御柱様と御蛙様 2

 市内バスが、ゆっくりと祐矢を運ぶ。

 最初は座っていたつもりだが、無意識に老人へ席を譲ったらしい。今は立って、吊り革につかまっている。

 まだ太陽は空高くにあり、老朽化してエアコンのあまり効かないバスの中はそれなりに暑い。こもった湿気で、むっとするほどだ。

 バスから見える景色は、学校や博物館の立ち並ぶ学際エリアから、商店街の大通りへ。そこを過ぎると少しずつ緑が増えて山間部に入っていく。

 誰かが自分を呼んでいたような気がする。暖かく愛おしい声。しかし自分が存在すれば、害をなしてしまう。

「池の匂いよ、祐矢君」

 また別の誰かが、自分に呼びかけた。祐矢は安堵する。知らない誰か。関係のない誰かだ。傷つくことも、傷つけられることもない。無関係だと証文にでも書いてあるかのように。

 祐矢は、心と体が分離してしまったかのようだった。いつもなら心躍る自然の美しさも、今は単なる視覚的刺激にすらならない。なにも見えず、なにも言わず。

「そろそろ蟾蜍神社ね。降りてみない」

 体が引っ張られて、足が進む。反射的に手が財布を取り出し、小銭を料金受けに放り込んだ。

 遠くでバスの過ぎ去る音がした。あらゆる方位から、蝉の鳴く声が迫ってくる。森の匂い、天からの光が包み込んでくるようだ。足元には土の感触がある。

 それを遠くから観察している自分がいる。

「つらいことがあったんでしょ。私でよければ、話してくれないかな」

 言うな。話すな。祐矢の心は叫ぶ。

 だが祐矢の口は動き、ミカエルから告げられたことを伝えていく。

 神社の境内に入る。蟾蜍神社、一般的には御蛙様で名が通っている神社だ。

 玉砂利を踏みしめる音が、足元から響く。

 平日の昼過ぎとあって、参拝者は祐矢たちしか来ていない。神社の関係者すら不在だ。

「そう、お兄ちゃんがひどいこと言ってごめんね。ほら、ここで手を洗って」

 冷たい水が手にかかった。その心地よさが、心までは届かない。

「でもね、祐矢君がつらいのはさ、それが全部本当だからだよね!」

 手を引かれ、石造りの階段を登る。一対のご神体が鎮座し、祐矢たちを待っていた。蛙の石像、蟾蜍の神様だ。左は朱色に塗られた赤御蛙様で、宝物を集め、悪縁も吸い込んでくださる。右は蒼く塗られた青御蛙様で、集めた宝物を恵んでくださる。蛙様はお互い反対側を向いていた。

「御柱様が心配なんでしょ。だったら、縁を切っちゃえばいいじゃない! 御蛙様に縁断ちを祈願して、遠くに離れちゃえばいいのよ」

 すぐ近くから、声が耳を打つ。

「さ、御蛙様にお祈りしましょう。ここは悪縁断ちのご利益があるのよ」

 祐矢はぼんやりとした意識で、声の主を見た。

 赤茶色の髪に、いかにも利発そうな顔立ち。名札には二年生の三月朱美とある。スマートな体で、身長は祐矢とほぼ同じ。美しい笑顔は、しかしどこか苦しそうだ。

「さあ、悪縁断ちを誓いましょうよ。祈るだけじゃだめ、悪縁は自分から断ち切るの」

 朱美が迫る。

 祐矢は鈍い頭で思考する。俺という悪縁がなくなれば、真白も不運に遭わない。飛鳥先生だって、やむをえず俺と真白を一緒にいさせているだけだ。本当は二人に縁などないことを望んでいるのだ。俺は死ねばいいのか。いや、そうしようとすれば、真希さんのような不幸がまた起こる。

