かに見つめた。

 空は一面、黄色い夕焼けのようであり、地上も宙空もすべては、黄金の粒子で散りばめられていた。場の三つのカードが反応し合い、融合していくのがわかった。

 光は、どんどんと強くなっていった。皮膚は焼かれるように、じりじりと溶け始めている。

 建物や植物だけでなく、人も溶かし、この自分も例外なく、溶かしきろうとしている世界に、アキラはいた。もうすぐだと、思った。三つの場が重なり合う刻が来る。すでに、アキラには、自分の肉体の輪郭を見ることができなかった。視覚は完全に潰されていた。

音のない、活動している気配のない無人の世界が、拡がっている。最後に残ったこの身体の感触。自分自身の、最後の拠り所が、少しずつ少しずつ、この世から存在を消していっている。

 アキラはこれ以上、ここに居ることはできないと、キューブの外へと出ようとする。自分が、キューブの一つの世界に取り込まれ、抜け出せなくなると思ったからだ。しかし、キューブの内にも、外にも、すでに、「場」のキューブは消滅していた。一つの「世界」へと変換されていた。

 勝者として、新しい「世界」を生んだのか。

 敗者として、三つの「場」のキューブが消滅したのか。

 アキラにはもう、何もわからなくなっていた。



 制作期間と題した、アトリエで下書きのスケッチだらけのキャンバスたちに、ケイロは向きあっていた。一つ一つ、輪郭を濃く加えて、色を入れていく作業もまた、ひたすら繰り返していった。数百枚にもおよぶ、作品と対峙しても、ケイロの心はまったく動揺を見せることはなかった。一枚に、どれだけの時間をかけ、終了時期はいつであって、今日はどこまで進めればいいのか。そんなことは、少しも考えなかったなと、ほとんどの作業を終えるときになって、振り返った。

 下書きをスケッチしていた時は、起きた出来事を記録しただけの、ドキュメンタリー作品のようだと思っていたのに、こうして、そのあと、筆を加えていくことで出来上がったものは、まったくジャーナリズムとはかけ離れた世界になっていた。オリジナリティ溢れる、まだ体験してはいない、現実には起こっていない出来事のように見えた。すべては夢のようだった。多重の夢の層に囲まれているようだった。その多層の夢は動きだし、それぞれが、独自の展開を見せるように、独特な動きをして、ケイロに迫ってくるように思えた。

 あっと、ケイロは大きな声を出した。本当に、それらのキャンバスが近づいてきていたのだ。どんどんと、ケイロの居場所が、圧縮して狭くなってきている。さっきまで、あれほど広々としていたこの身体の周りは、大きく一歩踏み出せば、どの方向に動いても、いずれかのキャンバスに、足をぶつけてしまいそうだった。次第に、その夢たちは、自らのキャンバスの枠を溶かし、その外側との境界を、次々となきものにしていった。

 檻の中に閉じ込めた動物が、檻を壊すことなく、外に出てきたかのようだった。キャンバスをはみ出た多重の夢たちは、次第に、ケイロに近づいてきた。そして、彼の輪郭の殻に触れるまでに、迫ってきていた。ケイロは逃げる場所がなかった。隙間は封じられ、多重の夢たちは、ケイロの体の輪郭に入り込み、彼の皮膚の中へと、侵入を始めていた。その感触は、初め、ひやりと冷たかったが、だんだんと温かみを増し、そして、感覚はなくなっていった。

 ケイロは、自分が犯されているかのように、さらに、その奇妙な異物たちが、内なる奥へと進み出でるのを、何の抵抗もできずに、されるがままになっていた。

 きっと、自分が女なら、と考えた。愛する男を、中に受け入れていく状況に、差し替えようとしていた。もっと、奥へ入れて欲しいと。私をばらばらに。壊してほしいとも。私ではない領域へと、落としてほしい。貶めていってほしい。もう二度と、浮かび上がって来ることのできない、底の世界。そこで、犯してほしいのだと。そして、私は、さらなる奥まった世界へと堕ちていく。私はいない。どこにもいない。女でもない男でもない。誰に入れたわけでも、誰に入れられたわけでもない。誰を描いたわけでもない、誰に描いてもらったわけでもない。夢でもない、現実でもない。

