どすこい! どすこい!

大澤めぐみ

どすこい! 川辺に現れた力士の群れ

 子供のころ「あなたはソリストに向いているかもしれないわね」とコーチに言われたのを真に受けて、十年も人生を無駄にしてしまった。

 コーチはその言葉を、わたしにソリストをはれるくらいの才能がある、という意味で言ったのではなく、協調性がないからコール・ド・バレエは務まらない、と伝えたかったのだ。

 正直に言うと、本当はすこし前から気付いてはいた。実はわたしがバレエに向いていないのかもしれないということに。

 最初の違和感は、小学校高学年の部の全国コンクールのときだった。三歳からずっとバレエを続けていて、小学校にあがってからは向かうところ敵なしの全国コンクール常勝無敗状態だったわたしが、七歳からバレエを始めた青木イスカンダール雅美に負けたのだ。それはもう悔しくて悔しくて、それから一年、猛特訓に猛特訓を重ねて、翌年のコンクールではなんとか一位に返り咲いたけれど、内容てきには順位で勝ってバレエで負けたという感じだった。

 わたしは採点基準や審査員の好みに照らして、完全にそのコンテストで点数を取りにいく構成とアレンジで挑んだ。対する、青木イスカンダール雅美はといえば、まるでコンテストのことなんかまったく眼中にないかのように、自由に、伸びやかに、そして美しく舞っていた。

 どちらが小学生バレエコンクールとしてではなく、バレエとして、否、自己表現のひとつとして優れていたかは、観客席からの拍手の大きさが如実に物語っていた。

 そして、その年の夏休み、ワークショップの公開レッスンで、わたしはさらにイスカンダール雅美に叩きのめされた。

 元世界的バレエダンサーのゲレゲレなんとかみたいな名前のおじいちゃんは、通訳を介してわたしに「基礎がなっていない」と伝えてきた。与えられた持ち時間の十五分をすべて、わたしはたった二小節ぶんのルーティーンを繰り返すことで消費し、それでもゲレゲレなんとかが多少なりとも満足のいくような結果を出すことはできなかったようなのだ。ゲレゲレは最後まで首を傾げたままだった。でも、それも仕方のないことかもしれない。そもそもわたしは、ゲレゲレがなにを指摘しているのか、わたしのなにを注意されているのか、どこがどう違うのか、なにをどう改善すればいいのかが、まったく分かっていなかったのだ。

 青木イスカンダール雅美は、わたしが最後まで躓いていた序盤の二小節を難なく乗り切り、そのまま最後まで踊りきった。ゲレゲレは青木イスカンダール雅美のなにを注意するでもなく、ただ大きく拍手をして「ブラボー!」と叫んだ。わたしだって、ブラボーくらいは通訳なしでも分かる。

 そのときわたしは、待合い用の座席で熊谷先輩の隣に座っていたから、悔しがっていることを悟られないように「すごいね、先輩。雅美はすごいね」を連発するしかなかった。

 熊谷先輩はコンクールとかにはあまり出てこないけれど、両親ともにプロのバレエダンサーなサラブレッドで、海外にバレエ留学をしたりもしていて、本場仕込みらしい。

 小学校一年生のときから、ずっと熊谷先輩のことが好きだった。

 今日のコンクールで一番になったら、いや一番は無理でも、せめて三位くらいに入賞したら、熊谷先輩に気持ちを打ち明けようと思っていた。まだ中学生だし、付き合いたいとかそういうわけでもないのだけれど、ただ単に、わたしがずっと熊谷先輩のことを好きだったということを知ってほしかったのと、これからもわたしが熊谷先輩好きでいることを許してほしかった。

 青木イスカンダール雅美の演技は、わたしの直前だった。あまり意識しないようにとは思っていたけれど、でも、まったく見ないというのは無理だ。わたしはもう舞台袖に待機しているし、なにより、青木イスカンダール雅美の演技は、嫌でも人の目を引く。惹きつける。

 絶対に勝てないと思った。努力や経験では絶対に埋めようのない、根本的な才能の差が、そこには存在していた。ていうか、あんなのが学生コンクールに出てくるなんて、もう完全に弱い者いじめだ。

 しかたがない、一番は諦めよう。せめて、自分なりのベストの演技をして、それで二位を目指そう。よしんば無理でも、三位までにはなんとか滑り込めるだろう。そしたら、熊谷先輩に告白するのだ。そう思っていたのに。

 演技を終えて、反対側の舞台袖に引っ込む青木イスカンダール雅美を目で追っていたら、熊谷先輩の姿が見えた。え? 熊谷先輩、きてたんだ? まあ、熊谷先輩はコンクールの関係者と言えなくもないから、舞台袖にいても、なにも不思議ではないけれど。

 熊谷先輩は、演技を終えた青木イスカンダール雅美を笑顔で抱き寄せて、キスをした。

 え? いまのなに?