「どう、すればいい」

「祐矢君が柱との縁を断って、旦那を他の人に譲ればいいの」

 祐矢はのろのろと心を動かす。

 この子はなぜ苦しそうなのだろう。まるで体内に溜まった毒を必死に吐き出そうとして、でも吐き出せないかのようだ。彼女の言葉が、彼女自身を刺している。

 神社の裏手にある大きな池から、群れなす蛙の鳴き声が聞こえる。

「私の兄が、旦那を引き受けてくれるわ。それであなたは運命の苦痛から解放される」

 蛙の鳴き声が周囲を圧する。朱美の声以外は塗りつぶされてしまって、大音声に耳は痛いほどだ。天から地から、あらゆる方位から祐矢を押し潰そうとする。

 縁を断て。断ち切れ。断ち切れ! 鳴き声はそう叫んでいる。

 大地が揺れ始める。

「真白は、どう、なるんだ」

「祐矢君から縛られなくなって、幸せになるのよ!」

 なにかが違う。祐矢の心が体を動かし、言葉が口をついて出た。大地が揺れる中、二本の足で社の床を踏みしめた。

「真白は、どう、するんだ」

 朱美は苦しそうにあえぎながら、

「なぜ、御力にまだ逆らえるの。もう、これ以上は」

「真白は、どうするんだ!」

 大地が揺れる。朱美は揺れに耐えられなくなって膝を着く。祐矢を見上げる。その瞳には凶気があった。

「自由になって、好き勝手にするでしょうよ!」

 朱美が叫ぶ。蛙の鳴き声が反響するように響く。

「真白は自由です」

 耳を圧迫する鳴き声の中、その声が祐矢に届いた。祐矢は見た。社へと続く石階段の下に真白がいた。大地が揺れ、社がきしむそこで、懸命に立っていた。

「自由です! 真白はいつも自由です! 縛られてなんかいない! 真白は、旦那様と一緒にいたい!」

 真白が叫ぶ。その声が祐矢の心と体を打った。

 祐矢は逃げたかった。待ち受ける定めから。犠牲の上に生きてきた過去から。

 だが、どうしても逃げられないものが一つだけある。なにがあろうと傷つけたくない存在がいる。

 真白が見ているのは、俺の向こうにある旦那様という名の運命にすぎないのかもしれない。いつか俺は癒されない傷を負い、生涯苦しむのだろう。あらゆる人から証文を取ろうとした曾祖父のように。あれはきっと失う苦しみを二度と味わわないために、贈り送られる結びつきを拒絶したのだ。ただ一方的であろうとしたのだ。

 しかし、真白は傷つくことを恐れたか。俺のため、熊神のために、真白は傷つき、それでも立ち上がった。そして今もここにいる。俺を見つめている。

 俺は真白を守ってきたつもりだった。しかし真白は、御柱様は俺を守ってきた。

 真白を襲う運命に、俺は無力かもしれない。それでも。

「俺は真白を守りたい! 真白の、御柱様の旦那様でいたいんだ!」

 祐矢の叫びが轟音を貫き、真白に届く。

「真白は、旦那様の御柱様になりたいです!」

 真白の願いが呪縛を破り、祐矢と心を結ぶ。

 祐矢は揺れる階段を飛び降り、真白を、御柱様を抱きしめる。

 真白は祐矢を、旦那様を抱きしめる。

 二人の心が交わる。

 運勢だけではない。今、二人の心も一つだった。

 

 大地震並みの揺れにあって、朱美は四つんばいで耐えている。

「兄さんは無能よ! この女を引き離すことすらできない!」

 怒鳴った先に、ミカエルがいた。揺れがひどいせいか、境内で同じく四つんばいになっている。いつにも増して青ざめた顔で、その片頬はなぜか腫れていた。

「ここはもう諦めなさい、朱美!」

 ミカエルが叫ぶ。社が激しくきしみ、柱をたわませ、ついに崩れ落ちようとしていた。朱美はもだえ苦しむように泣いている。

 祐矢は真白を抱きかかえて走った。落ちてきた瓦が、それまで立っていた場所を危うく襲う。砕けた破片が祐矢の腕に当たった。

「社を壊すな! 地震を止めなさい!」

 ミカエルの呼びかけに、朱美は泣き叫びながら、

「あたしじゃない! 地震なんて起こしたくない! あたしにはもう血を抑えられないのよお!」

 朱美の涙は血に染まっていた。流れる汗もまた鮮血。しかしその血に温もりはない。凍りつきそうに冷たい血だ。

 蛙たちの鳴き声は、いつの間にか一つの言葉を輪唱している。

 大地は地に呪われた。大地は地に呪われた。大地は地に呪われた。

 朱美の体は血塗れとなっている。

「痛い! 痛い、痛い! 助けて、兄さん!」

 ミカエルは四つんばいのままで跳躍した。石階段の上、社にまで一息に飛び、朱美をつかんだ。さらに池の方へと跳躍する。次の瞬間、朱美がいた社は石と木を撒き散らして倒壊した。

