どすこいをする20の理由

クロロニー

20のどすこい

どすこい×1 益荒波ますらなみ

 益荒波はその名に反して人一倍水を恐れていた。彼の水への恐怖は常軌を逸しており、水を飲むときは目を瞑って飲まなければすぐに吐き戻してしまうほどだった。もっともそれは彼の幼少期の経験を考えると致し方のないことだろう。その大きすぎる体格ゆえ、物心がついた頃には家の浴槽に入ることが出来なくなっていたし、歩くことが嫌いだったからわざわざ銭湯に行ったりすることもなく、常にシャワーだけで済ませていた。彼は水に浮くというのがどういう感覚かを知ることなく育ってしまった。そして彼は初めてのプールの授業で、その体格ゆえに深く深く沈んでいった。彼が教師三人によって陸に引き揚げられたのは三分も経ってからだった。幸いにも命に別状はなかったが、水に対する異常なまでの恐怖を植え付けられたのは間違いなかった。

 そして今、彼は一人の女性が水の中に沈み込んでいくのを目にした。


どすこい×2 鳴門の里なるとのさと

 鳴門の里は物心つく前に父親を、高校生の頃に母親を亡くしていた。母親の死因は過労死だった。記憶の中の母親はいつも会社に行くための化粧をし、黒いスーツを身に纏い、ハンドバッグを大慌てで握りしめ、ヒール付きの靴を履いて会社へ出かけていた。母親らしい記憶は何一つ残っていないが、女手一つで自分をこれほどまで大きく育ててくれた、自慢の母だった。しかし母は突然この世からいなくなった。

 そして今、遠くで橋の上から飛び降りるスーツ姿の女性に、自分の母親を重ね合わせている。


どすこい×3 関学せきまなぶ

 小学生の頃の関学は非常に身体の小さな少年だった。全校集会では毎年最前列に割り当てられ、前ならえも腰に手を当てる姿勢しかやったことがなかった。母から毎日毎日食べきれない量のご飯を食べさせられていたのにも関わらず、小学生のうちに大きくなることはなかった。六年生の頃には自分が周りの子供に比べて一回り小さいことに羞恥心を覚えるほどになっていたし、そして力で敵わないが故にいじめのターゲットになりやすかった。

 しかしクラスには関学よりも更に小さい子がいた。それが佳奈子だった。校長先生の退屈で長い話を聞き流しながら、関学は隣でぼーっとしてる佳奈子を盗み見るのが好きだった。それが関学にとって最初で最後の恋だった。

 そして今、橋の上に立つ女性の顔に佳奈子の面影を見出した。


どすこい×4 数派亜満すうぱあまん

 数派亜満には許せないことが多かった。きちんとしていないことが許せない。あるべきところになければ許せない。中途半端なことが許せない。自分を誤魔化そうとする怠惰さが何よりも一番許せない。彼ほど徹底的に稽古を積むものは、蛙達あだち部屋を見渡しても一人もいないであろう。そんな彼が橋の上の、今にも飛び込もうとしている女性を目にして怒りに駆られるのも当然だろう。何もかも諦めて中途半端に終わらせてしまうなんて、彼にはもってのほかだからだ。

 そして今、女の身体が水しぶきを上げ、数派亜満は走り出した。


どすこい×5 花華かか

 花華はとにかく可愛いものが好きだった。小さいころ『男らしくありなさい』と厳しく躾けられた反動だからだろうか。親元を離れてからというもの、日常のひと時に可愛いものを見出すのが習慣になっていた。相撲は丸々とした可愛さの中に秘めた獰猛さを解放し、より純粋で媚びない可愛さを宿すための儀式なのだというのが彼の密かな持論だ。もっとも、稽古の苦しみの中ではそんな考えなど頭の片隅ですら掠りはしないが。