 それら、多重の夢は、ケイロの中で境界線を放棄し、互いに溶け合っていった。

 ここで、この場所で、それらは、一つになったのだと、ケイロは感じた。

 もう二度と、浮かび上がってはこられない、底なる世界へと堕ちていってしまったことを、ケイロは初めて、画業を通じて知ったのかもしれなかった。



 激原徹は、妻のフレイヤの存在は、ほとんど忘れて仕事に没頭していた。フレイヤを妻としたことで、彼女に対する執着心は消えた。あれほど彼女のことを考えるだけで、心は乱れ、狂っていった自分は、そこにはいなかった。あの一度の性交渉が、すべての流れを変えていた。

 彼女は、自分の元へとやってきて、婚姻にまで応じてくれた。それからというもの、フレイヤに対する異常な欲求は消え、仕事は新しい段階へと入っていった。陰西カスミとの出会いから、自ら建築工法を開発、提案することにまで、踏み込んでいった。陰西が温め持っていたアイデアを検証し、そこから激原は、自らのインスピレーションを引き出した。そして、自分の仕事に集中していくにつれて、初めは、頻繁だった陰西カスミとの打ち合わせも、次第に減っていき、いつのまにか、その存在も忘れていってしまった。

 激原は現場に出て、働くことはほとんどなくなっていた。社長自ら、作業に参加することはなくなっていた。代わりに、自らの工法を、頭の中で編むことを、日々繰り返していた。初めは、脳だけを使っていたが、次第に、複数のアイデアが絡み合い、深まっていくにつれて、この身体が、その架空の設計図の中を、闊歩するようになっていった。身体がそっくりと、移動してしまっていたのだった。激原はかつて、現場作業を、一日中していたときのような、肉体における、疲労感もまた、感じるようになっていた。そして、編み出した工法は、一度、脳の中で寝かせ、自分は一度、その空間から出て、日常へと戻り、頃合を見て取り出すために、またその空間へと入っていった。日々を、ほとんど、そういった作業に費やすようになっていた。

 激原は、会社の中で、かなり浮いた存在になっていった。実務は、元々、鳳凰口建設に古くからいる人間たちが、執り行なっていたので、何の問題もなかった。彼ら、取締役たちや、従業員たちもまた、新しい社長の在り方に、異議を唱えるものもいなかった。激原徹の打ち出す工法は、どれも斬新で、この先の未来には、確実に人間社会に必要なものと思われていたからだった。文明にとっては、誰かが突っ走り、先取りしないといけない。それが、ウチの社長であるのなら、なおさら結構なことだ。そして、実用化の目途がたち、現実に社会の中でパワーを持ち始めることは、この会社にとっても、莫大な利益をもたらすことになる。陰西カスミが、社外取締役として入ったことも、会社にとっては追い風となった。激原一人よがりの暴走ではなく、科学的な裏づけがそこに、下支えする形となったからだ。ただ、激原自身は、陰西のことはほとんど忘れ、自らの内なる幾何学模様と、常に戯れ、時にまた格闘し、身を委ね、法悦の海の中で、自らの存在をも捕らえていった。

 激原は、だんだんと、孤独な存在になっていった。

 どこからも浮いていて、誰からも通信のない、ずいぶんと、広大な敷地を一人保有しているかのようになっていった。



 見士沼祭祀の台頭は、戸川の仕事の領域を、激しく脅かしていった。

 もし、今回の広告の対立で負けるようなことになれば、当然、オセロゲームのように、これまでの仕事の、範囲の駒を全部、見士沼色に、ひっくり返されることになる。広告モデルとは、儚いものだと、戸川は思った。一つの事件、事故、スキャンダル、戦争がすべての色を、一瞬で変えてしまうのだ。そこには戸川兼という無色透明な存在が、また別の透明な存在に、とって変わられるだけだった。いずれも、そういった入れ物が、欲しがられているだけだった。入れ物としての、存在価値。戸川は、非のない、こうしたスキャンダルに、巻き込まれる形で、モデルとしての存在価値を、急激に下落させていこうとしていた。

 見士沼祭祀を見ていると、かつて、自分がモデルとして世に出て、世間の注目を、総なめにして、仕事の依頼が殺到していた光景と、ダブって見えてきた。こんなことの繰り返しなのだと思った。見士沼は、今度の勝利を期に、最大の無色の入れ物として、今後は重宝がられていくことだろう。

 ふと、戸川は、その見士沼祭祀が、本当は戸川であって、この自分はまた、別の存在なのではないかと急に思い始めていた。

 今の自分が、戸川兼のようにはとても感じない。何か、大きなショックが起こり、戸川という入れ物に別の男が・・・。戸川は、締め出された自らの体に戻ることができず、ただ、見士沼祭祀を見つめていることしかできなくなっている・・・。そんなふうにも思えてきた。