 神社の駐車場まで来て、ようやく祐矢は一息ついていた。揺れはほぼ収まってきている。石造物が多い境内は無残な有様で、他に人がいなかったのは不幸中の幸いだった。

 真白は祐矢の胸にしがみつきながら、上目遣いに、

「旦那様、大丈夫? 腕は痛くない?」

「かすっただけだよ。それより、どうやってここに」

 真白は不思議そうな顔をした。

「学校からここまで、旦那様にずっと付いてきただけですよ?」

 真白が言うには、部室の前にいた祐矢が突然真白の手首をつかまえて走り出し、いったん御柱家に戻って真白を置くや、自分だけ外出してバスに乗ったのだという。

 三月妹は待ち合わせでもしていたかのようにバス停留所にいたそうだ。おそらく部室に行ったときから、祐矢は兄妹の術中にはまっていたのだろう。三月兄の方は追いすがろうとした真白を阻もうとして、熊神様に頬を景気よく張られたのだった。

 真白は熊神様の背中に乗って、バスを追ってきた。せいぜい中型犬を一回り大きくした程度のサイズしかない熊神様に乗って、街中を駆け抜ける女子高生とはシュールすぎる光景だ。熊神様の偉大なるお力をもって、できるだけ人には見られていないことを祐矢は祈った。

 その熊神様は今、真白の胸に抱きかかえられている。祐矢と真白にサンドイッチされて、熊神様はご機嫌斜めだった。

「我はまたお邪魔虫扱いじゃよ。ありがたい熊神様になんたることじゃ、やっとられん!」

「熊神様、ありがとう。真白を守ってくれて」

 祐矢は真白ごと熊神様を抱きしめる。

「真白も!」

 二人に抱きしめられた熊神様は、

「暑苦しい! 離れるんじゃ!」

 と苦言を呈した。髭をぴくぴくさせているのは、どうやらうれしいらしい。

 すでに、三月兄妹の気配はない。蛙の声も静まり、蝉の鳴き声がこの一角を支配している。

「あれは水生のカムイ、蛙の憑き神じゃ。青神と赤神がそろっておる。どうして厄介な相手じゃぞ」

 熊神様が重々しく忠告する。

 祐矢は自分の決意を信じることができそうだった。心と体が引き裂かれているときであろうと、自分は真白を学校に置き去りなどしなかったのだ。祐矢はおかしくなって、軽く笑った。体の方はとっくに覚悟を決めていたのに、心がそれを悟るまで手間取ってしまった。ある意味、あの兄妹のおかげかもしれない。

 祐矢の笑顔につられて、真白も笑った。夏の光に照らされた輝く笑顔。その両目から、ついと一筋の涙がこぼれる。祐矢はポケットからハンカチを取り出し、拭おうとして、手を止めた。そっと唇を寄せて、真白の頬から涙を吸う。

「あ……」

 真白がため息を漏らす。もう片方の頬にも唇を寄せる。真白の両頬に、どっと涙があふれた。

 傷つけてしまったのかと、祐矢は慌てた。思わず手を離す。

「ご、ごめん」

 真白は一歩離れて、反対側を向いてしまった。

「そんなつもりじゃ」

 真白はうつむき、しばらく涙に耐えているようだった。やがて、

「もうちょっと、もうちょっとだけいいんだよね」

 そう呟いてから、

「旦那様! 模試も終わったことですし、明日は休みだし、今日はいっぱい遊びましょう!」

 くるりと振り返った顔は、腫れぼったいまぶたを除けばもう元気いっぱいだった。

 はしゃぐ様子に戸惑いながらも、祐矢は、

「うん、そうだな。真白はどうしたい?」

「おみくじ!」

「ここで、おみくじだって?」

 祐矢はおそるおそる崩壊した境内に戻って、傾いた社務所の脇に倒れていたおみくじの自動販売機を起こし、小銭を入れてみる。結構頑丈な作りだったようで自動販売機は無事に作動、おみくじを二本入手した。

