御柱様と瘧様 4

 祐矢はさきほどから生臭い匂いに閉口していた。だんだんと強まってくる。匂いに敏感そうな熊神様は、苦虫を噛み潰したような顔だ。

 と、祐矢の足元になにかが迫った。熊神様が素早く蹴り飛ばす。それは悲鳴を上げて転がった。小さく痩せこけた姿に、むき出しの歯だけが異様に鋭い。

「子供?」

 まさか逃げ遅れた子供かとあせる祐矢に、飛鳥先生が短く、

「餓鬼だ!」

 転がった餓鬼に幾匹もの餓鬼がのしかかり、喰らいつき始めた。悲鳴を気にも留めず、奇声を上げながら肉を引き裂く。肉を飲み込んだ餓鬼は、しかしそれを吐き出し、震え、痙攣して苦悶する。オコリ病の症状にそれはよく似ていた。

「囲まれてしまったみたい!」

 朱美は無数の気配を感じ取っていた。じわじわと近づいてくる。

 飛鳥先生は懐から革表紙の本を取り出し、

「精典、第四の書、第六章、三百二貢。アルスター系妖精伝承」

 そこで息を継いで、

「全員伏せろ! 発現型、銀妖風エアリアル・ブラスト!」

 本からまばゆい銀の光があふれた。先生を中心に突風が吹き荒れ始め、一行は急いで伏せる。風は竜巻となって白霧を吸い上げていく。やがて霧が晴れ、領域が姿を現した。

 空には分厚い黒雲が立ち込め、地には餓鬼が満ちていた。木々は幹までも食い尽くされ、骨が散乱し、草の一本とてない不毛の地。かつて緑に満ちた道を真白と歩いた、緑宝山の麓とは思えぬ光景だ。緑宝山のあるべき場所には、広大な侵食地形が広がっていた。まるで肉がそぎ落ちて骨だけになった大地のようだ。一行は人間の世界から瘧様の領域に入り込んだのだ。

 餓鬼たちは餓鬼たちに喰らいつき、それにまた他の餓鬼が喰らいつく。喰らっても飲み込むことはできず、かえって苦しみに襲われる。それでも彼らは喰らい続ける。

 その餓鬼たちが、うまそうな匂いに気付いた。生暖かい新鮮な血と肉が迷い込んできたのだ。無数の餓鬼が餓鬼を踏み潰しながら押し寄せてくる。まるで大地そのものが動いているかのようだ。

 飛鳥先生はまた別のページを開くや、

「いちいち相手をしていてもきりがない。流すぞ! セントオーバン系妖精伝承、ニクシー改!」

 またかと一行は構える。

 四方から美しい歌が響き始めた。引き込まれそうに魅惑的な歌声だ。声が呼び寄せるように、大気中の水分が一気に凝縮していく。水滴となり、一行のいる場所をじわりと濡らす。拍子抜けかけた祐矢は、

「うわっ!」

 叫び声を上げた。濡れた地面はぬかるみとなり、水溜りとなり、急激に水かさを増していく。雲の水分までを呼び込んでいる。水分を奪われて、空を覆う黒雲に穴が開く。水かさはついに祐矢の腹にまで達した。

 先生は皆に、

「溺れるなよ!」

 水は浸食地形の方へと流れ始めた。ゆっくりした流れが、すぐに激流となる。餓鬼どもはなす術もなく流されていく。もっとも、それは祐矢たちも同じことだ。川となった水流に祐矢は身をゆだねた。

 餓鬼たちは水を飲んで腹を満たそうとあがき、そのまま水底へと沈み消える。

 侵食地形が間近に迫ってきた。洞窟への入り口に水は流れ込んでいた。

 熊神様が、

「いっそ、このまま流されてみてはどうじゃな!」

 叫ぶと、皆歌が珍しく、

「いいんじゃない。この先に殺気を感じるから」

 同意する。

 無茶苦茶だ。運が悪ければそのまま死んでしまいかねない。だが、今の祐矢には幸運の導きがある。真白の不運がその代償。それでも、真白を救うためには挑むしかないのだ。

 祐矢は水にもまれ、あらゆる方向に振り回されながら落下していく。周りに人の気配を感じ、不安はなかった。息が詰まりそうになると、どこからかそっと暖かな空気が吹き込まれる。やがて水の流れは遅くなっていき、水かさが減り、ついに足が着いた。立ち上がろうとしてよろけた祐矢の両肩を、三月兄妹が支える。祐矢に傷はないのに、二人は傷だらけとなっていた。