 グリフェニクス社との、広告を巡る大論争からは、すでに見士沼祭祀は抜け出していた。その渦中にいた日からは、次第に遠のき、今ではメラニ製薬もグリフェニクス社も広告をとりやめ、両社の闘争もまた、成りを潜めていた。闘いの部隊は、法廷に移ると思いきや、何故か、そういった様子は見せずに、表向きは、グリフェニクス本社が一方的にやられた形となって、幕は引かれていた。火種は、グリフェニクス社でもメラニ製薬でもない別のところへと複雑に流れ、今では別の地をも巻き込んだ、イデオロギーのぶつかり合いによる政治闘争。経済戦争。長く蓄積してきた歴史の変遷による、鬱憤の爆発。グリフェニクス、メラニの様々な糸が、さらなる無数の経路を辿り、止め処なく、混乱は広がって、凶暴さを増していったのだった。金をもうけたい連中が群がり、無価値さに嘆き苦しむ人々たちが、そのすべてを捧げるべく、混乱に自ら入り、激しい戦乱は、目的を持つ一部の人間と、無目的な多数の人間たちが、群がった、終わりのない叩きあい、潰しあいへと、連鎖していってしまっていた。その様子を見て、そして、その一つの小さなスイッチを押したのが、自分でもあったことを自覚しながら、見士沼祭祀は、自らの施術院に閉じこもり、自らの心を鎮めていった。周囲の空気が、荒れれば荒れるほど、見士沼祭祀の心は、自らの中心へと向かって、焦点が定まっていくようでもあった。この自分だけは、巻き込まれてしまってはいけない。たとえ、誰が侵入してきて邪魔しようとも、その挑発に、乗ってしまってはいけない。試されているのだと、祭祀は思った。今度のことも、そうだった。見士沼祭祀は、事の真意を見抜いていたかのように、自らを振舞わせた。カイラーサナータを司る、主である自覚を、強くもった。カイラーサナータの完成は、すべて、この自分にかかっていた。どこを探しても、なかったじゃないか。誰も作ってくれなかったじゃないか。ここにも、そこにも、あそこにだって、そんなものは、どこにもなかったじゃないか。夢の中だった。幻影すら、その素性を、はっきりさせようとはしなかった。誰も、当てにはならなかった。あのくだらない破壊の闘い、再び、破壊を起こすための、束の間のくだらない創造に、身を捧げる連中たち・・・。あの、エネルギーがあるのなら、と見士沼祭祀は思う。そのほんのわずかでも、カイラーサナータに力を注げばいいのに。そうすれば、あっという間に、カイラーサナータは建造されるのに。一つや二つではない。何百、何千と。望むだけ、勃興され続けるのに。何故、実現しない?誰も望んでいないのか?見士沼祭祀は思う。この自分がやらないといけない。カイラーサナータは、この自分一人で建築することが可能だ。この一人だからこそ、完成する。完結できるのだ。そう自覚すればするほど、この身体は、カイラーサナータの壁、外枠の木、石の素材の中へと進み出でて、神経細胞のように、植物の茎のように、成長していき、あっというまに、カイラーサナータの全体と一つとなるような気がしていった。

 葉脈を通じて広がる意識は、止むことなく、巨大なカイラーサナータの構造を、強固にし続けていく。もうそれ以上、エネルギーは、必要としないという状態にまで、容赦なく続いていく。

 この世の、あらゆる闘争の種が、何故か結びつき、無意味で、理不尽な形態となって、奇怪で、無謀な巨大生物を、次々生んでいき、空間を埋めつくしていった。

 吐き出される臭気が、街を黒く染め、灰色の雨を降らせる。カイラーサナータもまた、その雨から、逃れる術はなかった。木も石もプラスチックもアスファルトも、その雨による溶解から、免れる物質はない。世界中が溶け始めていた。物質と物質の境目は、不透明になり、輪郭のはっきりしていない水彩画に、さらに、水滴を落としていくかのように世界は溶け、混ざり合い、醜い臭気を自ら、吐き出すようになる。その中で、カイラーサナータは、建ち続けている。