 そろそろ騒ぎになりそうなのを心配した祐矢は、真白を連れてその場を離れることにした。次のバス停留所まで、徒歩で山を下ろう。

 真白の代わりに、熊の縫いぐるみ、もとい熊神様を抱えてあげる。キムンちゃんは髭をたらして、ちょっと不満そうだ。

 歩きながら、真白はおみくじの封を丁寧に解いて、両手いっぱいに広げて見た。力強く、

「大凶。極めて悪ろし。思い人と別れる。悪縁来る」

 真白は唇をへの字にして、

「うう」

 が、すぐ気を取り直して、

「旦那様は?」

 祐矢もそれなりに丁寧な開け方をして広げる。普段だったら適当に破ってしまうのだが、はしゃぐ真白に悪い気がしたのだ。

 祐矢は申し訳なさげに、

「大吉。全て良し。ことごとく良縁となる」

 真白は目を輝かせて、

「ほら旦那様、大吉ですよ! もっと喜びましょうよ」

「でも、旦那が大吉だったら真白は大凶になるのが、俺たちの法則だから」

 真白は祐矢の手をつかんで前後に勢いよく振り回し、

「なに言ってるんです。真白の旦那様が、大吉なんですよ? 真白はうれしいです!」

 そうだ、これが真白の考え方なんだ。こうなると知っていて、真白はおみくじを引きたがったのだろう。元気を失っていた俺に大吉を与えようとして。

 祐矢は、真白に待つ未来を垣間見た。おみくじならば、いい。だがいずれ、真白は自分自身でこれをやろうとする。

「旦那様ってば! ほら、あの雲すごいですよ、まるでキムンちゃんみたい! あ、アゲハが飛んでる!」

 真白を失うことに耐えられるのだろうか。祐矢はその疑問に戦慄する。いや、立ち向かうことを誓ったはずだ、誰あろう自分自身に。

「真白!」

 意味もなく叫ぶ。アゲハを追っていた真白は振り返って微笑んだ。

「はい、旦那様?」

 祐矢は言葉を探した。真白の名が刻まれた石柱は、運命との約束なのか。行ってしまうのか。行くな。行かないでくれ。

「そのさ、手をつないでいこうか。山道は危ないし」

「はい、旦那様!」


 山道の途中でバスに乗った二人は、塔之原市の大通りまで戻ってきた。今日は珍しく、外食をしようというのだった。

 祐矢は隠すようにして財布の中身を数えてみる。乏しい仕送りだが、夕食一回ぐらいはなんとかなりそうだ。真白の性格上、おごらせてくれるかどうか怪しいので、祐矢は二人分の財布を心配していた。御柱家にはそれなりに財産も遺されているようだが、真白の将来を考えれば、あまり贅沢をしていく訳にもいかない。

 真白の将来? 祐矢は頭を振って、その言葉をどこかへと追いやった。

 二人は相談して、新しく開店したばかりのパスタ屋に入った。大繁盛で、店内はかなり混雑している。なんとか隅のソファ席に陣取った二人は、店員にカルボナーラと同じくその大盛りを注文した。熊神様には申し訳ないが、ソファにおとなしく座っていただく。

 混雑しているわりには運が良く、意外と早めにカルボナーラの大盛りが運ばれてくる。祐矢が注文した分だ。それを祐矢はテーブルの真ん中に置き、取り分け始める。

「あれ? 旦那様?」

 戸惑う真白の前に、カルボナーラの盛られたお皿が置かれた。

「さあ、食べようよ。いただきます」

 祐矢に促されて、食事が始まった。こくがあって滑らかな舌触りと絶妙なアルデンテの茹で具合に、お客が多い理由を納得する。

 二人が旺盛な食欲で大盛りを平らげ終わった頃、祐矢は忙しそうな店員を呼び止めて、もう一皿がまだ来ないのだがと聞いてみた。店員は伝票を確認するや、あせった表情で平謝りをする。注文がそもそも通っていなかったのだ。

 構わないよね、と真白に確認してから注文はもういいと店員に告げて、祐矢は会計を済ませた。割り勘にしようとする真白に、注文したのは自分の分だけだと言ってお金は出させない。