 なんか、キスしてたんだけど。それも、ほっぺにチュ~とか、そんなかわいいのじゃなくて、完全に唇と唇でぶっちゅ~~って。

「十四番のかた。駒場さん。あれぇ? 駒場さん。駒場夏香さん、いませんか?」

「あ、はい。わたしです」

 自分がどこにいて、これからなにをしようとしているのかも、一瞬分からなくなってしまった。係の人がインカムでなにか合図をして、音楽が流れ始める。海賊のメドーラのヴァリアシオン。わたしの曲だ。そうだ。舞台に出て、踊らないと。

 ただの反射行動で、わたしは音楽に合わせて舞台に出た。けれど、最初のフレーズが終わってアティチュードで静止したところで、次の左手のポジションが分からなくなった。

 え? 嘘? メドーラのヴァリシオンなんて、もうなにも考えなくても身体が勝手に動いてしまうほど、身に染みているはずなのに。今、自分がなにをしていて、次になにをするのかが、まったく分からない。頭の中は真っ白だ。

 ううん、真っ白じゃない。頭の中ではさっき見た熊谷先輩と青木イスカンダール雅美のぶっちゅ~~~!! の場面が繰り返し再生されている。

 左手が、動いた。

 そう。この感じ。ワンテンポ遅れたけれど、まだ大丈夫。これくらいのミスは誰だってする。落ち着け、わたし。何万回と練習したのだ。たとえ記憶喪失になったって、身体は忘れるはずがない。

 心を無にして、エカルテ・ドゥヴァン。

 夏のワークショップで、ゲレゲレなんとかにひたすらやらされたアレだ。ゲレゲレはたぶん、たんにわたしのことが嫌いだったのに違いない。そうじゃなかったら、どこをどうしろともハッキリと言わずに同じ二小節だけを繰り返させるなんてことをするはずがない。

 ああ。あんなにたくさんの人の前で、めちゃくちゃ嫌な思いをした。

 そう、嫌といえば、さっきのアレはなんだったんだろう? 熊谷先輩、青木イスカンダール雅美とぶっちゅ~~~!! って。ねぇ、知ってる? キスをすると一秒間に二億個の細菌がお互いの口の中を行ったり来たりするらしい。おええ~~。あれ? いま間違えた? あれ? あれ?

 ひとつ崩れると、そのあとはもう総崩れだった。観客席で誰かが、プッと吹き出したのまで聞こえてしまった。ひどい。コンクールで笑うなんて。わたしがこんなに必死に、本気で……本気でやって、本気で好きだったのに。ひどいよ熊谷先輩。あれ? え。次なんだっけ?

 最後には、バレエの真似事を続けることすらできなくて、音楽が流れる中、舞台のど真ん中でただ立ち尽くしてしまった。曲が終わり、わたしは深々と観客席に向かってお辞儀をして、すごすごと舞台袖に引っ込んだ。

 誰にも声を掛けられたくなくて、顔を俯けたまますごいスピードで控室まで戻り、すごい勢いで服を着替えて、そのまま会場を飛び出した。結果発表なんか聞くまでもない。初めて出場した小学一年生のときですら、こんなひどい演技ではなかったはずだ。わたし史上、最高に最悪だ。

 死にたい。

 どこをどう歩いたのかも分からない。わたしは別に、どこも目指していなかった。ただ、人に会いたくなくて、他人とすれ違うことすらしたくなくて、人のいないほうにいないほうに、人気のしないほうに、すごいペースでどんどんと歩いていった。

 気が付くと、亞良川のうえにかかった橋の上にきていた。それなりに車通りがあってもおかしくなさそうなのに、どういうわけか周囲にはまったく人の気配がなく、静かだった。曲がりなりにも市内にある市民芸術館からそれほど離れてもいないはずなのに、こんなに人気のない場所があるとは思わなかった。