 建築中という表示を示した看板、建築現場を覆った白いシート。重機の放置。すべては、取り除かれ、灰色の雨の中、むき出しのカイラーサナータの姿が、そこにはあった。雨に打たれ、ただその雨に気づき、打たれ続けるカイラーサナータであった。物質という物質を、溶かし続ける容赦のない雨。見士沼祭祀は、この伽藍堂の広大な部屋の中、天高く、伸び続ける、終わりのない、天井のカイラーサナータの中で、雨に濡れ続ける自分と、一粒も触れてはいない自分とを、共に保ち続けているようだった。



 水原永輝は、二度目の離婚を、決意した。

 妻の元に、離婚届を送った。彼女の研究所だった。そこに大半の時間、居ることはわかっていた。郵便物には、まるで注意を払っていないだろうが、彼女の周りにいる人間が誰か気づいてくれればと思った。水原はもう二度と、女と婚姻することはないと思った。何度だって同じことが繰り返される。元の妻のことを思い出す。そういえば、再婚を決めたことを報告すると、元妻からは、復縁をせまる訪問も電話も来なくなった。ぴたりと止まり、水原も彼女のことを忘れていった。陰西カスミの事も、そうして忘れていくのだろう。グリフェニクス関連の騒ぎで、水原の心は疲弊していた。こういった時のために、家族やパートナーというのは、居るべきなのだろうか。こうなってみて初めて、水原は自分がそういった目的で、人と親しく付き合っていた、生活しようとしていたことに、気づいたのだった。騒ぎに対して、放っておけと、鳳凰口本人に言われ、そもそもどんな手を打てば、おさまるのかもわかってなかったので、荒れ狂う心と共に、その嵐は過ぎ去るのを見ているだけだった。膨張し、拡大して、社会全体を巻き込む異常事態へと、発展してしまったが、逆に、自分に関わる周囲からは、そのような元凶が去ったことに、水原は胸を撫で下ろしていた。

 こんなこともまた、別の事で再燃し、いつまでも自分の身に起こり続けるのだ。

 その度に脅かされ、穏やかな日常は、あっけなく覆される。そしてその恐怖に、耐えられず、女を求め、妻を求め、友達を、ビジネスパートナーを、懇願してしまう・・・。その繰り返しだった。

 もう、たくさんだった。

 水原はグリフェニクスの事業からは、身を引き、ケイロミュージアムの運営、プロデュースからも、撤収することを決めた。

 女性を頼らず、家庭を持つことも、放棄する。親友も作らず、誰かとビジネスをすることもない。水原は、ただ一人、この世界に存在することを決める。いつまで続くかわからない。いつまでそうする必要があるのかもわからない。ただ、これまでの自分では、これからの世界では、まったく通用はしない。そう思ったときだった。水原の周囲の空気が、一変した。

 時間が止まったかのように感じた。物の動きが植物のように、すべてが静止して・・・。

 そのなか、唯一、動きを伴っているのが、自分だけのような・・・。急に『世界』から、この自分だけが、はじき出されてしまったような。動くことはできる。動くことができるからこそ、自分が『世界』から外れてしまい、別の空気の中で、浮遊するように移動している・・・。

 太陽の光だろうか。空から差し込む光が、いつもよりも強いような気がした。

 水原の頭上を目がけて、光は焦点を絞り、降り注いでいるかのように感じた。

 周りの風景はぼやけ、光の中にさらされている自分だけがいる。初めて自分の外側に、さらけ出されていることを、理不尽に思った。絶対に見せてはいけない。『世界』に反映されてはいけない。隠し続けなければいけない、不浄な醜悪さを、陽の下で、丸裸にされているようであった。

 ここで、今度の騒動の発端である、戸川と見士沼二人の存在が、急激に蘇ってきた。

 二人は、この世界で、さらけ出されていた。一人は、存在をさらけだされることを職業にまでしていた。見世物としての。戸川の輪郭が、光の中で黒く浮き出してきていた。戸川は話かけてくる。俺のようになるなよと。俺はけっして『世界』に自分を表現していたわけではなかった。君よりも、心は閉ざされていたんだ。実際。どうしたら、『世界』に晒け出されるることがなくなるか。暴き出されないかを、考えた、その結果が、これだったのだ。こうして、誰か別の人間の思惑に、それも、複数、多ければ多い方がいいと。思考のカオスの中に、体を貸し続けていれば、俺が誰であるのか。『世界』に表現されることなく、生きていける。俺は死んでいる。戸川は、水原に語り続けた。死んだまま生きたかったのだから。望みは叶えられている。一度、徹底して、この欲求を実現したかった。もういい。いいんだ。十分だ。解放させたいんだ。どうやればいいのか、わからないが、これまでしてきたことをすべて、解除したいんだ。逆に、向かっていき、辿っていきたいんだ。お前なら、わかってくれるよな。なっ。そうだろ、水原。