 とにかく彼は休憩時間のたびに、可愛いものを求め外へ目を向けるのだった。

 そして今、濃い目の可愛らしい化粧を施された女が、その手から柵を離したのが目に映った。


どすこい×6 殿引とのびき

 殿引は数派亜満に惚れていた。芯の通った彼の張り手をその身に受けたことがきっかけだったのかもしれない。あるいは、その凛々しい瞳で初めて見合った時のことがきっかけだったのかもしれない。いずれにせよ彼のその徹底した男らしさとストイックな姿に彼は憧れ、そして惚れた。いや、惚れこんだ、と言うべきかもしれない。愛していた、とさえ言える。歳も序列も数派亜満より上である殿引は、ちゃんこ鍋の時間になると常に数派亜満のことを気にかけ、彼がより大きな体格を作り上げれるように沢山の具材を分け与えていた。そのおかげで数派亜満の日頃の食事量は他の誰よりも多くなっていた。

 彼の喰いっぷりを盗み見るのも殿引の幸福な時間のうちの一つだ。――いや、盗み見るのは決してその喰いっぷりだけに限らない。余裕さえあればいつでも目で数派亜満のことを追っていた。そしてこの休憩時間中も、常に数派亜満のことを――しかし決して気取られないように――盗み見ていた。

 そして今、数派亜満が走り出した。殿引もそれを追って走り出す。殿引の目に女の姿は欠片さえ映っていなかった。


どすこい×7 木魂志年こだましねん

 木魂志年の飼っていた猫は三か月前に死んだ。年末で実家に帰り、たまの休みを満喫している最中のことだった。家の中が寒かったのか木魂志年の部屋からふらっといなくなり、そして次に見つかった時にはもう――。

 ミヨちゃん、享年4歳。生まれたばかりの子猫として母親がご近所さんから授かった時から四六時中可愛がり、部屋の中にあるあらゆるものをその爪で傷つけられても、拗ねるどころかむしろその元気さに驚き喜ぶ程だった。そして木魂志年が蛙達部屋に入門した半年前まで常に寄り添って生きてきたのだった。

 木魂志年が見つけた時、ミヨちゃんは熱々のお湯を張った浴槽の中で、まるでノビたボクサーのように浮かんでいた。

 そして今、木魂志年は水に浮かぶ女性にミヨちゃんの姿を重ね合わせていた。


どすこい×8 千矢風ちやかぜ

 千矢風は歩道を全力疾走していた。集合時間に間に合うか間に合わないかの瀬戸際。休憩の時間を使って自主練でジョギングをしていたのだが、思っていたより遠くに来てしまっていたせいで普通にジョギングしていたのでは間に合わない時間になってしまっていた。千矢風は、持久走は好きだが短距離走は大の苦手だった。しかも距離だけが中距離走となれば尚更である。しかし遅れてしまうことの恐怖の方が強く、めげずにひたすら走り続けた。序列が上の人はとにかく怖いのだ。

 さて、千矢風は相撲部屋近くの橋に差し掛かり、ようやく少しの余裕が生まれてきた。この分なら、多少速度を落としてもきっと間に合うだろう。そしてその時初めて、橋の欄干の外側に一人のスーツを着た女が立っているのに気が付いた。千矢風からは1メートルも離れていなかった。『危ないことをするもんだな』そう思った瞬間、千矢風は派手に転んだ。続いてひと際大きい水飛沫の音が響き渡った。千矢風が痛みに悶えながら顔を上げた時には、女の姿はもうそこになかった。

 ――もしかして、転んだ拍子に手がぶつかって、しまったのか⁉

 そして今、千矢風は慌てて橋を駆け下りた。


どすこい×9 弩根性蛙どこんじょうがえる

 弩根性蛙は生粋のいじめっ子だ。しかし彼には自分がそうである自覚がない。彼に悪気はなく、それどころか彼の行ういじめは全て良かれと思ってやっていることであった。そしてより悪いことに、彼は知人の死をある程度悲しむくらいのを持ち合わせていた。つまり、もっとも一般的で最もタチの悪くもっとも人を追い込みやすいいじめっ子だ。実際、彼が元いた相撲部屋では彼の可愛がりにより一人の力士が水を張ったちゃんこ鍋に顔を突っ込んで自殺していた。弩根性蛙はその力士の思惑通り、ひどく心を痛めた。彼は通常通りにその死を悲しみ、そしてそれは彼を変えるには至らなかった。そもそも自分が原因とすら思っていなかった。