 ミカエルは祐矢を見て明るく笑い、

「旦那様、ご無事のようで」

 祐矢は察した。二人が水中で祐矢を守っていたのだ。朱美を見ると、なぜか恥ずかしそうに顔を伏せる。

 自分が行動する代償となっていたのは、真白だけではなかった。皆が贈ってくれていたのだ。

「ありがとう、先輩。ありがとう、朱美」

 今の祐矢には言葉を伝え、二人の肩を抱くことしかできない。朱美は顔を上げて、

「旦那様。私たちは好きでやっているんですから」

 本当にうれしそうな笑顔だった。だが、血の気が薄い。青ざめている。祐矢はどきりとした。

「まさか、また呪いが」

 ミカエルと朱美の手が祐矢の背をはたく。

「まだまだ大丈夫ですよ」

 流されていた者たちが集まってきた。全員集合だ。彼らがいる場所は広大な洞窟の中だった。頭上に空いた穴から光が漏れ差し込んでくる。

「行くぞ」

 熊神様を先頭に、洞窟の奥へと歩き始める。

 進んでいくと、遠くから川の流れるような音が聞こえてきた。洞窟は少しずつ狭くなっていき、一人通るのがやっとになる。皆歌が戎衣を輝かせて明かりとなった。

 一行は無言で進み続ける。時の経過が分からなくなった中、それはいったい何昼夜続いたろうか。彼方に明かりが見えた。風を感じる。一行はついに洞窟を抜けた。

 大河が流れていた。見渡す限り、血の色をした大河であった。空は闇、ここの明かりは大河が赤く鈍く輝いているのだ。滔々と流れる大河の川べりに一行はあった。橋はない。船もない。

「殺気が来る!」

 皆歌が叫んだ。血の大河から上がってくる者がある。全身から血を滴らせ、顔を流れる血に舌をのばし、うまそうにすする。それは皆歌と瓜二つだった。黒い刃の鎌を提げ、同じ服装、同じ顔。闘いの喜びに満ちた表情までが。

 飛鳥先生が正体を見抜いた。

「闘いの化身、修羅だ! 畜生、餓鬼に、修羅ときたか!」

「面白い!」

 皆歌は猛る。

 続いて熊神様の修羅が上がってくる。飛鳥先生、三月兄妹、最後には祐矢の修羅が血塗れの姿で現れた。全員分が集合だ。

 皆歌が自分の修羅に躍りかかった。修羅は皆歌の鎌を受け止める。

「わたしの鎌を!」

 皆歌は目を輝かせる。

 修羅が鎌を薙ぐ。皆歌は柄で受け流し、そのまま回転させて刃を修羅の頭上に振り下ろす。修羅は半身でかわすや、鎌を槍のように突き込んだ。皆歌の鎌がそれに絡みつく。皆歌がそのまま奪い取ろうとするのを、修羅はその方向へと跳んだ。鎌を外し、全身の回転で叩きつけるように刃を皆歌の背へ。皆歌は振り向きもせず、柄先で刃を受け止める。その反動を利用して修羅は反転した。二人は再び対峙する。

 熊神様はやれやれといった様子で、熊耳の少女から熊の縫いぐるみへと変じた。相手の修羅は、同じく熊の縫いぐるみへと変じる。これでは戦いにならない。千日手だ。

 自身を相手に戸惑っていた祐矢は、熊神様が修羅を封じた方法を見てひらめいた。修羅とは戦う意志をはね返すだけの存在ではないのか。ただの鏡像、実体はない!

 祐矢は駆け出した。自身をかわし、大河へと走る。血に体を沈める。思った以上に深い。足がもう底に着かない。祐矢の修羅が飛び込んでくる。拳を振り上げた。が、その体はぐらりと倒れる。修羅は足がなくなっていた。足が溶け、胴が溶ける。消えて血に戻っていく。

 三月兄妹が続けて飛び込んでくる。朱美は赤御蛙様と変じて、浮かんでいた祐矢を頭の上に載せる。三月兄妹の修羅も、血に飛び込むや同様に消えうせた。

 飛鳥先生も熊の縫いぐるみを抱えて大河に飛び込み、右にならう。

 皆歌一人が戦い続けていた。その全身は焔に包まれ、地面の砂までが溶融している。皆歌は雄たけびを上げ、焔の塊となって修羅に突進した。高熱に焼き尽くされて修羅の五体は霧散する。皆歌は満足しきった表情だ。しかし次なる修羅が大河から上がってこようとしている。今度は手が四本となっていた。皆歌は渋面を作って、