 水原には、戸川がそう語りかけてきているような気がした。



「子供のことは、ごめんなさい」

 最後に、友紀はそう言って微笑み、目を閉じた。呼吸は止まり、宙空の王宮において、動きが全て止まったかのように、鳳凰口には思えた。友紀とはこれからも、生涯を共にすることに疑いはなかった。本当に、突然のことだった。昨晩、鳳凰口はGIAで、一週間ぶりに王宮へと帰った。友紀の顔色は悪く、出迎えに玄関に来るのも、やっとな感じだった。三日前から、体調がすぐれなくてと、彼女は言った。

 すぐにベッドに横にさせ、額の手を開いた。熱はないようだった。食欲もないと言う。

 最初、気分はすぐれなかったようだが、一晩寝ると、すぐに良くなったのだという。

「ごめんな、こんな時に留守にして」

「あなたのせいじゃないわ」

「風邪なのかな」

「大丈夫。あと何日かゆっくりしたら、それで終わると思うから」

 そのときは、まさか、そういう意味には、捉えることが鳳凰口にはできなかった。

 医者を呼ぼうか。地上にGIAで乗せて病院に連れていこうか。何度訊いても、ただ休んでいればよくなるのだと、友紀は繰りかえした。

 そして三日後の朝、鳳凰口は目が醒めると、横にいた友紀は言った。

「子供のことは、ごめんね」と。

 彼女は、微笑み、瞼を閉じていった。夢の中の出来事のようだった。

 しかし、その意味を、昌彦はすぐに理解してしまった。友紀の顔からは、三日前に見たあの蒼ざめ顔は消え、日に日に血の気を取り戻し、今はもう完全に体調は戻っているかのように見えた。彼女にはわかっていたのだろうか。この日が来ることを。

 彼女は、子供のこと以外に、伝えることはなかったのだろうか。鳳凰口もまた、この先、彼女と子供をもつ日のことを、自然に考えていた。今すぐ欲しいとは思わなかったし、できるとも思わなかった。こんな結末を予想していたのなら、意識も変わっていたに違いない。しかし鳳凰口は、それ以上、子供のことを考えるのはやめた。まだ結婚して、引っ越してから、六ヶ月しか経っていなかったのだ。

 鳳凰口は友紀を残し、ベッドを出た。本当に疑いようがなかった。彼女は死んでいるのだ。一週間前に会ったときの、様子にさかのぼり、さらには一ヶ月、二ヶ月、半年前へとさかのぼっていった。彼女と出会った日まで、さかのぼっていった。出会う前の、日々へと、さかのぼっていった。鳳凰口は、可能なかぎり、自分のこれまでの人生を、さかのぼっていった。

 まるで、自分の生涯もまた、ここで途切れてしまったかのように。

 幼い日を通過し、さらに、自分が生まれた時に、産まれ出ようとしていた時に、・・・。

 受胎したときの・・・。そこに、再び、「子供のことはごめんなさい」という、友紀のほんの少し前の現実が、繰り返しかぶさってくる。友紀はまだ、生きているかのようだった。

 今にも、その幻影が、今の友紀の肉体と重なり合い、起き上がってくるようであった。「子供のこと・・・」

 その子供に、鳳凰口昌彦は今なっていた。友紀が妊娠し、その受精のときのことを、思う。それから受胎へ。鳳凰口は、友紀の子宮の中へと入っていくようであった。友紀は、今、妊婦となった。妊婦として、新たな命を宿し、眠りについているのだ。

 彼女は、これから、昌彦を産むのだと、鳳凰口は真剣にそう思うようになった。気持ちが動揺していたわけではなかった。鳳凰口はさらにさらに、過去へと遡っていった。友紀と二人、貧しい農民生活をしている様子が蘇ってくる。子供は二人いた。大丈夫だよと、昌彦は声に出した。子供はちゃんといるから。それにこの俺を、産むことだってあるんだ。謝る必要なんか全然ない。そこで突然、鳳凰口の意識は、この先へと急転した。彼女を、ここに残し、GIAで一人、地上へと戻る自分の姿が、眼に映っていた。ふと、一週間前に、彼女も地上に下ろしていれば・・・、こんなことにはならなかったのかもしれない。この俺も、また、中空に六ヶ月以上もいた。それ以上の滞在は、身体に異常をきたしてしまうのだ。ほんのぎりぎりの所で、俺だけが、回避するための行動をとっていた。友紀が再び、笑ったような気がした。わかっていたのか?全部わかっていたのか?そんな。俺だけが、何も知らなかったなんて。どうして。どうして。夫婦だったじゃないか!どうして、無言だったんだ?それとも・・・。ちゃんと伝えていた?気づかなかったのか?