 彼は変わらないまま蛙達部屋に来たものの、しかし記憶にこびり付いた染みのように、その自殺の光景を忘れることが出来なかった。

 そして今、弩根性蛙の視界には水面に顔を沈めた女性の姿が映っている。


どすこい×10 結城源基ゆうきげんき

 結城源基は弩根性蛙からのを受けていた。序列が上の人からの指導は絶対である。たとえ、周りは絶対的なものだと認識する。最終的に、指導を受ける本人も絶対的なものであると認識する。

 結城源基は人一倍トレーニングをさせられていた。稽古をつけてもらっているのではなく、あくまで自分一人で黙々と。しかしそれは自主性によってなされるトレーニングではないので、自主練ではない。

 朝と昼と夕の三回行われるトレーニングの時間になると、結城源基は弩根性蛙から倍の量のトレーニングを指示される。理由は『体幹からなってないから』だそうだが、結城源基にはそれが具体的にどういうことを指しているのかが実感として理解できない。しかし指示されたからにはやらなければいけない。当然トレーニングが終わるまで他人の倍の時間がかかる。他人がぶつかり稽古に移っている間も自分は道場の隅で、あるいは道場から追い出されて一人で黙々と続ける。それが本当に必要なのかわからないまま。

 そしてトレーニングが終わる時には稽古は終わっている。ちゃんこ鍋も終わっていることがしばしばだ。そういう時は親方に「どこ行ってたんだ。もうちゃんこ終わったぞ」と怒られながらおにぎりを恵んでもらう。おにぎりを食べている時ほど、情けなくなる時間はなかった。結城源基は相撲をもうやめてしまいたいという気持ちでいっぱいだった。しかしそれでも辞めなかったのは、自信がなかったからだ。どこか遠いところへ行ったところで、同じことを繰り返すだけかもしれない。今現状誰の役に立っていない、練習相手にすらなっていない、それどころか場所を取っている分他人の邪魔をしている自分が、どこか他の場所で誰かの役に立てるだなんて到底思えるはずもなかった。

 ここから抜け出す、ただそれだけのために誰かの役に立ちたいと願っていた。

 そして今、結城源基は水面でもがく女性の姿を目撃した。


どすこい×11 奉行之宮ぶぎょうのみや

 奉行之宮は蛙達部屋の新入りであり、ちゃんこ鍋係である。蛙達部屋のちゃんこ鍋係は20人分の食材の買い出しに始まり、調理、後片付け全てを担う係であり、力士20人分なので結構な重労働である。もっとも、基本的に具材の量とかも上15人にしか配慮しないため実質力士15人分で済むわけだが。ともあれ毎日体重2桁台に激ヤセしそうなくらい働いているのにも関わらず、この仕事はあまり感謝されることがない。序列上の方の人はそうであって当然と言わんばかりであるし、下の方の人はそもそもまともにちゃんこにありつけないため、恨みこそすれ感謝することがない。しかし奉行之宮は誰かに感謝されたかった。自分の貢献を誰かに顧みて欲しかった。

 そして今、橋の上にいる異常に痩せ細ったスーツ姿の女性を見て、あの人はちゃんこを食べる時に感謝しそうだな、と奉行之宮は思った。


どすこい×12 暖砲やんぱお

 世間から見た暖砲には弱点がほとんどないように思われがちだが、彼は異常なほど寒がりであり、大相撲ではそれが致命的になりうると理解しるものの、それを克服できずにいた。

 というのもそれには彼の幼少期が関係していた。三歳の頃、彼は両親と一緒に暮らしていたのだが、父親が浮気性、母親が折檻の大好きな人で、よく機嫌の悪くなった母親に――機嫌が悪くなるきっかけの多くは暖砲の無邪気で余計な一言だったりするのだが――ベランダへ放り込まれて鍵を締められていた。夏でも冬でも容赦がなかった。日陰になっていることが多かっただけに夏はただ暑くて朦朧とするだけだったが、冬の冷たさは非常に死の近づく気配がした。熱と力を奪われて、立っていることも座っていることも出来ず、冷たいコンクリートに寝そべるしかなかった。風があまり吹きこまないし、コンクリートが少しずつ温かくなっているような気がするし、それが寒さ的に一番マシなように思える体勢だった。それが間違いであったことは大人になってから知ったことだった。コンクリートに寝そべっている間はよく死んだ後のことを考えた。おぞましくて考えたくもないことだったが、それ以外に考えられることが何もなかった。