 二人が街で遊び疲れた頃には、もう夜となっていた。

 月の下、のんびり御柱家へと歩いて帰りながら祐矢は、

「俺さ、少し要領が分かった気がするよ」

 真白の不運も、あらかじめ分かっていれば回避の仕様があったのだ。自分に偏っている運を、祐矢が再分配すればいい。

「そのようじゃな」

 熊神様が答える。しかし髭を跳ね上げて、

「じゃがな、まだまだじゃよ! 我の食事にも気を遣わんか」

「ごめんなさい、キムンちゃんの好物がないお店で。帰ったらすぐ用意しますからね」

 真白が謝った。そもそも縫いぐるみの体で食べる必要があるのか、食べたものはどこに行くのかと祐矢は疑問なのだが、突っ込むとご機嫌を損ねそうなので黙りこむ。

 そろそろ御柱家だ。祐矢は家の方を見て、自分のつかんだ要領などまだまだと突然悟らされた。家の前には憤怒の女性が一人傲然と立っている。飛鳥先生が説教をすべく待ち構えていた。

「すみません、先生。部室に呼ばれていたのに」

 頭を下げた祐矢に、

「そういう問題では、ない! 心配するじゃないか! 連絡ぐらい入れろ!」

 先生は咆哮した。はっとして、祐矢と真白は先生を見る。先生の瞳は潤んでいるようだった。怒りでも悲しみでもなく、無事に帰ってきたことへの安堵がそこにあった。

 まず起こったことを説明してから、恥じ入って謝ろうとする二人に、

「今日の地震は、三月蒼が元凶だったか。三月の親は蟾蜍神社の神主で、あの神社の神主には御蛙様のご加護によって特別な御力が与えられる、という伝承がある。三月兄妹には特別な才能があって、そのために世界中を回っていたのは事実らしい」

 祐矢の自失やあそこで起きた地震は、その才能によるものなのかと祐矢は納得する。

「あいつは確かに賢いし情報収集能力は抜群なのだが、どうもお前に悪意があってな。そうさせないつもりが遅れてしまった、私の落ち度だ。申し訳ない、この通りだ」

 先生が頭を下げる。祐矢は困って、

「でも、あれは真実なんでしょう」

 自分の胸に手を当て、

「この心臓が、真希さんのものだというのは」

「その通りだ。だがな、三月のまとめたレポートには一つ意図的に省かれていた情報がある。御柱一家をアメリカに移住させたのは、お前の曾祖父なんだ」

「ええ?」

「白羽頭矢氏は、御柱様の運命から御柱一族を解放しようと必死だったのだな。おかげで伝承の古文書を隠すわ記録を消すわ、御柱様伝承を調べるのにえらく手間取ったが、それはさておき、アメリカまで遠く離れさせる計画を立てて、実行したのだよ。だが皮肉にも移植手術のためアメリカに渡った頭矢氏を待っていたのは、事故に遭ってドナーとなった真希さんだった。頭矢氏は絶望したろう。そして運命から逃れられないならば、せめて真白には御柱様としての生を立派に全うさせてやろうと日本まで連れ帰った。両親がアメリカに残ったのは、その運命を見ることに耐えられなかったからではないかな。真希さんを失い、次は真白もとなれば、無理もないことだ」

 先生は真白本人にも聞かせるために話している。真白が嫌な思いをしないかずいぶん気にしながら語っているのだが、真白は静かに聞いていた。細かな経緯はともかく、両親と白羽頭矢の思いを、真白はとうに受け入れていたからでもあった。それが自分のためになされた選択であることを真白は知っていた。だから白羽頭矢から自分の石柱を贈られたときも、真白は素直にうれしかったのだ。