 友紀!いつから知ってたんだ!ここに移居するときにか?それとも、出会ったときに・・、すでに?

 友紀は、微笑み続けた。その表情は、まるで、最初から出会うときをも、悟っていたかのような、そんな悪戯なものだった。まるで、私の役目はすべて、終わったかのような。そんな安堵の念もまた、仄かに香っていた。

 王宮の木々や花々も、この日のために準備され、育っていったかのような。

 すべては了解の上で、時を刻んでいったかのような・・・。

 この王宮こそが、友紀の永遠の眠りに相応しいと思った。そして、鳳凰口は一人、そのまま静かに、地上へと戻ることを決めたのだった。



 GIAで、王宮を後にするとき、鳳凰口は、もう何度も、この光景を繰り返していることに気づいた。

 友紀は何度でも現れてきた。一度死すとも、次の時代には、華麗に復活をとげている。

 この自分もまた、そうなのだと、鳳凰口は思う。友紀を一人、王宮に残したのも、初めてではなかった。前の夜、二人は激しく交わっていた。本当は深い安らぎをそこに求めたかった。しかしあの王宮では、それは不可能なことだった。家臣の誰をも、信用することができず、常に彼らに殺されるのではないかという恐怖の中で生きていた。友紀一人だけを信頼していた。最後の交わりをする前までは、そう信じていた。それもまた、偽りだということに気づき、彼は最後になるかもしれない交わりを、迫りくる死を打ち消すための手段として使ってしまった。最後の安らぎをも、そうして放棄してしまった。

 彼は王宮を出て、全幅の信頼を抱けない家臣たちと共に、隣国との戦いへと出ていった。

「子供のこと、ごめんな」

 その言葉は、男の方の口から出ていた。

 友紀は、無言で頷き、最後は何とか笑顔を作っていた。彼女は、妊娠六ヶ月目であった。

 友紀はすでに、この男が戦場で亡くなることを知っているかのようだった。

 真の自分を知るまでは・・・。みぞの奥から、妙な信号が出てくる。真の自分を、知るまでは・・・知るまでは・・・知るまでは・・・。GIAは、グリフェニクス本社を、目指し、下降を続けていた。真の自分を知るまでは・・・。声が、聞こえてきたわけでもなかった。決して、戻るまい・・・。この世界に・・・。この地上に・・・、地上が織り成す因果の輪廻に・・・。

 あの男か?あの男が嘆いているのか?

 戦地に、降り立ちたくない、あの男の叫びなのか?

 王宮で、友紀と平穏に暮らしたかった、あの男の声なのか?

 鳳凰口は、中空の二人以外、誰もいない王宮を、思い出していた。攻めてくる敵もいなければ、裏切りをかけてくる味方の存在もいない。天上の二人だけの世界・・・。友紀一人を置いてきた中空の・・・。決して、戻るまいと、強い決意のあらわれを感じる。戻ってはいけないのか?グリフェニクス本社に。

 グリフェニクスの事業の拡がる、この地上に。

 真の自分?それは、何なのだ?友紀が息を引きとる、最期の横顔が、再び目の前に現れてくる。

 俺は、戻らなければいけない。もう一人なんだ。友紀はいない。友紀もまた一人きりだ。あそこはもう、友紀一人だけの家となった。主は二人もいらない。友紀の永遠の住まいとなった。僕は近づけない。二度と近づけない。まだ、生の世界に執着がある。けれども・・・。みぞおちで鳴り響く、叫びは、祈りへと変わっていくようであった。

 忘れないで・・・。私のことじゃない。あなたのことよ。

 あなたが、誰であるのかということを。それを忘れないでほしいの。思い出すまでは・・・。真の自分を思いだすまでは・・・。

 鳳凰口は、この世に生まれ出てくる前の子宮の中に、何故かいるような気がした。

 GIAが子宮そのもののように感じられたからだった。自動操縦による、何の働きかけもしなくていい安心感。目的地には必ず着き、それまでは、安らかに眠ることを、可能にする、この空調。ソファー仕立ての座席。聞こえはしないが、しかし、流れている音源。出発直後には、点滅していたモニター画面の広がりは、消え、灯りも消え、視界の閉ざされた暗闇の中、重力を感じさせない浮遊を、ずっと、続けている。