 けれど、この人気のなさは、今のわたしにはありがたい。

 誰にも会いたくなかった。ママにも、コーチにも、青木イスカンダール雅美にも熊谷先輩にも、今後一生、二度と会いたくなかった。事情を聞かれたくなかったし、話したくもなかった。

 死のうと思った。なにしろ、十三年の人生のまるまる十年間、バレエしかしてこなかったのに、それが今日、すべてまったくの無駄になってしまったのだ。こんなの、もう生きていられない。いまさら、三歳から人生をやり直すなんて、絶対に無理だもの。

 橋の欄干を乗り越え、外側に立った。

 真下に目を向ける。眼下の亞良川は、昨日の雨のせいで普段よりも増水して、流れもはやい。水面までは十五メートルほどだろうか。

 足がすくむ。

 脳裏にわたしの十三年の人生の様々な思い出が去来する。五番のポジションから右足を前へタンジュしてクロワゼ。ヘアチチュードして、アチチュード・クロワゼ・ドゥヴァン。いや、バレエはもういいじゃない。バレエじゃなくて、もっとほら、人生の歓びとか哀しみとか。深くドゥミ・プリエから真上にジャンプして足を交換。シャンジュマン・ドゥ・ピエ。いや、だからバレエじゃなくて。困った。わたしの十三年の人生、本当にバレエ以外なにもないじゃない。バレエ以外のなにか、そう、熊谷先輩と青木イスカンダール雅美のぶっちゅ~~~!! は? なに? コンクールの真っ最中なんですけど? 全国のバレエ少女たちが己が人生をかけて挑む神聖なコンクールの舞台袖でいったいなにをしてるわけ? 破廉恥だ!

 あ、もういいや。ほんとに死のう。

 そう思ったら、欄干にかけていた手がスッと離れた。わたしの身体は前方へと倒れはじめ、足から踏みしめている感触が消える。亞良川の川面が視界一面に広がり、急速に近づいてくる。わたしは目を閉じる。

 ゴボンッ!

 水に飛び込んだ衝撃。それから音。亞良川の流れははやい。もみくちゃにされて、すぐに上も下も分からなくなる。

 さよなら、ママ。さよなら。熊谷先輩。さよなら、バレエしかなかった、そのバレエさえもなかった、わたしの十三年の人生。さよなら。

「……ぃ…………ぉ……ぃ…………」

 はげしい水音に混じって、なにかが聴こえる。天上からの迎えだろうか。どこか、祭囃子にも近い、心地良いリズムを感じる。

「……すこぃ………ぉす…ぃ……どすこー……」

 不意に襟首を掴まれて、身体が重くなる。まぶしい光が閉じた瞼を刺す。これは、天国の光……? いや。

「どすこーい! どすこーい!!」

 目を開く。わたしの身体は亞良川の水中から引き揚げられ、高く掲げられている。

「どすこーい! どすこーい!! どすこーい! どすこーーーい!!」

 力士だった。それも、ひとりやふたりではない! 二十人をこえる、たくさんの力士たちがまわし一丁のむくつけき姿で亞良川に入り、わたしの身体を水面から高くに掲げているのだ!!

「おお! 目を覚ましたでごわす!」

「生きているでごわす!」

「助かったでごわす!」

「よかったでごわす!!」

 わたしが上半身を起こすと、力士たちが口々に歓声をあげ、また「どすこーい!」「どすこーい!!」と、勝利のシュプレヒコールをあげる。

 強い初夏の陽光を反射して、舞い散る水しぶき。ぶつかり合う肉体。激しい水流にも負けない、どっしりとした逞しき力士たちが、まるで神輿のようにわたしを上下に揺すりながら「どすこーい! どすこーい!」と、河岸に向かっていく。

 美しい光景だった。構図もライティングも、まるで神の奇跡を描いたフレスコ画のように、すべてが完璧だった。

「どすこーい! どすこーい!」

 力士たちの掛け声に合わせ、わたしも両の拳を天に振り上げる。

「どすこい……! どすこい……!」

 最初は、ひそやかに。やがて、力強く。

「どすこーい! どすこーい!」

 力士たちと共に、高らかに声を張る。どこまでも届くように、あまねく世界に響き渡るように。たくさんのどすこいが亞良川の水面を渡る。

 ああ、世界はこんなにも美しい。

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