「その姿はわたしへの侮辱ね」

 大河に飛び込んだ。皆歌の高熱に、周囲の血が一瞬で蒸発する。しかし無限に流れる血がすぐに皆歌の熱を奪い去った。皆歌は血塗れの姿で青御蛙様によじ登る。

「なにしてるの。さっさと渡りましょうよ」

 一行を載せて、御蛙様たちは大河を渡り始めた。


 永い渡河となった。不思議と食事の欲求はない。幾日も過ぎているように感じられて、実はわずかな刻しか経ていないのかもしれなかった。

 霞の彼方に向こう岸が姿を現した。かすかに石碑のようなものも浮かんで見える。どれほどの高さがあるのだろう。この領域に雲があるとすれば、そこまでは届きそうだ。

 川岸に一行は降り立った。青御蛙様と赤御蛙様は、ミカエルと朱美に戻るや力尽きて倒れた。二人は悪寒に震え、しかし全身が熱を発している。

 ミカエルは歯をがちがち鳴らしながら、

「血に触れすぎましたかな。まあ、少し休めば大丈夫でしょう」

 と笑ってみせる。朱美は話すのも苦しそうだった。二人ともオコリ病に感染しているのだ。現界を超えているのは明らかだ。

 一行は平らな場所まで二人を運び、祐矢の上着と飛鳥先生のコートを敷いて寝かせた。コートからは、清く柔らかな風が流れだす。

 熊神様が、

「我はここに残りて、こやつらの面倒を見よう。修羅が来ても、我ならばなんとでもなる」

 祐矢はその手を握り締めた。肉球が暖かい。

「先輩と朱美を頼みます。すぐに戻りますから」

 拝むように頼む。そこに苦しい息の朱美が声をあげた。

「旦那様…… 私たちはいいですから、やるべきことを、い、いえ、やりたいことを、存分に」

「分かった。分かったから、もう話すんじゃない!」

「そのために…… 私たちは……!」

 朱美が激しく咳き込む。飛鳥先生が、

「私も残る。力を使って、少しは二人を楽にできるはずだ」

 小声で、

「どの道、コート抜きでは私は役に立たん。あれは、皆歌の戎衣と同じで力を引き出す道具なんだ」

 祐矢は先生とも握手をかわす。

 進むは二名、残るは四名。

 進んでいく祐矢と皆歌の姿が視界から消えた頃、先生はゆらりと倒れた。体は震え、歯の根が合わない。

「どうしたのじゃ!」

 熊神様が駆け寄ってくる。先生は返事すらできなかった。三月兄妹が力を使えない今、一行を病魔から守る手立ては失われたのだ。先生もまたオコリ病に倒れた。


 祐矢と皆歌は歩き続ける。

 遠くからだと石碑のように見えていたそれは、近づくほどに巨大さを露わにし、光に透き通っていった。内部にはやはり透き通った複雑な構造が広がっており、無数の通路が走っている。

 皆歌の歩みが少し遅れた。

「少し休もうか?」

 祐矢の問いに皆歌は軽く、

「大丈夫、大丈夫!」

 答えて歩みを速める。彼女の杖から刃が消え、服の光が失われていることの意味に、祐矢は気付けなかった。

 一歩一歩近づいていくたびに、祐矢は大地から伝わる力をよりはっきりと聞き取っていた。真白を感じる。真白が近い。真白はここにいる!

 祐矢は駆け出した。我慢できなかった。透き通った壁にたどり着く。どこにも扉は見当たらず、隙間もない。蹴ってみるが、割れるどころか音すらしなかった。皆歌に斬ってもらおうと振り返る。皆歌は倒れていた。

「皆歌!」

 祐矢は駆け戻った。皆歌を抱き起こす。その顔色は真っ青、体は震えている。皆歌は口を開いた。それはいつもの声ではなかった。

「ダーナよ。汝は来るべきではなかった」

 皆歌の手が祐矢を突き放し、操り人形のように立ち上がる。虚ろな瞳が祐矢の方を向く。

「この体は病に囚われた。我が物となった」

「瘧様か!」

 皆歌の唇がひきつるように動いた。ぎこちない笑みが浮かぶ。

「運に守られし汝の体を病に捕えることはできぬが、心は水晶獄につないでやろう。ついて来い。汝の求める姿がある」

 皆歌はロボットのように不自然な動きで両手両足を動かし、瘧様が水晶獄と呼んだ建造物の壁際まで来た。皆歌は水晶獄の一点を指差す。遠くてよく見えないが、白い人影が動いたようだった。