 ここに居たい。生まれ出るその刻を、最大限に、引き伸ばしたい。

 鳳凰口は、脳裏に、次々と現れ出てくる情景を、ただ映画のフィルムのように見ながら、来たる出奔までの安らぎを味わいつくそうとした。

 地上にそっと、やさしくグランディングしたあとで、静かに灯りがつき、そっと、眠りから起こされるものだという夢を、現実は、見事に破り出てしまうことになった。


 鳳凰口は、心の準備を、ずたずたに破壊され、外の世界へと、放り出された。


 GIAは、大音量のアラームを鳴らし続けた。予定どおりの着陸ではなかったのだ。

 GIAからは、すでに火が出ていた。放り出されてよかった。GIAはあっというまに、火に包まれ、鳳凰口の目の前で、派手なる爆発を見せた。

 鳳凰口の思考は、完全に止まってしまっていた。

 何が起きたのか、わからなかった。自分が、どんな状況にいるのかも、そもそも、どこからどこに移動していたのかも。何のために、これに乗っていたのかも。

 真の自分を知るまでは・・・。

 鳳凰口は、地上に足をつけ、立っていた。燃え盛る火だけを見つめていた。

 跡形なきGIAの幻影をまた、静かに消えていった。

 完全なる記憶喪失状態に陥った、鳳凰口だったが、あんなにも激しく燃え盛る火が消える頃には、すでに、自分が誰であるのかを、取り戻していた。

「友紀・・・。さようなら」

 鳳凰口の口から、零れ出た言葉だった。



 水原は、地上に取り残された、唯一の人間になったかのように、ただ空を見上げ、太陽の光が額に反射している様子を、他人事のように見ていた。すべてはどうでもよくなっていた。

 街からは、人々が消え、道路は消え、更地になり、植物が生え、土は凹凸を激しくし、広大で瑞々しい荒れた土地へと、遡っていった。その土地に、水原は初めて、降りたった人間のように思えてきた。ふと、空には、一つの天体が見えたような気がした。ぼんやりと、円い輪郭が浮かんでいた。次第に、円は、輪郭を崩していく。回転しながら、潰れていき、点となって、その存在を彼方へと消す。そこに、その場所に、この地上にあったはずの、すべてが吸い込まれていくようであった。水原の知っている人間もまた、一人、一人と吸い込まれていくようだった。彼らもまた、重力に反して、次々と、空へと舞い上がっていくようだった。

 この荒涼とした風景になる前の、一番近い過去の幻影を、水原は思い出したかのように見つめていた。そして、すべてが中空を辿り、彼方の出入り口を通過した時に、水原は自らの身体もまた、一瞬浮き上がる感覚が、下半部に広がったことを知った。

 まさかとは思った。すべてを見守り、最後に、この自分もまた、この世界を去ろうとしているのだろうか。グランドゼロイチが、空へと移動したかのようだった。ゼロ湖の構想が、頭の中に浮かび、意味もわからず、動き出した一年前の水原が、ここにはいた。

 鳳凰口建設に接触を図り、昌彦の親父さんと、その湖を創造した。

 その更地は、しばらくのあいだ、用途を見い出すことなく、ただただ空地であり続けた。

 水原もそのことを忘れていた。思い出したときには、ミュージアム建設の構想を孕んだ時期でもあった。ほんの半年ほどの、放置だったはずの、ゼロ湖だったが、感覚としては、数十年、いや、数百年、それ以上に渡って、人々から注意を向けられていないような、忘れ去られたような場所と、なっていた。

 もう、二度と、誰にも注目されはしない。何の用途もない、それ以上に人々が近づかない、そばによることさえ、忌避するかのような、そんな忌まわしい場所へと、発展を遂げているかのようだった。

 一度、そういった流れが作り出されると、何世代にも渡って、そうした記憶は、蓄積されていく。思いもよらぬ、負の、そして、魔のエネルギーが、充填されていく。水原もまた、いや、水原が特に、あの場所を、忌み嫌うようになっていった。今思えば、きっと、そのあたりからだろうと水原は回想した。そのあたりから、自分は、道を外れ始め、自身を見失っていってしまったのだ。心の拠り所を失い、帰るべき場所を失っていった。始まりの場所を失い、彼らとも深く繫がりあう空間を、失ってしまった。地上全部が、ゼロ湖のようになってしまった今、そのことに気づいた。