 話が長くなりそうなので、真白が家の中でお茶でもと誘う。先生は遠慮して、縁側に座った。祐矢に真白、熊神様も並ぶ。

 もう夜だ。庭の池には美しい月が映っている。

 先生はカバンから年表を取り出した。

「歴代の御柱様について、そのなんだ、石に彫られている年をだな、歴史年表と照らし合わせてみた。まあ、三月の発見なんだが」

 庭灯の明かりで、文字は十分に読み取れる。真白が覗き込んで、

「これって御柱様の石柱に記されている年でしょ。先生」

「ああ、うん、送り年ということになるが。まず日本史と照らし合わせてみてくれ」

 送り年、即ち享年だ。

 眺めていった祐矢は、ある符合に気付いて驚きの声を上げた。歴史上の悲惨な事件と御柱様の送り年とやらが、ほとんど一致しているではないか。

「御柱様が十八歳になったとき、大飢饉や地震が起きている! 戦争まで!」

 先生は年表を示して、

「逆だな、白羽。この世界大戦を見てみろ。大戦の終わったときが、御柱様の送られた年なんだ。……大事件の終わるときに、御柱様は送られるんだよ」

 先生の声は震えていた。祐矢は論理をよく考えてみて、

「それは変ですよ、先生。だったらなんで、御柱様が十八歳のときに限って事件が終わるんですか」

 真白がそっと、

「柱は、そのために生まれてくるから」

 祐矢はその意味を理解するのに少し時間がかかった。答えはすぐに見えたのだが、それを認めたくなかったのだ。しかしどう考えても、答えは一つだった。

 隣に座っている真白の手を祐矢は握り締めた。言葉にするのが怖かったのだ。

「御柱様とは、大事件のためにあらかじめ生まれてきて、事件が終わったら、終わったら……」

 祐矢も先生も、その後を継げなかった。送るというが、それは墓碑が示すとおり命を失うということだろう。御柱様とは、つまり大事件が終わるときの生贄か。ただそのために生まれてくるのか。

 真白が継いだ。

「終わったら、旦那様に送られるんです」

 先生が真白の肩をつかみ、

「真白、送られてどうなるんだ! 旦那とはなんなんだ! また大事件が起きるのか? 真白は行ってしまうのか?」

 動揺して真白を揺さぶる先生を、真白は落ち着いた目で見た。微笑んだ。先生の手が止まる。先生は真白に今、かつて失った、愛する友と尊敬する指導者の姿を見ていた。彼女たちは振り返らず、わが身を省みずに散っていった。友のため、世界のために。先生は戦慄していた。きっとまた、止めることはできない。

 真白は静かに、

「贈るのが御柱様、送るのが旦那様なんです」

 祐矢は静かに立ち上がった。真白もだ。

「先生…… 月見団子といきませんか」「真白がお茶を入れてきますね」

「あ、ああ、それはいいな」

 先生は台所に行く祐矢と真白を見送りながら、二人のコンビネーションが妙にいいと気付いた。まさか祐矢め、なにか手を出したんじゃあるまいな。しかし真白が幸せなら、それもまた良し、とすべきなのか。かなり心配ではあるのだが、正直なところ、相対的にも絶対的にも祐矢に任せるのがベストではあろう。

 先生は月を見上げる。この美しい夜もいずれ終わり、また新しい時が始まる。それが世界の理なれど。

 お茶と団子がやってきた。お茶は名人の真白が入れる玉露、団子は塔之原商店街の誇る和菓子屋、緑宝堂の逸品。

 熊の縫いぐるみが、ぴくりと髭を動かす。

 先生はそ知らぬ顔で、

「熊神様も、遠慮なさらなくて結構」

 祐矢と真白は顔を見合わせた。

「先生、知ってたんですか?」

 祐矢の驚きに、先生は遠くを見る目で、

「先生は伝承を採取するためにやって来たと言っただろう。古くから伝わる伝承には、大いなる力を持つものがある。命ある伝承だ。それを管理する守語者というのが、私本来の仕事なんだ」

「守語者、って?」

 先生は頭をひねって、

「妖精、精霊、憑き神、そういった伝承を集めて保存する。ときには間違った方向に伝承が歪んでいくのを正したりもする」

「伝承を研究する学会みたいなものですか?」

「むしろ、管理者だ。思いを込められた言葉というのはだな、言霊となって力を持つ。そうした言霊によって語られた伝承は、命ある伝承となって世界に大きな影響を与える。御柱様と旦那様というのも、そうした命ある伝承が生み出した関係なのだ。御蛙様もまた同じだ。命ある伝承は世界に祝福をもたらすこともあれば、滅ぼしかけたことさえもある。だから我々守語者はこの世界線まではるばるやって来て、伝承を導いている」

「この世界線? 世界線ってなんです?」

 先生は、うっかり言い過ぎた、という顔をした。

「まあともかく、守語者の長から使命を授かって私はここにいる。この長がまた、人使いが荒くてな。きついのなんの。お、おっと、それはさておき守語者たるもの、大いなる熊神様はもちろん存じ上げておりますよ。お前たちも、ちっとは熊神様に敬意を払え」

 先生は熊神様に頭を下げて、団子を一串差し出した。釣られて祐矢と真白も頭を下げる。キムンちゃんは団子を頬張り、髭をぴくぴくさせて大変ご満悦そうであった。

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