「あれは!」

 祐矢は壁を叩く。

「真白! 俺だ! 真白!」

 大声で叫ぶ。皆歌はしわがれた声で、

「せっかく来たのだ。よく見るがいい」

 水晶獄の巨大な壁に像が映し出される。白い長襦袢を着た少女が通路を走っていた。通路は迷路だった。この建物、水晶獄は巨大なる迷宮だった。そこを真白はさ迷っていた。

「御柱様は我の物だ。どこにも送らせぬ。永遠にこの水晶獄で過ごさせる」

「真白を出せ!」

 祐矢はつかみかかりたいが、相手は皆歌の体だ。

「御柱様は望んで入った。故に出すことはできぬ」

 映像の真白は懸命に走り続けている。しかしどこまで行っても新たな通路しかない。

「水晶獄には我が百八の眷属が収まっておる。御柱様が全ての眷属に出会い補陀落へと送ることがかなえば、我が病は失われるであろう。だが水晶獄は永劫の迷宮。よほどの幸運なかりせば、たどり着くことはあたわぬ。お前がこの壁を破ることも、決してできはしない」

 祐矢は歯を食いしばった。幸運がなければたどり着けない迷宮で、不運な真白がたどり着ける日など来る訳がない。

「真白を、だましたのか!」

 皆歌の体は手を口にあててみせ、

「だますなど。我は真実を伝えただけ。人は我が病に滅びる。しかし御柱様が水晶獄までお出でになれば、そうはならぬかもしれぬ、とな」

「いかさまだ!」

 その言葉に突然、瘧様は、

「我は決して賭けなどやらぬ! 運を頼まぬ!」

 激昂した。杖を振り上げ、祐矢を打つ。

「っ!」

 受けた祐矢の腕に激痛が走る。次は足。凄まじい力で吹き飛ばされるように祐矢は倒れた。

 瘧様は叫ぶ。

「かつて世界中を巻き込んだ戦争があった。多くの人々が苦しみのうちに死んだ。不運故に! 死の嘆きは呪いの言霊となり、大地を血で呪縛したのだ。その血を拭い去るためになにがあったか!」

 瘧様の怒り狂う表情に、祐矢は既視感を受ける。皆歌の顔、その向こうに誰か見知った者がいる。

 瘧様は杖を祐矢の頭に振り下ろす。とっさに避けたが、肩を激しく打った。痛みに息が詰まる。骨までいったかもしれない。

「御柱様がその命で呪いを導き、補陀落に送ったのだ! なぜに真耶が犠牲にならねばならぬ! 運か! 不運だというか! ならば我が病で平らかに等しく終わりをくれてやろう! 血の呪縛を解いてやろう!」

 瘧様は両手で杖を握り締め、高く掲げた。祐矢の胸に突き刺そうとしているのだ。祐矢はなんとか体を動かそうとした。が、打撃のショックで体がしびれている。避けられない!

 そのときだった。皆歌の口が動いた。

「し…… し、らはね…… おねえさまの、はなしを、しろ……」

 皆歌の声だ。突き刺そうとする瘧様と、それを阻もうとする皆歌の意志が拮抗している。

「お、おねえさまの……」

 祐矢は皆歌の意志を了解した。

「文原綾は、優しくて! そうだ、まるで月光の化身みたいに美しくて! 皆のためならどんな相手とでも戦う強さがあって! そう、そして文原皆歌が、誰よりも愛している人だ!」

「おおおおお!」

 皆歌の体が杖を振り上げる。杖の先が赤熱し、焔の刃が現れる!