 水原の身体は、重みを失い、自分が浮いているのか。まだそうでないのかも、わからなくなっていった。自分の身体が一体どこまで、その輪郭を保有しているのか。水原はいつもの視覚を完全に失っていた。自分の身体を見ることが、うまくできなくなっていた。

 ただ、この広い、どこまでも続く風景と、自分が、一致しているかのようであった。

 あの空に向かって、上昇しているのだけはわかった。

 あの出入り口から、この自分は、最後の移動をはかるのだろう。

 鳳凰口も激原も、ケイロも、他の人たちも、みな、すでに、あの向こう側に行っているのかもしれなかった。元妻も、その前の妻も、みな。これから知り合う人たちも、みな。

 すべての再会を祝した世界が、手を広げ、待っているのかもしれなかった。

 水原はすでに、上空高く舞い上がり、そこから地上を睥睨していた。

 そこには、大小さまざまな、灰色の建物が聳え立ち、まっすぐな道や、曲がりくねった道が敷かれ、慌しく動く車や、人々と思われる物体が、存在しているはずだった。

 しかし、それらは、すべて消えてなくなっていた。

 中心には、あまりに異質な雰囲気の大きな塊が、大地から突き出るように、あるいは、大地へと激しく落下したかのように、ただ存在しているのがわかった。




 その場所に気がつき、ゼロ湖という名で、何かを始めた男は、初めは何の自覚もないまま、その場所に執着し、それに関わる物質、人間たちを集め始めた。

 そして、男は、集めた物質、人間たち、エネルギーを置き去りにして、自らは退き、それまでの延長線上の、生活へと、戻っていってしまった。

 ゼロ湖に関わる物質、人間、エネルギーは、その後、一進一退を繰り返し、また時に爆発的な飛躍をしながら、着々と、その場を次なる世界の中心地とするために、動いていった。

 現実にその場から、建物も、創造されることとなった。グリフェニクス本社ビルは、まさに、その場所だった。ミュージアムの計画もまた、打ち出された。ミュージアムは、その後、グリフェニクス本社ビルを引き継ぐ形で、そこに聳え立つ予定であった。かつては、マウント・Eという名前で、人工の山が作られた、場所でもあった。マウント・Eが、人間にとっては用済みとなり、かつて、人間の身体や意識にとって、良き効果が期待できていた現実からは一転してしまってからは、その廃棄物と化した山を潰し、更地にしたこともあった。しかし、それにもかかわらず、やはり、この土地に、無関心ではいられない人間社会、文明世界であった。


 マウント・Eは、人々の祈りの対象となった神の化身でもあり、太陽との位置関係からの、影による暦の創造。マウント・Eの周りで行われる祭りは、年に三度の、定期的なものから、思いつきで突然、催される不定期なもの、盛んに人々の心を高揚させることを目的としたものが、執り行なわれた。

 また、ある時は、科学施設が作られ、エネルギーの急激な増幅施設として、文明の中心を担う場所ともなった。時代によって、人間社会の中心を担うものが、変化することで、その象徴となる中心物もまた、表情を、表現を、変えた。装いもまた変わった。もちろん、この一帯を、広大に治めた領主の住居、城が建造された記録もある。あるいは、ゼロ湖をさらに、深く抉り取り、深い窪みをつくることで、『底なる神殿』と、人々に呼ばせた時期もあった。怒りや哀しみ、抑圧した存在への理不尽さを、叫びに来る人たち。彼らの心の拠り所となった時期もあった。


 土地には、無数の記憶が蓄積し、その許容量に耐えられなくなったとき、土地はそれまで溜め込まれたエネルギーを、一気に地上へと還元する。一瞬で、文明を吹き飛ばしたこともあれば、じわりじわりと流れだし、次第に加速していくことで、天地の自然現象をも増幅させたこともあった。目に見えない無臭の物質が、街を、大陸を覆い、生物の神経に強烈にダメージを与え続けることもあった。

 この場所は、そういった鏡のような役目を、常に、果たしていったのだった。果たし終わることはなかった。そこには、何かが、いつも映し出され、そして、映し出

されたすべての存在を消すため、報復が、繰り返されることとなった。

 今は、何の姿も映されてはいない。束の間の静けさだけが、漂っている。

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ザマスターオブザヘルメス4 結露の飛翔 @jealoussica16

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