 今でも冷たい風が少しでも吹くと、内心非常に気分が悪くなる。

 そして今、暖砲は三月の冷たい川に沈み込む女性に気付いた。


どすこい×13 十貴関とおきせき

 十貴関は無類の話好きだ。休憩時間になると目下の人間を捕まえてきては相手が口を挟む暇なく話を続けてしまう。聞かされる側は「似たような生活をしているのによくもそんな話すことがあるもんだ」と感心、あるいは辟易するのがお決まりの展開になっていた。

 さて、その日も十貴関は名前すらもあやふやな――少なくともどういう漢字を書くかまでは確実に把握していない――序列が下の力士を捕まえて、昨日の夜、雑魚寝部屋で起きた親方のドジについて長々と披露していた。しかしオチの部分を言う直前になって、相手の力士が「あ……」と言って話を遮った。十貴関は怒りを最大限に込めて「何? この話を遮るほど面白い話でもあるの?」と問い詰めた。話を遮ったからには、一発張り手でもかましてやろうかとさえ思った。相手の力士は「人が……」と言って橋を指す。それにつられて、十貴関の怒りの矛先が少しブレた。

 そして今、十貴関の怒りの矛先が水面に浮かぶ女の方へと完全にシフトした。


どすこい×14 応景おうかげ

 応景は不幸なことに十貴関に掴まってしまった。休憩時間になると、自分の時間の邪魔をされたくない力士は十貴関から少しずつ距離を取っていき、彼に目を付けられないように障害物を駆使して隠れようとするのだが、最近は皆が皆そういう対応をするために十貴関も索敵能力を上げざるを得ず、この『かくれんぼ』と『だるまさんが転んだ』が複合した不毛なゲームはまた運の要素が強まってきている。話も一方的で知っていることも多く話し方もそんなに面白いわけではないので、たまに聞く分にはいいとしてもやはり徒労感は否めない。

 だから時折相槌を打ちながら話を聞いているフリをしつつ、目で面白いものを探して少しでも気を休めるのが応景のやりすごし方だった。十貴関も人に向かって喋りたいだけだから多少の余所見は許してくれる。話を遮りさえしなければ。

 しかし応景は自分の見た光景があまりにも唐突すぎて、つい話を遮ってしまった。

「何? この話を遮るほど面白い話でもあるの?」

 応景は何か弁明をしようとしたが、冷や汗が垂れてくるばかりで全く声が出てこなかった。なんとか言えたのが「人」という単語だけだ。しかし上手い具合に十貴関の注意が逸れたようだ。

 そして今、応景は川の様子を見て自分の見た光景が幻覚の類いでなかったことを知った。


どすこい×15 佐暴流さあばる

 佐暴流は努力するのがあまり好きではない。正確に言えば、『努力』と思わないとやっていられないようなことを渋々やるのが好きではない。好きなことをやるために必要な労力であれば、『努力』と思うまでもなくいくらでもやれる。それでいいじゃないか、それ以上のことをやらなければいけない理由がどこにある? そう思うのである。だからこそ彼は稽古にあまり参加しない。彼にとって稽古はやる必要のない労力だからだ。佐暴流のそういうところに、親方はよく頭を悩ませる。蛙達部屋イチの問題児である所以だ。しかし親方が頭を悩ませるのも彼に才能があるからであり、稽古によってより高みへ昇っていけると確信しているからだ。しかし佐暴流はその期待に応える気はない。現状でも好きなことはやれているし、この先でもやっていける自信があるのだ。

 逆に言えば、佐暴流はやりたいことのために手段を選ばない。

 そう、だから佐暴流が川で水遊び――実際には水中における足腰の鍛錬と言っても差し支えないが――に興じていたのは決して奇行に走ったからではなく、やりたいと思ったからのことだった。