 皆歌……! どこからか、綾の声が響いたように思えた。皆歌はその声を受け取っていた。

「この体と魂は! お姉様のものだあぁぁぁっ!」

 刃が水晶獄の壁を切り裂く。大穴を開ける。皆歌はにやりと笑い、仰向けに大の字で倒れた。

「皆歌!」

 抱え起こそうとする祐矢に、皆歌は震える指で水晶獄を示し、

「ばか、早く行きなさい。そのために、来たのよ」

「しかし」

「閉まったら、もう開ける力はないの。急げ!」

「……すまん!」

 祐矢は壁に開いた穴へと潜り込む。水晶獄の傷は、みるみるうちに塞がっていく。入ってきた穴は消えてしまった。

 通路に祐矢は入った。外から見れば透明だった通路だが、中からだと壁が赤黒く染まっていて、外を見ることはできない。真白がいた大まかな方向は把握しているものの、迷宮をどう進めばよいものやら。

「いちかばちか!」

 思いつきで道を選び、勘で進む。曲がり、階段を登り、また曲がり、階段を降り、曲がって進んで、また曲がって。

 一歩、また一歩と真白に近づく。確信がある。なぜなら、二人は一つだからだ。

 真白の動きが止まったのを感じた。

 通路はどこまで進んでも赤黒い壁が続いた。光はどこからか差し込んでくるが、外の様子は一切うかがい知れない。その中を祐矢はひたすら走った。もう、すぐそこだ。

 行き着いた先は、行き止まりだった。薄く透き通った水晶壁だった。その向こうに真白の姿がある。真白の瞳が祐矢を捉えた。双眸から涙があふれる。真白は泣きながら微笑もうとする。くしゃくしゃな笑顔だ。祐矢は声にならない叫びを上げた。壁を叩く。真白だ。真白がいるのだ。だのになぜ、壁がある!

「真白! 真白!」

「旦那様……!」

 声は壁を通して聞こえた。真白はそっと水晶壁に身を寄せて、壁に額をつけた。涙の滴が床を濡らす。真白はなにか言おうとして言葉にならず、その瞳だけが訴えかけてくる。

「真白、壁を壊すから下がれ!」

 真白が苦悶の表情を浮かべた。

「危ないから下がるんだ!」

 真白が下がると、祐矢もいったん下がった。今度のは薄い壁だ、きっと打ち破れる。祐矢は走り、全体重を載せて壁を殴った。が、水晶壁はびくともしない。拳から血が流れる。それをものともせず、祐矢は再度殴りつけた。今度は手ごたえが違った。壁に傷はない。しかし、祐矢の血がついたところから溶けていく。

「そういうことか」

 もう一度殴りつけると、ついに水晶壁は砕けて消えた。

 祐矢は真白に駆け寄る。抱きしめようとしたとき、真白は腕を伸ばして祐矢を突き放した。

「……だめです」

「どうしたんだ?」

 真白は叫びを振り絞るように、

「……触れてはならないのです。旦那様。柱送りのときが来たのですから」

「でも、まだ早い!」

 真白は目を伏せて、

「真白はこの正月で十八となりました」

 祐矢は愕然とした。なぜこんなことに気付かなかった。分かってしかるべきはずが、無意識にその恐ろしい可能性を排除してきたのか。御柱様が送られる十八歳とは、数え年のことだったのだ。自分はなんという間抜けなのだ。そして、外界では既にそれほどの時間が過ぎたというのか。

 真白は懸命な声で、

「柱送りが近づくと、柱は命を燃やし始めます。いろいろなものが見えるようになるんです。今、地上では大勢の人々が瘧様の病に苦しんでいます。まるで地獄のよう…… 旦那様、送ってください! そのときが来たんです!」

 そう言う真白は病に冒されていないのか。祐矢は自ずと答を悟った。真白は命を一気に燃やし尽くそうとしている。だから病にかかろうとも動ける。

 祐矢は決断した。どうあれ、早く解決しないかぎりは真白を助けられない。

「真白、どうやればいい?」

 祐矢の問いに真白は、

「この水晶獄には、瘧様の眷属が収められているそうです。彼らを見つけて送りましょう。旦那様になら、きっと見つけられます!」

「よし、やろう!」

 祐矢はまた、勘を頼りに進み始める。真白は祐矢の後ろをついて歩いた。

 祐矢は話した。飛鳥先生たちとこの領域に入ったこと。すばらしい助力を贈ってもらったこと。皆は病に倒れていったこと。

 真白も話した。御柱家で倒れた後、瘧様が現れたこと。水晶獄に一人で入るしかなかったこと。不運な真白であるからこそ赴くことができたこと。幸運な旦那様ならばこそ見つけてくれると信じていたこと。瘧様のこと。

「異神というのはもっと理解しがたい存在かと想像していたんだ。それが、御柱様のために怒るだなんて」

「ええ、旦那様。瘧様はなんだか泣いているみたいでした……」

「知っている人のような感じさえしたよ」

 祐矢はそこで足を止めた。奇妙な気配がある。慎重に進み、角の向こうを覗く。そこには異様なものがあった。

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