 そして今、佐暴流の目線の先――橋を挟んだ向こう側――で女が川に落ちていった。佐暴流は別の水遊び――否、鍛錬――を思いついた。


どすこい×16 零拓れいたく

 零拓はアニメが相撲の次に好きだった。相撲仲間には隠しているものの、アニメオタクと自負できるほどに好きだった。相撲の次に好きだとは思っているものの、稽古の間は相撲よりも好きなんじゃないかと揺らぐくらいには好きだった。実は佐暴流のこともアニメ仲間じゃないかと踏んでいるのだが、怖くてまだ確認したことがない。

 そんな零拓の休憩時の楽しみは、日常の風景にアテレコを付けることだった。誰にも気づかれることがないように、小声で、だが。

 誰に、あるいは何にアテレコをつけるかはその時々の気分になる。十貴関と、彼に捕まった力士の二人に声を当てたりすることが多いが、蛙達部屋の力士だけでなく、道端の通行人に声を当てたりすることもある。

 さて、零拓は橋の上で欄干に手をついているくたびれた姿のOLに声を当てていた。

『はぁ、もう毎日やんなっちゃうな』零拓は音が拡散しないよう口を手で覆いながら、蚊の鳴くような裏声を出した。『上司は私にばっかり当たり散らすし、それが私の為だって顔してさ。余計なお世話、ほっといてほしいよ全く』零拓は親方のことを少し思い出す。OLは欄干を飛び越えてタイタニックみたいに縁に立つ。『来世は鳥にでもなろうかしら』

 そして今、零拓はOLが川へ落ちていくのを、恐れを抱きつつ眺めていた。もしかして自分がこんなアテレコをしたせいで彼女は落ちたのか? 妄想逞しい零拓の頭は、そんな非現実な加害妄想に囚われることとなった。


どすこい×17 蛙一あいち

 蛙一は蛙達親方の息子だった。父親が元々それなりに名の通った力士であり、幼いころから他の力士と混じって指導を受けていたため、小学生大会ではそれなりの成績を収めることが出来た。そして父親からの期待を一身に背負って中学校卒業と共に蛙達部屋に入門することとなったのである。今現在は成人済みで蛙達部屋の中でもかなりの古参である。しかし今の蛙一は相撲界の中でもあまりぱっとしない。序列はある年から一向に上がらなくなり、それどころか後ろからどんどんと抜かされるばかりだ。昔から蛙一はありし日の父親と比べられがちだったが、最近ではそれすらもない。実績が足元にも及んでいないからだ。数十年前とは時代が違うと言えど、相撲界を取り巻く環境というのは変化が比較的緩やかな部類である。変わらない伝統に則りながら各々切磋琢磨するわけである。蛙一は周囲から相撲の才能がないか、それとも怠惰な人間かのどちらかだと思われている。父親からも半ば見放されている。少なくとも、相撲の指導については。

 しかしそれでも蛙一は相撲を辞めない。いや、辞めれないと言った方が正しいのかもしれない。引くに引けないところに来てしまった、と蛙一は感じていた。こんな力士体型で力士以外との人付き合いや一般的な仕事につけるとは到底思えなかったのだ。小さいころから相撲部屋と共にあったからこそ、外の世界のことをテレビや知人を通じてしか知らなかったのだ。

 自分を外に連れ出してくれる何かを蛙一は求めていたのかもしれない。

 そして今、蛙一は川に落ちていく女性の苦悶に満ちた顔を目にした。助けを求めているような気がした。


どすこい×18 一乃菊いちのきく

 一乃菊は両親の愛を受けて育った。少しでもやりたいと思ったことは何でもやらせてもらい、食べたいと思ったら何でも食べさせてもらい、悪いことをしたときはなぜそれがいけないことなのかをキチンと言い聞かされ、そして失敗した時も、その失敗が最終的にどういう風に自分の糧になるかということを具体的に教えてもらっていた。そして、「誰かのため」というのと「自分のため」というのが不可分であることも。おかげで自己肯定感が強く、それに付随して数多くの成功体験を得て育った。蛙達部屋に入った後もメキメキと頭角を現し、遂には蛙達部屋の中でも三本の指に入る強豪になった。体型にはあまり恵まれなかったが、それは彼の心を挫く理由にはならなかった。

 一乃菊は蛙達部屋の中でも唯一、後輩の面倒見がいい力士だ。稽古を望む者には、望むように稽古をつけてあげている。それが自分の糧にもなることがわかっているからだ。

 そして今、一乃菊は川に流される一人の女性を目にした。


どすこい×19 紅峠べにとうげ

 紅峠は重度の女好きだ。休みの日は必ず行きつけのキャバクラへ行き、疲れたら風俗街へ出向き、それにも疲れたら相撲部屋に帰り、元気になったらまたキャバクラへ行き、ということを繰り返していた。しかしそうやって女を金で釣るのに、紅峠は飽き飽きし始めていた。

 そろそろ生涯の伴侶を考えてもいい歳だ。皆がどこで伴侶と出会っているのか皆目見当もつかないが、風俗以外のどこかしらに手掛かりがあるのは間違いない。しかしどれだけ飽き飽きしていても、行ってしまうとその場その場では楽しい気分になってしまうから困りものだ。そんな風に紅峠は感じていた。

 そして今、紅峠は橋の上から落ちる一人の女の顔を見た。紅峠には一つの下心が生まれていた。


どすこい×20 蛙達親方

 蛙達部屋には蛙達親方自身を含めて二十人の力士が在籍しており、その中から自分と一乃菊を除いた十八人に対して非常に頭を悩ませていた。もちろん個々人の様々な欠点に対して悩んでいる部分もあるが、一番頭が痛いのはお互いあまり仲がよくない――いや、仲が悪いとはっきり言ってしまうべきだろう――ことだった。少しの油断が下剋上に繋がる世界だから仕方ないとは思っていた。しかし同じ釜の飯を食らう仲間なのだから家族のように接して欲しいという気持ちがあった。キラキラネームのような四股名の力士が多いから家族感も薄れてしまっているんだろうか、などといった考えが蛙達親方の頭をよぎる。

 ――そもそも蛙一が本当の息子であるのが、部屋全体の家族意識の欠如に繋がっているのかもしれない。本物の家族を前にすれば、見せかけの家族はまるでままごとのように感じるものなのかもしれない。

 残酷なことに、蛙達親方は蛙一に自分の人生を歩んで欲しいと思っていた。幼少期に教えてしまった相撲が、蛙一を不幸にしているのではないかと考えていた。しかし、本人に言えるはずもないことだった。

 蛙達親方は蛙達部屋の心を一つにする出来事をずっと待ち構えていた。

 そして今、蛙達親方は一人の人間が川底に落ちていったのを目にした。


 十八人の力士が回し一つの状態で蛙達部屋を飛び出し、川の下流の方に向かって走り出した。ジャージ姿の力士が後ろから合流し、ふんどし姿の力士が上流から合流した。

 言葉にするまでもなく、皆の心は一つだった。

 二列に分かれて力士達が川の中を進軍する。流れてくる女性を受け止めるため、男たちは川の流れに逆らいながら二層の肉壁を創り上げようとする。

「わっしょい、わっしょい」

 皆が己を鼓舞するために掛け声を上げていた。橋の上から「頑張れー!」という声援が届く。水もわしょわしょと応援してくれていた。

 そして水面に浮かんだ女性の髪が力士の腕に触れ、頭が柔らかな腹に触れ、そして抱き上げられた。女性は口から水を噴き出した。

「どすこーーーーーい!」

 誰かが雄叫びを上げた。女性の身体が肉壁の中心地で赤ん坊のように掲げられた。

「どすこーーーーーい!」「どすこーーーーーい!」「どすこーーーーーい!」「どすこーーーーーい!」

 まるでこだましているかのように、全員が口々に雄叫びを上げ、お互いの喜びを分かち合った。

 蛙達親方はうんうんと頷きながら「やはりそうでなくっちゃな」と呟いた。

 救急車に運ばれたその女性は見事一命を取り留め、蛙達部屋はしばらくの間幸せな雰囲気に包まれた。


 その後、その女性が幸せになったかはまた別のお話。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どすこいをする20の理由 クロロニー @mefisutoshow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